東方有栖(アリス)伝   作:店頭価格

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38・兎猴捉月

「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……ぐ、うぅ……っ」

 

 膝を突いたまま荒い息を繰り返した後、妖夢は明滅を繰り返す意識を唇を強く噛む事で辛うじて繋ぎ止めた。

 自分で腹を刺した後に、極限まで集中力を高めたのだ。糸が切れるように意識を失っていても、不思議ではなかった。

 

「ぐっ、う……」

 

 緩慢な動きであちこちの裂けた上着を破り、即席の包帯にして腹へと巻き付ける。彼女が半人という人間より死に難い身体をしているとはいえ、流石にこの出血は命に関わる。

 

「ふぅっ、ふぅっ、ふぅっ、ふぅっ……」

 

 閉じた瞳に映る完全な暗闇の中で、息を整え体力の回復に努めようとする妖夢の浅く断続的な呼吸音だけが響く。

 

「あ、あぁ……」

 

 そこに、別の場所から別の声が上がり始めた。

 

「あ、あぁ……あぁぁ……」

 

 顔を切られた状態で今まで黙ったまま動かずにいた鈴仙が、弱々しく音を吐き出す。その音は徐々に拡大し、最後には完全な絶叫へと変化していく。

 

「あアぁぁぁァアあァあぁぁアぁぁっ!」

「ど、どうされました?」

 

 敵対者であった妖夢でさえ心配してしまうほどの叫びは、留まるどころか更に音量と感情を高め撒き散らされる。

 

「あぁァあっ! あぁっ! あぁァァあぁぁあアっ!」

「お、落ち着いて、落ち着いて下さい――づっ」

 

 鈴仙の暴れ始めた音だけを頼りに近づいた妖夢は、錯乱した彼女の振り回す腕に頬を殴られたたらを踏んでしまう。

 

「あアぁぁっ! アぁぁっ!――お、う……う゛げえぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」

 

 頭を抱えて呻き吠え転がった挙句、鈴仙は遂に地面へと吐瀉物までぶち撒け始めた。胃液に内容物を交えるすえた悪臭が、辺り一面へと充満していく。

 

「う゛えぇぇ……げえぇぇぇ……っ。う、えぇぇ……」

 

 胃に溜まった全てを吐き出してさえ、鈴仙の嘔吐は止まらない。えずきは次第に嗚咽となり、大粒の涙を流す少女の泣き声として周囲へと響く。

 

「貴女は、まさか――っ」

 

 明らかに異常な鈴仙の変化に、一つの可能性を思い至った妖夢の表情が歪んでいく。

 

「ご自分に暗示を……っ」

 

 実際に能力による攻撃を受けた事で、妖夢はこの玉兎の能力が五感への幻術は元より精神への幻術――つまりは暗示にも特化している事をおぼろげに察していた。

 相手に掛けられるのならば、当然自身にも掛けられるのは道理だ。鈴仙が自分へと掛けたなんらかの催眠を、白楼剣が断ち切ったのではないか。

 妖夢の推測は正しく、それは白楼剣本来の用途でもあった。

 元々この刀の切れ味はないに等しいなまくらであり、戦闘用ではない。霊魂の浄化や呪い、封印といった普通であれば切れないものを切る為の儀式剣なのだ。

 段階を踏んで解除していくような、本人の無意識さえも塗り替えるほどに重ね掛けされた深い暗示であろうと、この宝剣は容易く引き裂く。

 

「何故、そのような事を!」

「あ、あぁ……あぁぁ……」

 

 両手で顔を押さえて咽び泣く鈴仙へと、妖夢は怒りにも似た感情を込めて睨み付ける。

 

「わ、私のせいで……」

「え?」

「月から逃げて来た私のせいで、こんな事になって……私を助けてくれた方々に、なんの恩返しも出来なくて……」

 

 ぽつぽつ、ぽつぽつと、涙の数に合わせるように泣きじゃくる月兎が独白を吐き出していく。

 そこには、もう先程のような強気も傲慢もない。ただただ、怯えて震える事しか出来ないか弱い少女が居るだけだ。

 

「私、戦場に立つしか能がなくて……今はそれも出来なくて……でも、あの方たちのお役に立つ為にはこうでもしないと……私はずっと、そうして来たから……」

「あ……あぁ……」

 

 今度は、妖夢が呻く番だった。

 手は震え、力が入らず、鈴仙の吐いた吐瀉物の上である事も忘れて両膝を突く。

 

「役立たずは捨てられる。価値がなければ殺される……イヤだよ……イヤだ……死にたくないよ……帰りたいよ……ここに居たいよ……もう、逃げたくないよぉ……」

 

 泣き崩れる鈴仙の声を聞き、妖夢は鈍器で頭を殴られたような強烈な衝撃を味わっていた。

 

 ――同じだ。

 彼女もまた、私と同じなんだ。

 迷いと不安の中で、必死に答えと安息を求めて彷徨い続けているんだ。

 暗闇に怯え、背後から迫る影に恐怖し、どうして良いかも解らずただ自分に出来る事をがむしゃらに繰り返して。

 傷付く心に蓋をして、泣き叫ぶ自分を閉じ込めて、そうして彼女は戦場に立っていたんだ。

 ――そんな彼女に、私は一体何をした?

