ロイエンタール艦隊がフェザーンを出港する日に一人の少年がトリスタンに乗り込んだのである。
少年の名はエドワード・マス。十歳である。
DNA鑑定でシェーンコップとの親子関係が確定した、その日の夕方には船上の人となっていた。
フェザーン行きの商船の便があったのでハンスが手配して乗せたのである。因みに船賃はハンスのポケットマネーである。
ハンスの早く姉であるカリンに会わせてやりたいとの思いからである。
エドワードはフェザーンに到着すると宙港で迎えに来た帝国軍の士官に案内されるままトリスタンに乗り込みロイエンタールの執務室に連れて行かれた。
執務室に入ると腰の長さまである紅茶色の髪をした少女が待っていた。
「貴方がエドワード・マスね。私は貴方の姉のカーテローゼ・フォン・クロイツェルよ」
カリンが自己紹介をした瞬間にエドワードの両眼から涙が溢れ出した。
事前に姉の名を聞いた時には帝国貴族の血筋である事が分かった。貴族の血筋の人間が同盟庶民の出自の自分を弟として認めてくれないのではと不安があった。しかし、少女は自分を弟として認めてくれたのである。
「姉さん!」
エドワードは思わずカリンに抱きつくとカリンも応えて無言でエドワードを抱き締める。
エドワードを案内して来た士官は貰い泣きしてしまう。
存在を忘れられたロイエンタールが士官を促して執務室を出る。
この時、ロイエンタールの内に野心とは違うものが芽吹き始めていた。
ロイエンタールが執務室を姉弟に明け渡していた頃、オーディンではシェーンコップが買い物に奔走していた。
住居は帝国側がヤン夫妻の隣を用意してくれたが家具は一から用意しなければならない。
ヤン夫妻は備え付けの家具で事足りるが突然に子持ちとなったシェーンコップは何が必要かも分からないままフレデリカに連れられて買い物の荷物持ちをヤンと務めていた。
「服は本人達が来てからじゃないとサイズが分かりませんわ。取り敢えずベッドと布団に食器が必要ですわ」
デパートでフレデリカが必要な物を買って行く。洗面用具までカゴに入れて行くのは女性特有の気遣いなのか、それとも副官としての配慮なのか、もしくは両方なのか分からないがヤンやシェーンコップでは気が回らない部分も気配りを忘れない。
(料理が苦手なだけで、家事能力は優秀じゃないか)
ヤンが典型的な身内の身贔屓をしている間にもフレデリカはヤンやシェーンコップの服も選んでいる。
シェーンコップもヤンも軍服で出歩く癖が付いている為に私服が極端に少なかった。
これが、オーディンに到着して一日目の出来事である。
父親がフレデリカの買い出し部隊の要員となっている頃に子供達はロイエンタール達を呆れさせていた。
「その何だ。俺は兄弟姉妹が居ないから断言が出来んがアレが普通なのか?」
ロイエンタールが姉が居る若い部下に問い掛けた。
ロイエンタールの視線の先には展望室のベンチで恋人同士の様に抱き合うカリンとエドワードの姿がある。
問われた部下も苦笑しながらも上官の問いに応える。
「まあ、仲の良い姉弟なら有りますけど、普通は一応、人の目を気にしますけど……」
「艦内の風紀が乱れんか?」
「えっ!」
「何故、驚く?」
「提督の口から風紀等の言葉が出るとは思いませんでしたので、驚くのも当然だと思います」
ロイエンタールは知らない間に部下からの人望を失った様である。
幸いにもカリンの興味は弟であるエドワードに移ったみたいでロイエンタールがカリンの質問攻めに応えて人望を失う事は無くなった。
代わりにカリンが弟を猫可愛がりする場面が艦内各所で目撃される事になる。
「平和になった事だし、家庭を持つのもいいかな」
ロイエンタールの発言に周囲の者は驚くばかりである。
「あの二人、提督を洗脳するとは凄いもんだ」
「随分と荒んだ意見だな」
「提督も家庭を持てば分かりますよ。子供達には父親より母親で母親より兄弟姉妹が居れば大丈夫なんですよ」
兄弟姉妹の居ないロイエンタールには心情的にも客観的にも理解が難しい事だが、家庭持ちの者が言うからには根拠があるのだろう。
「ミッターマイヤー提督も子供が居ないから新婚気分でいられますけどね。女は結婚して子供が出来ると変わるもんですよ」
「そ、そうか?」
「新婚時代は脱出用のシャトルですが時間が経つにつれワルキューレになり子供が出来ると一気に巡航艦ですよ。二人目が出来ると大型戦艦になり最終的にはイゼルローン要塞並に強くなるんですよ」
部下のある意味での真理は独身者のロイエンタールとしては俄に信じ難い話である。帰国したらケンプかレンネンカンプ辺りに聞く事にした。
ロイエンタールが独身主義の返上に水を差された翌日にはオーディンへの凱旋となる。
