中黄太乙、それは太平道蜂起の合言葉だ。
太平道というのは道教の一種であり、世に蔓延る不幸な人々に手を差し伸べようという小さな団体に過ぎなかった。
それが何時の間にか世の中全ての人類に救いを与えたいという話になり、政治腐敗を起こした漢王朝を打倒すべしという考えに発展した。政治腐敗の根本的な原因は儒教思想による身内贔屓にあると見た我々は、大将軍何進の台頭を契機に決起の準備を始めたのである。
腐りきった世の中を育んだ儒教を排して、今こそ道教が成り代わる時――つまり蒼天已死、黄天當立と繋がるのだ!
私達、太平道は医術を駆使しながら地道に布教活動に勤しむようになった。
そして私達はあまりにも無慈悲で無情な現実を前に打ちひしがれる。太平道の秘術によって、元気になれ、と病魔に倒れた民草を助けることはできる。しかし度重なる天災と重い徴税、先の見えない未来、なによりも飢餓に苦しむ民草を私達は助けることができなかった。
骨と皮だけになった子供にかけてやれる言葉はない、ただ手を握り返すことしかできなかった。痩せこけた子供が安心して逝けるように抱き締めてやる。涙を堪えて、震える手を抑えて、笑顔を張り付かせて、大丈夫だよと声をかける。血の味がする、口の中を何度噛み切ったのか分からない。そして無事に送り届けた後で私はそっと子供の目を閉じてやり、そして目に溜まった涙を拭い取る。
私達には助けられる者がいる、だから立ち止まる訳にはいかなかった。
日に日に体が重たく感じようになった。
宣教の旅に言葉は必要なかった、かけられる言葉なんてほとんどなかった。今の世の中はあまりにも救いがない。毎日のように人が死んだ、毎日のように子供が死んだ。食事がないからと老人が間引かれて山に捨てられる、養えないからと泣きながら子供を売り、酷いところでは子供の首を締める親がいる。いや、最も救いがなかったのは自害した母親の肉を食らって生き伸びた子供と出会った時だったか。
どうして人は生きるだけで、ここまで苦しまねばならないのか。
あまりにも救いがない世の中に宣教師足る私達も心が蝕まれて、壊されて自分達の行いを責める者が増えた。生きているだけでも罪深いと自分を責める者も中に入る。唐突に自らの頭を柱にぶつける者もいて、世の中に絶望した仲間に服を破られて、押し倒されそうになったこともある。
そうして宣教の旅に仲間が一人、そしてまた一人と消えていって、三十人居た宣教団はたった十四人にまで数を減らしてしまっていた。
私自身、心が壊れていなかったとは思えない。だが私には私にしかできないことがあった。
太平道の秘術、私の両手は病魔を討ち滅ぼすことができる。元気になれ、と気を送り込み存命させる。それは私にしかできない、だから私は旅を続けている。最早、誰かを治すことに宣教なんてどうでも良かった。しかし、その旅にも疑問を持つようになった。こんなにも辛い世の中で生きることに何の意味があるのか。仲間の中には首を吊って死んだ者がいる、仲間の中には手首を切って死んだ者がいる。精神を病んでいない者はいない、私もきっと病んでしまっている。信じられるのは私が両手で病魔を討ち滅ぼすことだけで、何の理念も信念もないまま、ただそれが自分の役割だと必死に思い込むことで生きてきた。しかし地獄のような世の中で、あえて生き長らえさせる行為に意味などあるのだろうか。
もう死にたい、と思った。しかし、まだ死ねなかった。
宣教の旅に出て、初めて病魔を打ち倒した時、お礼に甘い味がする枝を貰ったことがある。
それは私達からすれば、ただの枝だったが記念として残してある。それを見るとあと少しだけ頑張ってみようと思った、もう一歩、進んでみようと思うことができた。だから私は前に進んだ。それが正しいかどうかは分かっていない。もう何も分からない、何も分かっていない。何も分からなくても進むしかない、進まなくてはならない。なぜなら私にしかできないことがある、それで救われたかもしれない人がいる。
