東方有栖(アリス)伝   作:店頭価格

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頑張れなんて、気安く言うなよ。
彼女はもう、あんなにも頑張っているじゃないか。


83・それは、仏へと至る(やまい)

 酷く当たり前の事ではあるが、その「当たり前」を覆す事はとても難しい。

 妖怪が人間を殺し、人間が妖怪を滅す。

 人の想念と願望が生み出す、不毛なる負の連鎖。その中で生まれる喜劇と悲劇。

 妖怪を愛してしまった人間、或いはその逆。その結末が、めでたしめでたしでは終わる事はない。

 気紛れに拾った人間を育てた人食い妖怪は、やがて子殺しの果てに獣へと堕ちる。

 村一つを滅ぼした妖怪への恨みを晴らす為と、同じ妖怪というだけで大勢の人間たちから嬲られ命を落とす脆弱な命たち。

 この世は地獄だ。

 魔道に堕ちる事で「死」を乗り越え、暇を持て余していた私の目には何時も救いを求める者たちの悲痛な慟哭が溢れていた。

 最初は気紛れだった。続けたのは、助けた妖怪から肉体を維持する妖気を得る為の打算と、ただの惰性。

 人間も妖怪も関係ない。一人を救えば、もう止められない。

 皆が私に縋るのだ。皆が私に願うのだ。

 救ってくれと、助けてくれと。

 救われた者たちが向ける尊敬と感謝の視線に、優越感を感じなかったと言えば嘘になる。

 だが、それ以上に私が抱いたのは、救われぬ世を少しでも正したいと思う強い使命感だ。

 生にしがみ付いてまで逃れたこの世界が、こんなにも残酷なままなど許せるはずがない

 弟が生きたこの世界が、こんなにも醜いままなど頷けるはずがない。

 しかし、私の傲慢は時代の奔流にあっさりと飲み込まれてしまう。

 もう一人、もう一人と坂を転がり落ちるように手を差し伸べ続け、遂には破綻し全てが手の平からこぼれ落ちてしまう。

 解っていたはずだ、両者を謀る私のやり方は欺瞞でしかないと。

 予見出来たはずだ、人間と妖怪の確執が止まらぬ以上絶対に破滅は避けられないと。

 世界は、特に人間は「当たり前」を認める反面、「当たり前でない」ものを認めない。

 結局、私のして来た事は自己満足のお遊戯に過ぎなかったのかもしれない。

 「誰かを救いたい」という私の願いは、裏を返せば「私に救われるべき誰かを生み出したい」という愚かな欲に他ならないのだから。

 でも、それでも――伸ばしたこの手に、後悔はない。

 どうか、どうか。生きとし生ける全ての命に、安寧と平穏がありますように。

 どうか、どうか。私が死にたくなるような世には、決してなりませんように。

 祈りを此処に。願いを彼方に。

 届かぬと知りながら、叶わぬと知りながら、それでも私は祈り続ける。

 何時か、地上に楽土と呼べる理想の場所を作り出すまで、私の挑戦は続くのだ。

 それは、私の確かな「生きる意味」になっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 勝負が終わり、気が付けば白黒の魔法使いもよく解らない謎の妖怪も、何時の間にか居なくなっていた。

 どれだけ時間が経ったのかは定かではないが、少なくとも黄昏に闇色が一層深くなる程度ここで泣いていたらしい。

 こいし自身も、もうこの場に用はない。しかし、倒れた姿勢から起き上がる気力も涌いて来ない。

 結局は何もしないまま、こいしは星空へと変わりつつある空を眺め続ける。

 悪い事をしたんだと怒られた。

 余計なお世話だと突っぱねられた。

 小さな節介大きなお世話。少女は全てを把握出来ずとも、どうやら色々な者に迷惑を掛けたらしい事だけはおぼろげに理解出来ていた。

 だからといって、どうすれば良いのか。

 自分の事も、他人の事も、何一つ解らない。

 解らないまま遊び続け、今日という日に叱られた。

 

