夏祭りも終わり、次第に夜の時間が比率を増し始めた幻想郷。
稗田家の客間にて、屋敷の所有者である稗田阿求と教師であり賢者でもある上白沢慧音が、机を挟んで対峙している。
「雰囲気としては感じていたが、ここまで酷いとはな」
顔をしかめ、慧音は机に置かれた紙の資料に記載された数字の羅列を指でなぞる。
資料の内容は、年、月の単位で表記された人里内での犯罪件数だ。
「はい。ここ数カ月だけで、すでに前年度の四倍を超えています。これは、明らかな異常事態です」
こちらは眉を下げ、阿求は心底困ったといった様子で重い溜息を吐いた。
窃盗や食い逃げ程度であれば、まだ可愛い方だ。
誘拐、殺人、強姦、重傷者の出る暴力沙汰等、凶悪な犯罪に部類されるものさえ軒並み件数が増加している。
しかも、数値は現在も右肩上がりを続けている。このままでは、人里が過去に例を見ないほどの無法地帯となりかねない。
「昨今では、異変に次ぐ異変のせいで安定しない情勢に不安を感じたり、自棄を起こしたりする人間も増加傾向にありますが……」
「だとしても、それだけでここまで治安が悪化するとは到底思えん」
「えぇ。何者かによる、作為的な事象である事は確実でしょうね」
人里でも、人外の脅威はあった。凶悪な犯罪もあったし、異変の余波を受ける事もあった。
しかし、それはとても間遠な間隔で起こる、人間たちにとっての一大事だったはずなのだ。
最近では、騒動の頻度は異常の一言でしかない。
妖怪の賢者の庇護がある限り、人里は安全。
その不変だったはずの常識が、人々の間で崩れ始めている。
「紅霧異変、春雪異変、永夜異変、それに加えて人身売買の摘発や猿神騒動など――どれも、人里の外から原因が持ち込まれた事案です」
「不安や恐怖を蔓延させ、人里全体を疑心暗鬼に陥らせるつもりか」
「可能性は否定出来ません。少なくとも、人里に混乱を招こうとしている事は間違いありませんね」
立場としては低いが、人里は幻想郷の存続になくてはならない重要な組織だ。
治安の悪化が人為的なものであるならば、その目的を突き止め対策を講じる必要がある。
「そう言えば。先日、ひったくり犯の男を妖夢さんが捕縛した件は知っていますか? 慧音さん」
「あぁ。確か、天狗の新聞でそんな事が書いてあったな」
「その犯人なんですが、少々妙な証言をしているらしいんです」
「ほう、どんなものだ?」
「曰く、「身体が勝手に動いた」「何故、自分が窃盗をしたのか解らない」だそうです」
「……その犯人が、苦し紛れの妄言を吐いている可能性は?」
「どうでしょう。前科はありますが、その後は大工職人の弟子となり十年以上まっとうに働き続けた、優秀な職人でもあります」
「……」
阿求から差し出された資料に目を通し、窃盗犯の経歴を確認する。
確かに、若い時期に一度暴力沙汰で捕縛された記録はあるが、その後大工職人の下で働き始めてからについては、特に犯罪へと走る兆候は見受けられない
手に職を持ち、借金などもなく、しかも妻帯者。加えて、男の妻は第一子を妊娠中ともある。
普通に考えて、犯罪を犯すには余りに不自然な経歴だ。
「一度、話を聞いた方が良さそうだな。可能だろうか?」
「はい。勿論です」
資料で見て解らない部分は、直接聞いて確かめるしかない。
慧音からの確認に、阿求はお安い御用だと笑顔で頷いた。
「……私では、心許ないか」
すでに後手に回っている以上、解決に時間を掛ける訳にはいかない。借りられる手は、全て借りておくべきだ。
でなければ、手遅れになる。
慧音の呟きには、そんな強い危機感が込められていた。
この場に広がる資料から感じ取れる悪意は、今までにないほど深く――そして、驚くほどに冷淡だ。
