「おめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
少女は、己の歩く光景を何処か他人事のように見ていた。
「おめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
彼女は今から、人間を辞める。
しかし、それは周囲の人間たちの反応から見て解る通り妖怪や悪魔等の悪しき存在へ墜ちるのではない。
地を這うべき人間が、天へと至る。
祝福の言葉を繰り返す周囲の言葉に相応しい、天人という至高の種族への昇華。
しかし、そんな素晴らしい一幕での少女の反応もまた、正しいものだった。
「おめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
彼女の両親は、地鎮祭等の祭事を司る名居という神官の一族に仕える者たちだった。
その名居の一族がそれまで積み上げて来た功績を認められ天人になる事を許された際、彼の一族の従属であり彼女の両親でもある比那名居の一族もまた、天界に住む事を許されたのだ。
つまり、天人に至るほどの偉業を成し遂げたのは名居の一族であり、少女の両親たちは「仕えていた」という理由だけで天人へと至るという酷く適当な立ち位置に置かれていた。
ただ、どのような理由であれ地上の穢れを濯ぎ楽土である天界にて永劫の生を得られるのであれば、その過程は些事に過ぎない。
「おめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
人間である少女の名は、「
天界に住むには相応しくないだろうと、天人になる際「
つまり、これより先に彼女を語るべき名は「比那名居天子」。
少女は、何も理解していなかった。
少女の両親もまた、何も理解していなかった。
名居の一族の者も、比那名居の一族の者も。
恐らくは、彼女が天人となる事を許可した者たちさえも。
この少女が天人になるという意味を、その大いなる罪を、正確に理解出来ていた者は一人も居なかった。
無知は罪なり。
この場合、その罪を償うべきは誰だったのか。
記憶すら遠い彼方に置き去りにした後で、それを確かめる
◇
地子改め、天子に待っていた生活はとても退屈なものだった。
働く必要も悩む必要もなく、毎日が歌って踊って酒を飲む事が許された楽ばかりの日常。
適当に習い事をして、習った歌や蹴鞠や踊りを仲の良い者たちと適当にやって暇を潰す。
必要なのは娯楽を行っているという一点のみであり、上手だろうと下手だろうとどうでも良いのだ。
天界での生活は、逆に言えばそれくらいしかする事がない。
刺激のない、平坦で、安寧だけがある、甘い日々。
天国と呼べ聞こえは良いが、感情が壊死していく時点で地獄よりも余程性質が悪いと言えるかもしれない。
天子は、そんな生活に精一杯順応しようとした。
「それは昨日も聞いた」と何度も言いそうになりながら、年の近い者たちと目新しさのないお喋りをしたり。
向上心どころか勝負欲すら欠片もない連中と、面白くもない蹴鞠で戯れたり。
事前に順位の決められた意味のない品評会で、目上の一族へのおべっかに夢中な観客たちを前に舞を披露したり。
退屈という名の毒沼の中にあって、それでも天子は両親に迷惑を掛けないよう努力をしたのだ。
しかし、彼女のそうした涙ぐましい努力は無駄に終わる。外ならぬ、彼女自身の過ちによって。
「あー」
島の縁に立ち、空を見上げる天子。
雲を眼下に置きながら、蒼一色の広がりは何処までも果てる事なく続いている。
彼女の居る場所は、大小様々な浮き島が群島として形成された天界という名の楽園だ。
この浮き島は全体の中でもとりわけ高度が低く、地上から飛んで来る者が最も辿り着き易い島となっている。
周囲にあるのは草原のみ。島の広さは、小さな村であればなんとか作れるかもしれない、といった程度のものだ。
つまり、律儀で融通の利かない地獄の死神たちは天人たちを輪廻の輪に還す為、暴れ回るのに不足のないこの場所へと無謀にも足を踏み入れて来る。
「不良天人」として扱われる天子の役割は、そうした侵入者たちの撃退だ。
「暇ねー」
