東方有栖(アリス)伝   作:店頭価格

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抜剣覚醒! アリスちゃん!


80・汝、死にたもう事なかれ

 蒼に憧れた。

 優しく、強く、大らかで、私の目指す理想とも言えるその教師の背に強い憧憬を抱いた。

 ああいう風に生きる事が出来たなら、きっと後悔なく死ねる。

 だから私は、この憧れを忘れないようその前身である碧と紅の魔剣を作った。

 土台となる骨子は、かつて紅魔館で開いたあの魔本の中で「彼女」から貰った最高純度の魔石(ジェム)から。

 そして今、私は紅の魔剣を抜く。

 私にはきっと、紅が似合うと思ったから――

 

 

 

 

 

 

 義手を吹き飛ばされた直後、私の中に浮かんだのは激痛への悪態でも無謀への後悔でもなく、星への申し訳なさだけだった。

 逃走中、破壊された人形を回収し調べた結果、人形たちの核である魔石(ジェム)は一切傷付けられていなかった。

 藍の時もそうだったが、どうやら高位の存在が妖術や魔術などを身に付けると私の「眼」と同じように妖気や魔力の大きさや流れをかなり正確に知覚出来るようになるようだ。

 真剣勝負をしているように見えて、結局私は何時も通り手加減されっぱなしだったという訳だ。

 しかし、星自身私の振った茶番劇に乗って来る程度には、ストレスを発散したいという欲求はあるのだろう。

 そして、怒り狂っている振りをしながら私の生身でない部分を察して攻撃して来る辺り、星はまだ明らかに遠慮している。

 私のひ弱さが、彼女の遠慮の原因だ。

 受け止めるなどと偉そうに宣言しておいてこの体たらくとは、本当に情けない。

 星は優しい娘だ。そして、途轍もなく不器用な娘でもある。

 叩き付けられた壁から起き上がろうと床に付いた手から、硬質な石ではなく柔らかな土の感触が返される。気が付けば、城の中に居たはず私の眼前に広がっていたのは、慣れ親しんだ故郷の草原だった。

 魔界へ飛んでからそれなりに時間が経過していたのか、太陽は空を茜に染め西へと大きく傾いている。

 城の前で早苗が何かをしていたのは、監視用の人形経由で上海から報告があった。

 何をしているのか疑問に思っていたが、なんと彼女は海の代わりに「界」を割ってのけたのだ。

 出会った頃から成長を続ける風祝(かぜはふり)の偉業に感動しつつ、私は蓬莱へと右手を差し出し彼女の核である魔石(ジェム)を受け取る。

 

「星――私の勝ちよ」

 

 幻想郷へ戻って来た以上、ルール違反を盾に私が待ったを掛ければ星は止まるだろう。

 それでなくとも、とりあえず拳一発分だけ食らってお茶を濁そうなどと考えていたが、早苗の助力を受けて気が変わった。

 幻想郷に帰り着いたからこそルールを破ろうなど、どうやら私もそれなりにこの土地に馴染んでしまったらしい。

 

「来なさい――「紅の暴君(キルスレス)」」

 

 私の唱えた開錠の宣言をもって、私の魔力を取り込んだ魔石(ジェム)が変貌を果たす。

 最初に寅丸星という女性を見た時、私は彼女の事を真面目で我慢強い女性だと思った。

 そして、何処となく私に似ている娘だと。

 事実、その感想はきっと間違いではないのだろう。

 耐えて、耐えて、耐え続けて、自身が潰れてしまうまで――否、潰れたとしてもなお耐え続ける。

 星は何時も、聖を助ける為に何が出来るかを口にしていた。だが、「その先に居る自分」を語った事は一度としてなかった。

 彼女はきっと、あの場所を死地と決めていたのだ。聖を助けた後の世界に、自分の居場所はもう要らないと。

 そうまでして、彼女が一体何を背負っていたのかは解らない。

 だが、彼女がこれ以上の生を諦めている事は、一緒に過ごす内になんとなく理解出来た。

 もがき、足掻き、苦しんで、そうして全てを諦める。私にも、そうした日々を過ごした経験があるから。

 星はきっと、聖を助ける為にずっと頑張って来たのだ。

 頑張って、頑張って、頑張り続けて。そのせいで、「頑張らない自分」というのを忘れてしまっているのだ。

 このままでは、彼女はきっと聖が復活した後も心から笑う事が出来ない。それどころか、生き残った事を恥じて何処かへ去ってしまうだろう。

 幻想郷は、厳しくも優しい土地だ。

 彼女が、今まで誰も受け止められず一人でずっと悩みと苦しみを抱え続けて来たのなら、私がその役を担おう。

 その怒りも、悲しみも、私が全部受け止めてみせる。

 