まるで、人里という箱庭を玩具感覚でもてあそんでいるような、そんな狂気さえ滲んでいる。
姿の見えない悪に対し、人里の善が動く。
部屋の外では、この先に待ち受ける不穏を示すように、太陽の光を隠す曇天が広がり始めていた。
◇
最近の人里は少々治安の悪化してるなぁ、くらいの感じで居たら世紀末世界へまっしぐら中だったぜ。
ヤバス。
阿求と慧音から人里に呼ばれ、事情を聞いて驚いた。
人里の中で犯罪件数が数倍に膨れ上がり、その中でも凶悪犯罪に類するものがこの数カ月で一気に増加し続けているのだ。
このまま増加が止まらなければ、人里単体での自治も危うい可能性が出て来るほどだそうだ。
そんな中、ひったくりの罪で捕まった犯人が不可思議な証言をしているらしい。
そこで、一緒に取り調べをして魔法的な要素が介在していないか検査して欲しいというのが、今回の阿求たちの依頼だ。
強制的に肉体を操ったり、洗脳して凶行に走らせたり。魔法やその他の手段を使えば、そういった第三者を利用した間接的な犯罪も可能となってしまう。
悲しい事ではあるが、何処の世界であろうと馬鹿と鋏は使いようなのだ。
「皆様。本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます」
依頼人の一人である阿求が、私たちの前で両手を前で組み深く腰を折る。
もう一人の依頼人である慧音は、人里内での情報収集に行っている為別行動だ。
現在、私たちが居るのは人里のはずれにある、罪人を収容しておく為の地下牢の入り口。
集まったメンバーは、私、鈴仙、椛、妖夢。私以外のメンバーは、依頼を受けた後で招集した追加戦力になる。
「勘違いしないで。姫様が退屈してて、面白いネタを集めろって命令されたから来ただけよ」
波長による探知に優れた鈴仙。
「鈴仙さんは、一体誰に言い訳をしているのでしょうか」
同じく、嗅覚と千里眼による探知が得意な椛。
「ふふっ。鈴仙さんは正面からの善意に不慣れなので、照れているんですよ」
「妖夢っ、勝手な事言わないでっ」
鈴仙の手助けをしようと、くっついて来た妖夢。
当然、呼び寄せた全員が自分の上司の許可を得た上で駆け付けてくれている。
妖夢だけ若干事情が違うが、これだけ居れば少なくともなんらかの情報は得られるだろう。
幾つかの掟はあっても、現代社会のように厳格に決められた法律が存在する訳ではないので、人里で行われている罪人への対応はその時々で違って来る。
重い罪を犯した者、更生の余地なしと判断された者は、死罪や追放。更生の余地ありと判断された者は、ある程度の制限を掛けた上で期間付きの強制労働、etc――
そういった対応が決まるまでの間、一時的に収監しておく場所がこの地下牢になる。
今回会う囚人は前科者であり、そしてそのまま強制労働先であった大工に弟子入りした経歴を持つ。
初犯後から真面目に働き、今までまっとうに暮らして来た中での再犯なのだそうだ。
「早速ですが、参りましょう。看守の方々には、すでに話を通してあります」
阿礼の子からの先導を受け、私たちはそれなりに広い階段で地下へ向けて進んでいく。
流石に牢屋だけあって、警備はそれなりに厳重だ。
格子は木製だが、長槍を装備した数名の監視役が常に巡回を行っており、私たちを見て会釈をしながらすれ違っていく。
「あんたらは……おいおい、俺を捕まえた幽霊剣士に阿礼乙女様じゃねぇか。それ以外の連中も、有名どころがずらりと来た」
幾つかの牢を通り過ぎた先に居た本命の囚人であろう男は、酷く憔悴した様子だった。
まぁ、犯罪を犯して捕まっているのだから、楽しい気分になれないのは当然だろう。
