茶々丸に見送られ、彩芽は再びイギリスの地を踏む。
夏休み前、列車から日本に帰った方法と同じ転移の術。
日本へ帰れば周囲から気を補い放題だが、こちらでは地道な休息が必要だ。
もっとも、日本で力を蓄えたおかげで、この大技を使ったからといって倒れる事はないが。
やや重くなった体で、彩芽は店の戸を開ける。
『漏れ鍋』と書かれた看板。
中は早朝という事もあってか、客の姿は見えない。
「おや、こんな早くにどなたかな?」
店の奥から現れたのは、この店の主人の様だった。
彩芽は首に氷炎を巻き、荷物を押しながら近づいて、尋ねた。
「ここに泊まりたいのだけれど、空きはあるかしら」
ダイアゴン横丁はイギリス魔法界の情報を集めるにはもってこいの場所だと言える。
彩芽はホグワーツが始まるまでの期間を、漏れ鍋を拠点に情報収集に徹すると決めていた。
まだ新学期まで間があるためか、空きは結構あるようで、彩芽はすんなりと漏れ鍋に泊まる事が出来た。
「うへぇ、やっぱ慣れねぇ……」
部屋に入り、店主のトムが去った後、氷炎がベッドにぐったりと横たわる。
「何でこう、あっちにもこっちにも妙な気配ばっかなんだよ」
「そうね、日本にいるより疲れるのは、単に気の流れが悪いだけじゃなくて、この気配のせいもあるのかもしれないわね」
荷物を解きながら、彩芽が氷炎に話しかける。
「去年も思ったけれど、魔法使いは気配には鈍感の様だから、こんな妙な空間でも平気なんでしょうね」
「だよなー、本当あいつら鈍感もいいとこだよなー」
ため息を吐いて、氷炎は目を閉じる。
さっきこっちに着いたばかりだというのに、もう日本に帰りたくてたまらない。
彩芽はそんな氷炎の様子を察して苦笑する。
「もし、何もかも全部片付いたら、富士山に連れて行ってあげるわ。日の出が見たいのでしょう?」
「別に見たいわけじゃねえけど」
1年前に交わした会話を思い出し、氷炎は彩芽を見た。
死を覚悟していたが、彩芽が失敗した事でこうして生き延びた。
それを喜ぶべきかどうか、氷炎には分からない。
だが、恐らくこれで良かったのだろう。
もっとも、『ヴォルデモート卿を殺す』という主人の目標からは遠のいてしまったが。
「ま、連れてってくれるっつーなら断る事もないか。そん時は茶々丸も連れてってやろうぜ」
彩芽は頷いた。
全て片付いたら。
――そのためにも、やるべき事をやっておかないといけない。
翌朝から彩芽は、ダイアゴン横丁の散策を始めた。
9月1日までかなりの期間がある。
何をするにしても、時間はあり余っていた。
漏れ鍋のパブには毎日色々な人たちが集まっている。
パブの隅っこに座っているだけで、魔法界の噂や政界に詳しくなれるのだ。
毎日誰かが、今の魔法省についての愚痴を口にし、その日の新聞で一番気になった記事について話し、週刊誌の話題に触れ、そして雑談に花を咲かせる。
会話の中にはちょこちょことホグワーツの事も上がった。
今年うちの息子がホグワーツに入学するんですよ、と誰かが言えば、うちの息子はハッフルパフの4年生だと自慢が始まる。
話を聞くだけでも、ホグワーツの情報は色々と聞けた。
ダンブルドアは保護者からの信頼が厚いとか、ホグワーツの校医はかなりの腕利きで、生徒がやらかした複雑な呪文による怪我を適切に処置するとか。
そのうちに思い出話が始まり、自分が在籍していた時はこんな無茶をしたという一種の自慢話や、あの時OWL(ふくろう)試験にもっと力を入れて取り組めば、自分は今ごろ……という後悔話、そして、漆黒の魔女の名前が口に上がる。
漆黒の魔女、と呼ばれるその女子生徒はグリフィンドール生だった。
当時、悪戯仕掛人と呼ばれる悪ガキ集団も知名度が高かったようだが、この魔女の破天荒さには敵わない、と皆が言う。
話によれば、彼女はホグワーツ城をピンクに染め上げ、湖の大イカの足を一本ゲソ焼きにして食し、クィディッチでは素手でブラッジャーを投げ返し、大広間のクリスマスツリーをドミノ倒しで倒壊させ、ハロウィンの飾りの数百というかぼちゃを爆弾に魔改造し、禁じられた森の奥に別荘を建てたらしい。
