頭が痛い。
全身を打ち付けてしまったのだろうか、鈍い痛みが全身を苛んで身動きが取れない。
このまま横になってやり過ごそうとも考えたが、周りが騒がしくて、それが頭に響いてそれどころではなかった。
目を開けると、そこには知らない顔があった。女性か? 随分と悲痛な顔をしているが――どうやら私は彼女に抱きかかえられているようである。
そのまま彼女の顔を見ていると、ふと目が合って、少女はきょとんとした顔を見せる。
「
少女は歓喜で笑顔を浮かべたが、その甲高い声が頭に酷く響いた。
ぐわんぐわんと揺れる脳に顔を顰めると「何処か痛むの!?」と彼女は私の体を乱暴に揺すり始める。
やめてくれ、本当に死にそうだ。驚くほどに力が入らない体では姿勢を維持することもできず、ぐでっと少女に身を委ねる。
心なしか懐かしい感じのする匂い、なんとなしに安心する感覚に私は再び目を閉じた。
此処は何処だとか、自分が誰だとか、今はどうでもいい。
とにかく寝かせて欲しい。
「香花姉様、死んじゃ駄目よ! 姉様、姉様!」
前後に体を揺するのは本当にやめてくれ、死にそうだ。
◇
どうやら私の名前は荀諶と云うようだ。
字は友若、真名は香花。名門荀家に連なる子の一人、今は屋敷の隔離された部屋で療養している。
目覚めてから自分の様態について詳しく話を聞き出したところ――全身打撲に両足骨折、片腕の骨には罅が入っており、折れた肋骨が内蔵を痛めている可能性もあると散々の状態であった。よくもまあ生きているものだと思わざる得ない。何が起きたのか気にはなったが、詳しく教えて貰ったことはない。ただ私が助けられていたのが野盗の拠点にしていた場所であること、周囲の私を哀れむような視線、記憶を失う前は違ったという妹の極端な異性嫌いからなんとなく察することはできている。そして私の記憶喪失は精神的苦痛から逃れるための自己防衛ではないかと医師からの判断が下った。
そういうわけで私は怪我がそれなりに治っても療養という名目で外部から隔離された生活を続けており、二ヶ月が過ぎた今も私の部屋に訪れるのは身内と医師だけだった。
「香花姉様、これで荀家にある書籍は全部よ」
書籍を両手に抱えて部屋に入るのは私の可愛い妹の荀彧、真名は桂花《けいふぁ》。
私は手に持った書籍を読みながら「ありがとう」と告げると、桂花は床に書籍を置くと呆れた様子で部屋を見渡した。書籍で四方八方を埋め尽くされた部屋の中、今や私室には荀家にあった全ての書籍が集められている。また気付いたことや思いついたことは紙や木簡、竹簡、障子や襖に書きなぐっていることもあって散らかり放題である。
まだ足が不自由なままなこともあって、部屋の整理なんてできるはずもなかった。
「ずっと部屋の中にいて退屈なのはわかるけど、もうちょっとなんとかならないわけ?」
猫耳フードの可愛い妹も記憶を失った直後こそ辛気臭い顔をしていたが、今では妙な気遣いもなく自然と話せるまでには回復していた。
「……桂花、整理整頓は何のために行うものだと思う?」
そんな彼女を試すように問いかけると、可愛い妹は訝しげに私を見返す。
「何故って……そりゃ綺麗にするだめでしょ?」
「違うわよ、何処にものがあるのか把握するためよ」
そういうと妹は湿っぽい目で私を見つめながら「孫子」と呟いたので、私は山積みになった書籍を指で差した。
「上から十二番目から十四番目くらいにはあると思うわ」
「げっ、本当にあるわ……もしかして、全部覚えてるわけ?」
「まさか、覚えている分だけよ。ある程度、九割方?」
ペラペラと書籍を捲りながら返事をすると可愛い妹は溜息交じりに「これは捨てても良いのよね」と散乱した紙を手に取る。そして、その中身を見たせいなのか桂花は動きを止めてしまった。
「これって、昨日の棋譜よね?」
「そうよ、勝敗は桂花の方が上だったわね。私の十一勝十六敗、流石は荀文若、私の妹ってところね」
「本を片手に打ってた癖に……悔しいなら真面目に相手をしなさいよ。手を抜かれたと思って屈辱だったんだけど?」
別に手を抜いていたわけではない。
桂花は手を差すのが遅いので、待っている側は暇なのだ。彼女が考えている間に次の手を決めているから片手間に書籍を読み漁ることができているだけである。
しかし可愛い妹は私の言い分に耳を貸そうとはせずに床に散らばった紙をパラパラっと目に通す。
「二十七局分、全部、覚えているわけ?」
「完璧に憶えているわけじゃないわ、流れを憶えていただけよ。一手から諳んじることはできても一場面を切り取ることは難しいわね、だから書き起こして確認してみたってわけ」
「書き起こしてみただけって……」
別に可笑しなことではないだろう、まじまじと棋譜を見つめる妹に私は首を傾げる。
「もしかして、この部屋にある書籍も全部、憶えてたりする?」
おずおずと問うてくるいもうとに対して「全部じゃないわ、九割方」と返した。
流石に一字一句までは自信がない。
◇
可愛い妹の桂花は、荀家の中でもとびきりに優秀で王佐の才と称される程だった。
