ヒルダ不在の大本営は深刻なトラブルは起きないが色々と齟齬は発生していた。
臨時に秘書官を任命したのだが、露骨にラインハルトに媚を売る者にラインハルトに萎縮して空回りをする者ばかりであった。
大本営に連なる者がヒルダの存在の貴重さを思い知った頃には大本営のフェザーンへの移動日まで数日前となる。
ラインハルト麾下の提督達もヒルダ不在を嘆くのであった。
「ふむ。今回の移動にも参加が出来ぬとはフロイラインの病も重いみたいだな」
「仕方がない。ワープは女性の身体に負担が大きいからなあ」
「しかし、これは困った事だぞ。フェザーンに移動してからも秘書官殿が不在となると」
提督達から心配されたヒルダは自宅のベッドで生理痛と戦っていた。
「まさか、こんなに生理痛が重いとは知らなかったわ」
「生理痛は人それぞれですからね。私の家内も若い頃は大変でしたよ」
往診に来た医師は苦笑しながら言う。人格者と知られているマリーンドルフ伯も娘の事になると親馬鹿になるもんだと思うと自然と口元が緩むのであった。
「しかし、先生。今まで、これ程の生理痛はなかったのですけど」
「女性の身体はメンタルに左右されやすいですからね。最近はフェザーン遷都で忙しかったのでは?」
医師のメンタルに左右されやすいと言われて心当たりがあるヒルダは納得するしかなかった。
「暫くは、仕事の事は忘れて静養に専念する事が一番の薬です」
医師は一般論を述べた後に一言を付け加えた。
「それに、」
「何でしょうか?」
「フロイラインが早く回復しないと、お父上が心労で倒れてしまいますよ」
医師が指差す方向を見ると、父親のマリーンドルフ伯がドアの隙間から部屋の様子を伺っていた。
「お父様!」
マリーンドルフ伯は娘が心配で診察現場を監視していたようである。
ヒルダは自分が父に愛されている事は自覚していたが人格者の父が覗きをするとは思っていなかった。
「安心して下さい。年頃の娘さんを持つ父親は大抵の場合は同じ事をするもんです」
ヒルダにして見れば自分の父親は世間の評判通りの人格者であると思っていたが、娘のヒルダも知らぬ一面があった様である。
「まさか、うちの父に限って……」
人類が地球時代から使っていた言葉は現役で活躍していた。
医師が帰るとマリーンドルフ伯は自分でも親馬鹿だったと自覚があるのか照れながらもヒルダの様子を伺いに来た。
「その、ヒルダ。お前が後悔しているなら陛下には私から断っても良いのだぞ」
マリーンドルフ伯の顔に内務尚書としての表情はなく、一人の父親の表情があった。
「後悔をしている訳では無いのです。ただ、陛下は義務感だけで求婚されている気がするのです」
マリーンドルフ伯はラインハルトの心情より娘の気持ちを問題にしていたのだが、ヒルダはラインハルトの気持ちを考えて悩んでいた。
(ヒルダ自身は陛下との結婚は抵抗が無いのか)
「ふむ。正式に結婚が決まったら陛下に一発だけ殴らさせて頂こうか」
「お父様。冗談でも不敬ですよ!」
「おや、私は冗談を言ったつもりは無いのだがね」
ヒルダは頭を抱えてしまった。自分の父は分別のついた人格者だと思っていたが娘の事になると凡百の父親になってしまうようである。
「お父様の気持ちは嬉しいですけど、決して実行しないで下さい」
「まあ。お前が言うなら実行はしないさ。それに、今日明日に返事をする必要も無い。まずは自分の身体を労る事を考えなさい」
「はい。お父様」
「本当ならマリーンドルフ家もリップシュタット戦役の時に滅んでいた。ここで滅んでも惜しくも無い」
ヒルダは父の娘として生まれた事を感謝しながらもラインハルトへの返事も考えていた。
(体調が回復したら、陛下の姉君の大公妃殿下に相談してみましょう)
ヒルダがアンネローゼに相談する事を考えていた頃、ラインハルトは職務に専念していた。
ヒルダが不在の為に仕事量が増えた事も事実だが、仕事に専念する事でヒルダに求婚をした事を一時的に忘れ様としていた。
そんな、逃避もオーディンにいる間だけであり、オーディンの地表を離れるとブリュンヒルト内で暇を持て余してしまうラインハルトであった。
そうなると、事情を知るハンスがラインハルトの執務室に呼び出される事になり、あれこれとハンスに相談するのである。ハンスにしては迷惑な事である。
(はあ。こんな事なら大将になった時に旗艦を貰っておけば良かった)
