「おや、偶然ですね。おはようございます」
「おはよう輿水さん。昇降口で一緒になるなんて珍しいね」
朝登校して下靴から上履きに履き替えようとしていると珍しく輿水さんの方から朝の挨拶をかけられた。いつもなら先に登校している輿水さんに自分が挨拶をするというのが普通なんだけど、どうやら今日は自分の方が早く学校に着いていたみたいだ。
とは言っても今日は特別早く家を出たわけじゃないから、多分輿水さんの方が遅れて家を出たんだろう。まぁそんな日もあるだろうと自分は何の気無しに思ったことを口にした。
「もしかしてちょっとだけ寝過ごしたとか?」
「し、失礼ですね!ボクが寝過ごすなんて事あるわけ無いじゃないですか!」
「じゃあ今日はたまたまだっ・・・」
「これはですね、あのー・・・あ!ボクが登校しているとボクのファンの方に偶然会ってですね、その人にサインを書いてあげていたから遅くなっただけであって、決して寝過ごしてなんかりしてません!いやー、突然のサインにも応じるボクはアイドルの鑑ですね!」
「へぇ、そうなんだ。大変だったね・・・」
別に遅刻したわけでもないし、なんなら自分と同じ時間帯に登校したとしてもまだ早い部類に入るはずだから多少寝過ごしたとしても誰も怒らないだろうし気にもしない。ただ自称・完璧な輿水さん的には寝過ごすというワードはダメだったらしい。
だからといって言い訳するにしても、もうちょっと上手いのは出てこなかったんだろうか。自分は上履きに履き替え、言いたいことの全てを飲み込んで、ただ労りの言葉だけを返して輿水さんが靴を履き替えるのを待った。
「な、何ですかその目は。もしかしてボクを疑ってるんですか?」
「い、いや、そんなことないよ」
同様に靴を履き替え終えて顔を上げた輿水さんと目が合うなりそんなことを言われたので、自分は慌てて否定した。危ない危ない、どうやら顔に出ていたようだ。
「それならいいんです。それに神直君ならボクのサインを貰いたくなる気持ちも分かるでしょう?」
「何で?」
「何でって、それは神直君がボクのファンだからでしょう?」
「え?」
おかしい。いつから自分はファンになっていたんだろうか。輿水さんのアイドル活動なんてまともな状況で見たことは無いし、自分がファンになる要素は今のところ一つもない。自分達の教室に向かいながら頭を捻るが答えは出てこない。
それとも輿水さんの中では友達=ファンってことになってるのかな?ちょっと聞いてみよう。
「ちなみに何で自分は輿水さんのファンだと?」
「それは勿論、神直君はボクのライブを見に来てくれるんですよね?」
「うん、そうだね」
「では、ボクのファンということになりますね!」
「あぁー・・・」
なるほど、確かにその理論なら自分は輿水さんのファンということになる。ただ、ライブを見に行くこと自体自分から言い出したことじゃないし、輿水さんが来て欲しいからと半ば強制的に約束させたんじゃなかったっけ?
いや、勿論それが嫌でも何でもなければ喜んで行かせてもらうつもりだけど、まさかライブを見に行く前にファンにさせられてるとは思わなかった。
今後のことは分からないけど少なくとも今は輿水さんのファンでは無いことは確かなので、とりあえずやんわりと否定しておこう。
「でもほら、今まで輿水さんのアイドルらしい所を見たことが無いからちょっとファンとは言い難いんじゃないかな?」
「確かに言われてみればそうですね」
「でしょ?だから自分は別に輿水さんのファンじゃ・・・」
「つまりボクのアイドルとしてのカワイイ姿を見たいと言うことですね。フフーン、普段のカワイイボクの姿を見てるのにアイドルとしてのボクもすぐに見たいなんて、神直君は案外欲張りなんですね」
わー、この子何一つ分かってない。しょうがないですねとでも言いたげな顔にデコピンか軽い手刀を落としたくなる衝動をひとまず抑えて輿水さんの次の言葉を待った。
「ここだけの話ですけど、昨日東京でロケを行ったんです。その時に収録した内容が今度の日曜日に放送されるんですよ。これを見ればボクのカワイさが分かるはずです!」
それだけはぜっっっっっったいに見ない!何が悲しくて輿水さんと共演(紙棚)してしまった番組を見ないといけないんだ。少なくとも今のところ自分には胃袋に穴を開ける予定は無い。
番組に関しての感想を約束させられる前に自分は話題を逸らそうと口を開いた。
「それでもいいけど、もっとすぐ出来るのがいいと思うな」
「例えば何ですか?」
「それこそ輿水さんのサインを見せてもらうとかさ」
「フフーン、良いですよ。ボクのサインは家宝にしてくださいね」
そう言ってかなりいい笑顔で教室に入っていった輿水さんに対して、自分は残念ながらその期待に添えそうも無いです、と自分は心の中で謝ってから教室の中に入り自身の席に着いた。
「それではノートを出して下さい」
「はい」
自分は適当なノートを引っ張り出して最後のページを開いて渡した。それを受け取った輿水さんはシャーペンを取り出してスラスラと淀みなく自身のサインを書いていってくれた。きっとサインを書く練習をしたんだろうなぁとちょっと微笑ましく思っていると予想以上に早く出来上がったみたいで、またもやいい笑顔でノートを返却してくれた。
「サインを書くのは久々でしたが、さすがはボクですね。いつも以上のが出来ました!」