なら前に進むしかないではないか。
仲間は更に減って、今では私を含めて四人だけになってしまった。
「帰ってもいい」と言った、「私の帰る場所は此処ですよ」と彼女は言った。もうこの旅の目的は失われている、ただ旅をしている。この旅が何処へ続くのかわからない。もう心身共に尽き果てていた私には彼女達を巻き込むだけの気力はない、だから彼女達を置いて、一人で何処かに行きたかった。そして道半ばで倒れるのだ。倒れた場所がきっと私の目的地、終着点、それでしか私は止まることができないと思っていた。
しかし私の歩みを止めたのは仲間だった、此処まで残ってくれた仲間が死出の旅に向かう私の足を止めた。
「次の町に辿り着いたら終わりにしよう」
どうにかしたいと願っても、どうにもならないことがある。
次の町に辿り着いた時、一人にして欲しいと通りに出た。心配をされたが、何処にもいかない、と約束したら渋々許してくれた。そして人通りの少ない場所で空を見上げる。真っ青な空、蒼天を見上げても何も感じなくなっていた。ここで終わりなのか、と思うだけで大した感慨もなかった。少しだけ胸に穴が空いたような、空虚な気分になるだけだ。
道半ばだった、きっと私達には世直しは荷が重すぎたのだと思う。
ふと懐に手を入れて、懐かしい枝を取り出した。何度か捨てようかと思ったが、今もこうして大事に取ってある甘い枝、なんとなしに齧ってみると確かにそれは甘かった。ほんの少しだけ、噛むと甘味が染み出した。噛めば噛むほどに甘い味が染み出してくる。何故だろうか目が熱い、涙がポロポロと溢れてくる。悔しいとは思わない、悲しいとも思わない。でも涙が止まらなかった。
私は何もできなかった、何も変えられなかった。あれだけ頑張って、あれだけ努力しても何にもならなかった。最初は見返りなんていらなかった。もっと世の中を良くしたかった、それだけがあの時の私を満たしていた。しかし今はもう宣教なんてどうでも良い。でも嬉しかったのだ、病魔を討ち滅ぼして、それで喜ばれて嬉しかったのだ。嬉しかったから続けることができた、感謝されることは気持ちよかった。だから続けてこれたのだ。見返りなんて必要ないだって、金銭なんて必要ない、信仰なんて必要ない、私はただ私のためにこの力を使っていた! 嬉しかったんだ! あの笑顔が、ありがとうという一言が! それだけで私は進める、それだけで私は歩くことができる。何処までも、何処までも、何処までだって歩いていける気がした! でも駄目だ、もう駄目だ。私は歩くことができない、これ以上、歩けない。褒めて欲しい、よく頑張ったねって労って欲しい。この旅で私は何も変えることはできなかったけど、それでも助けて欲しい。どうにかして欲しい、頑張った、とっても私は頑張ったんだよ! 苦しくても、しんどくても、辛くても、それでも私は歩き続けた。分かっている、この旅に意味なんてなかったことは分かっている。私は世の中を変えることはできなかった、私は頑張れなかった、頑張りきれなかった。
醜い、とても醜い。今の私は私のことしか考えられないことが醜くて殺してやりたい。
両拳を握り締めて地面を殴りつける、何度も殴りつけた。皮膚が破けて、血が出ても止めなかった。この手が、この手があっても私は、こんな手があったから! こんなにも私は苦しくて、辛くて、しんどくてッ! こんな手がなかったなら私はこんな想いをすることはなかった! 知らずに済んだッ!! 太平道の一員として世を憂いて、だけど満ち足りた日々を送っていたに違いない。
でも私は旅に出た、色んな人に出会った。色んな場所に行った。この両手には沢山の人の温もりがある、冷たい感触もした。でも温もりを感じたのだ。この両手には数えきれないほどの人と握手を交わした感触がある。
悔しいとは思わない、悲しいなんて以ての外だ。後悔なんてするはずがない。
「畜、生……くそぅ…………」
私は此処で旅を終えることになった自分の弱さを恨んだ。