そのせいか彼女を求めて数多くの書簡が送られてきており、仕官先は選り取り見取りの引く手数多であった。対して私は部屋で書籍を読み漁るばかりで誰からも声をかけられていない――でもまあ、それで良いのだと私は思っている。私は漢王朝のために働きたいとは思っていないし、世の情勢に関わりたいとも考えていない。ついでに云えば、出世だってどうでもよかった。
とはいえ外に興味がないという訳ではない。世捨て人ではないのだ、人並み程度には世の中に興味を持っている。
「香花姉様、やっぱりまだ無理だったんじゃない?」
妹の肩に手を乗せながら息絶え絶えで足を引き摺る。
一年以上も部屋で書籍だけを読み漁っていた身の上だ。屋敷の外に出てみたいと頼み込んでみたは良いが、想像以上に私の肉体は力を失っていた。妹が云うには街中を走り回る程度には体力があったと聞いているが――いやはや、まさか五分もしない内に息が切れるとは考えていなかった。
このまま屋敷に戻るのも難しかったので、一度、近くの茶店で休憩することになった。
店内に入った私は空いた椅子を見つけると、どかっと座ってウンと手足を伸ばした。はしたない、と妹の苦言が聞こえた気がけども無視する。水を持ってきてくれた女給に杏仁豆腐を一つ注文、「姉様ってお金を持ってたっけ?」と問いかける妹に私は口笛を鳴らして誤魔化した。桂花は溜息を吐くと羊羹を注文する。
注文を受けた女給が厨房の奥へと姿を消し、私は冷たい水を口に流し込んだ。汗だくになった体に染み渡る。
「外に出ることに拒否感とかはないのね」
ふと呟かれた妹の言葉に私は首を傾げる。そして、そういえば、と自らの記憶喪失の原因を思い出した。
「憶えていないことを恐れるのは難しいわね」
肩を竦めてみせると「そう」と妹は小さな声で返事する。
妹は横目で流し見るように店内を見渡しており、そんな妹の様子を私は無言で見つめる。なんとなしに気不味い雰囲気、沈黙は杏仁豆腐と羊羹が届けられるまで続き、さっそく杏仁豆腐に手を付けようとする私とは裏腹に、妹は羊羹をじっと見つめたまま動かなかった。「美味しいわよ」と声を掛けても小さく頷くだけだった。
なにかを考え始めた妹の姿に、今は触れない方が良いのかなと思いながら杏仁豆腐を頬張る。
「私は……まだ、少し怖いわ」
ふと呟かれた言葉、私は甘味で舌を満たしながら黙って耳を傾ける。
「姉様は覚えていないかもしれないけど、姉様は私を守ろうとして連れていかれたのよ」
「そう、昔の私は大したものね。よくやった、と言ってやりたいわ」
何食わぬ顔で杏仁豆腐を口に運びつつ「こんな可愛い妹を見捨てたりしたなら私は私を縊り殺さなくてはならないところだったわ」と笑顔を浮かべてみせる。まだ釈然としない様子で羊羹を見つめる妹の姿に私は小さく息を零す。
「桂花、貴方が私に負い目を感じる必要はないわ。きっと私は私が思うままに行動した結果なのよ」
杏仁豆腐を匙で掬った私は、妹の口元に差し出した。
「貴方と一緒に過ごした一年間、私は貴方から好意を感じていたのよ。それは気のせいだったのかしら? 贖罪だけのために私の傍に居てくれたの?」
妹の目の前で杏仁豆腐の乗った匙を左右に振りながら問い掛けると「その聞き方は卑怯よ」と可愛い妹は困ったように笑みを浮かべた。
「私も姉様と一緒にいるのが好きだったからよ」
「そうね、信じてあげるわ。九割方」
「九割方って、信じてくれてないじゃない」
不服そうに眉間に皺を寄せる妹に、私は杏仁豆腐の乗った匙を再び彼女の口元に寄せる。
「これを食べてくれれば信じてあげる」
桂花は可愛らしい不満顔を見せてから目を閉じて控えめに口を開いた。
薄く開いた唇の中に杏仁豆腐を滑り込ませやる。妹が噛みしめるように咀嚼する姿に思わず私は口元を緩ませるのだった。
◇
翌週、妹の仕官先が決まった。
相手は名門袁家であり、名声だけならば妹の仕官先としては申し分ない。
「何時までも殻の中にこもっているわけにはいかないわよ」
そう告げる妹の顔は清々しくて、未だ穀潰し生活を続けている私には少し胸が痛い言葉だった。
あれから少し考えてみたが――やはり私は打ち手にはなれない。観測者気取りで世界の外側から情勢を見守ってるのが性に合っている。これから世の中がどうなっていくのか、誰が動くのか、どのような打ち筋を示してくれるのか、そのようなことに想いを馳せるのが楽しかった。でも、これから訪れるかもしれない動乱の中に身を投じたいとは思えない。元より部屋に引きこもっていた私に仕官の申し出なんて来るはずもなかったりする。
妹の仕官祝いに何か考えないといけないな、とどこか他人事のように考えていると妹が私に向けて手を差し出してきた。
「香花姉様も来てくれると心強いわね」
じっと私のことを見つめてくる可愛い妹、私は笑みを浮かべて問い返した。
「自信がないのかしら?」
「私を誰だと思って? 自信ならあるわよ、九割方」
そう告げる妹は本当に自信たっぷりで、私を見つめる目がとても優しく感じられた。
「姉様が来てくれると十割になるわ」
まるで断ることを考慮していない妹の姿に「可愛い妹の頼みなら仕方ないわね」と私は苦笑を浮かべながら彼女の手を取った。
まだ私は打ち手になりたいとは思わない。でも妹と一緒なら内側から世界を眺めるのも良いと思うのだ。