豫州穎川郡には神算鬼謀と称される二人組が存在している。
片や名を郭嘉、字を奉考と云った。倫理や道徳に縛られない悪鬼羅刹とも呼べる思考回路で、状況に応じた最効率の方策を瞬時に叩き出すことから鬼謀と称される。
そして、もう一人は戯志才という名の少女である、字はない。
彼女はとにかく勘が鋭かった。僅かな情報から的確に状況を読み取り、確実に急所を討ち抜く精度の高さから神算と呼ばれて恐れられる。
二人揃えば敵なしで、また二人を理解し合える者も神算鬼謀と称された二人しかいなかった。
少なくとも、この時はまだ――
だから私達が常に行動を共にしていたのは必然だったと思っている。
私、戯志才は稟のことを半身だと思っている。
物心がついた時から行動を共にする仲で、お互いの部屋で寝泊まりするのは当たり前、布団だって同じだった。常識を知った今だからそれが世間一般的に可笑しいことだってわかるけど、そのことが私達にとっての当たり前だっていう認識は今でも変わっていない。
稟のことなら自分のこと以上になんでもわかる、そして彼女も私に対して同じ想いを抱いていることを知っている。
二人で積み重ねた疑問は如何程か、二人で差し重ねた棋譜の数は如何程か。語り重ねた言葉の数は万を超えて、億にも達するに違いない。まるで写し身、その肉体、その精神、その魂魄、全てが真逆であるにも関わらず、私達は陰陽のように混じり合っている。逆さまの鏡に向かって、貴方は稟、貴方は
私達にとって会話とは確認作業のようなもので、意思疎通に口を開くことの方が少なかった。しかし私達の間で交わされる言葉は、声を使っていた以前よりも遥かに増えていった。
決定的に違うのは肉体、その精神。そして魂魄である。
「こふっ……」
将棋を指している時、対面に座る稟に悟られないように私は口元を手で抑えた。
心配そうな顔をする我が半身、私の手には真っ赤な徒花が咲き誇っている。彼女相手に隠し事はできないな、と私は満面の笑顔で血に染まった手を彼女に向ける。
さあ続きを打ちましょう、そう目で語りかけると彼女は今にも泣き出しそうな顔で歯を食い縛る。
私の体は病魔に侵されている。
稟の健康的な体とは違って、私の体は極端に幼く、呆れ果てるほどに虚弱だった。風邪で寝込むのは当たり前で、喘息のおかげで横になれない日の方が多かった。食が細いこともあってか胸はない、代わりに肋骨が浮いてしまっている。
死ぬ時はあっさりだと思っていた、稟よりも早く死ぬだろうことはわかっていた。
医者の見立てでは私の命は持ってあと一年だと言われている。
昔と比べると吐血する頻度が増えてきた、一度に吐く量も日に日に増えている。血を失う度に体から力が失われているのがわかる。自分が吐く血を見て、綺麗な色をしていると思った。昔はもっと淀んでいた気がする。血が鮮やかな色をしているのは生命力が宿っているからで、それがそのまま口から吐き出されるから体が気怠いのだと今は理解している。
吐血の度に思うのは、あとどれだけ生きられるのだろうか、という想いだった。もう少し生きてみたいと思っている、それが叶わないことだと察しているから、それまでは少しでも長く我が半身と共に居たいと願うようになった。
それこそ、一秒でも長く。
だが、それも叶わない。
近々、私は穎川郡を離れることになっている。
都から離れた場所にある綺麗で落ち着いた屋敷で療養することが決められていた。そして、そのことを望んだのは他ならぬ我が半身の稟である。少しでも長く共に居たいと願うのは私、少しでも長く生きていてほしいと願うのは稟、お互いを半身と呼び合えるほどに分かり合った仲なのに精神が違っている。だから望んでいることに齟齬が生じてしまうのは当然といえば当然の話であった。
意思の弱い私が意思の強い彼女に流されるのもまた必然で、半身である貴方がそう望むのであれば、と私は私の想いを押し殺して彼女の側を離れることを決める。私と彼女の価値観は悲しいほどに乖離している。
駄々こねることもできた、きっと我が半身であれば私のわがままを受け入れてくれるに違いない。稟は鬼謀と称されるほどに恐れられているが、その本質はけっこう優しいのだ。少なくとも私に対しては優しい。だから私が強く望めば彼女は私のためだけに穎川郡から出ることはせず、むしろ辺境まで一緒に来るとまで言い出すに違いない。
それは私の望むことではない、命短き私のために彼女の将来を縛ることはしたくなかった。
だから私は一人で辺境に向かうのだ。
その真意、私の本音は、きっと半身である彼女に伝わってしまっている。
その顔を見るだけで、その瞳を見るだけで、手を握り合うだけで、私の気持ちが彼女に伝わってしまっていることが胸が締め付けられるほどによくわかった。
お互いに言葉を交わすことはない。口元の血を拭い取り、衣服を汚したまま碁を打ち続ける。
今一時。その僅かな時間が愛しくて手放したくなかった。
◇
穎川郡を離れてから一週間が過ぎた。
療養のために用意された屋敷には向かわず、風吹くままに私は最期の旅を楽しんでいる。