宙港には無事に凱旋した将兵を迎えに来た家族で溢れている。その中に同盟語で会話する三人連れが居た。
「此処で良いのかな?」
「此処で間違い無い筈ですわ」
「贅沢を言えば自宅まで送り届けて欲しかったですな」
最後の台詞はシェーンコップである。フレデリカから刺だらけの視線を受けて流石のシェーンコップも黙り込む。
黒い軍服の集団の中で私服姿は目立つものである。搭乗口から降りた姉弟の姿を三人はすぐに発見した。
フレデリカが大きく手を振るが二人は気付かない。二人にしたら帝国軍の家族と判別がつかないのは当然である。
「ほら、中将も手を振って下さい」
珍しく事にシェーンコップが照れているのかフレデリカが催促してシェーンコップに手を降らす。
良くも悪くも同盟人には顔が売れているシェーンコップに姉弟は気付き走って向かって来る。
二人はシェーンコップに走り寄り左右から抱き付いた。
「お父さん!」
「父さん!」
親子対面の感動の場面であるが、シェーンコップが二人の肩に手を回した瞬間に、それは起きた。
「「くたばれ!馬鹿親父!」」
姉弟は見事なコンビネーションでバックドロップをシェーンコップ相手に炸裂させたのである。
流石に同盟軍の歴史に名を残したシェーンコップである。咄嗟に両腕で頭部を守ったの見事であった。
父親にバックドロップを見舞った二人は今度はフレデリカに駆け寄った。
「悪い事は言いません。貴女は不良中年に騙されてます!」
「貴女みたいな綺麗なお姉さんが相手にする様な男じゃありません!」
どうやら姉弟はフレデリカをシェーンコップの新しい愛人と勘違いしている様であった。これにはフレデリカも困惑するばかりである。その困惑した反応に姉弟も気付いたらしく。
「姉さん。同盟語じゃなく帝国語じゃないと駄目じゃないの?」
「そうか。帝国の人は同盟語とか習わないわよね」
カリンが流暢な帝国語でフレデリカにシェーンコップが女性の敵である事を伝え始める。
流石に想定外の誤解と姉弟の対応にフレデリカも苦笑するしかなかった。そこで存在を忘れられたヤンがカリンに話し掛けた
「フレデリカは私の妻で、君達の父親は今回は無実なんだがね」
「「えっ!」」
フレデリカを説得していたカリンとシェーンコップに胴締めスリーパーホールドを掛けていたエドワードの二人は異口同音に驚く。
同盟人なら知らない人はいないヤンである。姉弟は慌てながらもフレデリカとヤンに平謝りを始めるのであった。
「本当に失礼しました。ヤン元帥閣下の奥様に向かって誤解とは言えとんでもない事!」
「すいませんでした。こんな若くて綺麗なお姉さんだったので、まさか結婚してる人とは思いませんでした!」
一連の騒動は帝国軍と、その家族が見守る衆人環視の中の騒動である。
ロイエンタールは遠くから騒動に気付いたが巻き込まれるのを避けて無視する事にした。
そして、騒動の中に一人の帝国人の中年男性が入って来たのである。
「少々、来るのが遅かった様ですな」
ヤン夫妻とシェーンコップ親子が一斉に注目する。謎の中年男性にヤンが一同を代表して男性に声を掛けた。
「どちら様でしょうか?」
「はい。私は帝国内務省社会秩序維持局の局長のハイドリッヒ・ラングと申します。ミューゼル大将閣下の依頼で推参しました」
本来の歴史では交わる事の無かった面々が顔を会わせる事になった。
そして、シェーンコップだけはラングに向けて警戒の目を向けていた。
帝国からの亡命者達の間には社会秩序維持局の悪名は有名であり、幼い頃に帝国から亡命したシェーンコップの耳にも社会秩序維持局の名は届いていたのである。
「貴官が高名な社会秩序維持局の局長か。貴官の名は同盟にも届いている」
シェーンコップが言外に危険信号を出してヤン夫妻に伝える。
若夫妻もシェーンコップの信号を受信して警戒をするが意外な事に姉弟の二人がラングに駆け寄る。
「ミューゼル大将閣下からお話は聞いています。帝国に到着したらお渡しする様に言われてました」
カリンが懐から一通の手紙をラングに差し出すとエドワードも姉に倣って一通の手紙をラングに差し出す。
「我々には貴官の事はミューゼル大将から何も聞かされていないのだが?」
事情を飲み込めない大人三人はラングに説明を求める。
「はい。ヤン夫妻達の事は内密にとミューゼル大将閣下からの依頼でしたが、途中で事情が変わりましたから説明をさせて頂きますが、それより、取り敢えず場所を移す方が先決だと思いませんか?」
ラングの申し出は、この日、最初の正論であった。既にヤン達は周囲の注目を集めていた。特にヤンは同盟とは別の意味で顔と名が売れたのであった。