 

「いたいよぉ……いたいよぉ……」

 

 えぇ、そうでしょうとも。

 痛くない訳がない――こんなにも傷付いて。

 居たくない訳がない――こんなにも傷付けられて。

 いたくない訳がない――こんなにも苦しんで。

 

「ひっく……ひっく……」

 

 聞け。

 潰してしまった目の変わりに、その耳でしかと聞くんだ。

 これが私の切ったものだ。

 これが、自分の未熟を言い訳に真実を見捨て私が切ってしまったものだ。

 彼女は強大な敵か? 否だ。

 彼女は類まれなる強者か? 否だ。

 彼女は、本当に切り捨てるべき相手だったか? ――断じて否だ。

 強気は不安の裏返し。拒絶は恐怖の隠れ蓑。

 彼女はずっと、心の裏で助けを求めて泣き続けていたというのに。

 

 鈴仙が語った全ての言葉は、きっと彼女自身が体験して来た事なのだろう。

 素人同然の技術で戦場に立った誰かを失い。

 未熟と甘さによって大切な誰かを失い。

 死を恐れてみっともなく足掻き、こうして生を繋ぎ止めて来たのだ。

 折れた心でもがき苦しみ、胸の奥に闇を塗り込められながら。

 それでも――生きる事だけはどうしても諦められずに。

 月から逃げて来たと言う彼女の心は、その罪悪感と罰に対する恐怖から未だ故郷に捕らわれたままで。

 

「……っ」

 

 血が滲むほどに、未熟な剣士が二つの拳を握り締める。その身の内には、今にも溢れそうな灼熱が出口を求めて渦巻いていた。

 

 魂魄妖夢――解っているな。

 古来より、女性を傷物にした責任の取り方は一つと決まっている。

 義務ではない。これは、私自身が選んで決めた道だ。

 そして、これから未来永劫果たすべき使命だ。

 幽々子様――妖夢はこれより、大人となります。

 

「誰かぁ……助けてよぉ……」

「――大丈夫です!」

「ひぅっ――ひあぁっ」

 

 両肩に手を乗せるだけのつもりが、膝に力を込め過ぎてしまい鈴仙を押し倒す形になってしまったが、些細な問題だった。

 

 幽々様も言っていたじゃないか。

 時には、少しぐらい強引な方が良い結果が生まれるとっ。

 

 勿論、語られた意味も違えば使い所も違うのだが、それを律儀に訂正してあげられる者などここには居ない。

 妖夢はそのまま怯える少女を強く抱きしめ、堅く閉ざされた心へ届くようありったけの熱を込めて言葉を吐き出す。

 

「私が貴女を守ります! この剣と、我が魂魄を懸けて!」

 

 命を懸ける。一度だって、妖夢はその言葉を半端な気持ちで使った事はない。

 

「確かに、今の私は貴女よりも弱い!」

 

 そして、今必要なのはその気持ちだった。

 冷たく凍った心を温め、再び笑顔と出来るよう自分の出来る精一杯の温もりを与え続ける。

 それこそがこの可憐な少女を守る者として最初にするべき事だと、妖夢は疑いもなく確信していた。

 

「ですが、だからこそ口にします! 私が貴女を守りますと! 貴女を苦しめる全てのものから、私が貴女を守りますと!」

「あ、あの……」

 

 戸惑いを含んだ鈴仙の言葉を待たず、妖夢が更に言い募る。

 

「この程度の失態で貴女ほどの方を切り捨てるような輩など、貴女の方から見限って差し上げなさい!」

 

 続いて起こるのは怒りだ。

 もう、感情の許すままに言葉を吐き出しているだけなのだが、半人の少女にとってはそれで十分だった。

 彼女自身が望んだのかもしれないが、それでも今の彼女は戦うべき者ではなく守るべき者であるはずだ。

 そんな非道を平然と許す者になど、彼女を任せてはおけない。

 剣士の心は、正しく義憤に燃えていた。堅物故に少々思い込みの激しい所のあるこの少女は、もう止まる気も止められる気もない。

 

「白玉楼に――私の主である、西行寺幽々子様のお屋敷へ行きましょう」

「え?」

「冬は寒さが厳しく堪えますが、夏は涼しく過ごし易い場所です。きっと気に入って頂けると思います」

 

 守るのであれば、可能な限り傍に居る事が望ましい。幽々子の護衛と奉仕など考えれば、鈴仙を白玉楼に招くのは当然の提案だった。

 

「幽々子様は懐の深いお方なので、きっと貴女の事も受け入れてくれるはずです。丁度、世話役として料理の出来る方がもう一人欲しいと思っていた所なのですよ」

「……」

「料理が不得手であれば、私が一からしっかりと教えます。給仕見習いとして、私と共に帰りましょう」

 

 提案はしているが、強制をするつもりはない。妖夢は選択肢を鈴仙にゆだね、その上で自分の使命を果たす為の最善を尽くそうと考えていた。

 

「斬れば解る――」

 

 抱き締めていた両腕の力を抜き、上半身だけを起こした馬乗りの状態になって鈴仙を見下ろす妖夢。両の目は開いていなくとも、彼女へと見えるよう精一杯の笑顔を作って笑い掛けた。

 

「剣を交え、弾幕を交え、私は貴女を知りました。貴女を、守りたいと思いました。理由はそれだけで十分です」

 

