盧植塾の三羽烏 -劉備組
墨を擦る音が重なる、墨香る部屋の中で門下生が水を張った硯に墨を擦り付けている。
三人が座れる長机。右隣には如何にも冴えない風貌の女が真面目な顔付きで背筋を伸ばしており、左隣ではまだ講義も始まっていないにも関わらず眠そうな顔をしていた。そんな二人に挟まれる私はと云えば、特筆すべき点もない平凡な女であると自覚する。
二十人近い門下生が詰める中、そんな三人娘が陣取るのは部屋の後ろ側でその時が来るのを今か今かと待ち続ける。
「皆さん、お揃いのようですね」
ふんわりとした雰囲気を持つ熟年の女性。
この塾の講師でありながら運営を携わる彼女の名は慮植、字は子幹。そして真名を風鈴と云う。そして私の両隣を固めるのは公孫瓚こと白蓮、劉備こと桃香であった。
部屋の後ろを陣取っているのは桃香が講義を聴いていると眠たくなってしまうためだ。
講義の円滑な進行のために後方へと追いやられ、それに付き合う形で私と白蓮も後ろに下がっている。
本日、漢王朝の法律に関する講義のようだ。
私としては既に知っている内容ばかりで、確かに桃香が眠たくなるという気持ちも分からなくは――いや、勉強家ではない桃香が法律を理解しているはずがない。武人肌の白蓮も勉強家という訳ではないが、真面目な顔つきで盧植先生の講義を聞き入っている。彼女は何かと要領が良く、講義を聞いているだけでも大まかな内容を掴むことができた。その上で彼女は実家でも武芸の鍛錬に励んでおり、中でも馬術の腕前は頭一つ抜きん出ているということである。基本的になんでもできるのが白蓮という人間であった。事実、盧植塾で最も見込みのある門下生は白蓮のことだと私は思っている。
そして私は平凡の枠を超えることができない凡人だと自覚している。
「
白蓮に脇腹を肘で突かれて問いかけられるも私は頭を横に振る。
「どうせ起こしたところで頭に入らないから構わないよ。あとで私が面倒を見るからね」
この桃香という人間は勉強が苦手だった。
要領を掴むのが得意な白蓮は集団で行う勉学でも後れを取ることはないが、どうにも桃香は延々と話を聞き続けるだけの講義は合わないようである。話を聞くのが苦手ではなくて、今すぐに必要と思えない話を聞くのが苦手と言うべきか――後々に必要なことだとは理解しているようだが、どうにも内容が頭に入って来ないようだった。
そんな彼女に講義内容を覚えさせるには少しばかりのコツが必要になる。
「桜花も大変だな」と白蓮は呆れた笑みを浮かべながら他人事のように告げる。
「こいつの成績が未だに上位三番目に入っているのは間違いなく桜花のおかげだよ」
講義が始まって間もなく、既に舟を漕ぎ始めた桃香は二人で見やった。
◇
放課後、誰もいなくなった部屋で桃香と今日、講義でやった範囲の復習をしている。
白蓮は講義を終えるとすぐ武芸の鍛錬のために実家に帰ってしまうので基本的に居残り組は桃香と私の二人だけ、こうして机を挟んで顔を合わせるのも見慣れたものだった。「うー、難しいなあ」と頭を抱える桃香に眠気に苛まれる様子はない、先程まで半ば寝ていたこともあるのだろうがこうやって一対一の場を用意してやれば桃香が居眠りすることはなかった。
「極端な話、世の中に法がなかったら暴力だけがものをいう修羅の世界ができあがるっていうわけだね」
「その例えは逆にわかりにくいかな――でも民が法によって守られているのはわかったよ。それで法を作って守らせるのが国で、国が法を守らせることで民を守っているんだよね?」
「正確には権利と財産だね。国が定める法っていうのは基本的に民の権利を保証するためっていうのが基本なんだよ」
ふむう、と桃香は腕を組んで考え込んだ。
彼女は決して頭は悪くない、しっかりと説明をしてやれば理解できるだけの頭はあるのだ。
少々お気楽な気質を持っているが、それはそれだ。
「でもねでもね、法を定めるのが国でも必ずしも民のための法にはならないんじゃない?」
