□
遠くで声が聞こえる。ただの声ではない。
これは、誰かの叫びだ。
声が聞こえる方を見やると、そこには何もなかった。ただ、闇が広がっているだけ。どんな色も飲み込んでしまうその黒は、あまりにも美しく、雪重にとってどこか心惹かれるものであった。
闇に近づく度に、視界は真っ黒に覆われていく。そして、誰かの叫びもはっきりと聞こえてくる。
――く、来るな! やめろ!
聞き覚えのある声だった。叫びと共に、刀がぶつかり合うような、金属音も少しずつ響き始める。
――や、やめてくれ、駄目だ、助けてくれ! 助けて……。
「……ああ、そうか。これは」
伯父の声だ、と雪重はようやく理解した。途端に、闇が消え失せる。次に目に飛び込んできたのは、あの紅色に染まった戦場だった。血生臭い臭いと、蒸し暑い空気が一帯に広がり、辺りで鍔迫り合いの音が鳴り響く。伯父だけではない、多くの人々の悲鳴や叫びが聞こえる。
雪重は何をするというわけでもなく、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
すると、目の前で影が人の形を成し、伯父の姿となった。伯父は必死に雪重の足元に縋り付きながら、怯える童の様な顔をして、訴えかけてくる。地面に横たわる伯母の事など目もくれず、ただ己の身の安全だけを求める浅ましい男である。その背後から、盗賊がゆっくりと刀を振り上げるのが見えた。
どうという事もない。この光景を見るのは、彼にとってもう幾度目かの事なのだから。
眼前で、伯父が斬られる。苦しみ悶えながら、地面に崩れ落ちていく。その背中から溢れ出る鮮血を見て、雪重は初めて伯父が普通の“人間”であるという事を知り、何故か安堵するものだった。
また、世界が暗転し始めた。
「――重。雪重!」
耳元で名を呼ばれ、雪重はようやく意識を取り戻した。重たい瞼を開いてみると、木造の高い天井がまず目に入った。そして、心地の良い畳の香りが鼻に入ってくる。焼ける臭いと蒸し暑さのあるあの戦場ではない。ここはただの屋敷であると、改めて実感した。
ぼんやりとそのまま天井を見つめていると、不意にその視界に黒い影が入り込んで来る。
艶のある長い髪を後ろで結んでいるその男は、雪重の目覚めを確認し、溜め息を漏らした。
「いついかなる時も眠る事が出来るのですね、貴方は」
「……光秀殿。もしかして、俺を探しに?」
「お察しの通りです。信長様がお呼びになっています、共に行きましょう」
信長、という名を聞いて雪重は勢い良く起き上がった。急いで身なりを整えるが、その後ろで長髪の男――光秀が、また溜め息をついたのが聞こえた。
「雪重……身なりは勿論ですが、まずはその逆立った髪の毛を整えていらしてはどうですか」
「え? ……おっと、これは」
触れただけでも、本来の髪型とは程遠い状態になっている事を雪重は察した。さてどうしたものかと髪の毛を手櫛でなんとかしようとしていると、見かねた光秀が後ろから櫛を使い、整えるのを手助けしてくれた。
まだ若い雪重だが、元服を終えた身。気恥ずかしさからか、照れたように笑みを零したのだった。
信長の元には、既に他の家臣達が集っていた。最後に来たのは、雪重と光秀である。
部屋に着くなり、雪重はその場で座り込み、深々と頭を下げた。
「遅くなりまして申し訳御座いません、信長様。この遅参については俺に全て責任があり、光秀殿は俺の所為で巻き添えとなっただけです。どうか、罰は俺にだけお与え下さい」
家臣達の視線が、雪重に集中する。その痛いほどの数多の視線を感じながらも、雪重が最も気にしていたのは、勿論、信長の様子であった。
上座にてその様子を眺めていた黒い鎧の男――織田信長は、怒った様子もなく、かといって何かを言うわけではなく、じっと雪重の様子を見据えていた。
暫しの間、沈黙が流れる。どこか余裕があるように見える雪重すら、冷や汗をかいているようだった。
「――何ゆえ遅参した、か……雪重」
信長が口を開く。ここで嘘をついたところで、見破られてしまう事など雪重には分かり切っていた。しかし、だからと言って事実を告げれば、それはまた切腹を命じられてもおかしくはない内容である事も自覚していた。
雪重のその様子を見ながら、光秀は内心緊張していた。彼が正直に申せば、下手をすれば彼の身が危ういかもしれぬ事を、光秀もまた考えていたからである。
それほど間が空く事もなく、雪重は意を決したように顔を上げた。その表情は、困ったような笑みで。
「……お恥ずかしながら、一眠りしてしまいました。光秀殿は己が遅れてしまう事も厭わず、俺を起こしてくれた上に、乱れていた髪を整える手助けをしてくださったのです。どうにも、睡魔というのは抗えぬものですね……」
はは、と笑いながら、雪重は困ったように頭を掻いた。その背後で光秀が思わず項垂れてしまう。
沈黙。空気が凍り付いているような、そんな感覚だった。家臣一同の表情が固まっている一方で、雪重は相も変わらずその顔は笑っているようであった。
「……クク、ハハハハ!」
沈黙を破ったのは、信長の笑い声だった。家臣達は驚愕の表情で、信長の方を見やる。
「――夢見は如何様であった、雪重……」
「……いつも通り、同じ悪夢でございます。どうやら、俺の一生背負っていく“業”のようですね」
「クク……左様である、か」
雪重に向ける信長の表情は、どこか穏やかであるように見えた。それを視認し、光秀は安堵の息を小さく漏らす。
「信長様、家臣一同、これにて皆集まりましてございます」
信長の背後でそう声をかけたのは、端正な顔立ちの若者――森蘭丸であった。それを聞くや否や、信長は立ち上がり、家臣達を一瞥した。その場にいた全員が、改めてその場で深く頭を下げる。
「――これより数日後、虎狩りを行う。長篠の地にて、武田の全てを根から絶やせ!」