嘘か誠か、遥か昔の天界は群島ではなく一枚岩のような巨大な大陸だったらしい。
その際に、土地の所有権を巡って天人同士がいさかいを繰り返した結果、天人の中でも取り分け力を持った者が終わらぬ悲劇を愁い今の形に「分配」したのだそうだ。
その話を聞く度に、天子は何故天人諸共消し飛ばさなかったと小一時間ほど問い詰めたい気持ちになる。
「いっそ、
天子が天人になった際、彼女はまだ幼子だった。
感情の制御も、肉体の制御も、どちらもおぼつかなかった小さな少女。
そんな幼い子供が人間から天人という種族へ昇華したのだから、当然そこには様々な不和が起こる。
言い知れぬ不安、苛立ち、恐怖。
両親や周囲への反抗心、それ以上に生まれる承認欲求。
彼女は天人となったが、その精神は人間のままで止まっていたのだ。
天人という至上の肉体に精神を引き摺られ、しかし未熟な魂がその事実を拒む。
肉体に内包された大き過ぎる力の制御すら満足にこなせず、理解出来ない何もかもが多大なストレスとなって彼女を無情に押し潰す。
少女が人間であり続けたのであれば、それは「思春期」という少年少女特有の生理現象として、家族の気を揉ませる程度の小さな事態で終わっていたかもしれない。
しかし、天人となった少女の癇癪はそんな可愛らしいものではなかった。
ある時は、季節の歌を詠み合う者たちに大釜に入れた大量の墨汁を浴びせ押し流す。
またある時は、天界に住む沢山の動物たちを捕まえて来て紐を引かせ、豪族たちの屋敷の屋根を次々と引き剥がす。
仕舞いには、天界の至宝である緋想の剣を盗み出し、試し切りだと周囲の建物や木々を叩き切る。
言い訳が許されるならば、天子の悪戯はこれでも十分我慢した方だ。
肉体の成長に精神がまるで追い付いていなかった当時の天子は、言わば紙飛行機に烏天狗の羽を付けた状態に等しい。
制御など出来るはずもない天人としての力と精神に翻弄されながら、それでも天子は最後の一線を越える事なく被害を可能な限り小規模に抑えて見せたのだ。
だが、周囲の者たちは実の両親でさえ、天子が如何に危うい精神を抑え込み続けているかをまるで理解しなかった。
最早看過出来ぬと、不良天人の捕縛に動いたのは単独で死神さえも退ける猛者ばかり。
一人が敗れた時、軟弱なと敗者を嘲笑していた。
三人が敗れた時、そんな馬鹿なとようやく目の前の現実を理解し始める大人たち。
十人が敗れた時、手足の一、二本は構わぬと遂に全員が刃さえ抜き放った。
結局、三十人を超える人数で編成された捕縛部隊は、その数を半数以下まで減らした時点で無様に天子の前から撤退していった。
天子が天人としても破格の実力を手に入れられた理由は、単純な努力ではない。
天子が支払った対価は、「名前」と、「時」と、「可能性」だ。
人間の「地子」として生きるはずだったほぼ全ての時間と、成し得られただろうありとあらゆる可能性。
無知で無学だった少女が何気なく捨てたそれら全てが、付き添えぬ我が身の代わりとして「天子」へと昇華した少女へ最高の
手元に置くには、比那名居天子の有り様は危険過ぎる。
それほど暴れたいのであれば、好きなだけ力を振るえる場を設けてやる。
鬱陶しい死神たちの相手は、分不相応な実力だけの成り上がり者こそが相応しい。
以上のような内容が比那名居家宛に通達され、彼女は晴れて天界の門とも言えるこの浮き島を守護する番兵の役割が与えられたという訳だ。
「退屈」
そんな物騒な生活も、百年もすれば飽きてくる。
正面突破しか能のない死神たちとの死闘は、ただの作業になり下がった。
それ以外の侵入者など、数十年に一度来れば良いほどの間遠なもの。
だから、これは仕方のない事なのだ。
天子は、大人しく
「退屈だから――壊してあげる」
刺激がないなら、自分で作る。彼女には、それが出来てしまう。
天子の言葉に呼応するように、人の数倍はある体積を持った
天人の少女は迷いなく、その巨大な岩を地上へ向けて振り落とした。
照準は、幻想郷の最重要拠点である博麗神社。
落下の加速や要石そのものの自重などを衝撃に変換する事で、防衛として貼られた結界諸共建物を倒壊させる事を目的とした岩石の弾丸が、高速で目標へと突き進む。
