ギリシャ神話の名だたる英傑の中でもっとも知られる英雄はヘラクレスであることに間違いはない。そんな英雄に負けず劣らずの知名度を持つのは、その祖先であるペルセウスである。
彼の逸話は帝政ローマ時代最初期の詩人のオウィディウス著書『変身物語』に記録されている。アルゴス王アクリシオスの娘ダナエーと主神ゼウスの子。後に数々の神の道具を使いゴルゴーン退治を果たし、それからも多くの逸話を生み出した。
ヘルメスより送られた不死身殺しの鎌『ハルペー』と空飛ぶサンダル『タラリア』。アテナより送られた青銅鏡の盾。ニュムペーから貸し与えられた被った者の姿を変えるマントと鏡像結界の袋『キビシス』。
サーヴァントとして現界すれば、宝具の数はギルガメッシュに次いで最多である。
英雄が強力な武器を用いて怪物を退治する。そんなシンプルな英雄譚に人々は胸を踊らせた。そして我もと、脈々と英雄願望は受け継げられてきた。
ギリシャ神話では珍しく、この英雄は神に疎まれることなく、神に愛され続けたまま生涯を終えた。
ゼウスの不義の子であるにも関わらず、ヘラがペルセウスに危害を加えた記録はない。アテナとヘルメスの守護があったからか、それとも他に理由があるか。
失敗と不幸を知らず、成功と幸福のみを得た英雄。故に”原点”に立ち返り、他者の不幸に相対する時、その心は容易く崩れてしまう。
だが、果たしてそれが全てであろうか。その幸福は、本当に何の犠牲もなく成し得たものだろうか。いつの時代も歴史の悪側面は存在し、その犠牲者はいずれ怪物となり、時には悪魔にすら成り果てるのだ。
──音が聞こえた。
胎児が初めに感じたのは宮に満たされた羊水のものではなく、母体と交わる黄金の雨音。黄金の精が流れるたびに胎児は己に雷の力が満ちるのを感じた。膨大な力の奔流、飽くなき万能感に溺れていく。体は再構成され、人ではなく半神へ、英雄へと造り替えられる。
手のひらを握り締め、その握力は徐々に変化していく。初めは通常の胎児と変わらない力だったが、それが少年、青年と、最終的には成人男性を越える成長を見せた。もし胎内で暴れたなら紙袋を突き破るように母体を傷付けることになるだろうが、この胎児は生まれでるよりも前から聡明な判断力が存在していた。
『胎児よ、胎児よ、何故踊る』
胎児は瞬きをして答える。嬉しいのだと、父の愛に造られていく事が、その愛を魂の上から纏う事が嬉しいのだと。初めて抱いた感情を覚束ない手足の動きで表したのだ。
胎児の歓喜を感じた黄金の雨は悦び、母体はそれを分かち合う悦びに震える。母体が力無く青銅の地面に横たわると、黄金の雨の気配はなくなった。喪失した父の気配に胎児はまだ身につかない声で嗚咽する。あるいは、これから先に訪れる未来を予期する故か。
『嗚呼、忌々しい子供』
横たわる母体を見下ろす怨念じみた視線が、肉体を通し眼下の胎児を嫌悪する。それは黄金の雨の后、オリュンポス十二神の一柱の嫉妬深き女神。
怒り狂う牝牛の眼。血の気の引いた白い腕。腰まで伸びた髪が風にざわめく柳の枝のように揺れ動く。その威光、神威に胎児は恐怖という第二の感情を得た。
まだ小さく、生まれてすらない胎児にはその殺意が読み取れた。否、原始的な生物の状態であるが故に生存本能が働いたのかもしれない。
女神の視線に突き刺されたような錯覚と、それと共に自分の中で大切な何かが失われていく感覚。薄れていく、霞のようにぼやけていく。死なんて生温いものではない。この潔癖症の女神はこの不義の胎児を存在ごと抹消するため視線に呪を纏わせている。
動くことも叫ぶこともできなかった。もし母体が目覚める様な事があればこの女神は母体ごと胎児を消し去る。できることはただ自身が消えていくことを黙って静観し、思考が続く限り己の無力と不運を呪うしかない。本来はそれでよかった。それしかできなかった。”胎児が一人”であったのなら。
──半身よ。
自身の後ろで安らかな眠りに意識を落とした弟。一つの魂と両親の愛情を分かち合った自分。共に育ち互いに切磋琢磨していくはずの可能性。
胎児の涙が羊水に溶けて消えていく。凍りついた心に微かな安堵の光を灯した。一人ではないという事実がこんなも暖かなものを生む。同じ小さな存在が希望だったのだ。
胎児の胸中に既に恐怖はなく、新たに獲得した第三の感情、すなわち兄として兄弟を守らんとする勇気を振り絞る。
周囲を覆う青銅の表面に小さな稲妻が走る。体に残るわずかな父の権能と生命力を駆使した抵抗だった。
『きゃあっ!?』
