原作の第99局『私が打つ』の冒頭部分、
ヒカル:オレはまたおまえの影を背負うことになるんだぞ!
佐為:背負えばいい!
ヒカル:勝手言うなよ!おまえ ひと事だと思って!
・・・・(中略)・・・・
ヒカル:とにかく おまえに打たせて ややこしい目にあうのはもうゴメンだ。3人目のヤツに取り憑いてから打たせてもらえよ
と言ってヒカルがベッドに入るシーンから分岐します。
これまでの作品と同様
普通の会話は「 」
心の中のつぶやきは〔 〕
佐為とヒカルの会話は《 》
で示しています。
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1-1
〔佐為は何を不安がってるんだろう。いくらでも時間はあるじゃないか。3人目という前に、オレだって、ふつうに考えてあと50年か60年くらい生きるんだ。その間には、いくらでも佐為に打たせてやれるさ。まあ、確かに、ばれずに打たせるには、それなりの苦労はあるけど〕
ヒカルは、ここまで考えると、佐為が抱くものとは別の不安が湧いてきた。
〔これから50年も60年も佐為を隠し続けないといけないのか、それも面倒だなあ・・・・ああ、余計なこと考えるのは、やめよう〕
面倒なことを考えるのはやめにして、ヒカルは子供らしい健康な眠りに落ちていった。
それでも翌朝、目が覚めると、昨夜の寝る前の悩みがよみがえった。
〔ああ、朝から憂うつ〕
冬休みなので学校はない。
〔こんな日は、学校があれば気がまぎれるのに〕
と、がらにもないことを思いながら、ヒカルらしくもなく悩みこんだ。
《ヒカル、どうしたんですか? 浮かない顔をしてますが》
《ん?・・・・いやあ、オレってまだ14歳だろう。ふつうに考えて、これから50年、60年くらいは生きるんだ。それまでどうやってオマエを隠し通そうかと考えたら、頭痛くなってさ》
佐為は悲しげな表情を見せる。
《わたしの存在がヒカルを悩ませている。その悩みを解決するには、わたしが消えるしかないのか・・・・》
佐為の悲しみはさらに深まる。
《オマエまでそんな悲しそうな顔するなよ》
《ヒカル、ごめんなさい》
《しようがねーだろう・・・・ああ、いっそあっさりオマエのことをみんなに打ち明けようか・・・・ああ、ダメダメ、誰も幽霊なんか信じやしないって》
ヒカルのこの言葉を聞いて、佐為はちょっと思案する。
《行洋殿は、信じてくれるかもしれません》
《えっ?》
《そして、塔矢アキラも信じてくれるかもしれません》
《えっ、なんだって? 塔矢が?》
《彼は、一番悩んでいるはずです。最初に対局したヒカルの圧倒的な強さと、中学1年生の時に対局したヒカルの力との違い。それからヒカルは格段に力を付けてきたにせよ、去年の若獅子戦で垣間見たヒカルの実力と、以前自分が身をもって感じた力の差、その理由が分らず思い悩んでいるはずです。ヒカルに別の人間が重なっていると説明されれば、それが幽霊であることを信じるかどうかは別にして、もう一人の人間の存在は受け入れるかもしれません。それに・・・・》
《それに?》
《それに、仮にわたしの存在がおおっぴらになったとしたら、わたしは緒方さんとか森下先生などとも打てます。彼らほどの碁打ちであれば、ヒカルが佐為として打つ時と、ヒカルがヒカルとして、進藤ヒカルとして打つ時の碁が別物であることは認識できるはずです。ヒカルの中に本来のヒカルと、もう一人別の人間がいることは納得するでしょう。それが幽霊だということを納得するかどうかは、分りませんが》
ヒカルと佐為はまじめな表情で見つめ合った。これまで、佐為の存在を打ち明けるなんて、考えてもみなかった。だけど、よく考えてみると、これから何十年も隠し通すより、さっさと話してしまう方が結果として楽なのではないか? これまでも何度かバレそうになって、苦しいウソをついてごまかしてきた。
《・・・・いつかオマエ『ヒカルはウソがうまくなりましたねえ』って言ったことあったよな。ひょっとしたら、ウソをつくのに苦労するよりは、本当のことを話すのに苦労する方が、ましなのかな?》
《ヒカル・・・・ありがとう》
佐為はうれし涙をこぼしそうになった。
《ちょっと待て。まだ話すと決めたわけじゃない》
《えーっ、そんな・・・・》
ヒカルに迷いは残っている。ただ、いったん、話すことのメリット、隠し続けることの苦労に目が向くと、どうしてもそちらの選択に引きずられる。
〔ああ、佐為にとってはぜったいその方がいいよなあ・・・・オレにとっては・・・・〕
結局、ヒカルは迷いを吹っ切った。
《佐為、新初段戦、オマエが打て》
