近頃、中原がきな臭くなったように感じられる。
なんでも黄色の頭巾を被った賊が、略奪、陵辱、と思いのままに大陸全土にある街を襲っているようだ。それも元を正せば度重なる災害で食うに食っていけなくなった民草が泣く泣く土地を手放して賊徒へと成り下がったしまった者ばかり――だからといって、賊徒に成り果て他者を襲う者達に同情するつもりもないが、災害が発生した時に領主達がもっと迅速に対応ができていればとも思いもする。
事実、曹操は迅速な対応で被害を最小限に抑えており、逆に袁術は初動が遅れたせいで多くの難民を生み出してしまった。話を聞く限り、災害時の袁術軍は指揮系統が混乱しており、現地の有志が各自で対応に当たっていたんだとか――他はまあ及第点といった対応であったが、決して少ないとはいえない数の難民を生み出している。
その時から不穏な気配が少しずつ大陸全土を覆い隠すようになって、そして気づいた時には「世の中が荒れている」と肌身に感じるようになっていた。
黄巾族は日増しに勢力を大きくしており、遂に漢王朝では討伐隊の発足が決定される。
此処は中原から遠く離れた揚州丹陽郡にある建業、
中原と比べると災害の被害は小さかったが、中原で起きる混乱とは無関係ではいられなかった。
その建業を纏めているのは孫堅、漢王朝の官僚である彼女は黄巾族討伐のための派兵が義務付けられており、そのために五千の兵を率いて中原に入ることが決定されている。揚州は異民族と接する土地、中原の混乱を聞きつけた異民族が活発な動きを見せ始めているため多くの兵を動員することはできなかった。
さて派遣軍を率いるのは孫堅、そこに程普、黄蓋、韓当の三老将が補佐に就くことは決定されている。そして建業の守護には孫堅の娘である孫策と周瑜、張昭の三名が孫堅の代行として選ばれている。派遣軍の方には更に数名の武将が付けられるそうだが詳細はまだ知らない、でも少なくとも私が選ばれることはないと思っている。
私の名前は孫匡、字は季佐。真名は
母の名を受け継いでおきながら、その武勇を受け継ぐことができなかった臆病者である。姉である孫策こと
それに比べると私は、やっぱり軟弱者だ。
私は剣を磨くよりも花を愛でる方が好きだ。勇猛で痛快な曲よりも繊細で穏やかな曲の方が好みで、夜は肉料理を肴に酒を飲むよりも満月を肴に杯を傾ける方が楽しかった。号令を出すよりも詩を口遊み、虎よりも猫を好む、そんな感性を持つ私は周りから理解されても同意を得られることは少ない。唯一、蓮華だけは少なからず私の感性に触れることができたが、それでもやはり賑やかで楽しい宴の方が好みだということが分かる。
私は一人だった。孫堅の娘であったから孤独ではなかったが、私は一人だった。
晴天、外は青空が広がっている。
世の中では「中黄太乙」と声高に叫ばれていると、この澄みきった青空が黄色に染まることはありえないと思うのだ。
気持ちいい風が吹き抜ける、ふと城壁まで来たことに大した意味はない。ただ風が気持ちよさそうだったから、そして実際に来てみると気分が良かった。澄み切った風が私の心に渦巻く邪念を吹き飛ばすように私の体をすり抜ける。
今、大陸は動乱の予兆を見せているというのに、地平の先まで見える自然はどうしてこうも美しいのだろうか。
何処までも、遠く果てまで、呆れ返るほどに穏やかだ。
「火蓮、こんなところで護衛も付けずに何をしている?」
ふと振り返ると私の姉である孫権、蓮華が心配するように私を見つめていた。
「うん、ごめんね」
私が謝ると蓮華は溜息を零して「性格はまるで違うのに、勝手に歩き回るところは姉様にそっくりね」と零した。悪態だと分かっているのに雪華と似ていると言われたことが嬉しくて、はにかむと「褒めてないわよ」と蓮華は不満そうに眉を顰める。
「姉様とは違って貴方は強くないのだから一人で歩き回らないで、何処に刺客が潜んでいるのかわからないわ」
「これでも人並み程度には戦えるよ?」
「兵卒一人倒せるかどうかの腕前じゃない、その程度で威張らないで」
ごもっとも、と私は肩を竦める。
孫家基準でいえば、一人で兵卒十人程度を相手にできてやっと一人前だ。武勇に優れていないとされる蓮華であっても、それぐらいのことは簡単にやってのける。そして末娘の孫尚香こと
……姉の蓮華はともかく妹の小蓮が三老将から真名を預けられるのは少し屈辱だった。
「そういえば中原への派遣軍、随伴するのは私か貴方かっていう話だったわね」
その話は覚えている、そして将来を期待されている蓮華が選ばれることは分かりきっていた。
私は戦場で役に立たない。蓮華は軍事から政治にまで通じており、あと足りないのは経験だけと言われている。
ならば、此度の中原への派兵は蓮華に経験を積ませる絶好の機会であり、私の随伴はありえなかった。
「あれね。火蓮、貴方に決まったわよ」
思わず、顔を上げた。信じられずに蓮華の顔を見つめる。
「……私は此処で政治のお勉強、
そういうと彼女はまた小さく息を吐いて、そして私に向けて笑みを浮かべてみせる。
「母様が貴方を連れて行くことにはきっと意味があるわ。もしかすると軍師の才能でも見抜かれちゃったのかしら?」
「……そんなのはないと思うけどね」
「とにかく選ばれたのは貴方なのよ。私の代わりに行くのだから、しっかりなさい」
そう言われて、蓮華に背中を強く叩かれる。思わず噎せてしまうと蓮華が呆れたように苦笑する。
「あと貴方にも側近が付けられることになったわよ」
「側近って、蓮華姉様の周泰みたいな?」
「ええ、そうよ。近いうちに顔合わせに来ると聞いているわ」
それじゃ、と要件を伝えるだけ伝えた蓮華は何処かへと去っていった。
空は相変わらずの青空で、今も心地よい風は吹いている。取り残された私は暫く穏やかに時間が過ぎるのを城壁で堪能する。
世の中は動いている。私がどうしようが関係なしに、時は無情で理不尽に刻み続けている。
どうやら世界は私に立ち止まることを許してくれないようだ。
その翌日、
母炎蓮の手引きで側近との顔合わせをすることになった。
こういうことは早い方が良い、という母様の方針で急遽決まったことで心の準備をしていなかった私は少なからず動揺している。
今まで側近というものに縁がなく、どのように扱えば良いのかわからない。自分なんかが主人で大丈夫だろうか、やっぱりがっかりしているだろうか。不安が胸に込み上がる中、母様に連れられた見知らぬ顔の女性が私の前に姿を表した。
その者は鋭い目付きをした女性であり、如何にも武人然とした雰囲気を出していた。
「名は呂蒙、字は子明! 真名は
側近というよりも護衛だろうか、武人肌の彼女を前に苦笑する。
ふと空を見上げると真昼間だというのに流れ星が翔け抜けた、天を割るように飛んでいった流れ星に母様は「お前達の出会いを祝福しているのかもしれないな」と豪快に笑ってみせる。
その一方で私は彼女と上手くやっていける気がしないな、とそんなことを思うのだった。