補正のかかった思い出話、尾ひれも付いていることだろうと彩芽は思うが、それにしてもとんでもない人物の様だ。
彩芽は午前中、泊り客や朝食を食べに来た人達の会話を聞いた後、早めの昼食をとって横丁に繰り出す。
色々な店を見て回り、夕方早めに宿に帰って夕食をとる。
その後、しばらく周りの会話に耳を澄ませてお茶を飲み、そして部屋に戻って寝る。
それがここ数日の彩芽の一日だった。
その日も、グリンゴッツ銀行の側の道から、ノクターン横丁という後ろ暗い横丁に行ける、という情報を仕入れた後、彩芽はダイアゴン横丁を歩いていた。
日本と西洋の魔法使いは、呼び名も違えば使う道具も全く違う。
石畳の続く道に、ずらりと並ぶ見慣れない店。
それを一軒一軒見て回る。
初めて目にするそれらは、とても興味深かった。
東洋人というのは珍しいのか、彩芽に声をかけてくる人も多い。
「気に入ったのがあったかい?良かったら、説明しようか?」
とあるお店で、繊細なガラス細工の馬に目を止めた彩芽にそう声をかけてきた店主も、そういう一人の様だった。
見上げた彩芽に笑顔を向け、人の良さそうな店主はその馬を手に取る。
そして彩芽が見やすいように目の高さまで下ろしてくれた。
店主の掌で、ガラスの馬はぶるぶるっと首を振り、何度か足踏みしてみせた。
棚に並んでいる時は気付かなかったが、馬の額には透き通った角が生えている。
馬ではなく一角獣……ユニコーンだという事に彩芽は気付いた。
「……綺麗」
素直な感想が漏れる。
ガラス細工だと思ったが、材質もガラスではないようだ。
これは恐らく……。
「水晶を削って造ったユニコーンだよ。棚や机なんかに飾るんだ」
店主の言葉に彩芽は頷く。
「げぇー、置き物が勝手に動くとか、日本じゃ呪われてる認定されちまうのにこっちじゃそれが普通なのかよ」
彩芽の首元で氷炎が嫌そうな声を出す。
確かに、髪の伸びる日本人形や、笑いだすひょっとこのお面。
夜な夜なネジも巻いていないのに徘徊するからくり人形等あまり良いイメージはない。
もっとも本当に呪われている場合もあるが、付喪神がついた場合もあるので、一概には言い切れないが。
「水晶なら、高いわね」
「うーん、そうだね……誕生日のプレゼントにでも強請ってみたらどうかな?」
その言葉に彩芽は首を振る。
「自分で買うわ」
氷炎は驚いて彩芽を尻尾で叩いた。
「この気味悪いの買うつもりかよ!」
「予算次第」
「予算って、金貨なら腐りそうなほどあったじゃん」
氷炎が呆れたように言うが、彩芽はそういう問題ではないと嗜める。
店主が提示した金額は、残念な事に彩芽の思う予算をオーバーしていた。
少し肩を落とした彩芽に、店主がううんと唸る。
「もしも、本当に買う気があるならだけど……取り置きしておこうか?お小遣い貯めて、また買いに来たらどうかな?」
彩芽は店主を見上げた。
店主は苦笑して、彩芽に手を出すように言う。
差し出した掌にユニコーンの置き物を乗せ、店主は笑った。
「もしかして、君のお母さんはナデシコという名前じゃないかい?」
問われて、彩芽はゆっくりと瞬きをした後、頷いた。
「ああ、やっぱり!その鞄、どこかで見たと思っていたんだよ」
店主が指したのは、肩から斜め掛けにするポーチだ。
派手な見た目なので彩芽はあまり気に入っていないのだが、最低限の持ち物を入れるには丁度いい大きさだったのだ。
色は赤で、金糸の縁取り。
フクロウのピンバッチがついている。
「僕は昔、ナデシコさんにお世話になってね」
嬉しそうに店主は笑った。
「もっともナデシコさんの方は、僕の事なんて覚えていないだろうけどね」
「おい、こいつの思い出話を長々聞く気はないぞ」
氷炎が構えるが、店主はそんな気はなかったらしくあっさりと話を断ち切る。
「君さえよかったら、いつでも来てよ。このユニコーンはずっと置いておくから」