「あー、ようやく見つけたぁ」

 

 亡羊としたまま、このまま眠るのも良いかと目蓋を閉じようとしたところで、苦労を滲ませた溜息を吐く誰かの声が聞こえて来る。

 

「だぁれ?」

「わちきだよ」

 

 常人には聞き取る事の出来ないはずの問いに、当たり前のように答えが返される。

 こいしは軽く驚きながら、視線を声の方向へと向ける。

 

「何それ?」

 

 そこにあったのは、中途半端に折り畳まれた一本の大傘だった。正確には、そんな大傘の中に身体を隠す誰かだった。

 動きが制限されている為まともに歩く事すら難しいらしく、両足でぴょこぴょこと跳ねながらこいしの側へと近づいて来る。

 そして、閉じていた傘が開かれ、腹に血で染まった包帯を巻いた下着姿の少女が姿を現した。

 

「ぷはぁっ。あ゛ー、疲れたー」

「……なんで裸なの?」

「し、下着はちゃんと着けてるでしょ! それに、こんな格好になったのは貴女が私を刺したせいなんだからね!」

 

 こいしからの当然の質問に、傘に隠れていた少女――多々良小傘は顔を真っ赤にしながら反論する。

 どうやら、先程までの格好は今の下着姿を隠して移動する為だったらしい。

 

「おほんっ。私――じゃなくて、わちき、ようやく色々思い出したの。だから、貴女に一言言いたくて探してたんだよ」

「ふぅん」

 

 今更何を言われようと、こいしに興味はない。興味はないが、怒られるというのは余り良い気分にはならないのも事実だ。

 何も知らない方が幸せだ。

 何も思わない方が気楽になれる。

 見ず、聞かず、感じず、考えず。それこそ、石ころのような生き方をしたかった。

 古明地こいしという少女が読心妖怪として生きるには、この世界は少々汚れ過ぎていた。

 心を閉ざしたのは、他者の悪意が毒となる事を知ったから。

 瞳を閉じたのは、妖怪という己の業からの逃避。

 逃げて、逃げて、逃げ続け、そうして何時か、全てが救われるここではない何処か遠くへと辿り着ける気がしたから。

 そんなものがこの世の何処にもありはしないなんて、とっくの昔に気付いているのに。

 残酷な真実から目を逸らし、都合の悪い事実に知らない振りをして、ただ無心に、ただ無意識に、自分の殻の中へ閉じこもり続ける。

 この場から逃げる事も出来たこいしは、結局下着姿の少女からの沙汰を待つ事にした。

 

「ありがとう」

「え?」

 

 しかし、糾弾や罵倒を覚悟していたこいしの耳に届いたのは、悪意とは真逆である感謝の言葉だった。

 

「どうして?」

「え? 何が?」

 

 戸惑うこいしから投げられた質問の意図が解らず、小首を傾げる傘の少女。

 

「だ、だって、さっき魔法使いのお姉ちゃんは、お前が悪いって、皆が迷惑したって」

「あー、きっと魔理沙ね」

 

 ようやく得心がいったと大きく頷くと、傘を置いた小傘がこいしへとしゃがみ込む。

 膝を曲げた姿勢になったので、倒れたこいしには少女の純白の下着が眼前まで迫って来ているのだが、女の子同士なので問題はないはずである。

 

「もう、あんな乱暴者の言う事なんて信じちゃダメだよ。きっとアイツ、嘘吐きよ」

 

 日頃の行いによる因果応報ではあるが、折角頑張った普通の魔法使いに対して辛辣過ぎる評価だ。

 だが、小傘の言葉に間違いはない。

 

「確かに、わちきたちは貴女のせいで色んな目に遭ったんでしょうね。だけど、それをどう思うかを決めるのはわちきたちの自由よ」

 

 ある者が怒ったとしても、全ての者が怒る必要はない。

 逆に、小傘の言葉のみがこいしに振り回された全員の総意でもない。

 