きっと私は旅を続けたかったのだ。もっと多くの人に触れて、病魔を退治して、感謝されて嬉しくなって、それだけで良かったことに今更気付かされた。それだけが私に残されたものだった、それだけで私の心は満ちていた。
でも、もう手放してしまった。ここで旅が終わる、これから先どうやって生きれば良いのか分からない。
「女の子がね、そんな風に手を傷付けたら駄目だよ」
そんな私に優しく声をかけてくれた女がいた。
彼女は泥だらけの私を抱きしめると、よしよし、と頭を撫でてくれた。辛かったね、頑張ったね、と声をかけてくれる彼女に私は涙を堪えきれなかった。彼女は私のことなんて何も知らないはずで、何も分かっていないはずで、そんな簡単に言わないでよと怒りがあって、でも私は泣くことをやめられなかった。
旅に出てから初めて、きちんと泣けた気がする。
「貴方の名前はなんて云うの?」
そう問われた私は彼女の胸に顔を埋めたまま、声を振り絞って小さく答えた。
「波才……です」
「そうなんだ。私は張角、よろしくね」
◇
旅の終着点で出会った女性は旅芸人をしていると言った。
世界が不安で満ちているのなら歌で吹き飛ばしてやりたいと言った、愛が足りていないなら皆に愛を届けたいと言った。言葉が届かないのであれば気持ちを届けたい、気持ちを歌に乗せればきっと相手の心に届くから、と彼女――張角は呑気な笑顔で言うのだ。皆に私達の歌を聴いてほしい。歌の力は無限大で、世界だって救うことができる。歌で皆の心を合わせれば、時代だって変えることができる。
歌は全てを超越できる――そう告げる彼女の目に疑念はない、その在り方は信仰に似ている。
私は彼女の歌を聴くのが好きだった。
澄み切った歌声が渇いた心に染み込むようで、荒んだ心が洗われていくようだった。出会った翌日から毎日のように彼女達の下へ足を運ぶようになっていた。
張角には二人の妹がいる。張梁と張宝、三人で数え役満☆姉妹と名乗っているらしい。衣装は手作り、衣服が解れている箇所がある。観客は何時も私一人だけだ。今は見栄えも良くするために振り付けも頑張っているとのことだったが、そんなこともする必要がないほどに彼女達の歌は素晴らしいと思っている。可笑しいところはなかった? と問われても私には分からない。ただ良かった、と伝えることができるだけだ。
そんな彼女達の歌を聴いてくれるのは私の他に誰もいない。
なんでだろう、どうしてだろう、と悩む彼女達を見て思うのは――世の中は彼女達の歌声に耳を傾ける程の余裕がないということだ。
世の中を見てきた私だから分かる。彼らの耳に私達の言葉は届かない、明日の予定どころか今を生きるだけで精一杯の者達ばかりなのだ。そんな彼らに誰かの言葉に耳を傾ける余裕がない。ほんの少し耳を傾けるだけで分かる、こんなに素晴らしいのに勿体ない、と私は思うのだ。どれだけ綺麗事を言っても、どれだけ理想を口にしても、それは覆しようのない事実だった。
だが、それでもだ。
聴いて欲しい、彼女達の歌を届けたい。私の声は届かなかった、私の言葉は救いにならなかった。でも彼女達の歌には力がある、彼女達の歌は救いになる。生きる活力になる。
もっと世の中が優しかったならば、もっと世の中に余裕があったなら……そう思わずにはいられなかった。
そんなある日のことだ。
張角がファンの方から貰ったという書籍を持ってきた。彼女達のファンは私だけだろうと思いながら、書籍を見せてもらうと表紙には「太平要術之書」と書かれているのがわかった。確か道教に伝わる妖書の一つで、願えば如何なるも叶えてくれるという伝承があったはずだ。その代わりに太平要術之書を扱った者は人生を歪められて、必ず身を破綻させることになるという曰く付き、「危険なものだから」と私は三人から書を回収すると「波才ちゃんってそういうのに興味あるの、意外だねー」と少し顔を赤らめた張宝に揶揄うように言われたけど、まあ無事に回収できるのであれば艶本に興味があると勘違いされようが構わない。
