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真田信之は武田勝頼の退路を確保すべく、戦場を駆けていた。そして、そこで初めて、退路に転がる武田兵の死体の山を目の当たりにする。
「これは……」
ぞっとする光景だった。退却路のその先まで、死体が見えている。しかし、敵の姿などどこにも見当たらない。
決して武田兵の数が少なかったという事はない。戦場に多くの人員を割いているとはいえ、それでも勝頼公の退路を確保する為に出来る限りの兵を向かわせた。それは、もしかすれば織田の兵が少数でもいた場合に掃討する為のものであった。
だというのに、その武田兵が逆に一掃されている。何が起きたのか、状況すら掴めない状況にさすがの信之も混乱せずにはいられなかった。
「兄上!」
不意に後ろから声がかかる。振り返ると、そこには赤の鎧に身を包んだ実弟――真田幸村の姿があった。彼もまた勝頼公の撤退の為の時間稼ぎをおこなっていたが、異変に気づいたのか、信之の元まで駆けつけたようであった。
「兄上、これは……一体、何が起きたというのでしょうか……」
「現時点では私にも分からない。しかし、織田の兵が一人もいないというのが奇妙だ。慎重に退路を確認していかねば――?」
信之は退却路の先を一瞥した瞬間、言葉を止めた。不思議に思った幸村も同じ方向を見てみると、そこには一つの黒い影が見えた。
織田軍の者だろうか。右手には血で汚れた刀を持ち、そして左手には武田の兵の首を持っている。虚ろな淡い紫色の瞳が、空をぼんやりと見上げていた。あまりにも歪な光景に、信之と幸村は気味の悪さを感じる。
辺りを見回してみるが、彼以外に人の気配はない。そうなると、必然とこの死体の山はあの若武者が作り上げた事になるが、俄かには信じがたいものであった。
ふと、信之らの気配を察したように、その若武者――雪重は、ゆっくりとそちらを見やる。
「……まだ武田の将がいたか」
雪重は左手に持っていた首を投げ捨て、刀を構えた。
直後、一呼吸置く間もなく、雪重が二人の足元まで一気に間合いを詰めようとした。防御など一切考えていないような、奇襲策。信之はその大胆な先手に思わず武器を構え遅れる。そこを狙ったかのように、雪重は低い体勢のままに信之の首目掛けて斬り上げようとした。
激しい金属音が鳴り響く。雪重の一太刀は、信之の首の寸でのところで受け止められていた。それは、幸村の十文字槍であった。
「幸村!」
「兄上、ここは私にお任せ下さい! 急ぎ勝頼様のところへ!」
「……ああ、任せた!」
信之は身を翻し、勝頼の元へと向かった。それを追いたい雪重であったが、この状況を打破しなければならなかった。
刀で押し返そうとしてみても、幸村の槍はびくともしない。火花を散らしながら、互いの武器がぎりぎりと音を立てながら拮抗しているのが分かった。雪重は、これまでの足軽兵達とは比べ物にならないほどの力を感じた。
幸村の瞳は燃えるような輝きを見せており、武士としての誇りも強さも兼ね備えているように思われる。そうした者と相対するのが初めてであった雪重は、思わず身震いをした。
そして逆に幸村もまた、痩躯でありながら互角に対当している雪重の得体の知れない強さに対して、何か言いようのない高揚感を覚えていた。
「その武勇、敵ながら見事なり。迷いのない一手だった。……もう少し反応が遅れれば、我が兄の身が危うかっただろう」
「……そちらこそ、恐ろしい槍使いだ。一瞬でも気を緩めれば腕を持って行かれそうで、油断出来ない」
次の瞬間、こめかみの辺りに強い衝撃を受け、幸村の視界が揺らいだ。雪重の左手がしなり、彼の顔面を殴り飛ばしたのである。一気に先程までの拮抗が崩れた。雪重はその機を逃さず、槍を勢い良く弾き、そして躊躇う事なく彼の右腕を斬り落としにかかる。
幸村は身を捻りながら、右足で地面を強く踏み込み、体勢をすぐに直した。しかし、彼は雪重の一手を受け止めようとしない。迫る刃を少しも恐れた様子なく、幸村もまた雪重の頭を目掛けて槍を振るった。
