泰平への思い -藤色の章-   作:暁紀

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03.長篠にて -鉛の雨

 

 

 ――恐怖。

 武田勝頼は、確かに恐怖を覚えていた。鉄砲などという得体の知れない南蛮からもたらされた恐ろしい兵器は、瞬く間に自軍の兵士を一掃していく。最強と謳われた騎馬軍団ですら成す術などなく、銃声が一斉に鳴るとその直後には馬の悲痛な嘶きが至る所で響き渡り、馬上の兵士達は地面に転がり落ちて行った。

 父・武田信玄の武名を後世に語り継ぐ為に、勝頼は必死だった。そして、今こそ好機とばかりに長篠を攻め立てた。しかし、結果はどうであろうか。誰もが、恐れおののいた武田の騎馬隊が、陣形を乱しながら、消えていく。

 ただ呆然とその様を見ている事しか出来なかった勝頼の元に駆けつけたのは、武田軍の将の一人である真田信之であった。

 

「勝頼様、ご無事ですか!」

「信之よ、これを人は、地獄と呼ぶのかも知れぬな」

「勝頼様……」

 

 小さく零したその言葉からは、勝頼の様々な想いが含まれていた。それを察した信之はそれ以上の言葉が思いつかず、しばし閉口してしまう。

 その重々しい空気の中、本陣に武田の兵が駆け込んで来た。

 

「殿! 我々が退路を開きますゆえ、どうかお逃げ下さい! ここで殿が死ぬわけにはゆきませぬ! お任せ下さい、安全な退路を確保してまいります!」

 

 武田の兵達の瞳はまだ戦意を喪失しておらず、燃えているようだった。それが勝頼にとって、いや多くの武田の将にとって救いであった。武田は誰も諦めてなどいないのだ。花と散るが武士であると考えているのはもちろんですが、仮にここで敗北となってしまったとしても、勝頼さえ生きていれば活路はまだ見出せる。そう信じていたのだ。

 

「勝頼様、どうか退却を。我々が背中をお護りいたします」

「……分かった」

 

 武田本陣内がにわかに騒がしくなった。

 

 

 

 三段撃ちは、弾の装填を含めた様々な鉄砲の短所を補うものであった。これによって敵に反撃の隙を与える事もなく攻撃を続けられる。

 合図が上がり、銃声が鳴り響く。敵の悲鳴と、馬の嘶き、崩れ落ちていく音。多くの音がいくつも重なり合っているこの戦場は、未だかつて見た事のない異様な様子を見せていた。

 乱世の戦いに変化が訪れるかもしれない、と織田軍の将の一人・竹中半兵衛が戦の直前、呟いていたのを思い出す。確かに、これまでの戦い方を覆しかねないものであった。奇抜でありながらも、これまでどの軍も苦しんできた騎馬隊を圧倒しているのだから。

 

「(しかし、これはあまりにも……)」

 

 惨い、と光秀の口から思わず言葉が零れてしまう。この光景を目の当たりにして、彼は恐れと、そして罪悪感のようなものを覚えていた。これほどの残虐な行いをしている主君・織田信長に対する恐れ。そして、「戦なき地平の為」と、それを見て見ぬ振りをしてこうしてこの場に織田軍として立っている事の罪悪感である。

 しかし、そんな事を考えたところで無意味だ。それこそ、主君に反逆する意志がなければ。

 

「光秀」

 

 不意に後ろから声がかかり、振り返ると、そこには信長が立っていた。

 光秀はすぐに頭を下げる。

 

「はっ。どのような御用で」

「この戦況、うぬはどう見る」

「……我ら織田の圧倒的な優勢。武田勝頼公が退却するのも時間の問題かと」

「ならば光秀よ、これよりどうすべきかは明白であるな……」

「は……?」

 

 信長は不気味に口角を上げていた。光秀はぞっと体が震える。

 この圧倒的な戦力差は、充分に武田軍の士気を落としていた。このまま退却を許したとしても、武田軍に甚大な被害が出ている以上、これまでと同等の戦力を持つ事は難しいと思える。再起を図るにも、それまでの間に織田が天下を取れば良い。

 これ以上、何をするというのか。信長の黒々とした双眸は、その深奥が見えず恐怖さえ生まれるものだった。

 

「――絶やせ」

 

 その一言は、光秀が最も恐れていたものであった。この御方ならば、もしかすればそう言うかもしれない。そう予想していながらも、この場ではっきりと口にされた事により、恐れが明確になってしまった。

 心臓が激しく脈打つのが分かった。武田を、根絶やしにする。それはかつての桶狭間の様に、小谷の様に、比叡山の様に。全ては天下を統一せんが為の事。しかしいつの頃からか、光秀の中で信長のその強さへの想いは陶酔から恐怖へと変わりつつあった。

 その光秀の様子を見て、信長は何を思ったか可笑しそうに笑いながら、口を開く。

 

「惑うか、光秀……許す。――雪重をここへ」

「……はっ」

 

 光秀は、雪重を信長の元へと連れてきた。

 元来は明るい青年である筈の雪重だが、どこかその瞳には暗い影を落としていた。戦場に入った時の彼はいつもこのような状態である。いつものような気の抜けた欠伸などは決してしない。ただ黙って、信長をじっと見据えていた。

 そんな彼を見て、光秀は改めてこの若者の異様さを感じていた。彼は初陣であった小谷での戦いの時から何も変わっていない。戦に出るという事も、人を斬る事も、何にも恐れを感じていないのだ。ただ淡々と、そこに在るだけ。

 

「雪重、武田勝頼の退路を絶て。そして全てを……滅せ」

 

 ただ言葉短くそれだけ伝える。しかし、織田にいる者であればそれだけで何を示すかは理解できるものであった。

 

「……信長様の命なれば、御意のままに」

 

 雪重は深々と頭を下げ、踵を返し、その場を後にする。

 その後ろ姿を見守っていた光秀の元に近づいてきたのは、麗しい女性――信長の妹君であるお市であった。

 

「光秀、何か不安でも?」

「いえ……ただ、彼の在り方がとても不安定に思えて。あの齢にして、不釣合いな在り方が」

 

 人間らしいようで、どこか欠落している。そんな印象を、光秀は雪重に抱いていた。

 あの日、姉川の戦で勝利し、帰還するその道すがら、信長は血まみれで佇む幼い雪重を見つけた。今にして思えばあの出会いは、偶然であるとは到底考えられないものであった。

 彼の傍には多くの死体があった。それは百姓であったり武家のものであったり様々であるが、信じられないのは、盗賊の死体もあったという事である。

 事が終わった戦場に盗賊が徘徊するのは珍しい話ではない。しかし、その盗賊も含めた死体の中で、たった一人、雪重だけが生き残っていた。右手に短刀を握り締めて。

 その光景は異常なものであった。けれど、雪重は年相応に涙を流すわけでもなく、感情を露わにするわけでもなく、ただ虚ろな目をして、信長を見上げていたのを覚えている。

 

「そうですね……雪重は、どこか在り方が不安定なのかもしれません。でも、だからこそお兄様が何かを見出したのでしょうね」

 

 そう言ったお市の横顔は、どこか切なげに見えた。小谷の戦いからそれほど経っていない事もあるだろう。かつて一度は織田と敵対した身であり、彼女にとって、信長や光秀だけではなく雪重も憎しみを抱いても仕方ない相手である。けれど、お市はこうして長篠の地にも赴き、そして、雪重についても気にかけている。なんと強い女性だろうか、と光秀は思った。

 日が少しずつ傾いている。長篠の戦も、終局へと向かいつつあった。

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