天界から見下ろしたところ、博麗の巫女は現在人里での買出しの真っ最中だ。例え神社への攻撃を理解しても、防ぐ事は出来まい。
如何に巫女の直感が優れていようと、
比那名居の権能は、大地を鎮め、地脈を抑える地の力。
博麗神社への攻撃はただの試し撃ちであり、本当の目的を隠す為の目くらましだ。
きっとそれは、未曽有の大災害になるだろう。
人里も、紅魔館も、永遠亭も、妖怪の山も。一切合切関係なく地震という名の災厄に呑まれ、地上は長い長い復興の日々が必要になるはずだ。
もちろん、天子は本気でそんな大事故を起こそうとは思っていない。
しかし、同じく自分を満足させられなければ滅亡への引き金を引く事に躊躇いはない。
自分の思い通りにならない
人間が幾ら死のうと、罪悪感など抱く事はない。
妖怪がどれだけ怒ろうと、むしろさっさと掛かって来いと退屈しのぎの娯楽にしか感じない。
天人として何不自由のない暮らしを送り、他者を力で屈服させ続けた事で増長した天人。
しかし、そんな愚かな女となり果てるには、少女はどうしようもなく優秀過ぎた。
「……見せてみなさいよ。貴女たちに、その力があるのなら」
天子は全てを理解した上で、悪いのは私ではないと必死に思い込もうとしているのだ。
汝、己を愛するが如く隣人を愛せよ。
愛されていた頃の記憶など、とうの昔に消え失せた。
他人の愛し方など、教えられなかった少女に解るはずもない。
解らないから、彼女は悪戯を繰り返す。
それがどれだけ他人の迷惑になるかを理解していながら、それでも彼女はその悪行を止められない。
どうすれば愛してくれるか、そんな事も解らないから。
どうすれば愛せるようになるか、そんな事も習っていないから。
ただ、自分が此処に居る事を、此処に居て良い事を、誰かに――自分ではない、他の誰かに認めて欲しい。彼女の胸にあるのは、そんな小さな願望だけだ。
天界の中という狭い世界で暴れ回る内は、それで良かった。
彼女は天人で、それが許される立場にあった。
しかし、彼女は事もあろうに
幻想郷の住人に、天人であるという免罪符は通用しない。
彼女自身がそれを望んだはずなのに、心の何処かで「自分は天人だから大丈夫」という誤った楽観が根付いてしまっている。
天子は知らない。彼の地に住む者たちが、彼女が想像する以上に危険で野蛮である事を。
「最強」という称号が、地上ではありふれた肩書に過ぎない事を。
その「最強」を切り崩す為に、人形遣いが研鑽と研究を続けている事を。
酷くありきたりな表現になるが、この天人があのような末路に至った原因は「運がなかった」という一言に尽きる。
霊夢でも、魔理沙でも、咲夜でも、妖夢でもない。一番最初に異変の元凶である比那名居天子の元へと辿り着いてしまったのが、アリス・マーガトロイドであったという不運。
自業自得、ここに極まれり。
罪には罰を、咎には報いを。
彼女は好んで敵を作り、望まれるまま敵となった者が彼女を仕留めるのだ。
なんの変哲もない、世の道理。
少女の犯した度し難い罪に相応しい、哀れで惨く短い異変が今この時より幕を開ける。
天界を支える雲海が、緋想の剣の力によって気質を集わせる。
密度を上げ、雷雨をまとい、比那名居の色に――緋色の雲へと変じていく。
誰も幸せにならない虚しい結末へ向けて進む演目の中にあって、それでも空は憎らしいほどに晴れ渡っていた。
◇
博麗神社が倒壊した。
原因は、神社とその近辺にのみ発生した局地的な大地震。
もちろん、数々の手段で守られたこの神社がそう簡単に壊れるはずもない。これは、明らかに何者かの意思による幻想郷への宣戦布告だ。
いや、そんな事はどうでも良い。今は霊夢の事を第一に考えるべきだ。
朝早く人里で買出し中の霊夢と偶然出会った後、ガールズトークでもしようと一緒に博麗神社へ来てみれば、この惨状。
潰れた神社の残骸を見つめる霊夢の表情は、彼女の後ろに居る私にはうかがい知る事が出来ない。
なんと声を掛けるべきだろう。
慰めれば良いのか、犯人への怒りを燃やせば良いのか。
「……何処の馬鹿かは知らないけど、やられたわね」
髪を掻き上げ、淡々と言葉をこぼす霊夢。
「霊夢、大丈夫?」
「大丈夫よ。妖怪相手に切った張ったやってるんだもの、むしろ今まで自宅がぶっ壊されなかったのは運が良かったわ」