夫の権能を感知し、女神はすぐさま障壁を張ったが、胎児の最期の一念がそれを凌駕した。内壁から生じた青い稲妻は障壁を打ち破り、相殺された稲妻はその余力をもって毛針のようなか細さで女神の白んだ腕に痛みを与えた。その静電気のような微かな痛みがこの女神には絶大な屈辱をも与える。
『おのれ!おのれおのれおのれおのれおのれおのれ!!貴様の様な小さなモノが妾を傷つけたな!!それもよりにもよって我が夫の権能で痛みを与えるかっ!!!』
そうだ怒れ。そして憎しめ。その沸き立つ感情が思考を乱し、己への殺意が意識を塗りつぶす。その視界に己だけを映し出し憎悪しろ。
通常、このような危機と相対するとき、人はその選択する際に逃走と戦闘を考える。どちらとも成功率は同じく低い。だが胎児はその第三の選択を選んだ。危機をさらに呼び込むことでその憎悪にて視野を自身へと縛り付ける。一見無謀とも思える行為だが、成功率としては前者よりも遥かに上回っている。
胎児の決死の覚悟が掴んだ奇策。死の淵に立つことで手にできる可能性。しかし手にした可能性は絶対的な報復が約束されている。
『貴様には存在の消失など生ぬるい!西の果てのオケアノスの水底で永遠に彷徨うがいい!!』
胎児の霞んだ魂は体外へと引き離された。胎児はこの時初めて母の顔を見る。色っぽく汗ばんだ肌は美しく、その面差しは子への慈愛に満ちていた。胎児は守った者の幸福を願い、その幸福の半分を奪うことへの許しを願う。
胎児の魂は星々の下を巡った。この星たちは皆、英雄として死後に祭り上げられたもの、あるいは神々の怒りを買ったものたち。
胎児は星々に手を伸ばす。それに呼応するように星々もより強く光り輝いた。
ふと、胎児は懐疑する。何かがないことに気付いた。伸ばした手を通過していく光。しかし光とは本来はそれ一つのだけの存在ではない。光は闇を伴うものだ。
胎児は気がつく。光を遮ってできるはずの影がないことに。自分という存在が世界にとってどれ程に空虚であるかについて悟る。
『
スキアレウスと呼ばれた胎児を女神はオケアノスに落とした。スキアレウスは衝撃を予想して目を瞑る。しかしスキアレウスは海面に衝突することなく、すり抜けるように海中へ潜った。
あるべき物理現象の破綻と海水の冷たさだけが思考を支配する。スキアレウスは考えた。自身の状況と女神の言葉の意味。
不意に犬の鳴き声のようなものを聞いた。そんなことがあることないと思ったが、視界の中央に浮かぶ犬の頭を見て訝しんだ。それは確かに毛深い体毛の犬の頭だったが、その半身はクジラやイルカのような魚体である。名をケートスと呼び、ポセイドンの生み出した怪物であるこの半犬魚は、血に誘われたサメの如き獰猛さで人を喰い殺す。
人が分け入ることのない果ての海。もたらされた餌に、無数のケートスたちが争いながら群がっていく。その光景を海のニュンペーたちが遠目から眺めていた。自然の精霊である彼女らは自然として人に恵みを与える恩恵と、悪の側面として人を惑わす残忍さを持っている。このニュンペーたちは無数のケートスに胎児が食い殺される光景を嘲笑いに来たのだ。
一匹の巨大なケートスが群がる群れを食い破り、真っ直ぐとスキアレウス目掛けて襲いかかる。スキアレウスは自分よりも何倍もある巨大な怪物を見て恐怖したが、不思議と死の恐怖というものはなかった。彼の想像通りならば、おそらくこの怪物は己を害することはできないと予感があった。
ケートスの鋭い犬歯がスキアレウスの柔肌を引き裂くことなく通過した時、後続する無数のケートスすらスキアレウスに触れることすら叶わず通過した時、それが確信に変わりスキアレウスに絶望をもたらした。
姿はあるが、影はなく。そこにあるが、触れることはできぬ。鏡に映る姿は鮮明に似通っているが、しかし真物とは決して似て非なるもの。
スキアレウスという存在は鏡花水月である。水面に映る月を掴もうとしても掴むことはできない。確かに見えるのに、実体はそこに存在しない。スキアレウスはその存在を賭して家族を守った。それ故に彼は存在を削ってしまい、実体を消失してしまった。
──そうか、これが罰か。
海水の冷たさも、呼吸のできない苦しさも、怪物に襲われる恐ろしさもある。だが、実体がないから死ぬことすらできない。死ぬことができないから終わりがなく、永遠にそこに留まり続ける。何もかもがすり抜ける体ならば、いくら踠いてもすり抜けるばかりで、海面には決して浮上することはできない。スキアレウスは永遠にこの暗い海の底を恐怖と孤独に苛まれながら彷徨い続ける。
