……不思議だねー
とりあえず、輝夜の傍で鼻をヒクヒクさせながらてゐを見ている兎ちゃんが可愛いに一票。
普通に動物型だけど、妖気を感じるからこの子も妖怪兎だよね。後で抱っことかさせて貰えるのかな?――これは、交渉の時間が待ち遠しいですな。
現実逃避の感想はともかく、今の状況は間違いなくピンチだろう。浪漫砲台的な意味でも。
輝夜と妹紅。
実に千年以上の腐れ縁をこじらせているであろうこの二人は、不老不死であるにも関わらず定期的に「殺し合い」を行っているらしい。永遠に決着の付かない不毛な争いだが、二人の生きた膨大な年月を想像すら出来ない私が何を言ったところで、止まるものでもないだろう。
生きた心地がしないとは正にこの事だ。今の状態で私が二人の衝突に巻き込まれれば、確実に命がない。
運が悪いというか、間が悪いというか……これならば、少し遠くなっても良いから別の場所を選ぶべきだったと私は内心で頭を抱えてしまう。
「ねぇ、人形遣いさん。貴女に聞きたい事があるの」
マグネットパワーのプラスとマイナスに挟まれ、仮面どころか首まで取れる未来を想像していた私へと、唐突に輝夜がそう話し掛けて来た。
「何かしら」
「竹林に到着してから、貴女の事はずっと見ていたの」
なにそれこわい。
え、ずっとって……え?
どういう事だってばよ。
「貴女だけじゃないわ。箒に乗った魔法使いも、半分お化けの剣士ちゃんも、銀のナイフを使うメイドも、赤と白のめでたい巫女も――私は皆の事を見ていた」
それは不可能――だとは思わなかった。
「永遠と須臾を操る程度の能力」。咲夜の能力に似た不変と刹那を操る月姫の力は、使い方によっては一瞬の時間を切り取って収束させ複数の歴史を持つ事さえも可能だという。
どこかの宝石お爺さんやスーパーなロボットの大戦に出て来るラスボスの方々と、実に仲良くなれそうな能力である。
つまり、彼女は複数の場所で同時に「自分」を存在させられるのだ。普通の分身とどう違うのかと問われた場合、私は「知らない」と答える。
「私が一番面白いと思ったのは――貴女」
細く白磁すらも超えた美しい人差し指で、微笑みと共に私を指差す輝夜。
どうやら、私の行動は彼女の興味を惹いてしまったらしい。どう足掻いた所で、最初から逃げ場などどこにもなかったわけだ。
「皆が止まった月と竹林の迷路を見ている中で、貴女は違うものを見ていた。そうでしょう?」
「……えぇ、そうね」
まぁ確かに、最初から異変そのものへの興味はあんまりなかったけども、そんなに露骨だったかなぁ。
輝夜が他人の機微に聡いのか、私が途轍もなく解り易いのか……
考えるまでもなく後者ですね、解ります。
「「誰かの為に」――美しい言葉ではあるけれど、本質は違う。それは、自分以外の何かに責任を押し付ける為の詭弁でしかないわ」
人形たちに支えられ立っているのがやっとの私を見下ろすように、瞳を細める輝夜からの視線が送られて来る。
咎めているのではない。ただ純粋に自分の内に浮かんだ疑問を解消しようと、事実を整理しているだけだ。
「「自分」を持たない心なんてありはしないのに、貴女は頑なに自分の欲望を他人に押し付けて来た――ねぇ、教えて? 貴女はどこに居るの?」
酷く抽象的で、曖昧な質問だ。
そして、驚くほどに核心を突く質問でもある。
本当に、良く「見て」いるものだ。これが、蓬莱の姫の力――否、彼女の「見えている」ものか。
あぁ、そうだね。その通りだ。
魔理沙を守って、妖夢と咲夜の為に頑張って――自分の事なんて、全部後回しで。
私は
だから、何をするにもそれ以外の理由に縋ってる。
だけどね、私はそれを恥だとは思わないよ。
だって、例え誰かを理由にしていたとしても、私が本心からそうしてあげたかったという気持ちに嘘なんてないんだから。
「その答えはどこ? 貴女は一体、そんな身体になってまで何を探し求めているの? 教えて欲しいわ、お人形さん」
私の超常を読み取る両目に、前で組んだ輝夜の手の平へと魔力にも霊力にも似た「力」が収束されていく光景が映る。弾幕ごっこで使うには些か過剰な威力であり、放たれれば人形の防御ごと私を消し飛ばすには十分過ぎるほどの破壊力が込められている。
無回答は、死あるのみ。今すぐこの場で答えを示せとは、なんとも新手の難題だ。
なるほどですねー。
私の答えが気に入らなかったら、魔法使いから影女(物理)に強制ジョブチェンジさせられるわけですかー。
――ふ、甘いな輝夜。
私の名台詞保有数は――五十三万だ!