 しかし直ぐに眉根を下げ、どうにも困ったと表情へと変えてしまう。

 

「――やはりダメですね、私は。こういう時に、気の利いた言葉の一つも思い付く事が出来ない……」

 

 差し出される剣士の手は血塗れで、身体中に無事な場所などありはせず――それでも彼女は、伸ばした手の平を下げようとはしない。

 守ってみせると、背負ってみせると、その小さな体躯と背で迷いもなく語り掛ける。

 未熟で、若く――だからこそ、月を背に照らされたその姿はどうしようもなく温かかった。

 

「月から来られた天女様――幻想郷へ、ようこそ」

 

 それが、未熟な剣士が悩みに悩んだ末に出した、月兎への口説き文句だった。

 妖夢は気付かない。見えていないから。

 会話の半ばほどから、空回る彼女を見ながら鈴仙が笑い声を堪えて小さく肩を震わせている事を。

 しょうがないなぁ、とでも言いたげな表情で妖夢に優しい眼差しを向けている事を。

 

「――はい」

 

 少女の決意を汚さぬよう芝居掛かった返事をして、兎の手が剣士の手と重なり合う。

 兎が狂い、剣士が惑う。両者の傷と迷いに未だ出口などなく、それでもこれは確かな一歩だった。

 こうして、月に捕らえられていた(天女)の心は今、ゆっくりとした速度で地上へと堕ち始める。

 その先に、誰もが夢見る程度の小さな幸福が待つ未来を求めて――

 

 

 

 

 

 

 互いが六枚のカードを提示して開始された咲夜と永琳の弾幕ごっこは、始まった当初から一方的な試合運びとなっていた。

 

「づっ、ぎ――っ」

 

 時間を停止して距離を開けたはずの場所に、永琳の放つ矢が寸分違わず狙いを付けて到着する。そこから更に紙一重で回避はしているものの、それでも咲夜の身体中に走る傷はすでに六十に届くありさまだ。

 矢を放った後に停止させて動いているというのに、射線を捻じ曲げ、弾幕によって弾かれ、事前に頭上へと放っていたものが時間差で――まるで、自動で追尾する機能でも付いているかのように襲い掛かって来る。

 

「一体、どうやって矢の軌道を……っ」

「こう見えて、計算は得意な方なの」

 

 永琳の答えは答えになっておらず、そしてそれ以外の答えなどなかった。

 永琳はただ、咲夜の行動を先読みしているだけだ。

 一を見て、十を知る。月の頭脳と称される彼女がやっている事はそれだけで完結し、それだけで十分だった。

 

「三回かしら……貴女、当たる(・・・)わよ?」

「くっ」

 

 咲夜の「時間を操る程度の能力」は、完全無欠の能力ではない。

 一度時間停止を解除してから、次に同じ能力を使用するのに必要なインターバルはおよそ三秒。加速や巻き戻しなども同様に、次回使用時までに僅かな「間」を必要とする。

 他にも、一部の物体は一度触れなければ停止以外の能力を発揮出来なかったり、破壊された物体は巻き戻しても再生しなかったりと細かい制約は多岐に渡るが、咲夜は自分の命綱でもあるそれらを誰かに語った事はない。

 永琳は、観察する事で咲夜の能力の推測と把握を行い、その三秒を的確に突く形で追い詰めていく。

 

 『天網蜘網捕蝶の法』――

 

 月の薬師の手より虚空に溶けるは、最後の札となった六枚目のラストワード。

 発動と同時に、戦場となっていた空間全てへと咲夜の逃げ場を塞ぐように大量の糸が一瞬で駆け巡る。

 直後、閃光が――爆ぜた。

 

「くっ!?」

 

 巡らせた糸のある場所を通り、触れれば焼ける白の波動が光の牢獄となって出現する。咄嗟に糸と糸の隙間へと身体を滑り込ませ難を逃れる咲夜だったが、波動の消滅と同時に別の軌道で再び糸が戦場を囲う。

 

「……っ」

 

 糸を切るだけの時間はない。声を出す事すら出来ず、能力を使って時を停止してもう一度糸のある場所を避ける咲夜。

 二射目が終われば、続く三射目が即座に起こる。糸の配置は、出鱈目なようでいて咲夜の行動を全て計算し尽くされた布陣だ。

 進もうとした視線の先に、避けようとした反射の先に――情け容赦なく絶望の糸が張り付いて、哀れな獲物を待ち構えているのだ。

 このままでは、いずれ捕まる。そう判断したのか、咲夜はナイフを構えこの場を掌握した根源へと視線を向け――弓の弦を大きく逸らし、こちらへと狙いを付ける永琳の無感動な瞳と重なり両目を見開く。

 張り巡らされた三度目の糸は、咲夜を狙うと同時に永琳と咲夜の射線を全て塞ぐ形で埋め尽くされている。

 能力による停止は、もう使えない。

 白の波動を回避した直後に弓を放たれれば、咲夜にそれを避ける(すべ)はない。ナイフで撃ち落すには、余りにも威力が違い過ぎる。

 絶望の三秒間。

 永琳の読んだ未来を変えられず、奥歯を噛んでその衝撃に耐えようとした咲夜の耳に、上空から一つの声が届いた。

 