 誰だったか、随分昔に同じような事をしたっけ。

 自分だけでは上手く泣けずに、歯を食いしばって耐え続けてた小さな子供。

 名前も、姿も、何も思い出せないような懐かしい過去のお話。

 あの子はもう、泣き止んでくれたかな。

 もう、私が居なくても自分でちゃんと泣けるようになれたかな。

 

「あ……アぁぁアアァぁぁぁあアァ!」

 

 来いよ、星。

 宝塔なんて捨てて掛かって来い!

 

 私の口から、苦悶とも歓喜とも付かない咆哮が漏れる。

 ここではない、別の世界(原作)の物語。

 五つの世界を巡るその壮大な物語の中で、「共界線(クリプス)」という概念が登場する。

 世界の全ては「界の意思(エルゴ)」と呼ばれる存在と繋がり、大小を問わず影響と恩恵を受けており、「共界線(クリプス)」とはその繋がりそのもの指した名称だ。

 物語の敵となる組織は、この「共界線(クリプス)」を掌握し「界の意思(エルゴ)」に成り代わる事で万物を我が物にしようと研究を行っていた。

 悪の組織に相応しい、途方もない世界征服計画である。

 研究の副産物として、組織によって生み出された魔剣は二つ。一つは「碧の賢帝(シャルトス)」、もう一つが「紅の暴君(キルスレス)」。

 二つの魔剣は、とある事情により物語の地の一つである孤島内という限定ではあるが、契約者がその土地の「共界線(クリプス)」を掌握する為の鍵となる機能を備えていた。

 私が模造品として作製したこの魔剣たちにも、当然同じ機能が備わっている。

 私の抜いた「紅の暴君(キルスレス)」と繋がるその島の名は――幻想郷。

 「共界線(クリプス)」の代替は、この地の地下に流れる地脈と呼ばれる万物を内容した無限の奔流。幻想郷という大地に生きる全ての存在と繋がり、決して無視する事の出来ない命の葉脈。

 地脈を利用した装備や術の研究は、早い段階から進めていた。

 紅魔館の周辺、妖怪の山の各地、太陽の畑に永遠亭のある竹林。幻想郷の各地を渡り歩く時、私は訪れた土地へと小さな人形たちを埋めていく。

 気の遠くなるような作業も、何かのついでであればそれほど苦にはならないものだ。

 永夜異変の時に見た永琳の「天文密葬法」を参考に、地脈の流れに沿うようにして埋めていった人形たちの数は、恐らく数万を超えるだろう。

 「共界線(クリプス)」と繋がる工程の中で、最も大きな危険(リスク)は、接続者に流れ込む絶望的なまでの情報量だ。

 人々の喜び、怒り、悲しみ。成長する木々の歓喜、踏み締められた小石の苦痛、吹き散らされる風の嘆き、ありとあらゆる存在の感情や痛みを、魔剣の契約者は一手に受け入れなければならない。

 普通であれば狂うだろう。普通でなくとも、そんな馬鹿げた量の情報を受け止められる者など、存在するはずがない。

 ありとあらゆる苦痛が、私の身体(なか)を蹂躙する。

 ありとあらゆる感情のうねりが、私の心象(なか)を蹂躙する。

 しかし、私が狂う事はない。

 私の抱える致命的な欠陥が、この程度の不条理で壊れる事を許してくれない。

 まるで、繰り返される絶望に己の死を望み続けた、この魔剣本来の所有者のように。

 

 星ちゃんよ、一緒に青春しようぜぇぇぇぇぇぇ!

 夕日をバックに殴り合いだぁぁぁ!