流石にそこまでの数はないと思うが、それでもこの手の問いに関する答えを私は幾らでも知っている。知っているだけではなく、語られるそれら全てが正しい答えであると確信している。
彼女が気に入るかどうかまでは解らないが、どうせ決定権は相手側にあるのだから自分の好きな言葉を好き勝手に吐かせて貰おう。
「――「心」は、どこに
言われっ放しに仕返しをするかのように、私は輝夜へと問いを返す。
私が創作物の名台詞を好むのは、これが人間の言葉だからだ。
人間が考え、人間が想いを込めて誰かに語らせた言葉だからこそ、私は敬意と憧憬を持ってその台詞を口にする。
「ふふっ、ここかしら?」
私が違う答えを示すと解っているのだろう期待した顔で、輝夜は自分の胸へと手の平の一つを添える。
「多分ね、私が思うに……心は「ここ」にあるのよ」
対する私が拳を突き出し示した先は、私と輝夜の間にある何もない空間だ。
「貴女と私が触れ合う時、心は初めて私たちの間に生まれるのよ」
心の在り処を示し、部下へと心を置いて行った死神の遺言。
命を守り、誇りを守り――決して一人では死ぬなと告げた、そんな優しい温かさを秘めた男の言葉。
「心は体の中にはないの。何かを考える時、誰かを想う時――そこに「心」が生まれるの」
限界だった膝に負け、私はその場で両足を折って地面にへたり込む。だが、それでも言葉は止まらない。
「もし、世界に自分一人しか居なかったら、「心」なんてものはどこにもないのかもしれないわね」
だから、私は誰かと共にあれる事を誇りに思うのだ。
たった一人で生きて行ける精神と肉体を持ちながら、誰かと繋がっている自分であろうと努力出来るのだ。
頑張るさ。皆が大事だから。
頑張るさ。「戦って」「守る」事で、心が生まれてくれるのなら。
例えその先で、この命が
「心は――
私の想いは、誰かが引き継ぐ。
霊夢でも、魔理沙でも、咲夜でも、妖夢でも――誰だって良い。今ここには居ないだろう、パチュリーやフランだって構わない。
そうして、私はようやく辿り着けるんだ。ようやく立ち戻れるんだ。
今の私のこの身では、見守る事しか叶わないあの受け継がれていく温かな光の輪の中へ――っ。
命は惜しい。だけどこれが、これこそが、私の「誇りを守る為の戦い」なんだ。
「素敵な夢物語ね」
「そう思う? だったら――今から私が証明してあげる」
輝夜からの挑発に、私は更に両手を地面へと突く。
うん? ちょっと待って。
これなんか、外から見たら姫様にひざまずいてるみたいじゃね?
