東方有栖(アリス)伝   作:店頭価格

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最近更新が遅いので、とりあえず前編だけ投下

モブは今後登場させる予定が無いと言ったな。
すまん、ありゃあ嘘になった。


89・モミジが斬る!(前)

 ()()はもう死んでいた。

 天より振り下ろされた神の怒りをその身に食らい、五体全てを押し潰されて息絶えた。

 しかし、不幸な事に()()は己の死を自覚しなかった。

 理解せずともすでに五体はなく、把握はせずともすでにその魂は剥き出しの状態で、死に場所である森の中をさ迷い続けている。

 

 死にたくない――

 死にたくない――

 

 ()()の願いは届かない。届くはずがない。

 故に――

 

「あらあら、流石は魑魅魍魎のうごめく地獄の釜の中」

 

 ()()は己の死を自覚し、生を諦めるべきであった。

 捨てる神あれば、拾う神あり。

 ただ、()()を拾う者は神ではなかった。

 

「こんなにも多くの「素材」がこうも無造作に()()()()()なんて――あぁ、とっても素敵ですわぁ」

 

 最早、()()が死後の安らぎを得られる可能性は失われた。

 妖怪としてまっとうに討たれたはずの誰かにとって、最大の不幸になるのだろう。

 誰かの細い指によって拾い上げられた()()の意識は、そこで永遠に途絶え二度と目覚める事はなかった。

 

 

 

 

 

 

 人里の中に建てられた六世帯用の集合住宅「秋桜荘」には、常にない重苦しい雰囲気が立ち込めていた。

 建物の玄関口には、一本の白羽の矢が突き立てられている。

 白羽の矢が立つ。現代では、多くの中から特別に選び出されるという大抵は吉事を示す言葉だが、本来の用途は真逆。

 

「――猿神、ですね」

 

 矢の検分を終えた阿礼の子、稗田阿求が苦々しくその答えを出した。

 

「猿神、ですか」

 

 「秋桜荘」の大家である金髪の女性は、阿求の表情が意味するところを理解出来ない様子で、僅かに困惑するだけだ。

 

「名の通り、神を騙る猿の妖怪です。こうして獲物と定めた家に白羽の矢を突き立て、狙った生贄を時にさらい、時に献上させて食らう。極めて危険度の高い怪異です」

「そ、そんな!? 人里の中は安全なんじゃ――っ」

「人間の中にも、規則を守れない者は居るでしょう? 今回は、妖怪の中でそういった者が現れたという事です」

「……っ」

 

 妖怪の賢者が定めたルールがどれだけ浸透しても、それを無視する不心得者は居る。

 八雲に弓引く愚か者の末路は決まっているが、その愚者が末路を晒す前に犠牲者が絶対に出ない保証はない。

 

「猿神は、特に若い娘を好んで狙うようです。この建物に、女性は何人住んでいますか?」

「……六号室の蛮奇ちゃんと、二歳になる娘の有沙の二人です」

「つまり、貴女を含めて三人ですね」

 

 自身も十分若いだろうに、自分を勘定に入れない大家に若干呆れつつ、阿求はどうでも良い訂正を入れる。

 

「急ぎ各方面へ要請はしますが、猿神の襲撃は恐らく今夜。十分に準備を整える時間はありません。最悪の事態は、想定しておいてください」

「……はい」

 

 刻限は、本日の夕方まで。太陽が完全に沈む前までに、人員を揃える必要がある。

 如何に稗田家といえど、万能ではない。どれだけ手を尽くすとしても、常に最悪を頭の隅に留めておかなければならない。

 

「――怪異を知れば、怪異に出会う」

「阿求さん?」

「過去の一件から、貴女とアリス・マーガトロイドさんが懇意である事は伺っています。数多ある家々の中でこの場所が狙われた理由の一つは、住人である貴女が妖怪と深く関わっているからだと思われます」

 

 人間と妖怪の境界。

 互いになんの悪意がなくとも、妖怪の日常は人間にとって命の危険が生まれる可能性を孕んでいる。

 むしろ悪意がないからこそ、そんな不幸は回避するべきだ。

 