桃香は決して頭が悪いわけではない。他者から与えられるだけではなくて、自分で物事を判断できるだけの頭はある。彼女に足りないのは知識と情報、それに経験の三つだった。
「近頃ではまた税収が増えたって聞くし……」
考え込むように続ける桃香に「そうだね」と私は頷き返す。
「権力を使って私腹を肥やしたり、好き放題する奴もいる。そういうのはやっちゃいけないことだ」
「そうだよね!」
私が同意すると嬉しそうに身を乗り出したのを見て、でも、私は笑みを浮かべたまま話を続ける。
「近頃は異民族の襲撃を激しくなったという話もあるし、不作続きで民の中から反乱も相次いでいる――そんな彼らから民を守るための兵力が足りなくなったから、その不足分を補うために税収を増やしたと考えることもできる」
「うーん……でも横領してるって話はどこでも聞くよ?」
「そういう者もいるし、それは決してやってはいけないことだ」
でもね、と付け加える。
「官僚の全てが悪いとは限らないよ、中にはきちんと仕事をしている者だっているはずだ。物事を一と零だけで考えると碌なことにならない」
そう言うと彼女はまた、うーん、と唸りながら考え込んでしまった
繰り返しになるが彼女に足りないのは知識と情報、経験の三つだ。
「基本的に人間というのは都合の良い事実から目を背けることはできない。どれだけ考えたとしても都合の良い考えから逃れることはできないんだ」
桃香の視野は広い、些細なことでも見落とさない。地平の先まで見渡すことができるんじゃないかって思う時がある。
「だから私達は様々な可能性を考えることをやめるわけにはいかないんだ」
それでいて路傍の石ころを拾い上げられるのが彼女の利点だった。
目に入っても見えない、もしくは見て見ぬふりをしているか。彼女はそういったものを見つけることができることを私は知っている。
何故なら私が今、ここにいるのが答えになる。
「……それに官僚の中には悪いことをせざる得ない者も居るかもしれない。世の中を変えるためには相応の権力が必要で、それを手に入れるためには何処かで手を汚す必要が出てくる」
「綺麗事が悪いことのように聞こえる、よ?」
少し躊躇した様子で問いかける桃香に私は首を横に振る。
「綺麗事は善か悪かでいえば間違いなく善かな。理想や綺麗事っていうのは意外と大事でね、なにかを為そうとするには必ず必要になるものなんだ。信念だけでは駄目だ、理想だけでも駄目だ。もちろん綺麗事だけでも駄目だ。善だけでは成し遂げられないこともあることを忘れてはいけない」
ふと真剣な顔付きで私のことを見つめてくる桃香の姿に気付き、さりげなく横に顔を背けた。そうも真正面から見つめられるのは少し気恥ずかしい。
「えーっと、その……だ。善を為す時は、それで守れるものと得られないものを比べるのが良い。悪を為す時は、それで失うものと得られるものを比べると良い、と私は思っているよ」
なにかを為すためには善も悪も必要だと私は考えている。それでも、と彼女は口を開いた。
「悪いとわかっていながら悪いことをするなんてできないよ」
そう告げる彼女に、それでも、と私も合わせて口にする。
「悪行も必要になる時もある」
睨みつけるように私を見る彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「善を守り続けるのが君の意思なのか、善で何を守りたいのか。よく考えると良いと思うね」
「……桜花、貴方は悪行を認めるの?」
「世の中には善意から始まる悪行がある、悪意から始まる善行がある。例えば、そうだね。子供がお腹を空かせていたからと食べ物を盗むことは善意からの悪行だ、周りから良い目で見られたいがために自分よりも見た目が劣った者を傍において可愛がるのは悪意から始まる善行と呼べるかもしれない」
桃香はじっと私のことを見つめている。強い意思の込められた瞳、思わず見惚れてしまいそうになったのを私は笑みを浮かべて誤魔化した。