あ、ちょっと元気出て来たかも。
二重の意味で――我ながら、お前はいい加減現実を見ろと呆れてしまう。
でも、しょうがないじゃないか。大好きなんだから。
例え初対面であったとしても、私は彼女たちを嫌うなんて出来やしない。
好きで好きでしょうがなくて――出会えばもっと好きになって。
「出会ってくれてありがとう」だなんて、そんな恥ずかしい事まで思えてしまうんだから。
だから――これは感謝の証だ。
今宵、因幡の素兎、月の姫君、蓬莱の人の形――また沢山の友人に出会えた事への、感謝と友好を示す特大の花火。
「――
私の唱えた始動
これこそが、私がパチュリーと霖之助に頼み込んで一緒に作製した正真正銘最後の奥の手。腕の形をした名もなきオリジナル魔道具の真髄であり、内蔵された機能の一つだ。
機能の名称は、「
今の私は、近くにある
視覚によって把握し。
聴覚によって知覚し。
触覚によって掌握し。
嗅覚によって識別し。
味覚によって理解する。
吐き気が込み上げて来るほどの膨大な情報量が私の脳内を濁流として駆け巡り、通常の方法よりも更に深い部分で永琳の秘術を解き明かしていく。
竹林に来てから何度か崩してすでに解っているが、この術の
だが、術にほどこされた再生能力がそれを阻む。その圧倒的な速度を考えれば、私が一つを破壊する間に三つは修復されてしまうのだ。
このままでは、鼬ごっこにもなりはしない。
よって、再生される前に一瞬で吹き飛ばす。
事前に出していた命令により
彼女たちは爆弾だ。何体かは破壊されているようだが、それでも三百に近い彼女たちに内臓されている
そこから更に範囲を広げ、どこまで壊せるかが今回の分かれ目だ。
私は弱く、弾幕ごっこでも
敵の仕掛けを崩壊させ、味方の仕掛けを強化する。後方支援としては、十二分に上等な戦術だろう。
「すぅー――」
深く息を吸い込み、悲鳴を上げる肉体を無視して魔力と集中力を可能な限り高めていく。
この魔道具、実はまだ未完成品だったりする。私自身の技術も含め、改善すべき点が幾らでもあるのだ。
今繋げている永琳の術も大概だが、私がこの義手の機能を使って相手取りたい対象は、これよりも更に巨大で複雑な代物だ。
その対象――それは、この幻想郷を覆う箱庭の蓋である博麗大結界。
勿論壊す為ではない。術の全てが把握出来たのならば、それは破壊だけでなく再生も可能である事を意味している。
もしも幻想郷そのものを破壊しようと企む者が現れたとすれば、真っ先に狙われるのはこの結界だ。
戦えない私の出来る、最大限の支援。
私の耐えた一秒が、幻想郷を救うかもしれない。私の崩した敵の一手が、誰かの反撃の糸口になるかもしれない。
とはいえ、当代の巫女である霊夢でさえ部分的な干渉しか出来ないこの大規模な秘術に私の技術が届くのは、きっと数百年は先の話になるだろう。
未熟な私では、今はそれすらも届かせる事が出来ない。
だから――私はもう一枚の切り札を切る。
もしかしたら――いや、きっと私はその為にこの魔法を組み上げ、そして完成させたのだから。
「ふぅー――」
続いて、深く息を吐く。
この勝負に、私の勝ち目は皆無だ。
だが、それで良いのだ。
私が勝つ必要はない。私の後を誰かが引き継ぎ、その誰の後を別の誰かが引き継ぎ――そうして最後に勝てたのなら、それは私の言葉の証明となるのだから。
今この竹林には、私の心を託せる沢山の仲間が居る。だから、何も心配する必要はない。
さて、八意永琳――
貴女の「頭脳」に私の「加速」がどこまで届くか、最初で最後の挑戦をさせて頂こうじゃないか。
私は負けで良いんだ。舞台の主役なんて、これっぽっちも望んじゃいない。
誰かが勝つ為に。誰かが頑張れる為に。
私は、喜んでそんな皆が昇る踏み台の一つとなってやる。
「明日も良い日でありますように――」
明日もきっと、皆が笑える朝が来るから。
だから――証明してくれ、私の愛する幻想郷。
私の言葉と、この願いが――決して幻想で終わるような下らない絵空事ではないという事を。
「……バースト・リンク――ッ」
脳内限りの、一千倍の超加速。
私の中でだけ、現実の三十分が一、八秒へと短縮される。
揺れる視界。頭が弾け飛びなほどの激痛。黒と白に明滅を繰り返す精神。
私という白蟻が、月の頭脳の牙城を侵す。
後は……お願いね……
皆……大好きだよ……
私の意識が無色へと染まり、抵抗も出来ず地面へと落ちるその瞬間――私の努力の証として、月の砕ける音が耳へと微かに届いた気がした。
◇