「彼女たちは、人間である我々には荷が重い。これを機に、アリスさんとの関係を見直す事をお勧めします」

「――ご忠告、痛み入ります。ですが、愚かだった私を教え諭してくれたのもまた、あの方です」

 

 しかし、大家の回答は感謝という名の拒否だった。

 当たり前だ。娘と自分の命の恩人から手を切れと言われて、頷く者など居はしない。

 だが、それでも、阿求は人間の側としてその必要性を説かねばならない。

 

「その結果、こうしてご自身ばかりではなく家族や住人すら危険に晒していてもですか?」

「それは……」

「おうおうおう、阿求ちゃんよぉ」

 

 非難の意図はなくとも、知らず口調の強まった阿求にたじろぐ大家の後ろから、若い男が顔を出す。

 「秋桜荘」五号室在住の自称なんでも屋、横島だ。

 どぶさらいから自警団への助っ人、果ては妖怪退治屋の荷物持ちまで。賃金さえ貰えれば本当になんでもやっている為、阿求を含め彼と顔見知りである者は多い。

 

「大家さんが責められシチュの似合う未亡人だからって、そんな羨まし……げふんげふんっ、そんな意地悪言うもんじゃないぜ」

 

 無類の女好きである事が玉に瑕で、弱者に強く強者に媚びる天狗のような男である。

 しかし、そんな欠点を補って余りある明け透けで人情味に溢れる人柄故に、何処か憎めない馬鹿として一定の信頼を周囲から勝ち取っていた。

 

「ここに住む奴らは全員、大家さんと一緒にアリスさんには大なり小なり世話になってんだ。そりゃあ、妖怪なんだから怖かったり危なかったりするだろうけどさ、だからって一方的にはいさよならってのも()()()()()間違ってるだろ」

「「……」」

「え? 何? どうして二人して俺を見るの? もしかして、ついに俺の魅力に気づいたとか?」

「「横島さんが、普通に良い事言ってる」」

「おいぃっ」

 

 折角良い事を言ったのに、日頃の行いから女性二人に奇異の目で見られずっこける横島。

 だが、彼が加勢した事で阿求と大家の問答は一つの着地点に到達していた。

 

「今回は、私の負けですね」

「はい、私たちが勝ちました」

 

 阿求は少しだけ眉を寄せて笑い、大家は嬉しそうににっこりと満面の笑みを作る。

 

「よっし、これで大家さんからの好感度はバッチリ上がったぜっ」

「それを本人の前で言わなければ、もっと上がっていたと思いますよ」

「はうわっ! 厳しいな阿求ちゃん!」

「ふふふっ」

 

 お調子者の彼が居るだけで、暗い話も笑い飛ばせてしまいそうになる。それは、ある種の才能だと言えるだろう。

 ここは、独り立ちを目標に実家から出た若者たちの下宿先、「秋桜荘」。

 金髪で美人の未亡人が大家を務める、癖の強い若人たちが集う人里の特異点。

 この住宅にて生活する別の住人を紹介する時は、きっとまたの機会に訪れる事となるだろう。

 今はただ、三人の笑い声だけが玄関先にて穏やかに流れていた。

 

 

 

 

 

 

 妖怪の山の山頂付近にある豪奢な社の中では、八人ほどの天狗が集っていた。

 その誰もが、山の組織のヒエラルキーにおいて上位に位置する者ばかりだ。

 予定になかった会合である為に幹部全員が集った訳ではないが、それでも会議としての体裁は十分整ったと言えるだろう。

 

「まず、侵入者と対峙した白狼隊からの報告では、追跡虚しく逃走を許したとの報告が上がっております。それと、意思疎通は叶わず、恐らく生まれ立てではないかという私見も添えられておりますな」

 

 幹部会の司会役である、端整な顔立ちに長いあごの下部という異相をした中年の男性天狗が資料に目を落としながら状況の報告を行う。

 数日前に、突如として妖怪の山へと侵入した一匹の猿の妖怪。

 排除を目的として白狼天狗の部隊を差し向けるも、今の報告の通り更に山の奥へと身を隠される事態となってしまった。

 