「あのままだったら、きっとわちき、諦めてた。別の誰かに買われて、使われて、壊れて捨てられて――それで満足しちゃってた」

 

 感謝するのも、呆れるのも、許すのも、それは各々個人の裁量に委ねられる。

 魔理沙は怒ったし、小傘は感謝した。

 詰まる所、これはただそれだけの話でしかない。

 

「だけど、貴女がわちきを妖怪にしてくれた。懐かしい皆の声を聞かせて、恨みつらみの替わりに人への嫉妬(憧れ)を煽って。付喪神に成るには足りなかったわちきの為に、一杯一杯頑張ってくれた」

 

 星やナズーリンたちを幻想郷へ呼び込んだのも、あの夜に橋姫の元へと立ち寄ったのも、全てはたった一つの小さな目的の為。

 

「こんなに沢山考えて感じられる時間と身体を、貴女はわちきに与えてくれたの」

 

 そして、それこそがこいしが捨て去った「人付き合い」という生きる上で絶対に切り離せない、他者を認識する最短の手段に他ならない。

 

「貴女のお陰で、わちきは妖怪として生きようって思えた。だから、ありがとう。こいしちゃん」

 

 一方的でも、独善的であっても、小傘にとってこいしという存在は、確かな救いとなったのだ。

 そして、無邪気で満面なその笑顔は、こいしと言う少女へしっかりと向けられていた。

 

「――貴女は、会いに行かないの?」

「うん、行かない」

 

 こいしの問いに、小傘はきっぱりと答えを返す。

 誰に、と言わずとも理解出来る。

 

()()()()の時に貴女が(わちき)を連れ回してくれたから、事情は大体解ったわ。あの人は、わちきを捨てたんじゃない。忘れたんじゃない。ただ、帰って来れなくなっただけ」

 

 元より恨みはなかった。その上で、知る事の出来なかった当時の事情さえ把握出来たのだ。

 これ以上を望むなど、それこそ罰が当たってしまうかもしれない。

 そんな風に、小傘は考えているのかもしれない。

 

「だったら、わちきの事は内緒にしないと。わちきが正体を明かせば、きっと嫌な思い出も一緒にほじくり返しちゃうもの」

「貴女は、本当にそれで良いの?」

「良くないよ。でも、良いの」

 

 折角お喋りの出来る口が出来たのに、その姿を捉える目が出来たのに、会いに行ける足が出来たのに。

 付喪神として新生した少女が生まれて始めて選んだのは、己を殺すという優し過ぎる選択肢だった。

 

「それじゃあ、()()()

 

 それは、再会を願う別れの言葉。

 立ち上がった小傘が傘を開き、地面から両足を蹴り出す。

 

「うらめしやー」

 

 生まれたばかりの少女の口から、天へと向かって産声が上がる。

 恨まず憎まず、それでも生まれた人間が大好きな付喪神の、恐ろしさとは最も無縁な可愛い可愛い脅し文句。

 タンポポの綿毛が飛ぶように、ふわりと浮かんだ少女が空へと跳ねる。

 両の足で歩き、その目で捉え、己として生きる傘が、何処までも何処までも飛んで行く。

 それは、歪な幻想の園にあって間違いなく美しさと輝きを放つ光景であった。

 ――なお、その後自分が下着姿である事を思い出した少女が悲鳴を上げながら墜落して行くのだが、それは完全な余談となるだろう。

 また、その光景を偶然通り掛かったとある烏天狗が激写したとか、しないとか。

 幻想郷は、異変が起こっていようと平常運転だった。

 

 

 

 

 

 

 時を戻し、決着の場を後にした魔理沙は一人とぼとぼと足を進めていた。

 こいしへの突撃で箒が破壊された為、今の彼女は空を飛んでいない。

 それが、「箒がなければ飛べない」のか、「箒がなければ飛ぶ気が起きない」のかは定かではない。

 原因が未熟であれ意地であれ、結論が同じであれば詳細を突き詰める事に意味はないだろう。

 

「魔理沙さーん!」

「んお? 早苗か」

 