――アリス。
誰かの声が、私の名を呼ぶ。
――アリス。
もう、永遠に聞く事の出来ない大切だった誰かの声が。
――アリス。
――イヤだっ。
――貴女と別れるなんてイヤだっ。
――最初の別れが貴女だなんて、私はきっと耐えられないっ。
――アリス。
――人間のままで生きたいのなら、人間のままで死にたいのなら、私はそれを可能とする
――これが、貴女の願いを踏みにじり尊厳を侵す我侭なのは十分に解ってる。
――だとしても、私は罪を犯してでも貴女と別れたくないんだっ。
――だからっ。
――アリス――貴女は――
――イヤだ……イヤだよ……
――お願いだよ……死なないでよ……
――私を、置いていかないでよ――●●●――
どれだけ悲しむ振りをしても――
どれだけ嘆く振りをしても――
私の心は小さく震えるだけで、涙一つ流す事が出来ない。
彼女との別れを納得し、受け止める事が出来ない。
置いていった彼女の心を――私の両手は拾い上げる事が出来ない。
彼女の存在は、私にとっての理想だった。
彼女の言葉は、私にとっての呪いだった。
焼き付くように猛々しく、魂の根幹にまで突き刺さる強烈にして鮮烈な極光。
私はきっと、あの時から狂い続けているのだ。
闇に住まうべき身体を持ちながら、輝きと熱に満ち溢れた太陽へ恋焦がれてしまうほどに。
その温かな希望を背にした、人間を愛してしまうほどに。
――貴女は――
起きた時、私はまた何もかもを忘れているだろう。
だけど――それでも――
この小波のように起こる悲しみと嘆きの先にある想いは、きっと私の魂が覚えている。
永遠に、この甘く苦い「愛」という名の毒の味と共に――
◇
博麗大結界を傷付けた黒の波動による穴は、発動場所から距離が開いていた事もあってそれほど大きな損傷ではなかった。
長さにして膝丈よりも短く、広さは精々指二本が通るかどうかという程度。例え小さな子供であったとしても、腕一本通す事すら難しいだろう。
「これは……どういう事ですの?」
だが、その穴が塞げない。
安定した破滅。そんな矛盾染みた謎の「力」が、崩壊した結界の切り口にこびり付いて離れないのだ。
スキマを使って取り除こうにも、干渉した端から飲み干されてしまう。空間ごと切り取ろうとすれば、やはりその部分だけが転移を拒絶する。
大妖怪の術を持ってしても、正にお手上げの状態だった。
幸い、この謎の「力」は広がる事もなく徐々に範囲を縮小し始めている。このままいけば、長くて一ヶ月、短ければ十日ほどで完全に消滅してくれるだろう。
しかし、それまでは例え幻想郷の賢者である紫でさえ一切の手出しが出来そうにない。
「今は、この黒い「力」に触れぬよう外から囲う形で別の結界をはめ込んでおくのが妥当かと」
この衝撃によって別の場所が損壊していないかを確認していた藍が、異常なしという報告の後で主へと進言する。
「継ぎ接ぎだなんて、美しくないわねぇ――でも、確かにそれぐらいしか打てる手はなさそうですわね」
結局試した手段の全てが無駄に終わり、扇子で口元を隠す紫の表情にはありありと不満の色が滲み出ていた。
こんな事を仕出かしたアリスへの怒りと、追い詰めるだけ危険になるあの人形遣いを窮地に立たせた敵側への怒り。
一体どう報復してやろうかと神算を巡らせ始めた大妖怪の耳に、ビギッというガラスが割れるような耳障りな破砕音が響く。
「これは――っ」
「へぇ」
振り返ったその場所では、偽りの月が笑えるほどの満身創痍となっていた。
冷たく大きな球体のいたる所に亀裂が走り、しかし完全に砕けるまでには至っていない。ほんの少し指で突くだけで終わるような、そんなギリギリの地点で辛うじて耐えている有り様だ。
霊夢では破壊が半端過ぎる。魔理沙では不可能だ。
その他の誰でもないのなら、これは今頭の中で思い浮かべていた彼女の仕業だという事。
「アリス・マーガトロイド……」
隣に立つ従者が、割れた月を見つめながら確かめるように硬くその名を呟く。
竹林に掛けられていた術式は、紫にして解除に三日は掛かると思わせるほどに精密で堅牢だった。
特にあの再生機能を前に、ここまでの損壊を一瞬で与える事はこの楽園において最高峰の術者を自負する「八雲」でさえも相当に困難な所業である。
あの人形遣いが一体何をしたのか。紫は博麗大結界の損傷に集中しており、その場面を目撃する事が出来なかった。
今更スキマで覗いた所で、解るものでもないだろう。
もしかして、ここまで想定した上で彼女は大結界に損傷を与えたというの?