「ふん。無能共が雁首揃えて、与えられた番犬の役目すら満足にこなせんのか」

「然り、然り。失態を犯した隊員たちには、厳罰を申し伝えるべきですな」

 

 年老いた天狗たちが、次々と口汚く白狼たちを侮蔑する。

 渡された資料にすら目を通さず、状況を把握しないまま他者を貶める事に躍起になるそのさまは実に醜い。

 

「では、これより我らが山の組織としてどう動くかですが――」

「俺が出よう」

 

 どうせ言いたいだけだろう老人たちを半ば無視し、司会の天狗が意見を求めたところで別の天狗から手が上がる。

 

「追跡すら退けた以上、鼻と足は白狼より侵入者が上だ。であれば、様子見などせず上の者が対処をするべきだ」

 

 右目を黒の眼帯で塞ぐ、筋肉質な巨漢。

 全身に数々の傷跡を刻むその雄姿だけで、彼が戦闘に特化した武官である事が解る。

 

「馬鹿な。天魔様より重役を与えられている我らが、軽々しく動いて良いものか」

「拙速であろうと動くべきだ。人里の人間に犠牲が出た後では、どんな難癖を付けられるか解らんぞ」

 

 即座に上がる否定の声に、眼帯の男は相手を睨むように見据え主張の正当性を語る。

 報告書によれば、侵入者は「群」の性質を持つ妖怪らしく一匹ながら多数の手下を無限に呼び出すらしい。

 しかも、その手下たちを使った人里への襲撃予告が終わっている事も、諜報部門である烏天狗からすでに報告が上がって来ている。

 妖怪の山に居座られた状態でそのような愚行を許せば、多方からの糾弾は必至だ。

 

「もう一度白狼共に命令すれば良い。「今度は刺し違えてでも任務を達成せよ」、とな」

「左様。どれだけ数が減ろうと、小間使いなどこの先幾らでも用意出来よう」

「ははっ、そりゃあ良い。無暗に犠牲を増やした無能の烙印押されて席を退きたいんだったら、最初からそう言ってくれよ」

 

 己の保身にこそ心血を注ぐ老天狗たちの勝手な意見に、武人の天狗の隣に座る茶に黒の混じった髪をオールバックにした褐色肌の若い男が嘲笑を送る。

 幻想郷内では最大の規模を誇る山の組織は、当然一枚岩ではない。

 保守派、改革派、中立派。様々な派閥が互いの腹を探り合い、他者を蹴落とし、功績と利権を奪い合う。

 その醜さと淀みは、人間と何ら変わらないものが繰り広げられている。

 

「む……っ」

「貴様、無礼であろうが!」

「お止めなさい。その程度の挑発に乗っていては、話が進みません」

 

 安い侮辱ですら我慢の出来ずに激昂する保守派の幹部たちを、瞳を閉じたまま厳かに胸の前で両手を合わせ続ける短い金髪の女性が咎める。

 

「こんな小事で犠牲者を出せば、それこそ組織の名折れとなりましょう。人間も、天狗も、欠ける事は許されません」

「であれば、やはり俺が――」

「待った」

 

 続く女性の言葉を援護と受け取った巨漢が再び自分の案を通そうとするが、ここで今まで一言も発していなかった議長席の男が発言を遮ると同時に片手を挙げ、全員の注目を集める。

 長く真っ直ぐな髪を後ろで一つに束ねる、細身で糸目の青年。他の幹部たちが正装をしている中で、彼だけが人里の古着屋においてあるような安物の着物を身に着けている。

 そんな、やる気の欠片も感じられない青年こそが山の組織の長である天魔より幹部たちを束ねる役目を任せられたナンバーツー、大天狗であった。

 

「君が討伐に動けば、確かにこの案件は解決するだろうね。だけど、この程度の狼藉者に上役が出張ったという前例を作るのは、どうやら反対意見が多いみたいだ」

「むぅ……」

「いえ。そ、そのような事は……」

 

