泰平への思い -藤色の章-   作:暁紀

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04.長篠にて -藤の修羅

 

 

 勝頼の退路を遮るように立っていたのは、一人の若武者だった。まだ元服も終えたばかりのような、どこか幼さの残る少年である。

 

「織田軍はこんな若いのまで引っ張り出されているのか」

 

 初めは、兵士達は皆同じように彼の身を少しばかり案じた。だが、次第にその若武者に対して、言い知れぬ何かを感じ始める。

 珍しい藤色の双眸には少年らしい光などなく、ただ真っ直ぐ武田の将兵達を見据えていた。

 相手はまだ初陣を経たばかりかもしれない相手。しかし、主君を逃がす為に、いかなる敵であろうとも容赦する事は出来ない。武田の兵達は、一斉に刀を構えた。

 

「そこな若造よ。悪い事は言わない、ここで退けば追いはせん。今は生き延びる事のみを考えよ。無理に人を斬らずとも、戦勲などいくらでも手に入れる方法はあるぞ」

 

 それは、武田の将なりの気遣いだったのだろう。初陣に近いこの若武者に、無駄に戦いを挑んで死ぬのは惜しい事だと説いているのだろう。勝頼の退路を確保するためにも、どうしても若武者との対峙が必須。しかし、出来るならばそれを避けたいというのが彼の思いだった。

 だが、若武者――雪重はその言葉にすら一切表情を変える事はなかった。決してそこを動くような気配が見られず、少しの変化も見せないそれがだんだんと不気味なように思えて、武田の将らには彼が人外であるかのようにも見えてくる。

 

「……ご忠告、どうも。けれど、信長様の命に背くぐらいなら――切腹した方がまだ良い」

 

 腰に提げた刀に手を置き、ぐっと膝を折って抜刀の構えを見せる。

 相手は一人。武田の将兵らは、鉄砲隊によって被害は受けているとはいえ、今この場には少なくとも十数人はいる。この場においてのみならば、数の利は武田にあった。しかし、何故か彼らには拭い切れない、言いようのない不安があった。

 それぞれが刀を抜き、じりじりと間合いを詰める。戦の最中であるというのに、この場だけは異様なほどの静寂に包まれていた。誰かの息遣いさえ聞こえるほどに。

 先手を取ったのは、雪重だった。地面を抉るほどに勢いをつけ右足で踏み込んだ雪重は、低い姿勢を変えず、一気に一人の将の足元まで間合いを詰める。

 

「(は、速い……!?)」

 

 迷いのない大胆な接近に一瞬間だけ武田の将は動揺し、刀を振り遅れた。その一瞬を雪重は見逃さない。

 彼が改めて刀を振り下ろすよりも先に、雪重の抜刀は鎧の僅かな隙間からその右腕を切り落とし、そしてその刀を逆手に持ち替え、迷う事なく武田の将の首元を掻き斬った。腕の接続部、そして首から血飛沫が上がる。己の死を理解出来ていないような、驚愕の色を顔に浮かべたまま一人の武士が絶命し、地面に崩れ落ちた。構えていたはずの他の武田の兵達は、何が起きたか分からず、思わずその場で固まってしまう。

 間髪入れず雪重は腰に差していた短刀を振りかぶったかと思うと、直後、一人の兵に目掛けて投擲した。突然の事に短刀を弾き飛ばす事が精一杯だった武田兵だったが、その次の瞬間、眼前に雪重が姿を現した。

 体勢を持ち直す間すら与えない。真っ先に首元に刀を押し当て、あっという間に頚動脈部分を斬り込んだ。先と同じように鮮血が噴き出し、武田兵はがくがくと膝を震わせた後すぐに倒れた。

 

「ひ、怯むな! 全員で囲め!」

 

 武田の兵とて負けているままでは許されない。分散させられる前に一気に斬りかかればまだ勝機はあるかもしれない。そう考えたのだ。

 雪重の四方を隙間なく囲む武田兵。四面楚歌の状況でありながら、それでも彼はうろたえる事などなく、ただ静かに状況を判断していた。その若い見目からは想像がつかないほどの冷静沈着さは、ただそこに在るだけで恐怖を助長させるものだった。

 今度こそ、と一斉に刀を振り上げ、突進する。

 雪重は足元に転がっていた死体から刀を取り上げ、両手に刀を構える。最初に斬りかかろうとして来た兵の攻撃を左の刀で地面へと受け流し、その腹部を蹴り飛ばした。勢いよく隣の兵達にぶつかり、何人かの体勢が崩れかける。

 体勢を直す間など与えるわけがない。雪重が右手に握り締めた刀は、体勢の崩れた兵達を次々と撫で斬りにしていく。

 その背後から、別の兵が斬りかかろうとしてきた。雪重はぐるりと身を翻し、右の刀でそれを受け止める。そして、僅かに狼狽えた隙にその兵の顔面に左の刀を突き刺した。

 

「ぎゃあああああ!」

 

 苦痛に顔を歪め、辺りに断末魔が響き渡る。今度はその兵の腰に差した刀を奪い取り、振り返りざまに別の兵の首元に刃を押し当て、身を捻る勢いのまま斬り抜いた。

 またもや陣が崩れかける。しかし、武田兵の一人が雄たけびを上げながら、雪重に単身斬りかかった。その兵の刃は彼の左腕を切り裂いた。

 今が好機、と思ったのも束の間――視界が揺らぐ。足を引っ掛けられたのだと武田兵が気づいたその時にはもう遅かった。

 血を噴き出しているその左手に握った刀で、構わず雪重はその兵の頭ごと首を斬り落としたのだった。

 

 

 一人生き残っていた武田の足軽兵は、足を震わせ、その場に座り込んでしまう。

 顔面や髪の毛にべっとりと彼自身の血と、敵の返り血を付けたまま、雪重は一人その場に立っていた。周りには武田兵の死体が十数とある。

 その中で、顔色を少しも変えないまま、雪重はいたのである。真っ赤な血に塗れながらも、彼の藤色の瞳だけが異様なほどに目立っていた。それはさながら修羅そのものであるようだった。そんな様を見て、武田の足軽兵はようやく織田軍のある噂を思い出す。

 数年前の小谷城での織田、浅井の戦い。初陣であったとある織田軍の若武者が、小谷城に攻め入り、詰所を含め多くの敵将兵をたった一人で斬り抜いたというものだ。敵の大将である浅井長政は信長の妹・お市の方の夫であり、つまりは信長の親類になる。しかし、その者は躊躇などなく、顔色を変える事もなく、信長に敵意を向けた者達は誰であろうと、手当たり次第に殺し、首を刎ねていった。

 それを聞いた時には俄かには信じがたい話であったが、目の前に広がる光景を見て、それが事実の噂であると足軽兵は確信するのだった。

 何の躊躇いもなく多くの者を斬った、修羅さながらの姿。血だまりの中で、一際美しく映えてしまう、藤の花と同じ色の瞳。それを見て、誰かが彼をこう呼び始めた。

 

 ――“藤の修羅”と。

 

 

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