 

 心の中で叫んでみても、それは虚しい一人芝居に過ぎない。

 どれだけの苦痛が全身を駆け巡ろうと、どれだけの感情が叩き付けられようと、私自身の感情の波は一定値で止まりその先に進まない。

 魔剣の輝きが最高潮に達し、迫り来る猛虎へとその切っ先を振り被る。

 

 あぁ、繋がる――繋ガル――

 ワタシハ、イマ、ゲンソウキョウト、ツナガッテイル――

 

 意識が明滅し、視界が赤色に染まり果てる。

 私と星の決闘は、遂に最終局面へと移行していた。

 

 

 

 

 

 

 星にとって、相手の変化は劇的だった。

 振るった鉤爪と真紅の剣がぶつかり合い、大地の陥没と同時に周囲へと激震が走る。

 

「グ、グルウゥゥゥッ!」

「あァ、アアぁァァぁああぁァぁ!」

 

 鍔迫り合いの中、理性を捨てた獣の唸りと知性を蒸発させた狂人の叫びが重なった。

 半人半獣の如き容姿となった妖獣へ合わせるように、魔法使いの姿もまた大きく変化している。

 肩口程度だった髪は腰の下まで伸び、その色合いは蜂蜜を溶かしたような金髪から、雪原を思わせる銀に近い白色へ。

 限界まで見開かれた両の瞳は真紅となり、剣から伸びる茨を模した同色の光帯が、右腕へ巻き付くと同時に彼女の背面にて円環を形成している。

 視覚可能なほどに出力を増した魔力を神々しいまでの光として発するその美しい姿は、或いは天使のようだと例える事も出来るかもしれない。

 しかしそれは、人々に幸福をもたらす美しく穏やかな存在などではなく、悪魔を駆逐するべく刃を取り相手の血で全身を汚しながら殺戮を続ける破滅の使者としてだ。

 全身から溢れる魔力を更に滾らせ、アリスが拮抗した状態から一歩を踏み出す。

 腕を失った左の肩を振り被った瞬間、その場所に輝く白光で形成された新たな腕が生え伸びる。

 

「グガァッ!」

 

 魔力を込めただけの、単純な打撃。だが、込められたその魔力が尋常ではない。

 首から上が吹き飛びかねない強烈な一撃を横面に食らい、星は悲鳴と共に背後へと高速で弾き飛ばされる。

 

「「烈閃咆(エルメキア・フレイム)」!」

 

 魔力で編まれた左手の拳を開き、アリスが追撃として詠唱を省略した魔法を唱える。

 星は知らない事だが、今のアリスは地脈と繋がる事でこの世界そのものと接続しているに等しい状態となった。つまり、その外側にある世界とも距離を縮めた状態にあるのだ。

 

「グ、ガアァァァ!」

 

 「力ある言葉」のみで発動した白亜の火砲は、普段よりも数倍以上に範囲と威力を増大させ極大の閃光となって星の全身を焼き焦がす。

 

「「覇王雷撃陣(ダイナスト・ブラス)」! 「海王槍破撃(ダルフ・ストラッシュ)」! 「獣王牙操弾(ゼラス・ブリット)」!」

 

 覇王の雷、海王の水槍、獣王の烈光。詠唱という制限から解放されたアリスの手の平から、精神を滅す異世界の呪が次々と繰り出される。

 

「ガァァァッ!」

 

 頭上に出現した五芒星の魔法陣から放たれる大量の雷を全身に浴びながら、星は迫る水の波動を右の手の平で叩き潰す。

 

「――ッ!」

 

 衝突により血飛沫を撒き散らす右腕を無視する猛獣の口が限界以上まで開かれた瞬間、可聴域を超え、大地すら削るほど威力となった振動を伴う爆音が怨敵へと向けて解き放たれた。