 とりあえず、予備の箒を取りに行こうと魔理沙が自宅へ向かっていると、上空からボロボロの格好をした早苗が下りて来た。

 

「酷い格好だな」

「む、魔理沙さんだって似たようなものじゃないですか」

「へへっ、名誉の勲章だぜ」

 

 早苗の言う通り、ボロボロなのは魔理沙も同じだ。

 しかも、あんな無茶な速度で地面に激突したのだ。もしかすると、肋骨にひびくらいは入っているかもしれない。

 そんな、身体中から上がる悲鳴を無視し、魔法使いは空元気を出して笑ってみせる。

 

「ねぇ。魔理沙さんは、勝ちましたか?」

「そういうお前は負けたのか、早苗」

 

 着地した風祝(かぜはふり)の表情からおぼろげに事情を察した普通の魔法使いが、無慈悲な確認の言葉を贈る。

 

「えぇ、完膚なきまでに。もうちょっとくらい、どうにかなると思っていたんですけれどね」

「身の丈に合わない慢心は、身を滅ぼすぜ」

「身の丈に合った慢心なんて、あるものなんですか?」

「おいおい、何寝惚けた事言ってんだよ。お前の目の前にあるだろうが」

「あぁ、なるほど。勉強になりますね」

 

 確かに、人間という身で妖怪や神へ挑もうと言うのだから、魔理沙ほど慢心している人間は早々居ないだろう。

 妖怪は、人間よりも強い。それは当たり前の事だ。

 その摂理に等しい当然の常識を、この白黒の少女はただ()()()()()()というだけの理由で覆そうとしているのだ。

 挫折を味わった経験は、一度や二度ではないだろう。

 苦悩なんて、今この瞬間でさえ抱えているに違いない。

 それでも、彼女は目指し続けるのだ。

 愚直に、何度でも、何処までも、一歩でも先へ進もうと足掻き続ける。

 その太陽にも似た輝きこそ、彼女が人間である事を示す何よりも強い証明になっていた。

 

「今、異変がどうなっているか解りますか? 恐らく、アリスさんを含めた皆さんも魔界から帰って来ているはずなんですが」

「霊夢は敵の親玉と、上で最後の勝負をやってるはずだ。他はどうだかな」

「そうですか。では、二人で霊夢さんの応援に行きましょう」

「ちょ、おいこらっ」

 

 箒のない魔理沙が空を飛ばない事は、それなりに周知されている。

 何時の間にかの背後へと回った早苗が、相手の両脇に腕を通して飛翔を開始した。

 

「大将戦が始まったのであれば、この異変の幕引きも間近でしょうからね。今回私はあんまり活躍出来ませんでしたし、最後くらい勝ち馬に乗っかっておきたいです」

「だからって、こんなこっ恥ずかしい格好のまま観戦する必要はないだろ! 予備の箒が家にあるから、先にそっちに行ってくれ!」

「えー、その間に勝負が終わってたらイヤじゃないですか。霊夢さん、異変の時は特に容赦がありませんし」

「はーなーせー!」

 

 じたばたと暴れる白黒の魔法使いをしっかと抱き締め、守矢の風祝(かぜはふり)が最後の戦場へ向けて浮遊する。

 

「わーっ、魔理沙さんって髪の毛サラサラですね! あの、顔を埋めてクンカクンカして良いですか!?」

「良い訳ないだろ! 離せ変態!」

 

 これから戦いの場に赴くというのに、二人の間には余裕があった。

 当然だ。博麗の巫女は、最強にして幻想郷最後の砦。

 彼女が敗北する場面など、想像する事すら難しい。

 だからこそ、二人は忘れていた。

 

「え?」

 

 最強無敵ともてはやされる巫女が、決して最強でも無敵でもないという事実を。

 博麗霊夢という存在が、自分たちと同じただの少女であるという事を。

 

「霊夢……さん?」

「うそ……だろ……」

 