手の内を隠し、その上で私に脅しを掛ける為に――
いいえ、逆ね。これは、「その時が来れば、一緒に幻想郷を守ってあげる」という彼女からの申し出。
ここまで破壊出来るのならば、そのまま術式の崩壊まで持って行く事も不可能ではなかったでしょうに。
今回のこれは、あくまで私や他の実力者たちに見せ付ける為のデモンストレーションだと言う訳ね。
弱くて甘い未熟者が、一丁前に私と張り合おうだなんて――存外可愛い所もあるじゃない。
紫は、扇を持つ手を前方へと突き出し己の能力を発動させる。
月に出来上がった無数の亀裂――そこに開いた同じ数だけの隙間は、一瞬にして彼女のスキマに埋め尽くされた。
一つ二つの傷に差し込んだ程度ならば、例え紫であっても術の再生能力を前に押し負けていただろう。だが、ここまでお膳立てがされている状況で彼女が失敗する可能性は塵一つ分すら存在しない。
獲物の首を切り落とすように、紫の扇が右から左へと振り抜かれる。
それだけで、空に上っていた偽りの月はあっさりと砕け散った。天の術と繋がった地上の術も、影響を受けて崩壊を始めている事だろう。
アリスが崩した術式は、紫によってとどめを刺され無残にその屍を溶かしていく。
「……生意気ですこと」
現れた本物の月を見上げ、紫は楽しげにそんな言葉を漏らした。
月が元に戻ったのなら、この異変ももう幕引きだ。今度は自分の仕掛けた術を解除し、停止させていた月の動きを元へと戻す。
止まっていた時間を取り戻すように、月は足早に西の空へと沈んでいく。時計の短い針が数字を一つ進める頃には、空の風景は問題なく正常な形へと戻っている事だろう。
世は並べて事もなし。この一夜も、異変というお祭りとしてこの幻想郷に語り継がれていく。
――だから、紫は見過ごしてしまう。
彼女の従者も、見過ごしてしまう。
偶然とは重なるもので、運命とは導かれるものだ。
初代博麗の巫女と八雲紫の発動させた博麗大結界は、認識と空間を同時に歪曲させる秘術。
未来か、過去か、現在か――はたまた魔界か別次元か。強引な手段で破壊すれば、それこそその先がどこに繋がるかも解らないほどに繊細で危険な代物なのだ。
「――今のって、結界の裂け目よね……」
塞がれていくほんの一瞬、結界の傷口を覗き込んでいた少女がそんな独り言を呟く。
外の世界の常人に結界の綻びなど見えるはずもなく、つまりそれを覗き込める彼女は普通ではないという証明に他ならない。
それは、未来に落ちる過去の可能性。
卵が先か、鶏が先か――そんな、どこにでも転がっている
「あのモフモフしてる人の隣に居たのは……ひょっとして――私?」
白のナイトキャップ、胸元に赤いリボン――そして、
「……まさかね」
「ごっめーん、遅れちったー」
「――ま・た・ち・こ・く。五回連続だから、約束通り今日の支払いは全部貴女持ちよ」
「はーいはいはい、解ってますって。ほら、行こうっ」
「あーもー、そんなにあっさり……少しは反省しなさいよぅ」
秘密を探すモラトリアムの少女とその相方の名は、今は語らぬままとしておこう。
境界を覗く少女の瞳が、境界を操る少女の背を捉えた。その事実が、いずれ一つの意味を持つだろうその時まで――
◇
アリスの最後の抵抗は、竹林全体と空に浮かぶ偽りの月に大量の亀裂を走らせていた。
そして、数秒もしない内に亀裂は致命的な崩壊を起こす。人形遣いが語った通り、彼女の後を誰かが引き継いだのだ。
アリスの意地は、確かに証明された。