「咲夜ぁっ!」

「っ!?」

 

 それは、名を与えられた少女が主と定めた紅の幼姫の声だった。

 竹林に到着して早々にはぐれていたレミリアが、従者へと向けて予断を許さぬ命令を下す。

 

「殺せぇっ!」

 

 レミリアの言葉を理解した瞬間、もうその行動は終了していた。

 

 『咲夜の世界』――

 

「――かしこまりました(ツ ベフィール)お嬢様(フロイライン)

「か……は……」

 

 退くよりも前へ。「停止」が出来ない彼女が選択したのは、己の能力で残った効果の一つである「加速」だった。

 一本のナイフを片手に自分自身に備わった時計の針を極限まで早めたメイド長が、全ての弾幕と矢を回避して接敵し相手の心臓へとその刃を無情に押し込める。

 

「ぐ……ぁ……っ」

 

 人間である咲夜の肉体は、急激な変化に耐えられない。心拍が瞬時に上昇し、血流が激流となった代償は、内臓を損傷させ顔中の穴から流血が発生するほどの結果として現れている。

 

「――驚いたわね」

「っ!?」

 

 むしろ、余裕があるのはそのまま絶命するはずの永琳の方だ。

 彼女の全身が突如として発光した後、そこに居たのは咲夜の弾幕によって負った傷すらも消え失せた身綺麗な姿だった。見れば、刺さっていたはずのナイフは刀身が消失しどこに行ったのかも解らない。

 

「こんなにも簡単に殺されるだなんて、隠遁生活を続けていたせいで勘が鈍ったかしら」

「ちっ、死が見通せずもしやと思ったが――やはり不死者の類か」

 

 自分に対し呆れ声を漏らす永琳へと、近くへと降りて来たレミリアが忌々しげに吐き捨てる。

 

「ぁ……」

「おっと」

 

 膝から力が抜け、倒れ込んだ咲夜を前に立つ永琳が抱き止めた。医術の心得もある薬師は、軽く触診して動く事も出来ないほどに疲弊したメイドの症状を診察する。

 

「血管が幾つか破裂しているみたいね。このまま放っておくと失明する可能性もあるわ――知り合った記念として、格安で治療をしてあげても良いわよ」

「へぇ、貴女医者なの?」

「薬師よ。真似事は出来るの」

「そう、それじゃあお願いしようかしらね。ドクター」

 

 レミリアは動けない咲夜を永琳から受け取り、首と足に手を回して優しく抱きかかえた。

 低身のレミリアと、長身の咲夜。その身長差もあってかなり違和感のある体勢ではあるが、吸血鬼の怪力を持ってすれば人間の体重など羽毛より軽いものでしかない。

 

「そういえば――貴女の推測が勘違いで私が本当に死んでいたら、一体どうしていたの?」

「あら、そんなの死体を埋めておしまいじゃない」

「なるほど、それは効率的ね」

 

 永琳の問いに、今度はケラケラと笑いながらそんな答えをあっさりと返す暴君。永琳もまた、レミリアの態度に文句を言うでもなくややずれた納得を示している。

 人智を超越した者たちの倫理観など、こんなものだ。彼女たちは人に近い容姿をしているだけで、価値観も近いなどと考えるのは大きな間違いである。

 

「私も一度死んだ事だし、今の勝負はルール違反で貴女たちの負けよね」

「寝言は寝てから言いなさい。誰がどう見ても、貴女は今生きているじゃない」

「それは屁理屈でしょう」

「通すさ。愛しい従者の為ならな」

「――まぁ、これ以上抵抗を続けた所でこちらの勝ち筋も遠いみたいね。貸しにしておくわ」

 

 片耳に手を当て、何かを聞き取る仕草をしていた永琳は次に肩をすくめて敗北を受け入れた。戦った片方の意見を聞かないまま、レミリアと永琳の間だけで勝負の審議が終了する。

 もっとも、喋る事すら辛いだろう今の咲夜では会話に参加しても意味はなかったかもしれないが。

 

「申し訳ございません。お嬢様の御前で、このような無様を晒すなど……」

「良いから良いから。今はじっとしていなさい――ん、美味し」

 

 それでも口を開く咲夜の目から流れる血の片方に舌を這わせ、喉の奥へと飲み込みながらレミリアが妖艶に笑みを作る。

 

「ねぇ、咲夜。貴女にとって、紅魔は枷?」

「まさか、そのような事は決して……っ」

 

 スペルカード・ルール。

 咲夜が幻想郷特有のルールに従っているのは、自身の背後にある紅魔館の名を汚さぬようにする為だ。

 だが、その結果が敗北へと繋がるのならそれはどう言い繕おうと館とその住人が足枷になっている事を意味していた。

 

「良いのよ、むしろ枷である事を誇りなさい。人間という矮小な身で、その双肩に紅魔を背負える唯一の存在であると」

 

 人と人外。幻想の世でさえ住処を分ける二つの境界の中で、咲夜は人間のまま人外に仕える事を誓った異端者だ。

 そんな彼女だからこそ、レミリアは許す。至らぬ事も、届かぬ事も、その存在を構築する全てを許した上で慈しむ。

 

「愛しているわ。咲夜」

「もったいなきお言葉……ん」

 