見た目にも、声の質にも、さして大きな変化はない。
これだけの悲劇に見舞われながら、本当に彼女は何も感じていないのかもしれない。
「うおぉっ!? なんだこりゃあ! 一大事じゃないか!」
騒がしい声に顔を向ければ、箒にまたがった白黒魔法使いが崩れた神社を見下ろし解り易く驚いている。
「人手も来たし、とりあえず無事な物を探しましょうか」
「手伝うわ。上海、蓬莱、お願いね」
転送魔法を使い、自宅からゴリアテたちを含む大量の人形たちを呼び込んだ後、糸を繋げて一斉に作業を開始させる。
霊夢は冷静だ。
「空を飛ぶ程度の能力」の影響もあるのだろうが、それでも自分の家が破壊された事への悲しみや怒りを見事に制御している。
そんな風に思っていた私の耳に、誰にも聞こえないように呟く少女の声が届く。
「――泣いたって、仕方がないじゃない」
――あぁ、私は馬鹿だ。最低の愚か者だ。
ここは、博麗霊夢の家なのだ。
沢山の大切な品が詰まっていただろう。
沢山の思い出が詰まっていただろう。
悲しくない訳がない。
苦しくない訳がない。
それでも彼女は、涙を流さないと決めたのだ。
彼女は、博麗の巫女だから。
「霊夢」
「何?」
霊夢の名を呼び、少女の黒髪を撫でる。
優しく、愛情を込めて。せめて、小波で止まる私の感情の全てを彼女に伝えられるように。
私の成すべき事は決まった。
「貴女の代わりに、私が犯人をグーで殴るわ」
原作だから、運命だからと、起こり得る不幸を放置したのは私の罪だ。
彼女が悲しまないと決めたのなら、その悲しみと怒りを私が代わりに不良天人に叩き込もう。
大切なものを奪われた苦しみと絶望を、この異変の首謀者へ突き付けよう。
「グーで殴るの?」
「えぇ、グーで殴るわ」
とある軍人のように勇ましく、軽快に、信義を持って突き進もう。
意外そうに瞬きを繰り返す霊夢へ向けて、私は精一杯の気持ちを込めてウィンクを返すのだった。
◇
神社の片付けをほどほどに、アリスは急ぎ紅魔館へと訪れる。
目的地は屋敷の地下にある大図書館だが、目的とする人物はその管理者であるパチュリーではない。
「そろそろ来る頃だと思ったから、引き留めておいたわよ」
何時もの定位置で読書を続けるアリスの親友は、現れた人形遣いをそんな言葉で出迎える。
「はい、おかわりです」
「ありがとうございます、小悪魔さん」
紅茶を受け取り、七曜の魔女と同席する別の客人が小悪魔へと感謝と笑みを返す。
永江衣玖。幻想郷の祭神である龍の配下であり、彼の神の言葉を下界へ伝える事を役目とするメッセンジャーが、落ち着いた様子で茶菓子に舌鼓を打っている。
「ふむ。貴女ほどの魔女が信頼を置く相手と聞いて少しは期待していたのですが、それほど優秀そうには見えませんね」
「えぇ。不器用で、融通が利かなくて、要領も悪い、とんでもない阿呆であるという点で同意するわ」
「酷いわね」
来訪して早々、酷い言われようである。
とはいえ、特に間違った評価でもないので反論も難しく、アリスは短く文句だけ言うとパチュリーの椅子へと腰を下ろす。
「では、時間もありませんので手短に。地震が起きます」
淡々とした態度で、衣玖が口火を切る。
彼女を知らない者が聞けば、冗談か与太話と切り捨てるような適当さだ。
「規模は?」
「六十年に一回クラスですね。きっと、幻想郷全土を巻き込んだ相当大きな震災となります。私は、この事を他の方々に警告する為に急いでいるのですが、この屋敷を訪ねた直後そこの魔女に
良く見れば、アリスの質問に答える衣玖はしきりに肩や指を痙攣させている。
ただ紅茶と茶菓子を楽しみながら椅子に座っているだけかと思えば、どうやらなんらかの方法で呪縛されているらしい。
「最近の幻想郷の情勢を鑑みれば、これが単なる災害なんて考える事は出来ないわ」
「地上の近況なんて、そんなの知りませんよ。天災に意味などありません」
「原因は?」
「貴女もですか……」
解らず屋が二人に増えたと、竜宮の使いは頭痛を抑えるように眉間に指を当てて首を振る。
地上の全てが、赤い霧に染まった異変があった。
春が奪われ、冬が終わらない異変があった。