佐為の顔に驚きと喜びが広がった。
《いいんですか? わたしが打っていいんですか?》
《絶好の機会じゃないか。新初段戦で新初段が名人に勝つ。逆コミ5目半あれば、ぜったいオマエが勝つだろう。互先でも、勝つかもしれない》
《わたしは、コミ5目半の互先のつもりで打ちます》
《それでも、オマエが勝つかもしれない。仮に負けてもきわどい勝負だろう。その場にいるだれもが、『なぜこんなことが?』って思うよな。佐為のデビューに最高の舞台じゃないか。その場に、誰にも見えないもう一人の人間がいるってことを話すのに、これ以上の場面はないだろう》
《ヒカル、感謝します。ほかに言葉を思いつかないのが残念です。ほんとうに、感謝します》
喜びに崩れそうになる佐為の表情を見て、ヒカルは《これで、いいんだな》と思う。
佐為は、喜びの大波が過ぎて、冷静さを取り戻した。
《当日、塔矢アキラは観戦に来るでしょうね。お父上の対局だし、ヒカルにも興味があるはずだから》
《まあ確実に来るな》
《その時、あの2回の対局、ヒカルを通してわたしと相対したあの2回の対局の棋譜を持ってきてくれるよう、頼んでおきましょう》
《あの時の棋譜?》
《そうです。あの2回の棋譜を見せて、彼自身の口から、その不思議な体験を語ってもらいましょう。説得力が増しますよ》
《あー、なるほど。佐為、うまいこと思いついたな》
新初段戦前日の放課後、あかりがヒカルに声をかける。
「今日、久しぶりに指導碁を打ってくれない?」
「えーっ・・・・よりによって今日かよ」
《ヒカル、いいですよ。わたしが打ちましょう》
《オマエ、大丈夫か? あした大事な一戦を控えて、あかりなんかと打ったら、気が抜けないか?》
《むしろ、あかりちゃんと打つことで適度に緊張をほぐすのですよ》
《まあ、それならいいけど》
というわけで、9子を置いて佐為が指導碁を打つ。一手ごとに戸惑い考え込むあかりの姿に、佐為は碁を学び始めた頃のヒカルの面影を重ねた。
〔ヒカルも、始めの頃はこうでしたねえ・・・・〕
1時間ほどして、あかりは帰っていった。それから、ヒカルは塔矢の家に電話をかける。
塔矢邸の電話が鳴った。
「はい、塔矢でございますが」
「あっ、塔矢さんですか。あの、進藤ヒカルといいます。塔矢アキラくんと話したいのですが」
「アキラさんは今研究会ですが」
「研究会ですか?・・・・それじゃ、もしちょっと席を外せるなら、出てほしいです。無理なら、また掛けなおします」
「それじゃ、ちょっと聞いてみますね。お待ちください」
明子は研究会が行われている広間の襖ごしに声を掛けた。
「アキラさん、進藤ヒカルという方からお電話ですが、出ますか?」
「進藤から電話?! 出ます」
アキラは思わず大声を出し、あわてて駆けだした。その場にいた塔矢名人も緒方も、「進藤ヒカル」という名前に反応して、アキラが駆けだして開け放しになった襖の向こうに目をやった・・・・。
「進藤、何があったんだ。うちに電話するなんて」
「ああ、塔矢。びっくりさせてゴメン。ちょっとお願いがあって」
アキラはヒカルの口から「お願い」という言葉を聞いて、緊張した。
「あした、新初段戦だよな。オマエも見に来るんだろう?」
「もちろん、そのつもりだけど」
「その時、オマエとオレが初めて会った時とその次の時の2回の対局の棋譜を持ってきてくれないか?」
「あの時の棋譜?」
「あるんだろう?」
「もちろん、あるけど」
アキラは緊張と不安、その一方での期待で、口の中が乾いていくのを感じた。
「あの棋譜を、どうするつもりだ?」
「それは、あした、新初段戦が終わってから説明するよ。今話しても、うまく説明する自信がないんだ」
「そんなこと言われても」
「持ってきてくれよ。頼む。ぜったいにな」
そう言って、ヒカルは電話を切った。
「進藤、進藤!」
アキラは相手の名前を呼んだ後、諦めて受話器を置き、研究会に戻った。皆の目がアキラに向けられる。アキラは自分の座に戻り、電話で伝えられたことを説明した。
「あす、新初段戦の会場に進藤とボクの2回の対局の棋譜を持ってきてほしいと頼まれました」
「2回の対局というと・・・・」
緒方のつぶやきにアキラが答える。
「ボクが進藤に完敗した2回の対局です」
1-2
新初段戦が行なわれる幽玄の間、塔矢名人とヒカルはすでに着座し、向かい合っている。その脇、時計係の隣に座る天野にも緊張が伝わってくる。新初段戦はそれなりに緊張を感じるものだが、今日はふだんと違っている。新初段だけでなく、名人からも緊張が伝わってくる。5冠の塔矢名人が、プロ試験に合格したばかりの進藤ヒカルに緊張を感じてるのか?