 アリスの放った打撃と同じく、自身の妖気を込めただけの咆哮。

 正しく音の速度で放出された砲弾は、途中にあった獣王の牙を吹き散らし、回避の遅れたアリスの左腕を消し飛ばしてなお突き進み、彼方へと過ぎ去っていく。

 体勢を崩した魔法使いに、立ち直る暇は与えない。三歩も掛けずに彼我の距離を零へと縮めた妖獣が、その豪爪を振り被る。

 再び激突する爪と刃。

 腕力と技術で星が勝り、速さと威力でアリスが勝る。

 防ぎ、払い、受け止め――互いに必殺となり得る渾身の一撃を繰り返す。

 火花すら散る応酬の中で、再び魔力によって生み出されたアリスの左腕から放たれる斜め下からの逆袈裟が、遂に星の右手を手首付近から切り飛ばす。

 星の反撃は、左の鉤爪。はらわた全てを抉り取るように振り抜かれた鋼鉄に勝る凶器が、アリスの身体を無残に引き裂く。

 肉の千切れる不快な濁音と共に、互いの鮮血が音すら立てて周囲へと舞い飛ぶ。

 肉を切らせて骨を断つ。手首一つを対価に内蔵を潰した時点で、勝負は付いた。

 だが、それはアリスが魔剣を抜いていなければの話だ。

 魔剣の効果は、「共界線(クリプス)」への割り込みと同調。そして、強制的な支配とその奔流の流用。

 つまり今、この土地の新参者である毘沙門天の代理が果敢に挑んでいる化け物の正体は、幻想郷そのものの権化でもあるのだ。

 霊力、妖気、魔力、神力――そして、生命力。

 ありとあらゆる力が流れ込むアリスを殺すには、それこそこの幻想郷という大地を微塵に砕くだけの破壊力がなければ止められない。

 

「「復活(リザレクション)」!」

「グ、ガァッ!」

 

 吸血鬼もかくやと思えるほどの再生速度で、腹の傷を一瞬にして回復させたアリスの突きが、半ば勝利を確信したばかりだった星の左肩へ深々と刺し込まれた。

 

「「暴爆呪(ブラスト・ボム)」!」

「っ!?」

 

 僅かに生まれた一瞬の間隙。それを逃すアリスではない。

 ギゥンッ、という空気の軋む音を立てて、二人の周囲へと百を超える大量の熱火球が出現する。

 刃を引き抜こうとする星が逃げおおせるより早く、アリスの宣言は終了していた。

 

弾けろ(ブレイク)!」

「――っ!」

 

 獣の発する苦痛の叫びを飲み込み、生み出された火球たちが魔法使いの指示に従いその場で一斉に炸裂する。

 鼓膜が破けてしまいそうになるほどの爆炎と衝撃の蹂躙が、二人を飲み込み盛大な黒煙を立ち昇らせる。

 全方位から起こった紅蓮の花火によって、互いの身体が黒煙から弾き出された。

 地面を何度も跳ね飛び、更に長い距離を転がってようやく停止する。

 

「グッ……ガァ……ッ」

「ふぅっ……ふぅっ……ふぅっ……」

 

 巨大なクレーターと化した爆心地を挟み、共に荒い息を発しながらゆっくりと立ち上がる両者。

 服は裂け、髪は焦がされ、全身の皮膚が火傷によりグロテスクに爛れている。

 

「「復活(リザレクション)」……」

 

 消耗と負傷を続ける星に対し、アリスは即死しない限り何度傷付いても魔剣と魔法の恩恵によって即座に再生を繰り返す。

 だがしかし、例え結末の見え始めた勝負であろうとも、星が敗北を認める事はなかった。

 

「グルアァァァァァァッ!」

 

 己を奮い立たせる咆哮と共に、全身の妖気を限界まで練り上げた妖怪が怪物へと突撃する。

 対する魔剣使いも、無言のままその突進を正面から迎え撃つべく刃を構えた。

 大量の血が舞い、綺麗な平野を赤へと染めていく。

 爆裂。

 閃光。

 硬質な物体のぶつかり合う高音。

 肉の焼ける生臭い臭気。

 咆哮と絶叫。

 激震と轟音。

 そして――静寂。

 

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」

 

 限界を迎え、膝を付いたアリスの手から紅の魔剣が消失する。

 それと同時に、魔剣の力によって生み出されていた左腕が粒子へと解け、変化していた全身が元の姿へと戻っていく。

 限界を超える力の流入を続けた反動は、少女の顔面に右目を縦に通る形で大きな亀裂として克明に残されていた。

 無限に等しい魔力と再生を背景とした、理不尽なまでの蹂躙。

 そんな反則染みた戦術を取ったにも関わらず、人形遣いが得られたものは敗北一歩手前と言えるほどの辛勝だった。

 

「ァ……カ……」

 

