異形の魔力によって変質し”異界”と化した唐館市営地下鉄構内、闇のみが佇むその場所の最奥には、まるで体に粘つく様な言い様のない悪臭と香気が充満していた。
その臭気の出処へ目を向ければ、構内の光を鈍く照らし返す黒い光沢を持つ何かが、波打つように蠢いている。それは液体と言うほど流動的ではなく、個体と言えるだけの結合性を持たない。
油分と粘り気を備えたタール状と言うべき体を持つ黒き異形は、一時として同じ形を取らずユーリヤ達の前に存在し、ただそこに居るだけの事が道理として過ちと言うべき異物感を放っていた。
「”ニョグタ”……!旧支配者の一人、ありえべからざるもの……!」
ユーリヤをこの場まで連れてきた、政府に解説役のお姉さんとして非正規に雇われている少女――野曽木蓮が、その存在を端的に説明する。
ユーリヤもまたニョグタの名は知っている。グレート・オールド・ワン、かつて地球を支配していた埒外の存在、その一つ。暗黒の塊であるその体を自在に変え広げ、周囲に在る命持つもの全てを喰らい尽くす存在。
今地球に住まう人の理を侵食せし存在。ただそれだけで、正義の退魔師であるユーリヤが立ち向かうには十分な理由だった。
「背徳の旧支配者よ!その存在、許しておけませんっ!」
意志という弦を受けた体が、背負う退魔師の鉄槌を手に取らせると同時に前方で蠢くニョグタへと駆けさせる。
自身に歯向かおうとする哀れな生贄を喰らうべく、ニョグタは近付いてくるユーリヤに合わせてその体を変異させ、無数の触肢を形と成した。
ニョグタは全身であり手足であるそのタール状の構成体を使い、自身の餌を捉えてその内側へ取り込む性質を持つ。それは人が家畜を食う様に、絶対的な捕食者がただ小さな命を呑み込む絶対的な行動であり、一度呑み込まれた者は再び太陽の光を見ることを失くす。
自身より逃げる者も、自身へ向かってくる者も、ニョグタからすれば等しく地球という井の中の蛙ほどの存在に過ぎない。
「フッ!」
地を這って脚を掴もうと近付いてくる触肢の群れを、ユーリヤは鉄槌に自身の魔力を込め、横へ振り払う。
だがそれだけがニョグタの触肢の全てでは無い。鉄槌を振り抜いたユーリヤの右斜め上より、背後を突く様に構えられた触肢が続けざまに飛来してきた。
「はぁっ!!」
振り抜いた鉄槌の柄を一瞬で持ち直したユーリヤは、背後から飛んでくる触肢達へ体を翻し、振り向く勢いのまま
ニョグタは今し方起こった自身の体の一部が吹き飛ばされた力が伝播したのか、その体全体を小さく波打たせる。過去に喰らってきた命とは異なる、明確に自身を害する者の存在。それを文字通り肌で感じ、次の触肢を生み出すのが遅れる。
ユーリヤはその気配を逃さず、再びニョグタへ強い視線を送る。退魔師として、そして現代を生きる人類の代表として異形を討ち果たすという決意を強く宿し、ユーリヤは鉄槌を肩に担いで全力でニョグタへ近寄る。
「覚悟っ!」
ニョグタが再び触肢を打ち出すよりも先に、一気に鉄槌の届く距離まで近付いたユーリヤが頭上へその鉄槌を掲げる。
邪悪を退ける白い輝きを鉄槌に宿し直し、地下を照らす一つの太陽の様に槌頭は光を放つ。その光を全身に受けたニョグタは、僅かに表面が煤ける様な感覚を覚える。
――あれは、躱さなければならない。
「しまっ……!?」
ユーリヤが上から振り下ろした鉄槌を、ニョグタはタール状の体を蠢かせることで、人の道理に合わぬ破綻した動きを取り回避する。
退魔師の一撃は常に人外の存在を仕留める為に、その一撃に全ての体重と膂力と集中させる――即ち、かの世界最高格闘技テコンドーにおける必殺技
虚空を切った鉄槌に引かれてユーリヤの体勢は大きく前へ崩れる。その隙を見逃さず、ニョグタは名状しがたいその構成体の内より凝足を突出させ、ユーリヤの腹部へ向け構える。
「――、――」
不定形で不調和な体をのたうち回らせ、ニョグタが全身より音を発する。それはただ粘ついた身体を蠢かせた事によるただの物音だったかも知れない。だが、間近でそれを聞いたユーリヤはその音の中に意志が介在する事を直感した。
戦いの中で研ぎ澄まされた退魔師としての経験と、魔力に対する強い感覚がその内容を朧気ながらもユーリヤの思考へ割り込ませ、そこからニョグタの意志を知る。
”テコンドーなど、所詮は空手の真似事。踵落としにさえ気をつければ、唯の足蹴り遊びだ”。
人よりも永く世界に留まる旧支配者達にとって、半万年の歴史を持つ偉大なる格闘技――テコンドーすらも、その膨大な星の歴史の一部であり、故に対策は万全だった。
ニョグタは触肢の根本を膨らませ、バネを縮める様にその無形の身体を圧縮する。狙いはただ一つ、自身を討とうとしたその無礼を、死を以て贖わせる。”肢”では無く”槍”と化したその先端が、爆発的に打ち放たれた。
