紫水晶の間でキルヒアイスは溜め息をつきたい発作に襲われていた。
先程、黒真珠の間から戦勝式典を終えたラインハルトとハンスが出てきたのだが、ラインハルトがハンスの襟首を掴んで引き摺りながら出てきたからである。
それからハンスの帝国軍准尉の軍服姿は全く似合わない。
ハンスが疲労感を漂わせているのも大きな要因であるが服のサイズが致命的に合ってなく体が服の中で泳いでいる。
そんなハンスを見てラインハルトが毒づく。
「服のサイズ違いを差し引いても卿は同盟軍の軍服の方が、まだ似合っていたなあ」
キルヒアイスも口にしないがラインハルトと同感であった。
「まあ、オノ准尉は疲れてますから、元気になり服のサイズも合わせれば似合うと思いますよ」
「有り難う御座います。キルヒアイス少佐」
ハンスはラインハルトにも何か言い返したいが全身の疲労感で気力が出ない。
「しかし、卿は随分と疲れているが朝食は食べてきたのか?」
当のラインハルトから逆に追い討ちを掛けられてしまった。
「そりゃ、疲れますよ。昨日も夜遅くまで今日の式典の稽古で朝食はホットドッグ二本とコーヒーのみですよ。それに閣下は帝国生まれの帝国育ちで陛下とは何度も会っているでしょうけど、自分なんか写真でしか見た事のない雲の上の人と会って話まですれば疲れるのが当たり前です!」
それまでの疲労感も吹き飛ばすハンスの勢いにラインハルトも面食らってしまう。
「その、卿も色々とストレスが溜まっているみたいで大変だな」
ハンスが慌て気味に謝罪する。
「失礼しました。閣下」
ハンスよりキルヒアイスの不用意に刺激をするなと視線だけの抗議にラインハルトも慌てる。
「いや、今のは私が悪かった。朝食の件は私の方からも内務省には伝えておこう」
ラインハルトが取り繕って巧みに内務省に責任を押し付ける。
「何を人聞きの悪い事を言っている!」
軍服姿の三人の前に一人の文官が急に現れハンスを怒鳴りつける。
「これは中将閣下の前で失礼しました」
「それは構わぬが卿は?」
「重ねて失礼しました。私は内務省亡命者保護課のテオドール・ホイスです。この度はハンス・オノの担当を拝命しました」
「それで、人聞きが悪いとか言っていたが?」
「それですよ。昨晩も式典の作法の練習で夜も遅くなったので夜食として出したサンドウィッチ五人前を一人で食べるし、今朝も夜が遅いかったからギリギリまで寝かせて朝食も簡単に食べれる様に一人分の朝食をホットドッグ一本にして二本出したら三分で食べてしまうわ」
「道理で豪華なホットドッグだと思いました」
ハンスが呑気な口調の感想にホイス、ラインハルト、キルヒアイスの三人が同時に頭を文字通りに抱える。
最初に立ち直ったキルヒアイスが口を開く。
「准尉の食欲は通常の三倍ですので三人前を用意してやって下さい。イゼルローンからの帰りの道中も朝昼晩と各食事で三人前を食べてましたから」
キルヒアイスの言葉に驚いたホイスがラインハルトに視線だけで確認する。
ラインハルトも視線だけでキルヒアイスの言葉を肯定する。
「私には娘だけで息子が居ないので分かりませんが、これ位の量が14歳の男子には普通なんでしょうか?」
ホイスの問いにラインハルトとキルヒアイスが見事なコンビネーションで首を横に振る。
「私達も若いので軍の中では食べる部類ですが、流石に准尉ほどは……」
「ちょっと待て、幼年学校で陸戦部隊志望のキルヒアイスが練習相手をしてやっていた奴がいたじゃないか」
「フランツ・マテウスの事ですか?」
「そうだ。奴も三人前を食べていなかったか?」
「彼の場合は体を作りたいから無理して食べていましたからね。准尉とはレベルが違いますね」
流石にハンスも自分の食事量を話題にされて気分を害した。
「三人で人の食事の量で話に花を咲かせて楽しいですか?」
ハンスの皮肉でホイスが本来の目的を思い出した。
「そうだ。卿の食事の量は問題じゃない。卿は式典で陛下に何を申し上げたんだ?」
「別に何も」
「何も無い事がなかろう。陛下から今日の3時にお茶の相手をする様にと通達があったわ。今、内務省は大騒ぎになっている。卿は茶会のテーブルマナーを知っているか?」