「ご存知でしょうが、私は九代目阿礼乙女。稗田阿求と申します」
「ご丁寧にどうも。しかしなんだな。こうして牢屋にぶち込まれなけりゃ、あんたらみたいな雲の上の人たちと話す機会なんてなかっただろうな。ははっ」
軽口を叩いてはいるが、それが空元気である事はこの場の全員が理解している。
「私たちは今、人里内の犯罪の増加について調査を行っています」
言いながら、阿求が袖口から取り出したのは一本の巻物だった。
「貴方の起こした事件について、語っていただけますか?」
「へぇへぇ。つっても、何を言やぁ良いんだろうな」
「では、こちらが質問をしますので回答をお願いします」
「あぁ、その方が助かるぜ」
一緒に入っていた筆の蓋を取り外し、用意されていた小さな丸椅子に腰掛けると、巻物を開いて調書を取る姿勢で牢の中の男へと問い掛ける。
「ではまず、貴方が捕まった理由についてお願いします」
「ひったくりだな。前を歩いてた婆さんの巾着を、後ろから無理やり奪って逃げた」
「何故、巾着を奪おうと思ったのですか?」
「あ~。腰が曲がった婆さん相手なら、走って逃げりゃあ追い付けねぇだろうとは考えたな」
「しかし、実際はその犯行を見ていた妖夢さんによって即座に対応され、捕らえられた」
「当たり前だよな。あそこは大通りで、婆さん以外の連中も大勢居た。もしも運良く逃げ切れてたって、顔が割れてりゃ普通に捕まってただろうな」
流石の家業だけあって、阿求は男を饒舌に語らせている。
しかし、男の証言には確かに奇妙な点が目立つ。
わざわざ捕まると解っていて、犯罪を犯す馬鹿は居ない。
「それが解っていながら、何故犯行に及んだのですか?」
「……解らねぇ。魔が差した、としか言いようがねぇんだ」
阿求からの当然の質問から、遂に変化が訪れた。
男は両手で自分の顔をおおい、
「本当に、解らねぇんだ……なぁ、阿礼様よ。俺ぁ、なんであんな事しちまったんだ」
「……続けてください」
「ありえねぇだろ。嫁が出来て、そろそろガキも生まれるってのに。親方も、俺みたいなろくでなしに看板を分けても良いなんて言ってくれてて……」
「……」
「意味解んねぇよ……俺ぁ一体、どうしちまったんだよ……くそ……ちくしょう……っ」
「……」
そこからしばらく、男の嗚咽が地下牢の中で響く。
私を含め、妖夢たちは男が持ち直すのを黙って見守っている。
何かがおかしい。それは理解出来た。
その次は、異常が起こった原因を突き止めねばならない。
「落ち着きましたか?」
「あぁ……すまねぇ」
「お辛いでしょうが、もう少しだけご協力をお願いします」
「解ってる。次は、何を話せば良い?」
鼻をすすり、男は泣き腫らした顔を上げる。
強い人だ。口は悪いが、性根まで悪い訳ではないのだろう。
「事件を起こす前、普段と違った出来事はありませんでしたか? 例えば、誰かに会ったり、何かを食べたり、何かを買ったりなどです」
「何か別の……あぁ、一つある」
「それは?」
「取っ捕まる三、四日前に、道端でやってた占い師に占いをやって貰った」
「占い?」
「さっきも言ったが、そろそろ俺の嫁さんがガキを生むんだ。普段は占いなんてこれっぽっちも信じちゃいねぇんだが、当たらぬも八卦だろうって冷やかし半分で今後の運勢を占うよう頼んでみた」
「結果はどうでした?」
「最悪だとよ。普通、ああいう商売は嘘でも良い事言うもんだろうに。ま、結果的にゃあ大当たりだけどよ」
顔を歪め、男は吐き捨てるように自分の境遇を皮肉る。
「他に、その占い師と何か話しましたか?」