 血の味のする口付けをして、二人は情を交し合う――かに見えたが、その後吸血鬼の方が表情をしかめて顔を離し自分の唇をペロリと舐めた。

 

「――貴女、私以外に唇を許したわね」

「えぇ、アリスに。必要でしたので」

「後でおしおきね」

「お断り致します。私を捨て、怠惰な巫女にうつつを抜かすような浮気者から、罰を受けるいわれなどはありませんので」

「浮気じゃないわよ。どっちも本気だもん」

「お嬢様――それは、私からの絶縁状が欲しいと解釈させて頂いてもよろしいのでしょうか?」

「ち、違うわよ。こら、ちょっと咲夜。こっち向きなさいってば」

 

 なんとなく、離婚寸前のダメ亭主とその妻のようなやり取りになっていく寸劇を背後に聞きながら、永琳が特に感情を乗せず感想を漏らす。

 

「――仲が良い事ね」

 

 月の頭脳と称される蓬莱の薬師でさえ、感情の機微というものは難解極まる領域だ。

 

「ああいうの、私もうどんげにしてあげた方が良いのかしら」

 

 だとしても、それは止めておいた方が良いと忠告をする者はこの場には居ない。

 

「もぅ。月光浴は中止になるし、霊夢には負けるし、貴女は拗ねるし――本当に散々な夜ね」

「半分以上はお嬢様の自業自得かと」

「お黙り。その生意気な唇、今度は息の根ごと塞ぐわよ」

「私の全てはお嬢様の所有物(もの)。どうぞご随意に……ん」

「ん――」

 

 居るとすれば、そのままじゃれあいを開始した主従が永琳の後ろで桃色の空気を振り撒いているくらいだ。

 

「さて、術の完成まで残り十三分と少し――」

 

 このまま遠回りで永遠亭に案内すれば、永琳の後ろを歩く二人への足止めは完遂する。

 試合を捨てて勝負に勝つ。月の頭脳は何食わぬ顔で、レミリアたちの持つ抵抗の可能性を摘み取っていた。

 竹林の仔細はすでに把握済みだ。てゐの報告にあった人形遣いの仕込みも、この場の術式を構築した当人である永琳にとってはそれほど予想が難しいものではない。

 そんな月の頭脳にも、当然知らない事はある。例えば、後ろで従者と唇を重ねる紅の姫君の能力だ。

 レミリアの見えているものが見えない永琳は、この吸血鬼が動こうとしない態度を不審に思う事が出来ない。

 

「この状況からひっくり返すつもりなのでしょうけれど……貴女が一体どこまでやれるか、観察させて貰いましょうか。イレギュラー」

 

 空を仰いだ薬師の先には、未だ偽りの月が停止している。

 勝者となるのは、幻想郷か、永遠亭か――この異変の終わりは近い。

 

 

 

 

 

 

 生者と死者。

 静かにこずえの響く竹林の一角で、境界を分かつ者たちの勝負に決着が付こうとしていた。

 

「あらあらあらぁ?――ちょっと加減を間違えちゃったかしら」

 

 生命を吸い取る色彩豊かな蝶たちの舞いが終わったその場で、亡霊の姫がそんな言葉を漏らす。

 彼女の前方で仰向けに倒れているてゐは、身体から白煙を上げてピクリとも動く気配はない。

 呼吸もなく、目は生気を失った虚ろなままで見開かれ、とてもではないが生きているとは思えない状態だ。

 

「早く血抜きをしないと、味が落ちちゃうわ」

 

 てゐへと近づきながら、そちらへと向けて右腕を伸ばしていく幽々子。死んだ相手に気を張る必要もなく、その動きは無防備そのものだ。

 ここで、一つの事実を語るとするならば――この兎の妖獣は、一度たりとも幽々子の弾幕から直撃を受けてはいない。

 

「妖夢を探して――え?」

 

 古来より、「死んだ振り」は厳しい自然を生き抜く野生動物たちの常套手段。その遺伝子に刻まれた技術は、時に自分の心臓さえ一時的に停止させるという離れ業すら可能とする。

 老獪な獣であるてゐに、その業が出来ない道理はなかった。

 背筋と脚部の筋肉を総動員した一足飛び。それは、完全に油断した瞬間を狙い澄ます回避も防御も許さない完璧な奇襲だった。

 呆けた顔をした亡霊の眼前に、てゐの胸元が迫る。

 

「――うそうさ」

 

 直後、壮絶な笑みを浮かべた素兎の胸部から耳をつんざく轟音と共に、亡霊姫の眼前へと爆裂が撒き散らされた。

 月の技術で作られた対衝撃用ジャケットに取り付けられていたのは、薬師謹製の万能炸薬。

 近くにあった竹や地面すら巻き込んで、破滅を含んだ暴力がてゐの正面を容赦なく蹂躙する。

 強烈な衝撃は小柄な兎を反対方向へと吹き飛ばし、彼方の竹へとしたたかに背をぶつける形でなんとか停止した。

 

「アッ……ガぁ……ッ」

 

 背中を襲った痛みよりも、正面で起こった衝撃の方がてゐには遥かに苦痛だった。その衝撃を吸収する素材だという触れ込みで着込んだ下の防護服だったのだが、無数の熱した針を突き刺されるような激痛が発生している時点で欠陥品だと言わざるを得ない。

 