月が入れ替えられ、夜に止まった異変があった。
妖怪の山へ、外の世界から神社と湖が引っ越して来た異変があった。
数年も経たずにこれだけ奇天烈な出来事が頻発していれば、これから起こる地震がただの天災であるなど到底思えはしない。
「自然災害の原因を突き止めたとしても、止める事は出来ません。これは大地の営みであり、起こるべくして起こる必然です」
「いいえ、出来るわ。これは異変だもの」
異変が始まったばかりである為、七曜の魔女は疑念を抱いている段階だ。
しかし、アリスは知っている。「原作」という名の未来を見通す知識を持って、真実へと辿り着く為の最適解を。
だからこそ、この人形遣いは最短を求めて親友の根城でこのメッセンジャーを待ち構えようとしていたのだ。
「犯人に、心当たりはないかしら」
「ありませんよ。妖怪の賢者に管理されるこの土地に、自分の住む場所を崩壊させようなんて自殺志願者が生き残っているとは思えません」
「それじゃあ、幻想郷以外ではどうかしら」
「幻想郷以外?」
「例えば、地上の災害に影響を受けない土地に住む者、とか」
「……」
アリスの言葉に眉をひそめていた衣玖だったが、しばらく吟味した後徐々に目を見開いていく。
その表情は、あり得ないものを見るような驚愕に染まっている。
「まさか……貴女は、最初から全てを知っていたのですか?」
「何でもは知らないわよ。何も……知らない……」
衣玖の質問に答えるアリスは、何時も通りの無表情だ。
しかし、その変わらぬ声音と相貌に悲しみが見えるのは、果たして何を思い出しているからなのか。
「これほど高位の魔女が、貴女に一目置く理由が解りました。しかし、何も知らずにそこまで見事な推理が出来たのであれば、そのまま現地へ赴けば良かったのではありませんか?」
「確認は大事よ。今回ばかりは、一番手を他の誰にも譲る気はないの。見当違いの遠回りなんて、している余裕はないわ」
そう、例え原作知識があったとしても、その全てが正しいとは限らない。
それは、これまで起こった異変での差異などですでに証明されている。
故に、アリスは最も真実に近い衣玖の反応を確かめる必要があった。
彼女が是と答えれば良し。否と答えるならば、親友の見識を頼り真実を見つけ出す。
迷っている時間がないからこそ、七色の人形遣いはより確実に元凶へと辿り着く為の最善を尽くす。
「珍しく、随分と意気込んでいるわね」
「……博麗神社が倒壊したわ」
「なるほど。それは確かに、貴女がこだわる理由に足るでしょうね」
他者に対し関心の薄いパチュリーであっても、他者との繋がりを何よりも大事にするアリスの心情は理解出来る。
霊夢とアリスが懇意である事は、周知の事実だ。
博麗の巫女の性格を考えれば、泣き喚きなどしなかったに違いない。
ただ淡々と、本当に淡々と、まるで気負いもせず崩れた神社の片付けを始める事だろう。
仮に、その場に居るのが自分一人であったとしても、誰の助けも求めずに。
そんな少女の姿を見て、この人形遣いは激怒している。否、激怒
抱くべき絶望、憤怒――そして、犯人への殺意。
アリスという少女にも、それらの感情は無縁のものだ。
それでも、アリスは感情を知っている。
憎しみに心を浸し、怒りに視野を狭め、赤色に染まり果てた思考にて怨敵を粉々に打ち砕くほどの激情がある事を知っているのだ。
「残念ね。龍の使いが来なければ、大気の気質が不自然に集合と拡散を行っている事象からあの小鬼を犯人にでっち上げて、吸血鬼異変での報復が出来たのに」
吸血鬼異変を含め、パチュリーと萃香には少々因縁がある。
そんな因縁のある相手に難癖を付けられそうな異変が始まった為、七曜の魔女は嬉々としてあの飲んだくれを犯人に仕立て上げるつもりだったらしい。
どれだけ年月が経過しても、パチュリーが私怨を忘れる事はない。魔女とは、執念深い生き物なのだ。
「止めておきなさい。萃香に喧嘩を売っても、疲れるだけよ」
「疲れるのは、あの小鬼と偽りの情報に踊らされる愚か者たちよ」
「その後、全ての報復が紅魔館に来るわよ」
「……レミィに頑張って貰うわ」
自分の安全を確保する為、あっさりと友人を差し出す引きこもりの魔女。