「あぁ。俺みたいな奴が親になるなんて正直不安もあったから、愚痴みたいに嫁とかガキとかの話をな。そんで、最近寝不足だって言ったらついでで睡眠薬を売ってくれたぜ」
「占いのついでで、睡眠薬ですか?」
「占いと漢方で商売してるって言ってたな。効き目もちゃんとあったし、嘘じゃねぇだろうよ」
「ありがとうございました」
聴取の最後に礼を言い、今までの会話を全て巻物に記し終えた阿求が、広げた帯を巻き取り始める。
「皆さん。今までの内容で、何か気付いた事はありますか?」
「その占い師の容姿を聞いて下さい。恐らく、その
振り返った阿求からの質問に対し、最初に答えたのは椛だ。
というか、それで全て答えが出ていた。
「牢の中にも、あの女の臭いが充満しています。鼻が曲がりそうだ」
男は、証言の中で占い師の性別や容姿について語ってはいない。
だが、椛はその占い師が誰なのかを確信しているらしく、不快極まるという表情をしながら腕で鼻を塞いでいる。
こいつはくせえッ! ゲロ以下のにおいがプンプンするぜッ! ――てやつですね。解ります。
霍青娥。
設定激重の無限チュロスヘアー。外道を肯定する、実際外道な極悪邪仙。
先日の猿神事件の影でも姿を見せていた青い悪魔の仕掛けた策が、再び人里へと暗雲を立ち込めさせている。
煮え湯を飲まされたらしい椛としては、その臭いを嗅く事すらも嫌悪へと繋がってしまうようだ。
因みに、私もこの男を見た時点で犯人の目星は付いていた。
「その男もそうだけど、捕らえられてる連中の中に何人か波長にノイズが混ざってる奴が居るわ。多分、そいつらもその占い師って奴から貰った薬を使ったんでしょうね」
鈴仙も、波長による検査で目の前の男を含めた複数の異常を感知したようだ。
椛だけでなく、彼女もまた占い師への疑惑を確信に変えている。
「術や薬で精神と肉体を乖離させられているのであれば、話は早い。この白楼剣で切ってしまえば、それで正常な状態に戻せるはずです」
辻斬り染みた、物騒過ぎる解決策を語る妖夢。
荒事が起こった時の戦闘要員としてついて来た彼女だが、その腰にはべられた宝刀が一番の治療薬として活躍する事になるだろう。
正直に言って、この程度の不幸など人里にはありふれている。
むしろ、食われて死んでいないだけこの男や他の拘留者は幸福とさえ言えるだろう。
青娥にしても、すでに人間と対等な種族ではないのだ。人間がどれだけ死のうが生きようが、彼女にとっては踏み潰した蟻程度の認識でしかない。
ただし、襲い食らうだけの妖怪とは違い、恐らくかの邪仙は下位の者をもてあそぶ行為に愉悦を感じながら嬉々として猛毒の悪意を振り撒いている。
「それじゃあ。手品の種も割れたところで――一一狩り行きましょうか」
皆、一狩り行こうぜ!
ぶっちゃけ、人外なんて全員
「お願いします。人里の代表の一人として、これ以上里に厄を招かせる訳にはいきません」
「ま、私は人里がどうなろうとどうでも良いけど。報酬分は働いてあげるわ」
「まさか、こんなに早く雪辱を果たす機会が訪れようとは。この場に立ち会えた事、大変嬉しく思います」
「いたずらに市井を乱すなど、言語道断です。妖怪が鍛えた楼観剣の切れ味、とくとご覧に入れましょう」
阿求が、鈴仙が、椛が、妖夢が。
私のお誘いに、頼もし過ぎる仲間たちがそれぞれの意思で頷いてくれる。
ありふれた不幸がある。
だが、ありふれている事が見捨てる理由にはならない。
人間が大好きな、ハッピーエンド至上主義であるこの私に見つかったのが運の尽きだ。
それに、人里には阿求や慧音のような関わりの深い知り合いも多く居るのだ。
友だちの敵は、私の敵。
霍青娥よ。
お前が人里に悪さをするというのなら――このアリス、容赦せんっ!