「――この間合いを待ってたんです」
ユーリヤは素早く腕を捻り、振り抜いた筈の槌頭を持ち上げ自身の胴を守るように構えを取り、触肢の軌道へと割り込ませる。
胴を貫くべく突出してきた触肢は鉄槌に阻まれ、生まれたその一瞬の猶予からユーリヤは鉄槌を手放しながら左足を後ろへ引き、半身を回転させる。人ならざる力で放たれた触肢は、その狙いを半身外れさせ宙を裂いた。
必殺の触肢が外れた刹那、僅かに困惑を見せる様に硬直するニョグタへ向け、ユーリヤは無手となった両の掌を合わせ、目を瞑った。
「思い知りなさい、理を外れし罪の深さを。そして我ら現代人族の……偉大な、歴史を――ッ!!」
ユーリヤの全身より淡い光が生まれ、ニョグタにより汚染された常闇を払っていく。
その光はやがてユーリヤが合わせた掌へと集まっていき、一つ一つは蛍火の如く儚いその聖光は一点に集まることにより眩い輝きと成り、光一つ通さぬニョグタの暗黒の体の表面を焼くかの様に照らしていく。
ニョグタが触肢を戻し体を整えるよりも先に、ユーリヤが閉じた瞼を強く見開いた。
「
ユーリヤの合わせた手に集まった光が三つの砲弾の様にニョグタへ撃ち出される。
タール状の体へ届いた実体無き光は、しかしその体の内側を穿つ様にめり込むと、連鎖的に破裂してニョグタの体に波紋を立てていく。
小さな爆弾を埋め込んだのでは無いかと思うほどの光と炸裂音がその場全体に響き渡ると、破魔の輝きが直撃したニョグタの部分はそのまま消し飛ばされ、球体状の風穴だけがそこに残った。
――これが、退魔術。飛散した体に残るニョグタの残留思念がその威力を理解した時、旧支配者の意志は受肉されたタール状の体より離れ、闇の中へと掻き消えた。
「あ、あの技は……っ」
ユーリヤの勢いに気圧されて自分の能力を発揮するまでもなく終わってしまった蓮が、驚愕しながらも今し方放たれた技を解説役として冷静に分析する。
”破魔”。不浄の魔物を消し去る為に編み出された、破邪の光を直接投射する退魔師の術の一つであり、その使い手は広く存在するとされている。
だが、ただ周囲へ向けて魔力を打ち放つという性質上細かく狙いを定めるのが難しく、敵より距離を取っていた場合や、複数人を見定めて放った場合には狙った位置に光が誘導しないという弱点も併せ持っている。
ユーリヤは敢えて距離を詰め、躱しようも逸れようもない位置より放つことでその性質をカバーしたのだ。
この退魔師の抗魔精神を受け継いだ奥義”破魔”は神の加護四級の
「――おめでとう」
ユーリヤがニョグタを討ち果たした所で、バックメンバーとして待機していた黒笠の少年――政次郎が拍手しながらユーリヤの背後より近付いてくる。
未だ濃厚に邪悪の気配を残す地下鉄構内に見合わぬ乾いた音が耳へ届いたユーリヤは、振り返って政次郎と向き合った。
「まさか”破魔”を使えるとはな。テストは合格だ」
「テスト……ですって?」
三人しか潜入していないのに何後ろで待機してたんですか、という個人的な疑問を心の内へ秘め、ユーリヤが政次郎に聞き返す。
感情の篭っていない顔を向けたまま、政次郎は自らの懐に手を入れた。
「本来であれば実績のない者に参加資格はないが、今回は特例として”邪神教団調査団体”への参加を認めよう」
「こ、これがエントリーパスですか……!」
政次郎は懐から出した”爵”の一文字が書かれた白封筒をユーリヤへと差し出す。
邪神教団調査団体(仮)。政府より暗黙的に認められた、武力組織の一つ。そこに所属する全ての人間が邪神に抗し得るだけの実力者であり、ユーリヤの知る所では目の前の政次郎と蓮以外の所属者を知らない程の謎の集団だ。
この白封筒はその所属を示す証左であり、これがあるだけで政府からの仕事を渡してもらえるという、云わば裏の世界へ関わる為の
上司が事業に失敗したという、極めて大日本帝国の陰謀が関わった多額の借金を背負う事になった”教会”唐館支部には金が必要だった。それには、どうしても政府の様な大きな組織のバックアップを得ての退魔活動が要る。
これで借金返済のアテが出来た。ユーリヤは白封筒を両手で受け取り、笑顔を浮かべた。
「知っての通り報酬は希望通り、一回の出撃につき五十だ。成果次第ではボーナスも出そう」
「承知いたしました、神の御心のままお引き受けいたします」
「それと野曽木は今回何もやってないから報酬は半額にする」
「なんでよぉ!!」
未だ
神の威光も届かぬこの地下にて、混沌の夜を裂く一筋の光がここに生まれた。
この物語はフィクションです。
実在の漫画、同人RPG、格闘技とはほどほどに関係ありません。