「クソッ、鈴仙のアホたれっ。何が、「ちょっと痛いくらいよ」だ。確実にあばらイッてるだろこれ……っ」

 

 焦げた胸元を掻き毟り、妖怪兎が怨嗟の声を絞り出す。てゐにとって、他人の匙加減がここまで怨めしいと思えたのは久々の経験だ。

 

「ノミの心臓の癖して脳筋とか、これだから軍属崩れは始末に終えないんだ……っ。さっき走った黒いヤツのせいにして、アイツの下着全部燃やしてや――は?」

 

 八割の八つ当たりと二割の正当な報復を誓うてゐの前で、巻き上がっていた煙が晴れる。

 そこに居たのは、汚れ一つさえ増えているようには見受けられない、直前に見たままの姿をした亡霊姫だった。

 

「驚いたわぁ。びっくりし過ぎて、心臓が止まるかと思っちゃった」

 

 「そもそも、亡霊なんだから心臓動いてないだろ」などという軽口を吐く余裕は、てゐには残されていない。

 爆薬を調合したのは、他でもないあの(・・)八意永琳。霊体だから大丈夫だったなど、そんな生易しい常識の通用する代物ではなかったはずだ。

 

「私はね、「死」が見えてそれに触れるの」

 

 怯えるてゐを見下ろしながら、幽々子の突き出したままの右手には弾幕でも使用していた半透明の蝶が生み出されていた。

 美しく、儚く、今にも消えてしまいそうなほどに虚ろな蝶々。

 

「死にも色んな形があるわ。絶望、恐怖、憎悪、退屈、渇き――私が今操った死の形は、「老い」ね」

 

 「死を操る程度の能力」。生きとし生ける者たちが逃れられない絶対的な結末の姿を見つめながら、幽々子の言葉はどこか楽しげですらあった。

 

「当たると痛そうだったから、こちらに来る勢いに老いて死んで貰ったの」

「……っ」

 

 てゐは、幽々子の言葉を聞くにつれてひきつっていく自分の顔を止める事が出来ない。

 「勢いを殺す」。比喩の表現としては、確かに存在する言葉だ。

 だが、それを文字通りやってのけたなどと言われても理解が追いつく訳もない。

 そして、てゐが何もかもを理解出来ずとも、仕掛けた渾身の奇襲が失敗したという事実だけが絶対の真実としてその場には残されている。

 

「この世に未練があるのなら、冥界でまた会いましょうね」

 

 見惚れるほどの笑顔を向けて、右手の蝶が指から離れる。痛みもなく、苦しみもなく、ただただ安息の死を与える為に。

 

「ぁ……っ」

 

 てゐは動けない。自身で起こした爆裂による激痛もあるが、それ以上に亡霊の生み出した完全な「死」に見惚れてしまっているから。

 ゆるやかな速度で蝶が飛び、不規則な軌道を描きながらてゐへと近づいていく。

 当たれば終わる。それが解っていながら、最早一匹の兎に残された道などありはしなかった。

 

「――あらぁ?」

 

 素兎の命が終わろうとしたその瞬間、不思議がる幽々子の声と同時にガラス細工の蝶が直前で消滅を果たす。

 

「ぁ……?」

 

 事切れる寸前で首の皮一枚繋がったてゐは、蝶の消えたその場から視線を逸らせないまま訳も解らず呆けたように声を漏らした。

 

「ふふっ――どうやら、完全には殺しきれなかったみたいねぇ」

「あっ」

 

 蝶の飛び立った亡霊の手には、傷があった。人差し指から手の甲の中央まで伸びる、引きつったような一本の火傷跡。

 痛みも感じなかったのか、傷を付けられた本人ですらようやく気付くほどの浅い怪我だ。

 だが、それは確かな傷であり、てゐの攻撃が命中したという紛れもない証拠だった。

 

「だ、だったら……っ!」

 

 直撃と言うには、余りにも小さな痕跡。本人の申告と判断によっては、どちらに転んでもおかしくはない。

 黙っていて気が変わられでもすれば、その時点でもう次の幸運は訪れない。てゐは縋る思いで声を張り上げ、全身を震わせながらそれでも気丈に幽々子を強く睨む。

 

「だったら、この勝負は私の勝ちだ! 頼むから、今すぐこの竹林から出て行ってくれ!」

 

 兎の心臓は、そのまま破裂してしまいそうなほどの早鐘を打っていた。呼吸は浅く、寒気によって汗が引き、口の中が一瞬で干上がって舌が口内へと張り付く。

 

「んー……」

 

 てゐにとって相手の答えを待つ一秒が永遠にも感じられている中、幽々子は火傷の跡がある人差し指を口に付けてしばし考えた後、少しだけ残念そうな笑みを作る。

 

「――うん。敗者は勝者に従いましょう」

 

 優雅に袖口から取り出した扇を開き、口元を隠す亡霊姫。てゐの方向からでは、扇の下で彼女の唇が今どんな形に歪んでいるのかを確かめる術はない。

 

「残念ねぇ、折角兎鍋のお腹だったのに……口直しは、竹林の外で寝ていた夜雀ちゃんかしら」

 

 ふわふわと、ゆらゆらと。出会った最初と同じように、どこか雲や空気にも似た雰囲気へと戻った少女がそんな事を言いながら飛び立った。

 