以心伝心なのか、この時玉座で優雅に赤ワインをたしなんでいた吸血鬼の当主は、自分の背に強烈な悪寒が走ったと後に語っている。
「アリスさんの言う条件に当てはまる方々の中で、その場の気分でこんな洒落にならない事態を引き起こそうとするような破綻者は、一人しか居ません」
そんな、無意味な犠牲が出る悲劇を回避した功労者へと、竜宮の使いは居住まいを正し真剣な表情でその首謀者の名を口にする。
「比那名居天子。天界きっての麒麟児にして、最悪の問題児です」
◇
扇を開き、そして閉じる。
繰り返し、繰り返し。静かに怒る持ち手の感情を表すように、パチンッ、パチンッ、と音が響く。
肌がひきつるような緊張感を孕む薄暗い室内にて、上座に座る八雲紫へと従者である藍がかしずいている。
「如何致しますか?」
「殺すわ」
躊躇も遠慮もない、限りなく短い決定。
「いえ、死すら生温い罰を永劫に与え続けようかしら」
博麗神社の破壊という、幻想郷への明確な攻撃。
しかも、犯人がその事件を隠れ蓑に別の災厄を準備している事も、紫は正確に把握していた。
愛しい愛しい己の庭に汚物を落としただけでは飽き足りず、更なる破壊と殺戮をばら撒こうとしているのだ。
百度殺しても足りはしない。
七代祟っても温過ぎる。
気安く動けぬ管理者の立場が、これほど邪魔だと思った事はない。
殺して終わりに出来るのであれば、紫は迷いなく首謀者をこの世から滅していただろう。
だが、空に住んでいるだけでこの世の支配者になったと錯覚している放蕩者共は、プライドだけ一人前だ。
例え、非が完全に天界側にあったとしても、見下している地上の民に同胞が殺されれば報復に動くのは必定。
報復は報復を呼ぶだろう――収め時を失えば、真っ逆さまに天地の全てを巻き込んだ全面戦争へ突き進む事となる。
もし万が一、その懸念が現実になったとしても幻想郷が敗北するとは思えない。だが、愛しい箱庭に無用な出血を強いるような真似を、管理者として認める訳にはいかない。
守るべき境界がある。保つべき秩序がある。
今はまだ、「八雲」が動いて良い時ではない。
「アリスは?」
「紅魔館から移動を開始しています。妖怪の山の上空へ向かっている事から、行き先は天界かと」
「あの娘が、自分から積極的に異変に関わろうとするとはね」
今まで異変では大抵が巻き込まれるばかりだったあの人形遣いが、今回は珍しく自らの意思で騒動の中心へ向かおうとしている。
アリスは霊夢と仲が良い。彼女の目的は、首謀者へ一言ないし一撃を見舞う為だと推測出来る。
だが、その「規模」が予測出来ない。
「藍、しばらく見に回ります。アリスと主犯の天人の監視に徹し、必要があれば介入しなさい」
「はっ」
アリスは、あらゆる意味でイレギュラーな存在だ。
紫の見識を持ってしても、何が起こるか箱を開けてみなければ解らない究極のびっくり箱。
礼儀知らずな天人を
だが、半端な罰では許されない。それだけの罪を、あの天人は犯したのだから。
アリスは一体、幻想郷の崩壊への引き金へ手を掛けた比那名居天子に、どれだけの罰を望むのか。
「見せて貰いましょうか、アリス・マーガトロイド。貴女の抱く幻想郷への愛が、一体如何ほどのものなのかを」
どれだけ天子が幼稚で傍若無人な阿呆だったとしても、実力が本物である事に違いはない。
最強を自負する紫でさえ、緋想の剣を持つあの天人には手を焼くだろうと思ってしまうのだから、その強さは推して知るべしだ。
普通であれば、アリスに勝ち目はない。
アリスの腕前では、弾幕ごっこでさえ勝負にはならない。
だが、それでも挑もうとしている以上、人形遣いはなんらかの隠し玉を用意しているのだろう。
尽きぬ手札と、終わらぬ手管。その源泉は、何処にあるのか。
興味の中に、期待が少し。
きっとまた、こちらの予想を上回る何かが起こるのだろうと半ば確信しながら、幻想郷の賢者は思考の海へと没していく。
妖怪の山の上空で、緋色の雲が徐々に広がりを始めている。
時刻は、真昼を少し過ぎた頃だろうか。
異常に気付く者も出始めたようだが、それも少数。まだ、大規模な騒動には発展していない。
そんな中、天と地の激突となる新たな異変は、すでに終幕へと向けて加速を開始していた。
??「では、首をだせい」