悪役とは、やられるまでがお仕事だ。
内心で、悪落ちした全裸吸血鬼の台詞を思い出しながら、私は邪仙への対策に思考を巡らせるのだった。
◇
妖怪の山でなくとも、地面の高低差から生じる崖は幻想郷の中に幾つも存在する。
そんな、ありふれた崖に生まれた一つの洞窟。その最奥にて、邪仙である霍青娥の工房が作られていた。
青娥の仙人としての在り方は、魔法使いのそれに近い。
研究と実験を繰り返し、より精度の高い術や薬を生み出す事を生業とする、勤勉なる研究者。
もっとも、彼女が傾倒している分野は他者を惑わし殺す為の邪悪な術や薬といった、ろくでもない代物ばかりだ。
自身が悪である事を誰よりも承知している青娥にとって、工房とは使い捨て可能な防衛施設を兼ねている。
そして、今は人里にばら撒いた毒と悪意に引き寄せられた哀れな犠牲者たちの鏖殺場だ。
「せいがー。来たぞー」
「あらあら、ようやくですの?」
毒薬の調合に勤しんでいた青娥は、芳香の報告に呆れた様子で洞窟の入り口写す水鏡を覗き込む。
入口に立つのは、青服と赤服の人形を左右に飛ばす金髪の魔法使いと、長短二つの刀を持つ白髪の剣士。
「随分と
心の底から残念そうに語る邪仙の言葉通り、現在の人里は家畜を飼育する為に用意された牧場のようなものだ。
人間だけでは立ち行く事が出来ないよう調整された、必要以上には発展しない生活水準。
大きな問題には、博麗の巫女を含めた外部の協力者を頼らなければならない、脆弱な防衛能力。
管理者は居ても統治者や先導者が居ない、歪な支配構造。
救世主が登場するのに、これほど都合が良い環境もないだろう。
とはいえ、問題が何もない訳ではない。神子がより確実に主導権を握るには、人里の防衛や守護を担う外部の者たちが邪魔だ。
幻想郷における通念上、博麗の巫女を殺すのは流石に時期尚早だろう。よって、今回の標的はそれ以外の人外たちになる。
人里へと適当に混乱をもたらし、準備万端で待ち構えたこの洞窟にてその戦力を計ろうという魂胆だ。
仕掛けた罠や、妖怪の死骸を素材に生み出したキョンシーたちを突破して来るならそれで良し。
運良く死体になってくれれば、貴重な素材が手に入る。
太子への忠義、己の趣味、研究への実益。それら全てを兼ね備えた、実に見事な策だ。
惜しむらくは、相手にした人形遣い――アリス・マーガトロイドが敵対者に容赦をしない事を、青娥は知らなかった。
幻想郷にとって重要な拠点である人里へ何度も災禍をばら撒き自らルールを破った以上、スペルカード・ルールが彼女たちを守る事はない。
「それでは、そのお手並みを――っ!?」
洞窟内の各所にて配置した監視装置にて、侵入者の戦い振りを観察しようとする青娥の企みは達成されなかった。
彼女たちの居る最奥の工房まで届く血の色をした深紅の閃光が、洞窟内の全てを一瞬で押し潰す。
「
当然、洞窟内に罠がないか、或いは拉致されている人間や妖怪が居ないかなどは、事前に椛と鈴仙による調査で確認済みだ。
罠があり、かつ中に居るのが青娥と芳香とその他のゾンビのみと判明した以上、素直に入ってやる道理もない。
洞窟そのものを破壊すれば、怪しげな研究をしている工房も潰せて一石二鳥だ。
「壁をすり抜けられる程度の能力」――髪に止めた
壁抜けの術がある事は、先日の邂逅にてすでに判明している。
よって、出現先の予測は余裕で可能だ。
「しえぇぇあぁぁぁっ!」
青娥の背後から、裂帛の気迫を込めた白狼天狗――椛の斬撃が振り下ろされる。
「させないぞー。あばーっ」
主人の守護を担う芳香によって、その刃が阻まれた。
袈裟切りによって斜めに両断されたキョンシーの身体から、毒の血潮が撒き散らされる。
「ふふっ――え?」