 彼女の対面で大岩にもたれかかるようにして倒れた星は、完全に瀕死の状態だ。

 左腕は炭と化すほどに焼かれ、右足は付け根付近から切り飛ばされ、全身のいたる所に斬撃を食らい、蒸発した右目のあったくぼみから溢れる黒々とした血涙が頬を濡らしている。

 見た目には、生きているのも不思議なほどの重傷である。そして、妖怪だからこそこれほどの傷を負ってもまだ死の足音は遠い。

 

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」

「どう……して……」

「え?」

 

 アリスと同じく、生え伸びていた獣の部分を体内へと戻していく中で、星は荒い呼吸を繰り返す人形遣いへと掠れた声で言葉を投げ掛ける。

 

「どうして……貴女は許されるのですか……どうして、聖は許されなかったのですか……」

 

 それは、寅丸星という少女が抱え続けていた数々の苦悩を込めた、悲痛な叫びだった。

 

「ずるいじゃないですか……聖が、あの人が一体何をしたって言うんですか……貴女なんかより、ずっと頑張っていた彼女が報われないなんて……私が救いたい人が救われない世の中なんて、許せないじゃないですか……」

 

 人の姿へと戻った星は、泣いていた。残った左目から流れる涙が、次々と溢れて止まらない。

 世の理不尽への怒り、大切な人を助ける事が出来なかった不甲斐無さと、今なお続く罪悪感。

 そして、仏の化身として持つべきではない、世界そのものへの深い憎悪。

 

「聖がどれだけ努力をしても辿り着けなかった場所に居る貴女が、憎いのです……それがどれだけ身勝手な八つ当たりだと理解していても、私は貴女を恨む事を止められないのです……っ」

 

 それは、今という穏やかな時代に生きる事を許されたアリスへの嫉妬であり、羨望であり、嫌悪でもあった。

 世を呪い、人を呪い。ただ、大切な人が笑って暮らせる日常を夢見て、あらゆる絶望に耐え続けて来た。

 妖怪が滅び、神が失せ、神秘が科学に押し潰されてなお、彼女は移り行く人間の世界をただ眺める事しか許されなかったのだ。

 真綿が首を絞めるように、時計の秒針が進むように。

 ゆっくりと、ゆっくりと、怠惰にさえ届くほどの「諦め」が心の底へと澱んでいくのを理解しながら、それでも耐え続ける事しか許されなかった。

 

「死んでも良かったんです……ここで終われば、少なくとも私が今まで耐えて来た全てが報われる……だから、貴女を殺して私も死んで……それで終わりにするつもりでした……」

 

 人間と妖怪の共存。

 外の世界では、最早その理想を叶える事は不可能だろう。

 どれだけ人間が居ても、妖怪が居なければ始める事すら出来はしない。

 だが、幻想たちの為に残されたこの土地であれば可能だ。

 だとしても、星はもう疲れたのだ。

 聖の夢を叶える為に幾星霜を待ち続けた少女の精神は、すでに限界まで摺り減らされていた。

 もう一度、同じ目標に向けて歩き始めるだけの気力が残されていない自分の居場所は、聖たちの傍にはない。

 だからこそ、後を託せるあの僧侶を救い出し、そこで全てを終わらせたいと願ってしまった。

 

「いいえ、それは嘘よ。貴女に私は殺せない」

 

 アリスの否定は確信であり、そして紛れもない事実でもあった。

 理由もなく、ただ己のエゴと感情のみで誰かを殺すには、この虎の化生は甘過ぎた。

 自分の中に芽生えた心持つ者として当然の感情にさえ自責の念を抱いてしまうほど、真面目で、融通の利かない、そんな不器用な少女なのだから。

 

「嫌いです……貴女なんて、大嫌いです……」

 

 見透かされた事が悔しいのか、何処か拗ねたような口調で星が顔を逸らす。

 結局、星自身も理解しているのだ。自分は、これから先も生き続けるしかないのだと。

 疲れたのならば、休めば良い。

 止めたいのならば、止めれば良い。

 たったそれだけ。それだけで済むような簡単な答えを得る為に、随分と長い年月を掛けてしまった。

 暴れて、泣いて、吐き出して。今この時、寅丸星という少女はようやく己を許す道の入り口へと辿り着いたのだ。

 

「私は好きよ、貴女の事」

 

 風に乗って、アリスの声が流れる。

 平坦で、無機質で、それでも何処か優しげな口調で。

 