 最強であるはずの人間。

 絶対であるはずの秩序。

 その双肩に幻想郷の全てを背負う霊夢が、無限の空から大地へ向けて墜落して行く。

 それは、早苗や魔理沙にとって絶対にあってはならない光景だった。

 

 

 

 

 

 

 開幕より仕掛けたのは、霊夢からだった。

 

 神霊 「夢想封印 瞬」――

 

 スペルを開き、聖が回避した直後今まで彼女が居た場所で爆裂が起こる。

 目にも止まらぬ早さで札を投げた霊夢もさる事ながら、その動作を把握し即座に避けた聖もまた恐ろしいまでの実力がうかがえる。

 

「生憎、貴女の土俵で戦うつもりはありませんよ」

 

 二度、三度、と僅かな間を置き巻き起こる攻撃を余裕でかわし、霊夢が次のスペルを開くより早く接近した聖は、その掌打を相手のあごへ向けて振り抜く。

 突然の奇襲に驚く事なく、霊夢はお払い棒を使いその打撃の軌道を逸らす。

 

「やはり、人外相手の経験はそれなりに積んでいるようですが、人間相手の実戦は不足しているようですね」

「大きなお世話よ。あんたは外道の魔法使い。人間じゃないから問題ないわ」

「あら、私は元人間ですよ」

 

 くすくすと上品に笑いながら、聖の攻撃は止まらない。

 千手を幻視するほどの速度で繰り出される連撃が、巧みなフェイントを織り交ぜながら人体の急所を打ち抜かんと繰り返される。

 

「人間たちの中にも、私の理想に同調してくれた者は居ました」

 

 ががががががっ、ととても格闘をしているとは思えない無数の乱打音が響く中、八苦を滅した尼君が口を開く。

 聖の能力は、「魔法を使う程度の能力」。その中でも彼女が得意としているのは、身体能力を含めた肉体への強化術だ。

 

「人間も、妖怪もありません。(こころざし)を同じくした沢山の同胞たちの遺志を継ぎ、私はここに立っています」

 

 霊夢もまた霊力で強化しているとはいえ、年季と種族差による出力差は如何ともし難い。

 しかも、間断なき攻撃は結界を構築する霊力を練る時間さえ許しはしない。

 

「皆、口々に言うのです。「後は任せた」「お前に託す」と」

 

 戦闘の中にあって、まるで自宅の縁側で茶飲み話を語るように過去を懐かしむ聖女の口調は穏やかだ。

 託された者として、生き残った者として、その重責と数多の願いを背負う救世主としての立場を請け負いながら、聖は己の生を喜んでいた。

 スペルを開かず、弾幕すら発さない異様な弾幕ごっこ。

 霊夢がルール違反を唱えれば、その時点で聖の敗北が決定する。

 しかし、その宣言はない。何故なら、それは博麗の巫女が築いて来た全ての勝利に泥を塗る行為だからだ。

 

「なんと尊き言葉でしょうか。なんと罪深い言葉でしょうか。なんと、なんと嬉しい言葉でしょうか」

 

 感極まって涙すら流す菩薩の掌が、遂に霊夢のお払い棒を砕く。

 

「お陰で私は、こんなに強くなってしまいました」

 

 その一撃を持って、拮抗が崩れる。

 肉体に回していた霊力の全てを使い眼前へ強引に張られた霊夢の結界を破砕し、開いた手の平を握り締めた聖の拳が巫女の腹部へと叩き込まれた。

 

「ぐぅっ!」

 

 口から血を吐きながら、結界によって稼いだ一瞬で背後へと飛んでいた霊夢は、最低限の痛手だけで再び聖から距離を離す事に成功する。

 

 「夢想天生」――

 

 出し惜しみは無意味と判断されたのか、博麗の巫女が持つ最強の手札が切られた。

 幻の如く半透明となった巫女を中心に、全方位へと向けて怒涛の弾幕が展開される。

 

「あらあら、困りましたね」

 

 超人 「聖白蓮」――

 