大将に昇進した時にオストマルクを旗艦にと話があったのだが情報部の自分には不要と断ったのだ。
「だから、卿にはフロイラインと同じ歳の姉君が居るではないか!」
「私の姉は陛下も御存知の様に結婚より芝居の方に夢中ですから参考になりませんよ」
「しかし、卿の姉君は女優であろう。女優なら職業柄、普通の女性の心理も理解している筈ではないか?」
「仮にですよ。理解していても何と言って聞けば宜しいのですか?」
これには、ラインハルトも黙るしか無いのである。ラインハルトもヘッダの勘の良さと聡明さは知っている。
「下手に質問をすれば、全てが露見しますよ。それでも宜しいのですか?」
「ならば、下手に聞かずに上手に聞けば良かろう」
世の姉という存在は不思議な事に弟の思惑等は簡単に見破るものである。
ラインハルトも幼少の頃からアンネローゼに隠し事が成功した例が無いのである。
「そんな事が出来れば苦労はしませんよ」
ハンスの本音である。中身が八十過ぎの老人ながらハンスは姉のヘッダに勝てる気がしないのである。
ハンスの最大で唯一の隠し事である逆行者である事までは把握していないがハンスが何か隠し事をしている事は把握されているのである。
「陛下も姉君が居られるのですから、御自身の姉君に聞かれたら宜しいでしょう」
「ハンス。お前は友達甲斐が無い奴だな!」
ハンスも気付いてないがラインハルトがキルヒアイス以外の人間に弱味を見せる事など前代未聞の事である。
その事に気付いてもハンスとしては嬉しいとは言えないのである。
「卿の姉上も一足先にフェザーンに行かれているのだろう。ならば、フェザーンに着いたら特別に休暇をやるので姉君に相談してみてくれ」
「姉はフェザーンでの年末公演の練習で忙しいです。自分と会う暇なんか有りません」
ラインハルトの執拗さにハンスも辟易していたがラインハルトも必死なのである。
結局は、オーベルシュタインが来訪する事でハンスは解放されたのだがフェザーンに到着するまでは狭い艦内に逃げ場もなく毎日の様にラインハルトの相手をする事になると思うと暗鬱な気分である。
「勘弁してくれんかな」
自室のベッドに潜り込みながらハンスは声に出して嘆いていると、ナイトテーブルに置いてある写真立てが視界に入る。ヘッダと姉弟の養子縁組をした時の記念写真である。
ハンスはオーディンを出立する前のヘッダとの会話を思い出す。
「大本営が移転したら暫くは官舎で暮らすつもりだよ」
「官舎も無料じゃないでしょう。一緒に暮らせば家賃の節約になるわよ」
「それなんだがね。本当に女優としての活躍拠点をフェザーンに移すつもりなの?」
「そうよ。オーディンも門閥貴族が減って演劇を楽しむ人が少ないのよ。演劇なんかは本来は大衆娯楽だったのに長い間に貴族が楽しむ高尚な物になっているのよ」
「それで、フェザーンに?」
「そういう事よ。フェザーンでは大衆娯楽の一つになっているしハイネセンは経済破綻しているから娯楽に、お金は使わないでしょう?」
「まあ。演劇なんか生活に無くても困らんものだしね」
「それに、オーディンだと変な伝統意識があって、演目も限られてるから演者としてはフェザーンの方がやりがいが有るわ」
「なるほどね。しかし、暫くは忙しくなるから官舎で暮らすよ」
「分かったわ。でも、マンション選びは付き合ってね。二人の家なんだからね」
「その事なんだけど、実は来年の今頃には軍を辞めようと思っているんだ。来年には二十歳になるからね」
「はい。そこまでよ。そこから先は楽しみに待ってます!」
「うん。一応は軍を辞めてからにするね。軍に居ると色々と面倒だからね」
軍を辞めるのはラインハルトには悪いと思うが地球教さえ始末すれば自分は不要な人間である。
ヘッダと姉弟の養子縁組を解消して正式にヘッダと結婚するつもりである。
ヘッダは不世出の女優である。ヘッダには女優として活躍して欲しい。自分は裏方としてヘッダを支えながら屋台でも引いた方が良い。
誰かに使われるのも使うのも嫌なのだ。
幸運にもハンスは年齢の割には高給を貰い屋台程度なら開店する資金もあり、市場調査も軍に居ても出来る。技術に関しては自信もある。
別に屋台から始めてレストランをまでランクアップさせる気も無い。ヘッダとの時間の方が大事である。
ラインハルトとヒルダと違いハンスは結婚に関しては堅実な道を歩んでいると本人は思っているが、後日、大きな勘違いであった事を思い知らされる事になる。