「……なんて言うか――気持ち悪い奴だね」
キラキラと淡く光る力場の破片が降り注ぐ中で、今まで黙って会話を聞いていたてゐがアリスに対する感想を漏らす。
傍で気絶した人形遣いに目を向けながら、特に介抱する気もないらしく近づこうとすらしない。
「良い事は言ってるんだけどさぁ、きっと経験則じゃなくてどこかで聞いた言葉をそのまま吐いてるね。願望混じりの理想論だ」
アリスの言葉を聞いたてゐに、感動をしている様子はなかった。変わりに、酷く疲れる相手を見るような面倒そうな表情で気絶した少女を見下ろしている。
殉教者。この人形遣いを表す言葉としては、妥当な表現だろう。
人間とは比べるまでもない悠久を生きる妖怪兎が、見飽きるほどに見て来た阿呆の名称だ。
「自分の信じる言葉で自滅するタイプだよ。ろくな死に方はしないだろうから、あんまり進んでお近づきにはなりたくないね」
「あら、てゐはそういう娘がお嫌い?」
「いんや、この手の輩は勝手に誠実であろうとしてくれるから、付き合う分にはむしろカモだ。生きている内は、それなりに仲良くやるさ」
「悪い子ね」
「これでも、割と長生きしているもんで」
袖元で口を隠しクスクスと笑う輝夜に向けて、てゐはひょいっと肩をすくめて見せる。
幻想郷では、この程度の死などどこにでも溢れている。素兎にしてみれば、今更慌てるような感性も持ち合わせてはいない。
「貴女はどうかしら、妹紅?」
「別に、興味ないね。ただ――」
こちらも黙ったままだった鳳凰の少女は、首の後ろに片手を置いて軽く捻り、ゴキッ、ゴキッと二回音を鳴らした後でゆっくりと足を開きながら突進するような前屈みの姿勢へと自分の重心を移動させていく。
「今日の
「単純な娘ね――可愛いんだから」
笑顔を深める輝夜の両手にあった力は、拡散する事なく収束し七色の宝玉が実った一房の枝へと変化していた。
「そんじゃ、お二人さんごゆっくりー」
「てゐ、その娘を永遠亭に運んであげて」
これから始まる盛大な自然破壊を前に、一人――動物型のイナバも連れて、一人と一匹でその場を逃げようとしたてゐへと輝夜がアリスを見ながらそんなお願いをする。
「良いのかい? お師匠は、多分殺したがると思うよ」
この魔法使いが見せ付けた二つの「力」は、輝夜の喉元へと届き得る。そして、それが本当に必要となった場合躊躇いなく使用するだけの精神も持ち合わせている。
第一の従者として姫の安全を最優先とする永琳にしてみれば、殺さない理由を探す方が難しい相手だ。
「気に入ったの。永琳は、私が説得するわ」
「さいで」
組織のナンバーツーが存在を否定しても、ナンバーワンが生かすと言うのならばこの話はそこでおしまいだ。永琳は輝夜の決定に逆らえず、また逆らおうともしないのだから。
「よっと――軽いなぁ。ちゃんとメシ食ってんのかねぇ? そんなんだから、すぐにへたばっちゃうのさ」
その小さい身体のどこにそんな膂力があるのか、てゐはぶつくさと小言を言いながら力を失ったアリスを抱え上げて肩に担ぐと、身長差から手や足が地面で擦れるのは仕方がないと無視してイナバと共にそのままズルズルと運び去って行く。
「さて、それじゃあ改めて。始めましょうか――妹紅」
「あぁ、待ちくたびれたよ! 輝夜ぁっ! ――っ!?」
てゐたちの姿が竹林の闇へと消えた後、満を持して二人の激突が開始されたその中心に、また別の邪魔が入る。
そこには正方形をした巨大な結界が出現し、両者の火炎と光弾を完全な形で受け止めた上で罅割れ一つ起こさずに立ち塞がっていた。