 幹部の地位にある保守派の多くは、博麗大結界が生み出される前より山の威信を守り続けて来た古参ばかりだ。

 例え見る影もないほどに衰えたとしても、その発言力と影響力を無視する事は出来ない。

 それに、保守派の意見もあながち間違いとは言えない。

 女性天狗の言葉にもあった通り、この程度の些事に幹部が動くのはいささか大袈裟過ぎるのだ。軽々に上ばかりが働いては、手足として従えている部下たちの居る意味がなくなってしまう。

 

「此度の一件は、俺の配下である白狼天狗の犬走椛に一任しようと思う。異論があれば、名乗り出て欲しい」

 

 よって、大天狗の考えた落としどころは優秀な部下に全権を預け、少数精鋭にて火急的速やかに事態の収拾を図るというものだった。

 当然そこには、侵入者を取り逃がした汚名返上の機会を与える意味も含まれている。

 

「おぉ、流石は大天狗様。犬走家の娘は、とても優秀だと話に聞いておりますぞ」

「はははっ。これで、不届き者の件は解決したも同然ですな」

 

 先ほどまで散々馬鹿にしていたというのに、自分たちの危険が避けられると解るとあっさりと手の平を返して絶賛し始める、一部の幹部たち。

 あわよくば、任務失敗によって大天狗への攻撃材料を得たいという欲があからさまに透けて見える。

 

「……」

 

 武人の天狗や女性天狗も、大天狗の決定であれば文句を言うつもりはないらしい。

 少々不満そうにしながら、語るものはないと口をつぐんでいる。

 

「犬走、犬走……あぁ、あの尻の触り心地が良い娘か」

 

 褐色肌の天狗に至っては、セクハラの記憶を思い出しているのか一人で勝手に納得しうんうんと頷いている始末。

 

「はぁっ。ずっと絵を描いていて許される毎日とか、来ないかなぁ……」

 

 やる気ある若手と口ばかりが達者な古株に挟まれた、悲しい中間管理職。

 似合わぬ地位から逃れられぬ見た目だけが若い天狗は、現実逃避をするように天井を仰ぎ深々と溜息を吐き出した。

 

 

 

 

 

 

「こ、これよっ。これだわ!」

 

 とある古道具屋の一角にて、私は一人の少女が運命に出会う瞬間に立ち会っていた。

 

「胸を揺さぶる絶叫、恐怖すら呼び起こす情熱、闇を彷彿とさせる曲調も、妖怪の私にはぴったりだわ!」

 

 両耳をすっぽりとおおうヘッドホンを付け、二つの内右側の挿入口が破損したラジカセから流れる音楽に感動している少女は、最近歌姫としても屋台の女将としても繁盛している新進気鋭のボーカリスト、ミスティア・ローレライだ。

 彼女が聞いているのは、外の世界から流れて来た攻撃的なサウンドとアナーキーな歌詞が特徴の音楽様式、パンク・ロック。

 

 あーぁ、出会っちまったか。

 

 感動と興奮でパタパタと背中の羽をせわしなく動かす友人を横目で眺めつつ、私は妙な納得を感じていた。

 相方である謎動物妖怪の響子は、すでに命蓮寺へと入信を完了し所在が知れている。原作音楽ユニット「鳥獣戯楽」の結成も、近いのかもしれない。

 

「プリズム姉妹の演奏って、上手いんだけど上品過ぎるっていうか、こういう暗さや熱さが足りていなかったのよ」

 

 おい、なんか音楽性の違いみたいなもんまで語り始めたぞ。

 

「バラードやポップじゃ表現出来ない、抑圧された不満を爆発させる魂の叫び。これこそ、私の探し求めた本当の音楽よっ」

 

 曲の終わりにヘッドホンを置いた音楽芸術家は、上機嫌のまま店主である霖之助の元へと視聴していたラジカセを持っていく。

 

「店主さん、こーれくーださい!」

「まいど。値段は、カセットとヘッドホン込みでこれくらいかな」

「ふふーん、どれどれー……え?」

 

 しかし、ミスティアの機嫌は霖之助の差し出すそろばんの珠を眺め、一瞬で元へと戻る。

 