「お茶会にテーブルマナーがあるとは初耳です」
「……だろうと思って、講師を呼んでいる。時間がない。大急ぎでレクチャーを受けさせる為に迎えに来たんだ!」
「あのう、昼食は抜きですか?」
「安心しろ。此方に来る時に内務省の売店でサンドウィッチを六人前買ってきたから移動中の車で食べろ」
そして、挨拶もそこそこに走り去る二人を見送ったキルヒアイスがラインハルトに問い掛けた。
「准尉は式典で何を言ったんです?」
キルヒアイスの問い掛けは完全にハンスの言葉を信用していない問い掛けであった。
「陛下から文武百官の前で何か不自由があれば遠慮なく申し出る様に言われてケーキを腹一杯に食べたいと言った上にタイミングよく腹の虫を鳴かせやがった」
「それは……」
キルヒアイスも庇い様がなく絶句した。
「絶妙のタイミングだったから、その場にいた文武百官全員が笑いを噛み殺すのに苦労させられた」
「それで茶会に招待する事に」
「挙げ句に式典が終了して退場の時は出席者用の退場口ではなく、係員用の出入り口から退場しようとする」
「それで……」
ラインハルトがハンスの襟首を掴んで出て来た理由が分かった。
「あいつ、陛下の前で粗相をしなければいいのだがな」
「それは難しいでしょうね」
「内務省の職員達も色々と苦労する」
「しかし、何日か後には准尉は軍務省に身柄を移されて軍務省預りになりますね」
ラインハルトが本気で嫌な顔をする。
「ハンスとは関わらない様にするのが賢明だろうな」
「その方が宜しいでしょうね」
キルヒアイスがラインハルトの利己主義に珍しく同調した。
明後日にはアンネローゼとの貴重な面会が控えている。余計な事に巻き込まれたくないのが二人の本音であった。
一方、ハンスは昨晩以上の猛稽古に辟易していた。内務省から送り出される時はディナーのテーブルマナーの講習もすると宣言されてしまった。
(レストランに住んでいたからディナーのテーブルマナーとかは知っているのに)
そう思っていても内務省職員には世話になっている為に口にする事が出来なかった。
暗澹たる気持ちもフリードリヒと馬車に乗ると雲散霧消してしまった。
宇宙船で数千光年も移動する時代に馬車などは珍しいのは当たり前である。
「うわ!速いなあ。それに揺れると思っていたけど意外と揺れないものですね」
フリードリヒも苦笑するしかない。ハンスの裏表の無い態度に好感を持ってしまう。
フリードリヒが市井に生まれていれば善良な臣民として生涯を終えていただろう。物心が付いた時から後継者争いに巻き込まれ望まぬ帝位を継いで来年で三十年になる。色々と気苦労の絶えぬ日々であったが、ハンスを相手にしていると心が和む。
「まだ、喜ぶのは早いぞ。卿が望んだケーキを馳走してやろう」
「有り難う御座います。陛下!」
ハンスの喜ぶ笑顔にフリードリヒも相好を崩す。この様な気持ちを持ったのは久しぶりである。
(不思議なものよ。孫を相手にしても和まぬ余を和ませるとは)
フリードリヒにはハンスは野心の無い無垢な存在に見えたが、これは一面の事実であった。
ハンスの野心の大半は帝国に亡命を受け入れられた時点で成就していて、野心らしい野心は皆無に等しかった。
但し、ハンスの唯一の悩みは逆行者として未来を知っている事、このまま帝国でプロパガンダとして安穏無事な生活を享受するか、多少のリスクを覚悟でこれから流される血を減らす為に尽力するかの選択だけであった。
現時点では馬車に乗りケーキを食べれる事を単純に喜んでいた。要するに能天気なのである。
やがて馬車は一軒の屋敷の前で止まった。馬車を降りると出迎えの列の中から一人の若い金髪の女性が進み出てきた。
「陛下にはご機嫌麗しゅう御座います」
ハンスには女性の見事な金髪を見てラインハルトの姉のアンネローゼである事が分かった。
アンネローゼは逆行前の同盟やバーラト自治領の両時代で有名であった。
前者では皇帝の寵姫として、後者では人道支援として私費で義手義足や最新の医療機器を寄贈した篤志家として、ハンスも恩恵を受けた一人である。