「――また、余計な客人かい?」
「貴女の方には、そんなに用はないのよねぇ」
見上げる二人が見つけたのは、明るみ始めた空を背に竹林を抜けた真上で風を受けながら静かにたたずむ紅白の少女。
「紫が術を解いたって事は、この
それは、他に一切の余地を挟まない「決定」だった。油断も慢心もなく、霊夢はただ淡々と霊符と針を両手に構えて臨戦態勢を取る。
「二人一緒で良いわよ。その方が、手間も省けるし――っ」
挑発のつもりなどないのだろう霊夢の言葉に、返答として極大の火球が繰り出された。巫女は慌てず騒がず、直前で盛大に弾け散弾となったそれらを掠る事すらなくあっさりと回避する。
「三つ巴で良いだろう。お遊びでもこいつと組むだなんて、それこそ死んでも御免だからね」
二回も出鼻を挫かれて鬱憤が溜まったのか、ギラギラとした獰猛な笑みで戦意を滾らせる妹紅の背に不死鳥の両翼と分かれた尾が顕現し、周囲の温度を引き上げながら更に勢いを増していく。
「奇遇ね。私も貴女とおんなじ気持ちよ、妹紅。最後に立っていた者が勝者――それで良いでしょう、博麗の巫女さん?」
「好きにしなさいよ。どうせ勝つのは私なんだし」
手に持つ枝をもてあそびながら、輝夜も霊夢へと笑い掛ける。霊夢は表情を変える事なく、身体を反転させて高速で落下を開始させた。
「はっ、若い身空でその思い切り! 小宵の弾が、お嬢ちゃんのトラウマにならなきゃ良いけどね!」
「今まで、何人もの人間が敗れ去っていった五つの問題――貴方には幾つ解けるかしら?」
「お喋りね。心配しなくても、なんとなく貴女たちが死にそうにないって事は解るわ――だから、きっちり百度は殺してあげるっ」
三者三様――三つの弾幕が地面を抉り、竹林を爆砕し、始まりを迎える朝を色彩豊かに染め上げていく。
もしも仮に、この勝負が三日三晩続いたとしても――それでもいずれ終わりは来る。
異変が終わり、昨日も終わり――その明日が、未来が、今ここに在るものたちによって形作られていく。
繰々と、来々と、狂々と――
終わらない永遠は、永遠に訪れないのだから――
◇
「――急々如律令! 悪気の力を散らしめよ!」
橙が札に込めた霊力が閃き、その式が病魔を弾く矛である半透明の鳥となってアリスの体内へと溶け消えていく。
しかし、式を発動した白い札は一瞬で漆黒へと染まり果て、ボロボロと崩れて妖猫の手より失われてしまう。
「なんで!? なんで治ってくれないの!?」
習った通りの手順で、習った通りの式を打ち、習った通りの術を発動させているのに――その効果だけが、習った通りの結果になってくれない。
アリスを運ぶてゐたちと鉢合わせし、誤解が発生しそうな場を素兎の話術で無事に回避した魔理沙と橙。一行は、てゐの案内の元一足早く永遠亭へと到着し室内で早速アリスの治療に取り掛かっていた。
平たく横に長い机を幾つか重ねて毛布を敷いた即席のベッドの上で、アリスは眠るように気を失っている。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
呼吸は浅く、顔色も悪い。普段が一切変わらない無表情なだけに、その変化は一段と悪い方向への予感を与えてしまっていた。
「ぐしゅっ……私が、私がもっと真面目に修行してれば――っ。急々如律令!」