「ちょっと、何この値段っ。ぼったくりじゃないっ」

「適正価格だよ。外の世界の精密機械は、それだけ幻想郷で貴重なんだ。君の聞いた音楽の入ったカセットだって、それ一つしか手元にはないからね」

「うぐぐぐ……ねーぇー店主さーん、残りのお代は身体で払うからおまけしてぇん」

 

 即決で払う事が無理と判断すると、ミスティアは霖之助にしな垂れ掛かり流し目を使って色気を振り撒く。

 しかし、絶食系男子筆頭である古道具屋の店主には当然ながら微塵も通用しない。

 

「悪いが、僕に獣姦の趣味はないよ」

「スケベ! 私だって好きな男以外とはお断りよ! 客引きとかチラシ配りとか、店員として働くって言ってるの!」

「解っているよ。そして断る。最近、ネズミの娘と値段交渉ばかりをしているから、もう飽きた」

「私とは初めてでしょー!」

 

 一方だけがヒートアップする商談をBGMにして店内のがらくたを眺めていると、入り口の扉を叩き更なる客が入店して来る。

 どうやら、本日の香霖堂は売り上げはともかく客足の多い日らしい。

 

「いらっしゃい」

「お邪魔します」

 

 来客は、稗田阿求と犬走椛の二人。椛に守られるようにして、阿求がその後ろから続いている。

 人里と妖怪の山が共生関係にあるとはいえ、中々に珍しい組み合わせだ。

 

「どうやら、私は運が良いようです。もしくは、あの大家さんの運が尽きていないのでしょうね」

 

 良く解らない事を言って笑う阿求が見据えるのは、店主でも夜雀でもなく、魔法使いである私。

 

「アリスさん、貴女に依頼を持って参りました。妖怪退治の依頼です」

「貴女自身が動くなんて、余程の事ね。霊夢には、もう頼んだの?」

「はい。ですが、「真打は貰うから前座は任せる」とすげなく断られてしまいました。その時に霊夢さんから推薦されたのが、貴女と早苗さんです」

 

 霧雨魔法店の店主さんが、その……凄く、仲間外れです。

 喧嘩でもしたのかなぁ。

 

 霊夢の直感が、また何かを察したらしい。

 その内容までこちらが察する事が出来ないところてん頭がもどかしいが、ここは博麗の巫女から任せられるほどに信頼されていると素直に喜ぼう。

 私と早苗をわざわざ推薦した理由も、きっとあるに違いない。

 

「場所と時間は?」

「場所は人里、時間は今夜。貴女の関わる「秋桜荘」へ、とある妖怪から生贄要求がありました。どうかそのお力を貸して下さい」

 

 なるほど、確かにあの大家さんの下宿先が狙われたのならば、私が動く理由には十分だ。

 

「それで――お代はいかほど、いただけるの?」

 

 お代はいかほど、いただけるんで……?

 

 すでに依頼を受ける事を決めている私は、冗談めかしてとある人形遣いの任侠に習い、右手の親指と人差し指で丸を作って見せるのだった。

 

 

 

 

 

 

 時は少し遡り、妖怪の山の三合目付近にある木造の施設。

 山の組織の原則として、山の標高が高くなるほど身分の高い者しか足を踏み入れる事が許されていない。

 よって、身分の低い者たちを集め指示を出す為に用意されたのが、この会合所だ。

 大勢を迎える為の広間と、個人に対する命を与える為に用意された二階の個室。

 今、烏天狗である射命丸文と白狼天狗である犬走椛が居る場所は、後者となる。

 

「さて、犬走椛。こちらの密書に記された内容は、畏れ多くも大天狗様が直筆された勅命となります。精々忠実なる配下として、せめて三文記事は飾れるようあくせく働いて下さい」

「はっ。己が身命を賭し、必ずや吉報をお届けいたします」

「……ふんっ」

 

 挑発を聞き流され、文は不満顔で椛へと指令書を手渡す。

 指令書の内容は、先日妖怪の山へ侵入し人里を脅かす猿神の討伐任務だ。

 椛個人の範疇で、山の組織やその他から私兵を雇う事も許可されている。

 

