水鏡女学院には問題児がいる。
その者は留年に次ぐ留年、そしてまた留年を重ねており、そして今年もまた留年をしようとしていた。そして今しがた水鏡先生と呼ばれる院長にお叱りを受けた直後であり、きっとうんざりとした顔で院長室から出てきたに違いない。
最後の表現が少し曖昧なのは、私がその当事者である徐庶元直、その人であるためだ。
同門に万年留年生と陰口を叩かれる私は、ああ疲れた、とささやかな愚痴を零して欠伸する。
耳にタコができる程、何度も聞かされてきた水鏡先生の叱咤激励――今日に至るまでの経験から私を相手にするだけ無駄だと理解できているはずなのに、今日も今日とて水鏡先生は懲りず飽きずに私を院長室に呼び出しては怒鳴り声を張り上げるのだった。水鏡先生ともあろう御方が無駄な時間の使い方をするものである。
もういっそ私の改心なんて諦めてしまうのがお互いのためではないだろうか?
「元直先輩、良い加減に講義に出たら良いのでは?」
そんな私の後ろをひょこひょこと付いて歩くのは見た目幼き少女、彼女はじとっとした目で私のことを見上げてくる。
「そうは言うけどね、孔明。朝起きるのは辛い、世の中にある最大の苦行は早起きであり、最大の幸福は二度寝であると私は断言できるよ」
そのように私が断言すると少女はあからさまに溜息を零してのける。
「先輩は素晴らしい頭脳を持っているのに、どうしてこうも残念なんでしょうか。天は才を与える相手を間違えました、世の中にはもっと実直で素晴らしい方が幾らでもいると思います」
孔明が先輩に対する尊敬の念が欠片も感じられないことを口にしながら空を仰いでみせる。
私が留年を続けている理由は成績に関することではない。むしろ、この四年間で水鏡女学院の主席が空席になっている原因は私にあるし、成績が低い者は退学という手続きを取るのが当学院だ。私の留年が許されているのは、それだけ私が有能であるということの証左であるとも云える。
可愛い後輩の悪態を笑って聞き流していると孔明は呆れたようにまた溜息を零した。
「やっぱり毎朝、私が先輩を起こしに行くべきなのかな……」
顎に手を添えながら眉間に皺を寄せる思案顔。そんな先輩想いな後輩の名は諸葛亮、字は孔明と云う。
彼女は水鏡女学院きっての俊才との評判を持つ少女で、卒業までに六年間通う必要があるとされる水鏡女学院を僅か二年で卒業しようとしている程の頭脳の持ち主でる。また彼女は四年間も空席であった主席に手が届くのではないかと注目を浴びており、恩師、水鏡先生からは「天にすらも手が届く二人の内一人」と評価される程に期待を受けている。
四年前までは女学院創設以来の英才と呼ばれた徐庶元直が「ねえ私は? ねえねえ私は?」と水鏡先生に直接問うてみたところ「お前はまともに働かないだろ」と言われた、解せない。
「私と孔明ちゃんが知恵を絞っても先輩の性根を直す術が思いつきません……世の中には解決しようがない無理難題があるという不条理を嫌でも思い知らされます……」
ふらりと孔明の後ろから姿を現したのは龐統士元、よく孔明と一緒に行動しているのを見かける。
パッと見た感じでは臆病そうな彼女は、恩師が言っていた「天にすらも手が届く二人の内一人」の片割れで、その気弱な見た目とは裏腹に鋭く切れる頭脳を持っている。この森羅万象を司ると自称する我が頭脳を持ってしても、彼女の切れ味には一歩遅れを取ると言わざる得ない。
事実、彼女には、女学院で開催された将棋大会では私と孔明を二人抜きして優勝を飾ったという実績があった。
「だ、駄目だよ、士元ちゃん。先輩のためにもしっかりと考えなきゃ……諦めたら、それでおしまいなんだよ?」
「先輩なら退学になっても苦にしない、と思う……何処にでも仕官できちゃいそうだし……」
「そ、それはそうだけど……やっぱり卒業して欲しいし、先輩と一緒に卒業したいし……」
駄目な先輩の将来を気遣ってくれる健気に後輩二人の姿はまさに感涙ものである。
この感動が少しでも私の性根に染み渡ってくれれば良いと思うのだが……残念ながら私の性根は砂漠のように吸水性が良いようで、二人から得られた潤いでは乾ききった私の心を満たすことができないようだ。まるで笊のようにすり抜ける。
私は私の糞っぷりに悲観せずにはいられない。なけなしの良心が健気な後輩二人を哀れんでいる。
「この先輩を改心させることよりも、世の中を正す方が簡単だと思う……」
「それは分かってるよ、士元ちゃん。例えこの青空が黄色で染まることがあっても先輩の性根は直らないよ」
天下を代表する二人の頭脳から見放された私は、演技がかった仕草で大袈裟に泣き真似をしてみせた。
◇
可愛い後輩二人のために三日も休まずに出席した私は一週間の休養を取っている。
そしてまた院長室まで呼び出されることになり、生真面目な私は恩師の面子を立てるためにも仕方なく院長室まで足を運ぶことになった。