「ようむー、ようむー。帰りましょー?」

 

 まるで、先程のやり取りなどなかったのではと思えるほど気の抜けた声で誰かを呼びつつ、幽々子の姿が竹林の外側へ向かって小さくなっていく。

 

「あ……は……か……っ。はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 

 幽々子の姿が完全に見えなくなった後で、てゐは何度か喉を詰まらせながら何時の間にか止めていた呼吸をようやく再開させていた。

 

「い、生きてるっ、生きてるよねっ? 死んでないよねっ? ふぅっ、ふぅっ、ふぅっ、ふぅっ――」

 

 生きているからこそ身体中から溢れ始めた脂汗を拭い、てゐはしばし地面に大の字になって必死に肺へと空気を送り込む事に苦心する。

 

「ふぅっ、ふぅっ、ふぅっ――ふぅーっ。お師匠っ、お師匠っ!」

 

 ある程度呼吸が落ち着くと、一人取り残された兎はそのままの姿勢で耳に取り付けた小型の器具を触り、遠くに居るだろう己の師へと言葉を飛ばし始めた。

 相手からの返事はない。あちらでも手の離せない事態が発生していると読んだてゐは、しかし知った事かと報告を続ける。

 

「こっちはなんとか凌いだよっ。だけど、あんな化け物ばかりが来てるんじゃあこっちの勝ち目なんて読むだけ無駄だっ」

 

 今、もう一度誰かと戦えと言われても、それに頷くだけの気力はてゐに残されていなかった。

 動く事も喋る事も億劫だが、それでも恩を受ける身として役目は果たさなければならない。しかしその先は、幾ら義理と人情があったとしてももう無理だ。

 

「鈴仙の方も多分ヤバイッ。早いとこ言ってた術を完成させるか白旗上げないと、姫様にまで――っ」

 

 不自然に揺れたこずえの音に、亡霊が戻って来たのかと言葉を止めてギョッとした顔でそちらを見るてゐ。

 

「――随分酷い格好ね。大丈夫?」

 

 そこに居たのは、周囲を浮遊する自分の操る人形たちに支えられた不自然な姿勢で歩く人形遣いだった。

 酷い恰好はお互い様だ。人形遣いは腹から下を血に染めており、肌は白く、顔面は青ざめ、どう見てもまともな状態ではない。

 心配するのならば、相手よりもまずは自分からするべきだろう。

 

「……こんばんは」

「えぇ、こんばんわ」

 

 負け犬が二人。体力と気力を使い果たした敵味方が出会い、そんな挨拶を交わす。

 勝負を始める理由はない。お互いに、そんなものはもう願い下げだ。

 

「――どっかに行くの? 辛そうだし、付いてってあげるよ」

 

 だから、てゐは足止め役を放棄してそんな言葉をアリスに送っていた。

 

 

 

 

 

 

 ラブコメの波動を感じる――嘘だけど。

 ……いやほんと、こんな殺伐とした物騒な雰囲気じゃなくてさぁ、そんなほわほわした空気が欲しいよね。切実に。

 

 妖夢と鈴仙の邪魔になりそうだったので、上海たちにお願いしてなんとかその場から運び出して貰った私は、ある目的地を目指してズルズルと身体を引き摺りながら足を進めていた。

 妖夢は勝てるだろうか。先に行った魔理沙はどうなっただろうか。

 咲夜は、霊夢は、紫は、レミリアは、幽々子は――何も解らない。

 解らないから、私は私に出来る最善を尽くす。

 

 ていうか、てゐの正面が大惨事なんだけど。

 何それ、おっぱいミサイルでも暴発したの?

 

 途中で出会った兎詐欺師ちゃんは、胸の辺りが焼け焦げて真っ黒になっていた。焦げた隙間から皮のジャケットのようなものが見え隠れしているので、生身で傷を負っている訳ではないらしい。

 こちらの動きを監視する為なのか、同行を申し出てくれた彼女に大事を取って治癒呪文を施し、今は隣で一緒に歩いている。

 

「魔法が使えるんならさ、私のじゃなくて自分の治しなよ」

「治せたら治しているわ。あの弓矢に塗られていた毒は、私の魔法では解毒出来ないみたいなの」

 

 今も「復活(リザレクション)」を唱えて体力を回復させ続けているのだが、それでもこれ以上の効果はもう望めないだろう。

 恐らくだが、肉体の代謝を司る根本的な部分が毒によって侵されているのだ。幾ら回復させようとしても、その部分が治らなければ完全な治癒に至ってはくれない。

 

 なんか、遠くから冷蔵庫様の声をした悪魔みたいな死神の笑い声が聞こえて来るんだけど――気のせいだよね。多分……

 いきなり、身体がパーンッてなったりしないよね。

 

「あー……その、なんかゴメン」

 

 想像によって更に顔を青ざめさせているだろう私に、てゐは視線を逸らしながら気まずそうに謝罪してくれる。

 

 謝らないでよ、不安になるから。

 

「「崩魔(フロウ)……(ブレイク)」……っ」

 

 今の状態では、呪文を発動させるのも一苦労だ。ギリギリの集中力で魔力を溜めた呪文は、邪魔な力場の一つを崩壊させた。

 

「ほら、しっかりしなよ」

 

 崩れた力場は再生を始めてしまうので、重い身体を人形たちに支えられ、てゐからは手を引かれながら閉じてしまうまでにどうにか通り過ぎる。

 

「……苦労を掛けるわね」

「それは言わない約束だろ? おっかさん」

 

 あぁ、信じていたさ。君ならきっと、このネタ振りに応えてくれると!