「あぁ。それと、これは指令書には書かれていませんが、大天狗様よりもう一つ命令を預かっております。その無駄に大きな耳を澄まし、(こうべ)を垂れながら拝聴なさい」

「はっ」

「……ちっ」

 

 今度は舌打ち。

 明らかに不機嫌な烏天狗(上司)は、それでも指示通り平伏する白狼天狗(部下)へと大天狗からの言伝を告げる。

 

「「死ぬな」。以上です」

 

 相手は、襲い掛かった白狼天狗の部隊を退けるほどの強者である。

 他の同族より優れた部分もあるとはいえ、同じ白狼天狗である椛一人で敵う相手ではない。

 下手をすれば、その妖怪に命を奪われる可能性もある。

 

「勅命、謹んでお受けいたします」

 

 だとしても、椛に迷いはなかった。

 受け取った指令書を片手に、立ち上がった後礼儀正しく深い一礼をして、振り向く事なくその場を去っていく。

 自分以外誰も居なくなった個室で、空中を跳ね一回転して宙へと浮かぶ天狗が唇を尖らせる。

 

「――はぁー。だいてんぐさまー、あややちゃんは大層ご不満ですよー」

 

 死なせたくないのなら、最初からこんな任務を押し付けなければ良いだけの話だ。

 白狼天狗にとって幾ら危険であろうと、それより上級の天狗が請け負えば任務の難易度は格段に落ちるだろう。

 だが、大天狗はあえて下級である椛に任務を託した。

 白狼天狗たちへ向けられた汚点の払拭と、組織の者以外の強者――とりわけ、今回の事態への介入を引き受けてくれそうな者たちと最も通じた部下であるという人選。

 その辺りの機微を理解しないほど、文は愚かではない。

 理屈では解る。だが、感情が許容を拒絶する。

 その上、何時もは上下関係を無視して堂々と噛み付いて来る癖に、正式な場ではそんな素振りすら見せなくなるお利口な態度の椛も気に入らない。

 そう、文は気に入らないのだ。

 昼行燈の癖に感情を排した命令を下せる大天狗も、真面目腐った態度でその命令を受け入れる椛も。

 過去の権威と慣習によって塗り固められた退屈な組織も、その中で反発するでも服従するでもなく中途半端な立ち位置のまま煮え切らない自分自身も。

 何もかもが気に入らない。

 

「なんだかなー、なんだかなー」

 

 一人くるくると無意味に空を転びながら、少女の口から不平と不満を混ぜた言の葉が漏れていく。

 ざわざわと、そわそわと。そんな落ち着かない雰囲気が身体の奥から溢れて止まらない。

 眉を寄せる文の不機嫌は、しばらく収まりそうになかった。

 

 

 

 

 

 

 昼日中でありながら、生い茂る木々に遮られ一条の光さえ通さぬ暗闇が生み出された妖怪の山の奥地。

 そこに、じっと動かないまま()()は居た。

 生まれたばかりの無知であれど、妖怪としての性質だけは理解している。

 「猿神」という怪異として定められた行動原理。即ち、生贄の要求だ。

 何故、それをしなければならないのか。

 何故、猿神として生きなければならないのか。

 ()()は何も理解出来ない。

 理解するだけの時間も、教えてくれる相手も居ない。

 ただただ、襲い来る恐ろしい狼たちを無我夢中で退け逃げ続けた。

 

 死にたくない――

 死にタクない――

 

 ()()の生は終わっている。

 ()()の形は失われている。

 ()()の魂は、すでに溶け消えている。

 それでも、最後に残った小さな小さな残滓だけは、哀れなほどにその身に潜み鐘の音の如く鳴り響き続けている。

 

 シニたくナイ――

 シニタクナイ――

 

 何をしたのか解らない。この妖怪には、生きた時間がないから。

 何が出来るかも解らない。この妖怪には、結果しか残されていないから。

 過去を奪われ、闇と泥の(かいな)より産み落とされた哀れな忌子は、何一つ己の頭で理解しないままお仕着せられた役割を無為にこなし続ける。

 その先に、己の破滅が待っているのだとしても。

 何も知らない赤子に、その結末を読み解くだけの視野さえ芽生えてはいなかった。


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