「……!」
雪重は途端に動きを止めた。そして構え直し、頭上から襲い来る十文字槍を間一髪のところで弾き返す。
鈍い音が地面を裂いた。幸村の槍は地面を深く抉りこむような形で刺さっていた。後少しでも判断が遅ければ、雪重の頭は二つに割れていてもおかしくないものであった。結果として攻撃を恐れて、先に退いたのは雪重の方である。
間を置かずに幸村の反撃の一手が繰り出された。今度は逆に幸村が間合いへと踏み込み、雪重の眼前へと槍が真っ直ぐに突き出される。
――刀で受け止めるには間に合わない。そして、後ろに退く事など出来ない。刹那の判断だった。雪重は目と鼻の先まで迫り来た槍の切っ先を、直前、紙一重で転がり避けた。そのまま後方へと退き、間合いを空ける。
「(……なんて大胆な)」
雪重は身体を震わせた。眼前に刃が迫ろうと、一矢報いらんとするその姿。幸村の瞳はより一層輝きを増しているように見えた。これが、本来あるべき武士の形なのだろう。死を恐れず、戦い抜くその姿。雪重は、改めて真田幸村という男に対して恐れを抱くと同時に、少しばかり敬意の様な感情を覚えた。
それは幸村とて同じ事であった。雪重はまだ年若い青年であるように見えるというのに気味が悪いほど行動の全てにおいて冷静であり、そしてその時に最も有効な一手を迷う事なく打ち出してくる。それは多くの戦を経た者が行うのは良くある事だ。しかし、彼はそれを既に心得ている。その見目に似つかわしくないほどに。
幸村は改めて雪重を見やる。返り血を浴びている為に分かり辛いが彼の身体には既に多くの傷があり、ぼろぼろであった。けれど、表情に出しさえしない。それは武士らしく死を恐れない、という意味とも違うように感じられた。
「幸村様!」
どこからか声がしたのと同時に、煙を伴いながら、二人の間に少女が現れ出でた。雪重は瞠目しながらも、刀を構えて警戒する。武士でも農民でもない軽装に苦無を手に持つそのいでたちからして、恐らくは忍びの者なのであろうと検討はついた。以前、彼は同軍の大名である徳川家康の忍びを目にした事があったからだ。
その少女――くのいちは雪重を警戒しながらも、慌てた様子で幸村の方を向く。
「そなたか。如何した」
「勝頼様が、織田軍の忍びの奇襲を受けてお怪我を! 信之様の手引きで、別の退路から退却されました! 幸村様も急いでこの場から撤退して下さい!」
「なに、勝頼様が!?」
幸村は動揺しているようであった。くのいちも悔しそうに歯を食いしばっている。
武田の敗北は決したも同然であった。しかし、雪重は信長の命をまだやり終えてはいない。このままでは、主君に対しての示しがつかない。勝頼の首を持って行かなければならないのに。
雪重は再び二人に向けて刀を構えた。すると、幸村は逆に槍を下ろし、首を横に振る。
「武士として戦場で死ぬのが華。……だが、今ばかりは私は勝頼様の身を優先させてもらう。そなたも、早く陣に戻り手当てをすると良い。その傷だらけの身体では、どのみちこれ以上の戦いは無理だ」
「……どうにも武田軍というのは敵の身を案じる者ばかりなんだな」
「ちょいとちょいと! どこの誰だか知らないけど、幸村様が気遣ってくれているって言うのにその態度は――」
くのいちを制止したのは、他でもない幸村だった。むむむ、と犬や猫が不機嫌な時に上げるような唸り声を出している彼女をよそに、幸村は雪重と改めて対峙する。
「――私は、真田幸村と申す。名を聞いても?」
「……静馬、雪重」
「雪重……その名をしかと覚えておこう」
幸村は踵を返し、駆けて行った。くのいちもその後を追おうとして、直前、雪重の方を向いた。そして、舌を出して雪重に敵意を向けているような表情を見せてその場を去って行く。
「……敵の目の前で、背を向けてあっさりと退くなんて……俺が斬らない保障なんてない、のにな……」
雪重は後を追うため走り出そうとしたが、足がもつれその場に倒れ込んでしまう。そしてそのまま意識を失ってしまうのだった。