 しかもウィンクまで! 今の体調じゃなかったら、全力でハグしてたね。

 ありがとう。本当にありがとう、てゐ。

 

 などと、どうでも良い寸劇で苦労を誤魔化しながら更にもう一つ力場を通り過ぎる私たち。

 

「でも、良かったの? 敵である私の手助けなんて」

「こっちが頼まれた仕事は、もう終わってるからね。あのお澄まし顔しかしないお師匠に一泡吹かせられるってんなら、協力しない訳にはいかないよ」

「……その期待に応えられるよう、精々頑張らせてもらうわ」

 

 ひひひっ、とあくどい笑みを浮かべるてゐは本当に楽しそうだ。出会った当初は死にそうな顔をしていたのに、見事な切り替えの早さである。

 こういう姿勢は、長い年月を生きて来た経験によるものなのだろうかと、私は内心で感心してしまう。

 そんなこんなと、適当に会話をしつつしばし歩いた私たちは遂に目的地へと到着を果たした。

 

「ここね」

 

 と言っても、竹林の中でとりわけ特殊な場所という訳でもないので、見えているのは目印になりそうなものもない相も変わらぬ竹と草ばかりの一面だ。

 違う点があるとすれば、精神世界面(アストラル・サイド)を知覚する視線に映る地面からの小さな光。

 竹林に来てから幾つか見つけたこの光は、永琳の仕掛けた術の(かなめ)。天の星空と同じ位置に配置された、力場という面を構築する無数の点だ。

 

 秘術『天文密葬法』――

 

 原作のスペルカードでも披露した、本物の月と偽りの古い月を入れ替える秘術。

 知らないはずの私が名付けるとすれば、「天文術式」といった所か。

 地上の術と天上の術は繋がっている。地上の術は他者を惑わす迷宮の役目の他に、偽りの月から落とされる光を受け取り「力」として送り返す台座の役割も担っているのだ。

 術が本当に完成すれば、偽りの月が完全に本物の月と入れ替わる。それは、月に力を得る妖怪たちにとって本丸を奪われる事態に等しい。

 しかし、地上の術は未だに起動を続けている。つまり、永琳の秘術は完成に至っておらずまだ反逆の余地があるという事だ。

 そもそも、そんな事態を紫が黙って見過ごす訳もないので、私のやろうとしている事は単なる嫌がらせの延長に過ぎない。

 知っているはずのない、竹林と永琳の術に対する知識。ここまで来れば、例え失った記憶をまるで思い出せないままでも理解出来る。

 

 私は昔、ここに来ていた。

 そして、永遠亭へと辿り着く方法を探してこの術を見つけたんだ。

 きっと私は、散策する振りや山菜を取る振りなんかをしながら、この術式を解明しようと頑張ったんだろう。

 頑張って、頑張って、頑張って――そして結局、間に合わなかったんだ……

 大切な誰かを――私は、救う事が出来なかったんだ……

 

「あっちゃ~。そんな気はしてたけど、よりにもよってここかぁ」

 

 私が足を止めて感慨にふけっていると、てゐは頭の横に右手を置いて文字通りしまったと言いたげな表情で髪を掻き始める。

 

 え、ここって何かあるの?

 もう体力とか気力とか色々限界だから、これ以上移動したくないんだけど。

 

 私がここを選んだ理由は、幾つかある候補の中で妖夢たちと結界に閉じ込められた場所から一番近かったからだ。

 数百――下手をすれば千以上存在するだろうこの術式の(かなめ)の全てに、護衛の人員を配置するのは不可能に近い。

 術の驚異的な再生能力は、きっとその為に付与されたものだ。これさえあれば、誰が居なくとも術自体が勝手に自己修復を行い外部からの干渉を無駄に終わらせてくれる。

 

「――邪魔が居るね」

 

 この場所に、私が選んだ目的以外の価値があるとするならば――それは、別の理由によって生まれた何か特別な意味があるという事。

 

「――観客よ。今は、貴女とてゐがね」

 

 私とてゐを挟む形で、前後から影が姿を表す。

 

 もこたんインしたお!

 しかも、姫様までご一緒に降臨だー!

 

 札柄をしたモンペのポケットに手を入れて、鋭い眼光を送る不死鳥の姿は見惚れるほどに猛々しい。

 対する月の姫君は、足首ほどもある草原を歩きながら傷一つ付かない着物を優雅に滑らせ、溜息が出るほどの美貌で薄い笑みを浮かべている。

 藤原妹紅と、蓬莱山輝夜。二人は私を知らないだろうが、私は二人を知っている。

 その関係も、程度の差はあれ知識としてはある。

 その事前知識によって、二人が現れた時点で私はこの場所の意味を理解出来ていた。

 

 あぁ、なるほど。

 ここ、二人の爆心地(決闘場)だ……

 

 どうやら、この異変でも私に救いはないらしい。

 




バラガン「訴訟も辞さない 」

永夜編は、後二話くらいですかね。

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