「どちらが良いのか悪いのかの判断なんて、所詮は個人の物差しでしかない」
ふと桃香の視線が落ちる、ここで考え込むことができるのは彼女の利点だった。
悪いことを悪いと言えればどれだけ楽だろうか、善なる心から出た行為であれば正義と言えればどれだけ楽か。悪でもあり、善でもある。善悪二つの性質が内包された問題に直面した時、彼女は安易に答えを出そうとはしなかった。それは優柔不断とも取ることができるが、ここで思い悩むことができる彼女のことを私はとても好ましく思っている。
それでも、人間として生まれた以上は決断しなくてはならない時がある。悪とわかっていても目的のために悪事に手を染めなくてはならない時があり、それでも善の道を歩もうと足掻き続ける者もいる。それでも、やっぱり大切ななにかを守るために悪事に手を染めてしまう者がいる。
それでも、なのだ。私達は何時だって、それでも、と叫んで生きている。
「答えは、ないのかな?」
縋るような声に「完全無欠の答えなんてどこにもないよ」と私は首を横に振る。
「時流や状況、思想によって答えは如何様にも変わっていくんだよ。あるのはその場限りの最善の答えだけだ」
だから、と付け加える。
「私達は考え続けなければいけない。苦しくても、それでも、と叫び続けるんだ」
桃香に足りないのは知識と情報、それに経験の三つである。この三つを満たした時の彼女は――完璧とまでは云えずとも大きく踏み外すことはない。
「生きるって辛いことなんだね」
何処か疲れたように口を開いた桃香に「それでも私達は生きている」と告げる。
私は桃香という人間が好きだ、愛していると言っても良い。慮植先生は大業を為すだけの器があると言い、白蓮は人を惹きつけるだけの何かを持っていると言う。でも私は思うのだ、彼女が本当に素晴らしいのはそこではない。
一生懸命に思い悩むことができるのが彼女の魅力だと私は思っている。
「……それでも、私は悪いことは悪いと言える私でありたい」
これから先、彼女が何を見て、何を思い、何を為すのか。
傍らで見ていたいと、そう思うのだ。
◇
桃香と白蓮と共に私は、地元の幽州涿郡で有名な桃園に足を運んでいた。
盧植塾の卒業が決まった三人は一度、それぞれの実家に戻ることになっている。これを永遠の別れにするつもりもないが、今の御時世では何時、命を落とすことになるかもわからない。さようなら、という言葉だけでは素っ気ないと思った私は二人を桃園に誘って、酒を振る舞うことにしたのだ。
とはいえ、盧植塾で何年も肩を並べて勉学に励んだ仲だ。別れるとなると、どうしても湿っぽくなった。
「私達には血の繋がりなんてないけど……心は何時でも同じ場所にあるよ」
酒の注がれた盃を片手に、まず口を開いたのは桃香だった。
「ああ、そうだな。私達は別の道を歩むことはあっても心は共にある」
白蓮が盃を片手に掲げると、それに合わせて桃香も盃を天に向ける。まるで義兄弟の契りでも交わすかのようだ、と私は呆れ混じりに苦笑する。
「同じ志なんて必要ない、義兄弟の契りも必要ない。道を違えることだってある」
満更でもない、と二人の盃に添えるように私は自らの盃を空高くに掲げる。
「よく私達は喧嘩をするよね」
「意見が合わない時の方が多い気がするよ」
「呆れることもあるかな」
それでも、と三人揃って口にする。
「私の名は劉備玄徳、真名は桃香」
「我が名は公孫瓚伯圭、真名は白蓮」
「私は簡雍憲和、真名は桜花」
名乗ったことに意味はない。
三人で互いを見つめ合って、なんだか可笑しくなって、つい三人で笑いあった。
名乗ったのは、それが自然の流れのように思えただけだった。
だから続く言葉も意味あっての言葉ではない。
「私達は家族だ」
チン、と控えめな音が鳴る。
音が重なることもなく、ただ一音だけが綺麗に鳴り響いた。
初投稿です。革命をプレイしたので勢いのまま、赴くままに。