「優しくて、寂しがりやで、なんにでも一生懸命で。そして、大好きな人の為にどこまでも頑張れる甘えん坊さん」

 

 誰かの為に怒り、誰かの為に悲しみ、誰かの為に喜ぶ。

 片や、他人の身体に突然押し着せられた誰か。

 片や、「虎」を知らない人間たちの空想だけで組み上げられたまがいもの。

 自分という存在が希薄である分、外に外にとその関心と指標を据えてしまう。

 自分自身をないがしろにして、他人の幸せを願ってしまう。

 アリスと星は、お互いが考えている以上に似た者同士だった。

 

「生きなさい、星。貴女は生きるべきよ。今まで背負って来た苦しみ全てを清算出来るくらい、貴女の大切な人たちと一緒にこの土地で幸せになりなさい」

 

 だからこそ、星はアリスを嫌いになる。

 だからこそ、アリスは星を好きになる。

 二人の抱える本質に、本当は違いなどありはしない。

 

「ご主人! アリス!」

 

 見計らったようなタイミングで、二人の傍へと空から降りて来たナズーリンが着地する。

 どうやら小さな賢将もまた、早苗の起こした奇跡によって魔界から幻想郷へと運ばれたらしい。

 

「早く星を治療してあげて。死にはしないだろうけれど、傷は深いわ」

「……君は、どうするつもりだい」

「しばらくは動けそうにないから、ここで異変が終わるのを待つ事にするわ」

 

 ボロボロの身体で膝を突いた姿勢のまま、アリスはうつむき気味にナズーリンへと答える。呼吸はそれなりに落ち着いたようだが、言葉通り消耗し過ぎて身動きが取れないのだろう。

 そして、人形遣いはそのまま瞳を閉じて何も言わなくなる。

 気絶した訳ではなく、単に体力を回復させる為に無駄な動きを止めたのだ。

 その姿は、整った容姿も合わさりまるで糸の切られた人形のようですらあった。

 

「――そうか」

 

 しばらく時間を置いた後、恐らく沢山の言葉を飲み込んだナズーリンがポツリとそれだけ言って星を介抱しだす。

 

「ご主人、ご主人。私が誰だか、解るかい?」

「えぇ……解りますよ、ナズーリン……私は貴女に、沢山謝らないといけませんね……」

 

 意識の有無を確認した後、尻尾で抱えていた籠の中から明らかに内容量を超える横長の布を何枚も取り出し、自分の主人の身体へと巻いていく。

 

「そうだね。だが、良いさ。貴女が納得の出来る答えを得て、これから先も生き続けようとしてくれるのなら、私はそれ以上何も望まないよ」

 

 僅かに口角を上げたナズーリンの口調には、深い優しさがこもっていた。彼女もまた、傷付き続ける主人の姿をその隣で見続けて来たのだ。

 どれだけ悲惨な姿になろうとも、答えを得たのであろう星の穏やかな表情を見て、従者の顔にも自然と笑みと涙が浮かんでいる。

 

「ご主人、世界は美しいかい?」

 

 それは、おぞましく、悲しみに満ちた、辛く苦しい現実ばかりを地上で見て来た毘沙門天の代理へ向けた、残酷な問い掛けだった。

 救えぬ世を恨み続けた年月は、決してなくなりはしない。

 救われぬ仲間たちへの無念を抱き続けた年月は、決して短くはない。

 だが、それでも――

 

「えぇ……えぇ……世界も、貴女も、こんなにも……こんなにも、美しい……」

 

 全ての物事には過去があり、それはやがて今へと繋がり未来へと進んでいく。

 

「あ……あぁ……ああぁぁぁ……っ」

 

 さめざめと咽び泣く虎の化生を抱き締め、従者は何時までもその頭を撫で続ける。温もりを与えるように、共にあり続ける事を伝えるように。

 救いを与える御仏が、幻想の楽園にて救いを得る。

 泣き方を忘れた少女がようやく流せたその涙は、何処までも尊く、何処までも美しかった。

 




ナズ「ご主人の正妻ポジは譲らない。絶対にだ(確固たる決意)」

さて、この異変も幕引きが近づいて来ました。
忘れ去られているであろう他のバトルにも決着を付けて、広げた風呂敷を畳んでいきたいと思います。

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