 対する魔住職も、ここでようやく己のスペルを開く。

 天狗にすら匹敵するほどの速度となった聖は、放たれる弾幕のことごとくを回避しながら、じりじりと霊夢へと接近していく。

 博麗の巫女の奥義が不敗の理由は、その攻撃の激しさではない。相手からの攻撃を一切合切受け付けなくなる、彼女自身の特殊性だ。

 「空を飛ぶ程度の能力」。それは、現世からすら「浮かぶ」事の出来る彼女が行使出来る、世の(ことわり)すらも超えた究極の絶技。

 妖怪が、神が、多くの人外がその技を前に膝を折った。

 破れるはずのない、異変へ終端の幕を降ろすに相応しい絶対の一枚。

 

「私は、皆の幸せを願っています。博麗の巫女である貴女もまた、例外ではありません」

 

 しかし、攻撃は届かずとも言葉は届く。残り五メートルほどにまで近づいた聖が、トランス状態にある霊夢へと言葉を投げ掛ける。

 

「八雲やその他の強者が邪魔であれば、私がその力と能力を封じましょう。元々、法力とは定め鎮める為の護法。出過ぎた杭を打つのは得意分野です」

 

 長くを生き、多くの人妖を救って来たからこそ、彼女は良く理解していた。

 目の前の少女が、何を持って揺れるかを。

 

「平和を望む者には、望むだけの平穏を。闘争を望む者には、弾幕ごっこによる安全な刺激を」

 

 それは、悪魔の甘言すら凌駕する毒と蜜を含んだ堕落への誘惑。

 

「霊夢さん。貴女は、アリスさんを幸福にしたくはありませんか?」

「っ!?」

 

 それは、ほんの一瞬だった。

 そして、聖ほどの実力を持つ者にはその一瞬で十分だった。

 僅かに集中を揺るがせ実体を晒した最強の巫女の腹に、距離による加速を足した長く鋭い右の脚撃が突き刺さる。

 

「か……は……」

「未熟」

 

 肺の空気を残らず押し出され、血の混じった涎を垂らしながらぱくぱくと口を開く巫女に下された評価は、余りに冷たく、余りに妥当だった。

 

「終わりです」

「がっ!」

 

 縦の回転を加えた左のかかとが肩口へと直撃し、幻想郷を守護する最後の砦が落ちる。

 

「弱点がないのであれば、弱点となる者を作れば良い――貴女は、魔界の神が用意した遠大にして矮小な思惑(シナリオ)に敗れたのですよ」

 

 最早聞こえていないだろう霊夢へ向けて、合掌を送る聖がそんな言葉を漏らす。

 幼少の時の出会いと別れがなければ、それは弱点とは成り得なかった。

 本来辿るべき道を辿っていれば、博麗の巫女の勝利は揺るがなかった。

 八雲の御大が創り上げ、完成させた歴代最強の巫女をただ一人の少女へと失墜させる、極限までの悪性を秘めた一手。

 博麗の巫女という完成された檻に閉じ込められた哀れな生贄を、ただ一人の少女へと立ち戻らせる深い慈母なる一手。

 

「霊夢ー!」

「霊夢さーん!」

 

 墜落する霊夢へと、一人分の人影と二人分の声が近づいていく。

 霧雨魔理沙、東風谷早苗。彼女たちもまた、幻想郷の担う子供たちに他ならない。

 終幕かに思えた勝負は、博麗の巫女の敗北という誰もの予測を裏切る結果となってしまった。

 

「――さぁ、試練を続けましょう」

 

 慈愛を持って世を生きる天性の救い手は、今この時だけ慈悲を忘れ少女たちを試すべくその拳を握り直す。

 元凶が敗北しない限り、異変は終わらない。

 確かに、この騒動の終わりは近いのだろう。しかし、それは今この時ではなくなった。

 舞台を空から地上へと移し、異変の最終決戦は次のステージへと進んでいく。

 そこに、一体誰の思惑が潜んでいるのか。

 幻想郷の住人で、それを知る者は居なかった。

 


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