私のような人間に慈悲を与えるとは――水鏡先生も酔狂な方である、水鏡だけに。
「あなたを今年で卒業させます、というよりも良い加減に女学院から出て行きやがれ」
部屋に入り込むや否や、我が恩師は吐き捨てるように言い放った。
「ま、待ってください、恩師。水鏡女学院では一年間で約三分の二以上の出席、日数にすると二百四十日以上の出席――もしくは教科一つに対しては約四分の三、即ち六十六日分の出席が認められない限りは留年をすると定められているではありませんか! そのような特例を認めるべきではありません、女学院の規範が乱れる要因になりかねません!」
「そういう規則が分かっているのに守らないところが本当に気にくわないわね、ふてぶてしいとは貴方のためにある言葉よ」
恩師との付き合いも今年で六年目、院長室で何度も語り合った仲である彼女に好好先生と呼ばれた面影はない。最早、体裁を取り繕うことをやめてしまっている、嘆かわしいことに。
「この五年間、正確には一週間前の時点で貴方は卒業に必要な出席日数を満たしたわよ。おめでとう、わーぱちぱち」
抑揚ない声色で手を叩く恩師の目には欠片一つ分も笑っていなかった、むしろ殺意すら感じるほどに冷ややかだ。そんな恩師の様子に私は狼狽えずにはいられない。
「そ、そんな……働かずとも手に入る清潔な衣服、美味しい御飯、快適な宿舎という極楽浄土を手放さなくてはならないなんて……くっ、この徐元直ともあろう者が相手を見誤るなんて耄碌したものですね!」
「誰かを殺めることは悪徳なのかもしれないけど、貴方を殺めることだけは善徳になるような気がして仕方ないわ」
働きたくないでござる、と駄々こねる私に恩師は呆れた様子で大きく息を吐き捨てる。
「女学院にタダ飯を食わせる余裕なんてないわよ。むしろ留年なんていう制度が施行されたのは貴方が始めてなんだから、どうして五年前の私は貴方に真名を預けてしまったのかしら。ねえ、
水鏡女学院では主席者には院長から直々に真名を預けられるという名誉が与えられる。貴方なら主席卒業は間違いないからと恩師から真名を預けられたのが今から五年前、それから四年間、主席が空席だったこともあって恩師から真名を預けられた者は出ていない。
「そんなことを言わないでください、みか……」
「殺すわよ?」
にっこりと笑顔を浮かべる恩師に、私は満面の笑顔で返した。
ぜんぜん真名を許してくれてないじゃないですか、恩師よ。
しばらく見つめ合った後、恩師は大きく溜息を零して口を開いた。
「貴方は現時点を持って卒業資格を満たしたことを認めます」
「……つまり?」
「さっさと女学院から出て行け、穀潰し」
こういうやりとりがあって、電撃的に私は女学院を追い出されることになったのである。
◇
あれから一ヶ月後、私の荷物が全て燃やされてしまった。
卒業したのだから出席する必要がないと部屋に引きこもっていたのがいけなかったのだろうか、それとも恩師からの追及をのらりくらりと聞き流し続けていたのがいけなかったのだろうか。可愛い後輩に誘われて昼食を摂り、そのついでに将棋を打っていた間に、部屋に置いていた荷物は全て庭に持ち出されて家具ごと燃やされていた。兵は拙速を尊ぶというが――なるほど、これは確かに手の打ちようがない。対策を取る暇もない迅速な行動は兵法のお手本のようだ。
指示を出したのは我が恩師、主導したのは愛しの後輩。孔明は呆然としている私と燃え盛る火を見比べて、光悦に頰を赤らめていた。その姿に、こいつはきっと後世千年以上に渡って語り継がれる天下の放火魔になるに違いないと私は確信する。
ビビッと来ましたよ、ビビッと。
「あわわ、孔明ちゃんがいけない扉を開いちゃいました」
ふるふると震えて狼狽えるのは、つい先程まで私と将棋を打っていた可愛い後輩の士元だ。
まるで心を許した親友が犯罪に手を染めたことを知った時のようにかおを青ざめさせてしまっている。
これには私も同情せざる得ない。
「あ、そういえば先輩とは真名を交換していませんでしたね」
燃せ盛る私の私物を後ろに、とてとてと満面の笑顔で孔明が駆け寄ってくる。
「これでお別れになるのも寂しいです。真名を交換しましょう、そうしましょう」
私の私物を燃やす主導をした愛しい後輩は、まだ赤らめた頰で息を上気させながら提案する。
「ああ、それもそうだな。私は珠里だよ」
「はい、私は朱里です」
むしろ今まで交換していなかったことが不思議なほどだ。そう思って真名を交換すると私の隣に控えていた士元は信じられないものを見るような目で私と孔明を何度も見直すのであった。そんな可愛らしい仕草を見せる後輩とも、ついでなので真名を交換しておいた。
「さて真名を交換した仲ということで部屋に泊めてもらおうか」
はわわあわわと狼狽える二人を押し切って部屋に泊めてもらった翌日、激おこぷんぷん丸な恩師に簀巻きにされた私は牛車に乗せられて隣町まで運ばれた。ドナドナと、