自己評価が低いだけで、アリスの魔法使いとしての技量は橙の式術の上をいく。彼女のそれよりよほど長く厳しい修行を重ねている式の式を無自覚のまま追い抜いている辺り、その才能がいかに理不尽なほど優れているのかが解ろうというものだ。
そんな無駄に才能の溢れるアリスに治せなかったものが、橙に治せる道理などなかった。
己の非才を嘆きながらそれでも一生懸命に札を書き直し、式を打ち直して再び術を発動させる橙。
結果は変わらず。札は病魔の前に敗北し、橙の手から無情に失われていく。
「治って! 治ってよぉっ! このままじゃ、アリスが死んじゃうよぉ……っ。らんしゃまぁ……」
涙で顔中をぐしゃぐしゃにしながら、橙は主人の名を呼んでアリスの胸へと顔を埋める。
何十回も式を打ち、橙の霊力も限界だ。これだけやれば、重篤な患者でさえ完治して飛び起きるほどの治療を施しているというのに、アリスの症状は小康状態を保ったまま上にも下にも進まない。
「一応言っておくとさ――」
橙の健気な看病を眺めながら、てゐは自分の分だけ入れた緑茶を湯飲みですすり至って平静な声音で隣に立つ魔理沙に言葉を投げる。
「あの人形遣いが食らってる毒は、猫ちゃんが心配するほどのものじゃないよ。死にそうになるけど、死にはしない――そんなろくでもない代物だ。当然、作ったお師匠じゃないと解毒方法は知らない」
「……見てれば解るよ。黙ってろ」
てゐに向かって理不尽なほど殺気立った視線を向け、永遠亭にあったガーゼや包帯などを勝手に使い折れた右腕を吊った状態の魔理沙が、身体中治療跡だらけで苛立ちと共に吐き捨てた。
アリスの体内を侵す毒がもしも致死性のあるものだったのなら、散々無茶をした時点でとっくの昔に死んでいるはずだ。
そんな事をわざわざ説明されても、魔理沙には鬱陶しいだけだった。
「へいへい」
てゐは、そんな魔理沙の態度に怒るでもなく適当に返事をするだけだ。その余裕が、魔理沙を更に苛立たせた。
アリスが口を開く。先程から、ずっと同じ台詞を繰り返している。
「……まって……いかないで……」
誰の事を言っているのだろうか。
なんの事を言っているのだろうか。
アリスの繰り返す囁きの意味を、魔理沙は理解出来なかった。解るのは、それがこの少女にとってとても大切な何かだというその一点のみ。
「……ばっかやろうがっ」
だから、コイツと組むのはイヤだったんだ。
誘われた時、その場で断れば良かった。他の連中から実力者扱いされてるのが気に食わなくて、化けの皮を剥いでやるなんて考えなければこんな事にはならなかったのに。
私にこんなに惨めで悔しい想いをさせておきながら、口から出るのは引き止める言葉。
待ってないのはお前じゃないか。先に行ってるのはお前じゃないか。
「追いかけてるのは――私の方だろうが……っ」
歯を食いしばって、涙を耐える。一粒でも流れた瞬間、もう駄目だと解っているから。
止まらなくなると、解っているから。
目頭に浮かぶものは、眠気のせいで勝手に出て来たものだ、なんて自分の心にまでそんな言い訳をして。
「――若いねぇ」
姿形に見合わない老獪兎のしみじみとした感想は、誰に聞かれる事もなく虚空へと消えていく。
朝が来れば、夜が来る。
晴れの空は、雨になる。
しとしと濡れる、霧雨に――
しとしとと、しとしとと、誰かの代わりに空が泣く。
いたいよう、いたいようと泣きながら――晴れを目指して空が泣く。
優しく、冷たく、少し悲しい――そんな朝焼け過ぎの一幕が、音に紛れて引いていく――
フルボッコだドンッ!
目指せフルコンボ!