『影無き姿!世界になにも干渉されず、世界になにも干渉できぬ陽炎!興ざめも甚だしく、目に入れるだけで悍ましいもの!そしてそんなことも理解できぬ愚かなケートスどもめ!せめて私たちの加虐心を癒すために永遠に追い回すがいい!』
その残酷性を損なわれたニュンペーたちは最大の侮蔑を以ってスキアレウスを罵倒した。聡明だからこそ言葉を理解し、スキアレウスの成熟した幼心を傷つける。初めて目にする弱々しい姿にニュンペーたちは高笑いを発し、木霊する声に海は怪しく揺れた。
スキアレウスは恐ろしかった。聖者の如き正義で家族を守り、勇者の如き勇気で女神に立ち向かった。その正義を賞賛されたかったわけでもなく、その勇気を祭り上げられたかったわけでもない。すべては誰かのための感情。しかしここでは孤独だった。
「あ、ああー……!」
それはスキアレウスが初めてあげた産声だった。とても微かで、漣にすらかき消されてしまうほどのか細い声。それでも誰かに届けたかった。『助けて』と、心で叫んでいた。それは生にしがみ付く浅ましさではなく、何の力もない子供が親や兄弟を頼る様な、孤独な者が愛に飢える様な咆哮。
やがて、星の光すら届かない底へ至ってもスキアレウスは叫んだ。
──助けて。
──助けて。
──助けて。
──助けて。
────────────────助けて。
────────────────────────────────助けて。
────────────────────────────────────────────────助けて。
いくらかの時間が経った。時間としては数日か数ヶ月だったが、スキアレウスにとっては永遠のような長さに思えた。そんな永遠の時間の中にも変化はある。胎児だったスキアレウスの体は急速に成長し、今では10歳程度の大きさまでに育っている。しかしそれは正しく言い換えれば老化現象であり、生命力の磨耗に繋がっていた。このままスキアレウスは老身に成り果て、その先に待つのは絞りかすの様な状態で思考するだけの永遠。
「助けて……」
今やニュンペーやケートスにすら忘れさられて尚、スキアレウスは形成された声帯で叫び続ける。そんな中で彼はいつか見た星の輝きを思い出そうとした。あの星々はどんな輝きを放っていたのだったか。ああ、思い出せない。それでもそれがどんなに美しかっただろうか。そのぼやけた美しい思い出が今では自分の存在理由だった。
いつかの様に黒雲に包まれたような
「……?」
視界の中央に何かが映る。それはどこか懐かしく、温かい光を帯びていた。自分は、”僕”はこの光を見たことがある。
霞んだ記憶が鮮明に蘇った。嘗てその美しさに魅せられ、伸ばした手をもう一度伸ばす。その流星の如き光の線へと。
突如、隕石が衝突したと錯覚するほどの衝撃が海底に鳴り響く。スキアレウスを覆う海水がその光輝により蒸発し、彼は久方振りの空気を口に含んだ。まぶた越しから分かるほどの眩い光を、スキアレウスは目が眩むことも恐れずに瞼を開き見入る。視覚から伝わる強い刺激に彼は唸った。しかし不思議と温かな心地よさがある。真昼の陽光の暖かさではなく、深夜の月光の冷ややかな、それでいて暗闇を照らしてくれる安堵をもたらす温かさ。
その光輝は自身の目の前に佇み、内包された少女の姿を見せた。否、光に内包されているのではない。その光は少女こそが発する光輝である。
足元にすら届きそうなほど伸びた紫色の髪。身に纏う目の紋様が描かれたローブにその色はよく映える。目線まで深くかぶったローブから、時折覗く深紫の目は、どこか神秘的な魔力を秘めていた。
触れれば折れてしまいそうな小さな体だった。少女は白く輝く天馬に跨り、戦女神のような凜とした佇まいでそこに存在していた。彼女の美しさは愛玩的か弱さと気高き強さが同居している。
スキアレウスはそれを美しいと感じた。彼にとって女性とは母か、自身を貶めた女神や邪悪なニュンペーしか知らない。母親は慈愛を与える存在であるが、そのほかの女とは浅ましい醜女でしかない。しかし、その価値観を打ち壊すほど少女を構成するすべての要素が美しいものであった。きっとこの少女に愛を囁かれたならギリシャ中の男は喜びに我を忘れ、少女に永遠の忠誠を誓うことだろう。
後にスキアレウスはこの少女に忠誠に近いほどの感情を得る。だが、それに少女の美しさや星々の光輝は瑣末な問題だった。
彼にとっての理由になった事柄はただ一つ。たとえ触れることができなかったとしても、かすかに感じることができた手の温もりを、彼は生涯忘れることができなかったからだ。
作者「やだ……なにこのスーパーベイビー」