全身に芳香の血を浴びた愚かな狼へ、嘲笑を送る邪仙の笑みが止まる。
何も起こらないのだ。皮膚が爛れる事も、刃が溶ける事も、何一つ想定していた事象が発生しない。
アリスが命蓮寺の墓地から採取した芳香の僅かな体組織を元に、永琳に依頼して作成された対キョンシー用の解毒薬と、対毒ローション。そして、装備品用の防腐薬。
相手の手の内が知れているのであれば、対策を取るのは当たり前だ。
「ぐ、げぎゃっ!?」
「芳香ちゃん!?」
相手の混乱を無視し、追撃は止まらない。
遠距離からの狙撃。それも、正確無比な射撃がキョンシーの両足を見事に吹き飛ばす。
「ふんっ! はぁっ!」
「ぎっ、ごっ」
倒れた芳香の頭部を切断し、椛は己の右足で死体の頭を全力で蹴り飛ばした。
芳香は、切断されても五感を共有し動き続ける。
よって、機動力の
「はあぁぁぁっ!」
頭と足を失った芳香へ、援護を送る余裕など与えない。
洞窟の入り口に居るアリスの隣で変身させていた半霊を回収し、本人である剣士――妖夢自身が二刀の刃を閃かせ青娥の首を断たんと迫る。
「くっ」
遂に余裕を崩した邪仙が、袖口から大量の霊符を出現させ即席の防御壁を構築する。
迷いを断つ白楼剣が術による結界を紙と破り、楼観剣の横薙ぎが邪仙の頬を強く掠めていく。
大きく仰け反る事で剣士の刃をかわした青娥は、そのまま背後へと飛翔し襲撃者たちから距離を離した。
「これもかわしますか。椛さんやアリスさんの言う通り、恐ろしいほどの手練れですね」
「油断は禁物です。搦め手を得意とする者は、常に隠れた一手を持っているものですから」
抜き身の刃が三つ。必殺の一撃が回避され、渋い顔で二刀を構え直す妖夢へと、大太刀を振って血を払う椛が注意を促す。
追い込まれた青娥は、頬の傷を撫でながら身動きが取れない。
絶体絶命となった邪仙は、しかし、その口元を三日月に歪めていく。
「うふふっ」
「この状況で余裕とは、侮られたものです」
「いえ、これは――上、来ます!」
青娥の態度に眉を寄せる妖夢とは違い、その余裕に危険を察知した椛が短く更なる敵の襲来を告げる。
落ちて来たのは、幾筋もの落雷だった。晴天の空にあって、輝かしいばかりの雷光が背後へと飛んだ妖夢たちが居た場所へと破壊を撒き散らす。
「くぅっ」
「新手か……っ」
青娥と妖夢たちに挟まれる形で、落雷の落ちた焦げ付いた大地へと現れる、緑髪の亡霊。蘇我屠自古。
「ちっと考えりゃあ解るだろうが。お前らがこの女の策を読んだんなら、こっちだってお前らの策は読めんだよ」
縦に長い烏帽子をかぶったその女性は、バチッ、バチッ、と周囲へ雷をくすぶらせながら冷めた視線で剣士たちを眺めている。
「悪いな。生かす価値なんざ欠片一片すらない屑女だが、護衛役を命ぜられた以上は守らなきゃならん」
「あら酷い。
「
そんな会話の終わりに、再び遠距離からの狙撃が新たに表れた亡霊へと向けて叩き込まれる。
しかし、玉兎の放つ高速の弾幕が屠自古の霊体へと届く事はない。
少女の身体に帯電する雷が、まるで主人を守るように明滅し、彼方からの弾丸の全てを相殺する。
「遠いな。行けるか?」
「お任せを。あぁ、芳香ちゃんを回収しておいて下さると助かりますわ」
「気が向いたらな」
「逃がすか!」
「逃がすさ」
「くぅっ!?」
消える青娥を止めようと距離を詰める妖夢だったが、屠自古が指先を降ろした事で発生した落雷によりその進行を阻まれてしまう。
「引け。あのクソ女を理由に喧嘩するなんざ、文字通り死んでも御免なんでな」
「勝手な事を。見る限り、貴女もまたあの女の共犯でしょう」
邪仙と亡霊の関係は不明だが、逃走を助けた時点で敵対的ではない事だけは確実だ。交渉の余地はない。
「ったく、面倒臭ぇ」