護衛を撒いた私は適当に歩いていた。食料も大して持たず、体力が続くまで、血反吐を撒き散らしながらの旅路を楽しんだ。
私はこのまま何処まで歩いていけるのだろうか。何処までも歩けそうな気がするし、もうすぐ死んでしまうような気もする。目の前の山を超えることはできるだろうか、あの丘の向こう側を見ることはできるだろうか。せめて次の街までたどり着くことはできるだろうか。それとも道半ばで野盗に襲われてるか、野犬に食い殺されることだってあるかもしれない。
それで良いと思った、そんなもんだと思った。
今、私は初めて当てもない旅をしている。
何もわからない未知を歩いており、その未知に思いを馳せて心を躍らせている。
解放されていた。肉体も、精神も、魂魄も、その全てが何処までも解き放たれていた。あと少し、もう少しだけ、ほんの少しでも長く、この自由を堪能していたい。我儘だと思う、無理を言っていると思う。でも今暫く自由の中で生きていたかった。
死ぬことはわかっていた、でも死を受け入れたことは一度もない。死を覚悟できたことは一度だってなかった。私の中にあったのは達観ではなくて諦観だった。私は生き続けることはできないと認めている。でも、あと一歩だけ、そして、もう一歩だけ、そうして歩みを止めずに歩いて、どこまでも歩いて、歩けるところまで歩き続けて、そして最期にはきっと何処ぞで野垂れ死ぬんだろうな、と思いながら今もなお歩き続ける。
私は今、生きている。血反吐と共に朽ちる体、それでも私はまだ生きている。叫びたかった。私は生きているんだって誰かに伝えたかった。
私はどうしようもなく生きたいのだ。
「貴方、こんなところで何をしているかしら? 女の一人旅とは感心しないわね」
そんな時だと、ふと背後から少女に声をかけられる。
振り返ると金髪ツインドリルの少女、その凛々しい顔付きを見るだけで私は理解する。彼女の名前まではわからない、でも彼女が何者かは簡単に理解できた。これもまた天の導きか、それとも運命の悪戯か。まあ私の旅の行く末に、このような贈り物をしてくれた運命に感謝しようと思った。
私は少女に向き直ると両手を重ねて、深々と頭を下げる。
「私の名は戯志才、真名は闌。此処で会ったのもなにかの縁、私が死ぬまでの間、少し話に付き合ってくれませんか?
少女には護衛が二人いた。
二人が共に血塗れの私を見て驚いたが、ツインドリルの少女だけは私が真名を名乗ったことに驚いていた。護衛の二人は少女の前に歩み出ようとしたが、少女は片手を上げただけで二人を制止する。その姿から三人は互いに互いを信頼し合っているんだなってことがわかり、また護衛二人が私に対する警戒を解いていないことから少女のことを心から想っているんだと察する。
その三人の姿を見て、ほんの少しだけ温かい気持ちになれた。
「……私が貴方と語り合う理由がないわ、こう見えても忙しい身で時間が惜しいのよ」
そう冷たく告げたのは真ん中の少女、しかし私には彼女が私に対して少なからずの興味を持ったことを理解している。
「その時間に見合うだけの価値があると思いますよ。私が語るということは、それだけで価値があることなのです」
自信たっぷりの笑顔を浮かべながら飄々と告げてやると、彼女はじっと私のことを見つめ返した。
「……いいわ、付き合ってあげる。時間を費やすだけの価値があるなら貴方の話に耳を傾けてあげる、でも価値がないと私が判断した時は短い命を更に短くする嵌めになるわよ?」
「華琳様、この者は感染症を患っている可能性があります」と戒める護衛を華琳と呼ばれた少女が制止する。
彼女がこういう性分を持っていることは一目見た時からわかっていた。彼女は人を求めている。そして彼女が見ているのは家柄だけではなく、家柄も含めた才覚を見抜こうとしていた。
だから、こういった提案をすれば、きっと彼女は話に乗ってくると思っていた。
「それで構いません。とりあえずは次の街まで、そして気に入って頂ければ、また次の街まで……私の命が持つまでお付き合いください」
「ええ、存分に語り聞かせてみなさい」
他者を威圧する存在感を保ったまま、少女はとても優しい声で話を促した。
どれだけ私は話を続けていたのだろうか。
昼が過ぎて、夜になって、翌日、翌々日と過ぎ去り、そして今日もまた彼女と語り合う日々を送っている。清潔な部屋を与えられた私は十人以上の医者に体を弄られて、そして苦い薬を飲まされながら今日も今日とて生き長らえる。
私一人の命のためにどれだけの金銭が動いているのだろうか、想像することもできない。
「貴方が死ぬまで貴方の話に耳を傾けると言ったわ、それに貴方は承諾した。だから貴方は私の傍に居続けて語り続けなさい」
あと持って一年と言われた命は、今や三年に長引いていた。
私の命の果ては何処になるのか――でもまあ生きられるに越したことはない。
何故なら、まだ私は生きていたいのだ。
「ではそうですね、今日は何を話しましょうか……」
生きる。そのためならば、この肉体、精神、魂魄までも捧げることになろうとも躊躇しない。