この書は封印しなくてはならない、これは世を混沌に落としめる類のものだ。せくせくと封印の準備を整える、その際に書が私のことを誘惑するように訴えてきた気がしたが、それらは全て必要ないと切り捨てた。世の中を良くしたいと願っている。しかし、そのために妖書に手を出すつもりはない、神にすらもなれると囁かれたがそんなものをなりたいと思ったことは一度もない。
封印する手筈を整えて、あとは呪文を唱えるだけの段階になった時――――、
『あの三姉妹を人気者にできる』
――と言われて体が固まってしまった。
いや、違う、間違っていると首を振る。そんなことで人気者になったとしても彼女達は幸せにはなれない。こんな妖書の力を借りるのは卑怯だ、言ってしまえば外道と呼ばれる手段である。そんな手段で人気者になれば、彼女達はきっと彼女達ではいられなくなる。あの澄んだ歌声を穢してしまうことは絶対に許されない。
でも、思うのだ。
彼女達の歌が本物だったならば、それなのに周りが彼女達の歌に耳を傾けてくれないのであれば、間違っているのは彼女達ではなくて世の中の方だ。なら、少しだけ、ほんちょっとだけ、背中を押すくらいのことをしても許されるかな、って思ってしまった。
というよりも彼女達が打ちひしがれる姿を見たくなかった。
彼女達には妥協して欲しくなかった、こんなことで終わって欲しくなかった。彼女達は毎日のように歌の稽古に振り付けに、曲を作って歌詞を作って、一日だって休まずに努力を重ねている。その努力が報われて欲しいと思うのは傲慢だろうか、頑張ったら頑張った分だけ報われて欲しいと願うのは駄目なことだろうか。彼女達には実力がある。ただ時期が悪かった、時勢が悪かった。そんなことで彼女達には終わって欲しくないのだ。
もっと彼女達の歌を聴いて欲しい、皆に彼女達の歌を届けてあげたい。
私が彼女達に抱いている想いは同情だろうか――いいや、そんなことはないと思っている。彼女達には実力がある、そのことを私は信じている。そして、そのことを証明して欲しい。
だから私は願ったのだ、一度だけ、たった一度きりの願いを唱える。
「ほんの少しだけ、少しだけで良いので、皆が張三姉妹の歌を聴いてくれますように」
それ以上は願わなかった。
数ヶ月後、張三姉妹の名は爆発的に知れ渡ることになる。
◇
中黄太乙、それは太平道蜂起の合言葉だったはずだ
太平道とは道教の一種であり、世に蔓延る不幸な人々に救いの手を差し伸べる団体で、そのために政治腐敗を起こした漢王朝を打倒すべしと立ち上がった。政治腐敗の根本的な原因は儒教思想による身内贔屓であると断言し、大将軍何進の台頭を契機に始めた決起の準備はすでに終えている。
腐りきった世の中を育んだ儒教を排して、今こそ私達太平道が天下を取るべきなのだ!
つまり蒼天已死、黄天當立である!
なのに、どうしてこうなった。
私、馬元義の目の前には今、変わり果てた姿で旅から戻ってきた波才が立っている。
太平道創設時からの同志である波才は生真面目であり、勉強熱心な教徒として知られている。まだ幼い身でありながら道教の秘術である治療術を身に付けており、相手の体内に気を送り込むことで病魔を討ち滅ぼすことができた。この能力を駆使することで太平道は多くの教徒を得ることになり、太平道の教えを大きく広めることができたのだ。
謂わば、波才とは太平道の屋台骨である。幼い見た目に巫女衣装を着た彼女を慕って、太平道に力を貸している者も少なくない。そんな彼女を宣教の旅に出すことには不安があった。しかし彼女の今までの功績と性格を信じて送り出したのだ。
それがなんて様なのだ! 信じて送り出した娘が、こんな……こんな…………
自慢げに“数え役満☆姉妹”と書かれた鉢巻を頭に巻いて、両手には自作の団扇を持つような子になってるだなんて!
「同志、
うるせえ、ロリがヤクマンおじさんになってんじゃねえ!
今のあんたに真名で呼ばれたくねぇよ!