(綺麗な人だな。女優のヘッダさんとは違う美しさを持つ人だな)
「固い挨拶はよい。それより、この者に其方のケーキを馳走してやるがよい」
「あのう、陛下。こちらのフロイラインは何方様でしょうか?」
知っていても一応は聞くのは逆行者としての保険である。
フリードリヒが紹介の労をとったがアンネローゼは昨日の放送を観ていたらしくハンスの事を知っていた。
(後宮の姫様まで知っているって、本当に帝国中の人に顔を知られているのか。ヤン・ウェンリーやユリアン・ミンツの苦労が分かった気がする)
「准尉、そんなに心配しなくても顔までは覚えている人は少ないですよ。私も陛下から連絡が無ければ気付きませんでしてよ」
ハンスの表情を読み取ったアンネローゼの言葉に胸を撫で下ろすハンスであった。ただ、この場合は分母が帝国臣民の殆どなので分子の数字も大きくなる事にハンスは気付いていない。
案内された部屋には三種のホールケーキが一個ずつ用意されていた。全てアンネローゼの手製のケーキである。
ケーキには不慣れなハンスにもアンネローゼのケーキの味は一流パティシエのケーキと比べても遜色が無い事がわかる。
「本当に美味しいです!」
ハンスの言葉が社交辞令ではない事が食べる勢いが証明している。
マナー通りの食べ方だがスピードが桁違いに早い。
「これが若さか」
ハンスの食べる姿を見てフリードリヒも自分の若い頃を思い出していた。
アンネローゼは単純に自分の作ったケーキを頬張るハンスを見て喜んでいた。
「こんなに喜んで食べて貰えたら作り甲斐があるわ」
ラインハルトとキルヒアイスの前でしか見せない上機嫌のアンネローゼを見てフリードリヒは神妙な面持ちになる。
(余の前では見せた事の無い表情だな)
僅か15歳で家族と引き離し後宮に閉じ込めた事に改めて罪悪感を感じてしまう。
しかし、アンネローゼの存在に自分が救われている事も事実である。
「美味しかった!」
ハンスが全てのケーキを平らげたて満足そうに紅茶を口にする。
アンネローゼは相変わらず満面の笑みを浮かべている。
「しかし、卿の胃は大丈夫なのか?」
フリードリヒの疑問も当然と言える。大きくないとは言え、ホールケーキを三個をほぼ一人で完食しているのである。
「はい、大丈夫です。成長期ですから」
そういう問題ではないと思うがハンスの満足そうな笑顔にフリードリヒも追及する気が失せる。
更にハンスが予想外の事を言い出した。
「陛下、臣がグリューネワルト伯爵婦人の弟子になる事を許可して下さい」
「弟子とは何の弟子になるつもりか?」
「はい、ケーキ作りの弟子になりとう御座います」
「卿は軍人になるつもりでは無いのか?」
「すぐに軍を離れる気はありません。しかし、将来的には軍を離れ自分の店を持つつもりです」
「ふむ、余は構わぬがアンネローゼは?」
突然の事にアンネローゼも最初は驚いたがハンスの言葉を聞いて妙に納得していた。
「私より専門の職人に弟子入りしては良くなくて?」
「大量に作る事の技術は菓子職人の方が上でしょう。しかし、レストラン客みたいに少数の人に提供するならグリューネワルト伯爵夫人の質の高いケーキが最適です」
「陛下さえ良ければ私は構いませんよ」
「アンネローゼが構わぬと言うなら余にも異存は無い。これからは時間が空いた時に習いに来るがよい」
「陛下、畏れながら、それでは道理に反してしまいます」
「何、道理に反すると?」
「はい、グリューネワルト伯爵夫人の実の弟であるミューゼル中将でさえ好きな時に会えぬのに弟子とは言え臣が好きに会えるのは道理に反します。それに臣も軍籍を置く身です。上官たるミューゼル中将に睨まれたく御座いません」
「つまり、アンネローゼの弟にも同じ権限を与えろと卿は言いたいのか?」
「御意に御座います。さすれば感謝されても睨まれる事は無いと愚考します」
「卿の言い分も尤もじゃな。宜しいアンネローゼの弟にも卿と同じ権限を与える」
「有り難き幸せ」
この事が後にハンス個人だけではなく銀河の歴史を大きく塗り替える事になるとはハンス自身も予想していなかった。