青娥と交代する事となった屠自古は、心底うんざりとした調子で髪を掻き、至極面倒そうに溜息を吐く。
わざわざ妖夢たちに事情を話す理由がない屠自古にしてみれば、この会話さえ無意味な時間の浪費でしかないのだ。
「こう言わなきゃ理解出来ねぇか? ――木っ端如きが、はしゃいでんじゃねぇ!」
問答無用。
次の瞬間、一気にその身の霊力を膨れ上がらせた亡霊の紫電が、怒声と共に周囲一帯へとぶち撒けられた。
◇
崖の下にある崩れた洞窟の入り口に立つアリスは、洞窟を潰した後で待ち伏せとして配置した妖夢たちの元へと加勢に向かう手筈となっていた。
しかし、その目論見が叶う事はない。
策を読まれていたのは、何も青娥だけではない。
「あぁ、間近で聞くと更に酷いな」
アリスが振り返ったその先に、耳当てに片手を添えて悠然と構える王者が歩く。
「君の
「貴女は……」
「君は、私を知っているはずだよ。君の声が、そう言っている」
「十人の話を同時に聞く事が出来る程度の能力」。その本質は、相手の欲――つまりは願いを聞き届ける、超人的なまでの洞察力だ。
「……豊聡耳神子」
「正解」
にっこりと、正に聖人の笑みを作る聖徳道士。
「青娥がやんちゃをしていたようだから、私も一枚噛ませて貰ったのさ。こうして、君と出会う為にね」
その言葉には何処までも重く、そして、聞く者の深奥へと届く深みがあった。
世界中の全ての「人」が、真に聞くべきものだと理解させられるだけの力を持った、指導者として完成された――否、
地下に潜み、部下によって情報を収集し、幻想郷を掌握する策を巡らせた神子は、この小さな箱庭に存在する特異点に目を付けた。
アリス・マーガトロイド。
人外と人間の架け橋となり得る、世界への反逆者。
「私は君を否定しない。私は君を束縛しない」
永琳一人であれば、流石に千年を生きた仙人の秘術に対し、ここまで短時間で対抗薬を完成させる事は出来なかった。
完成までの時間を縮めた要因は、アリスが依頼と共に宛がった助手たちだ。
虫の女王、リグル・ナイトバグによって蟲毒に使われた毒虫たちを特定。
毒人形、メディスン・メランコリーによってその毒虫の毒を生成。
最後に、月の薬師である八意永琳が抗体となる薬を作成する。
誰かに頼る事。誰かにお願いする事。
個を貴び、個を信じる人外たちの中にあって、当たり前のように他者と手を取るアリスの異常性は、幻想郷へ新たな気風を呼び込んでいた。
縁とは、時に糧にも枷にもなる。
指導者として、先導者として、大量の縁が繋がったこの人形遣いを手駒に欲しない理由は存在しない。
「私は、君の欲を知っている。私は、君の欲を実現出来る」
誰にも語った事のない、この世界に生まれ出でた小さな
それを私が叶えてやると、私だけが叶えてやれると、言葉の裏で諭しながら神子はアリスへと右手を伸ばす。
それは、誘惑と言う名の甘い毒だった。
ただの甘言ではない。その言葉には実現出来るだけの力が乗り、事実実現出来るだけの実力者が配下として揃っている。
「さぁ、手を取りたまえ。私が君を導こう」
その、誰であろうと抗えない絶対者から差し出された右手を、表情の抜け落ちた顔で見下ろす人形遣い。
その日、人形遣いの姿が幻想郷から消えた。
彼女の家に帰った跡はなく、無人の箱が魔法の森の入り口に残される事になる。
時計は回る。秒針を小刻みに動かし、分針を緩やかに、時針を重々しく。
先へ先へ、何処へ辿り着く事になろうとも決して止まらぬ歩みが続く。
理想郷を揺るがす次なる異変への先触れは、こうして誰にも知られる事なく静かに終わりを告げるのだった。
イケメン女子にナンパされて、ほいほいついてっちゃう系人形遣い。
そういうとこやぞ。
異変が始まる前に、まずは前哨戦が開始です。