昇降口で語った設定をもう忘れてらっしゃる。この子は一々突っ込み所を会話に散りばめないといけない病にでも侵されてるんだろうか。それとも自分は今試されているんだろうか、輿水さんの話をちゃんと聞いていた的な意味で。
まぁそんな深い意味は無いか、なんてったって輿水さんだし。
「どうですか?」
「どうと言われましても」
自分はサイン輿水さん直筆のサインを見てみた。"輿水幸"までは大体そのままの字で書かれている。説明は難しいが、"輿"と言う字に含まれている車の中心の線から"水"の中心の線、"幸"の中心の線を一本の線で書かれていて、更にそこから"子"と言う漢字を一筆で書いた後にハートマークが描かれていると言った具合だ。
確かにハートマークがあるのでカワイイと言えばカワイイんだけど、なんというか予想とは全く別というか、まぁ端的に言えば普通だ。
「輿水さんのサインだからもっと凝ったものを想像してたんだけど、案外シンプルだね」
輿水さんに対して普通と言うときっと怒ると思ったのでなるべく普通をオブラートに包んで感想を述べて、顔色を窺ってみたけど特に不満そうな表情はしていなかった。
「ボクの名前が既にカワイイですからね、凝る必要が無いんですよ。ちなみにどんなのを想像してたんですか?」
「んー、別に何か例がある訳じゃないんだけど・・・例えばこんなんとか?」
適当にスマホでアイドルのサインを検索してヒットしたそれを輿水さんに見せた。
「・・・それはちょっと特殊な部類に入る方じゃないですかね?」
「・・・確かにサインというより、絵だとは思ったけどさ。ちなみにこれ誰のサインか分かる?」
「神崎蘭子さんですね」
「へぇ」
せっかくなので神崎さんを検索してみると、黒いゴスロリを着てこれまた黒いレースの付いた日傘を差した非常にキャラの濃そうな女の人が自分のスマホに映し出された。その人のプロフィールもついでに確認したところ、どうやら同じ学年の一個上ということが分かった。
すごいな、この人も中学生でアイドルなのか。しかも輿水さんと同じ346プロ所属だし、やっぱりあそこのアイドルってレベル高いんだなー。
そうして視線を画面に集中させているとヒョイとスマホを輿水さんに取り上げられた。何で?と思って輿水さんの方を見てみると少し不機嫌そうな顔をしていた。
「全く、酷い人ですね神直君は。蘭子さんもカワイイですが、目の前にもっとカワイイアイドルが居るんですよ?そんなボクから視線を外すなんて考えられません!」
他のアイドルに気が移ったことに対しての嫉妬か何かなのかな?何だか微笑ましくなって自分は少し笑いながらスマホを取り返した。
「前から思ってたけど輿水さんって子供っぽいよね」
「な!?だったら神直君の誕生日はいつですか!」
「12月16日だけど、それがどうかしたの?」
何でここで誕生日?と疑問に思いつつ正直に答えると、輿水さんの不機嫌な顔がみるみる上機嫌な顔に上書きされていった。この子の喜怒哀楽の振れ幅が極端すぎて何だか別な意味で心配になってきた。
「ボクの誕生日は11月25日です。つまりこれがどういうことが分かりますか?神直君よりボクの方がお姉さんなんです!よってボクを子供扱いすることは出来ないんですよ!」
「え・・・」
この時、そういうのじゃなくて精神的な意味でだよと言い返すことも出来た。出来たんだけど輿水さんが自分よりも生まれた時期が早いことに衝撃を受けてそれどころじゃ無かった。この人が自分より僅かとは言えお姉さん?いや、嘘でしょう?
「輿水さんって生まれたての赤ちゃんよりも年下じゃないの?」
「それどういう意味ですか!?」
「えぇ、でもだって・・・」
「そ、そんなに落ち込むことですか?」
そりゃあ落ち込む。一つ考えてみてほしい、仮に輿水さんに妹が居たとしよう、その妹を輿水さんが世話をしている所が思い浮かぶだろうか、いや一切浮かばない。むしろ妹に世話されてそう。そんな(自分勝手な妄想だけど)輿水さんが自分よりもお姉さん!?あり得ない、あり得なさすぎる!
「何だか失礼なことを思われてそうですが・・・。そうですね、ならボクがお姉さんな所をお見せしましょうか?」
「・・・どうやって?」
「んー、色々ありますがこれなんかどうでしょう」
そう言いながら輿水さんは自身のスマホを操作したかと思うと、次の瞬間に自分のスマホが震えた。何だろうと見てみるとどうやらL〇NEに写真をアップしたみたいだ。
これでどうするつもりなのかとその写真を落として開いてみるとそこには昨日見たバスガイド風の衣装を来た輿水さんがダブルピースをしてカワイさを前面に押し出している姿があった。
いや、それはいい、それはいいんだけど、問題が一つ。なんでよりにもよって紙棚の前でこの写真を撮ってるんだろう・・・
「どうですか?その大人っぽい衣装は。これは認めざるを得ませんね!」
「うん、そうだね・・・」
図らずもツーショットになってしまった写真を見たことでトラウマを思い出して胃袋が痛みを訴えたが、さすがにここで痛がるのは輿水さん視点では意味不明だし失礼に値するだろうと思って必死に我慢した。
その日一日、この写真を消すか消さないかの悩みで悶々としたのは言うまでもない。
※補足
この作品では幸子の学年は中学2年として扱いますので、今年誕生日を迎えていない幸子の年齢は13歳と言うことになります。