「なら、いっそタダでくれよケチ」
呟く氷炎を軽く叩き、彩芽は頭を下げた。
ホグワーツにいた時よりも、時間の進みが早いように彩芽は感じていた。
ついこの間8月になったばかりだと思ったが、気付けばすでに1週間が過ぎている。
ダイアゴン横丁を散策するのも飽きてしまって、彩芽は何日か前から漏れ鍋で本ばかり読んでいた。
祖母、葛葉の手記。
かつてイギリスに単身渡った際の、日記のようなそれに、彩芽は驚きの連続だった。
葛葉がまだ19才の時の話。
葛葉は周りの考えなど気にせず、自由に動き回っていた。
陰陽師とは違う他の流派から教えを受けたり、独自に陰陽術と融合させたり、外国の文化や風習、西洋魔法に興味を持ったり。
今以上に風習に囚われた一族の中で、葛葉は完全に変人扱いだった事だろう。
けれども、葛葉にある陰陽師の才能は確かに大きく、手放すには惜しい。
そんな思惑の中、葛葉は誰にも何も告げず、ある日突然イギリスに渡るのだ。
正直、ぶっ飛びすぎている。
頭の固い親戚一同が頭を抱える姿が、ありありと想像できた。
ほんの少し同情の念さえ覚える。
もっとも、撫子の才能は認めながらもその人格を認めない親族達は、葛葉に結婚を迫っていたようなので、仕方がないといえば仕方がないのかもしれない。
無事にイギリスに到着するまでの経緯もなかなかに面白かったが、その後、イギリス魔法界に足を踏み入れた葛葉の描写に、彩芽はハッとした。
『その男は、私を魔法使いたちの集まる場所に案内すると行って、小さなパブへと連れ込んだ。何かされたらその時は、その髭を剃り落してくれると思ったが、男は店の主人に軽く挨拶をすると、そのまま裏戸から庭へと出た。どういうことかと訝しむ私に、男は笑みを浮かべ、懐から木の枝を取り出した。それが杖だと、私はすぐさま分かって身構えていたのだが……男はその杖を何の事はないレンガに向けた。ぶつぶつと呟き、カツカツとレンガを叩く。それには法則性があるように思えたが、その後に起こった出来事に、その順番など頭から消し飛んだ。レンガが勝手に動き、瞬く間にレンガ塀に入り口が現れる。その向こうには賑やかな通りが広がっていた』
――ダイアゴン横丁。
間違いないだろう。
葛葉はその後、男の世話になるのだが、この男がどう考えても……。
「あの食えないジジイだよな、どう考えても」
「おばあ様がアル、と呼ぶ若々しい老人……髭が長い変人魔法使い。甘いものが好き」
「あの爺さん、今いくつだよ?」
氷炎に軽く「さあ」と答え、彩芽はその後を読み進める。
アルことアルバス・ダンブルドアに連れられ、葛葉は何度もこの横丁を訪れていたようだ。
道でぶつかった高慢ちきな貴族様と乱闘になった件を読み終えて、彩芽は一旦本を閉じた。
「そういえば知ってるか?この間、ボージン・アンド・バークスへ行ったんだが……」
斜め前の席に座った男が、連れに話すのが聞こえ、彩芽は自然と耳をそばだてた。
「ボージン・アンド・バークスっつったら、あのノクターン横丁のか?一体何だってそんなとこへ」
「そりゃあ、言えねぇや。でも表に出せねぇもんを売ったり買ったりするなら、あの店が一番よ」
「つーことは、やっぱ後ろ暗い理由なんだな?」
「へへへ、まあそこは突っ込むなって」
誤魔化す様に笑った後、男は店で見た『輝きの手』という道具について話す。
内容はどうという事のない話だったが、彩芽は興味を持った。
ノクターン横丁は、グリンゴッツ銀行の側の脇道から行くことのできる横丁だと、ここに来て数日目に聞いたことがあった。
ダイアゴン横丁が表通りだとしたら、ノクターン横丁は裏通り。
治安の不安はあるが、その分ダイアゴン横丁よりも面白いものが見られるかもしれない。
彩芽は席を立つ。
「行くのか?」
諦めの混じった声で、氷炎が聞いた。
「行くわ。おばあ様の手記にもノクターン横丁らしき描写があった」
頷いて、彩芽は手記を部屋に置きに行き、宿を出た。