確かに、名人は緊張を感じている。あるいは威圧感と言うべきか。我が子と同じまだ14歳にしかならないこの少年。しかし、面と向かっていると歴戦の古豪と対峙しているような威圧感を覚える。なぜだろう?・・・・
開始時刻の直前、その少年が口を開いた。
「新初段戦は逆コミ5目半だけど、オレは互先コミ5目半のつもりで打ちます」
この言葉を聞いて、天野はあきれたようにヒカルを見つめるが、名人は、あきれた様子も見せず、深くうなずく。
「キミがそうであるなら、わたしはなおさら、逆コミ5目半をはねのけるつもりで、容赦なく積極的に攻めていこう」
このような言葉のやりとりにもかかわらず、序盤は静かに進行した。お互い、相手の動きを見ながら自分の地を固めていく。先に仕掛けたのは名人だった。
佐為は、ほほえんだ。
〔さあ、これから始まるのですね。よろしい。その手、受けましょう〕
佐為は、名人の手を押しとどめながら、着実に自分の地を広げ、厚みを加えていく。その熟練した手筋を天野は驚きを込めて見ていた。とても、プロになったばかりの棋士の手筋ではない。
隣室でモニター画面を見つめているアキラや緒方も同じ思いだった。
「あの時の進藤だ」
アキラはつぶやいた。緒方は、黙ってひたすらモニター画面を見つめている。天野にとっても、アキラにとっても、緒方にとっても、それは佐為の打つ手ではなく、あくまで進藤ヒカルの打つ手だった。
一手ごとに形勢は、時として名人の側に、また時として新初段の側に、微妙に揺れる。しかし、終盤にさしかかる頃、ヒカルの放った一手に誰もが驚いた。名人はその石を見て唇を引き締めた。誰もが予想していなかった、しかし打たれてみれば、まさに最善と思える一手。しばし長考して、名人はそれに応じたが、形勢をくつがえす手ではない。さらに何手かの応酬があって、小ヨセを残す場面となった。
佐為は盤面の石の流れを眺めている。力の拮抗する者どうしが全力を尽くしあった美しい棋譜。これからは、もう1本道。お互い、間違うことはないはず。そして終局は自分の半目差勝ち。佐為がそれを確信した時、名人が投了した。
〔ああ、心の底から湧き上がるこの歓喜。行洋殿、ありがとうございました。この美しい棋譜は、あなたのおかげです。あなたは、5冠の名にふさわしい力で挑んでこられた。それをはねのけることのできた自分が誇らしい。この歓喜は、あなたほどの相手と打ち合ったればこその歓喜です・・・・〕
佐為の歓喜を脇で感じながら、ヒカルは盤面を見つめていた。そしてはっきり理解した。これまで自分と打ち合う佐為は全力を出し切っていなかったということ。いや、今の自分はまだ佐為の全力を引き出すことができないということ。この棋譜こそが、佐為が全力を出した結果だということ。
〔これほどの戦いができるのなら、佐為に打たせてよかった。これからも、できるだけ佐為に打たせてやろう・・・・〕
盤面を見つめ合う名人とヒカル。そこに流れる空気は声を掛けるのをはばからせたが、その緊張を破って天野は声を掛けた。
「整地をしなくても、分かっておられるようですな。黒61目、白55目。逆コミ5目半を加えて、黒の11目半の勝ち」
「逆コミでなくても、ふつうのコミでも、わたしの半目負けだ」
5冠の名人が新初段に互先で負けた。この事実の衝撃が名人自身の言葉でなおさら強まる。言葉を失いそうになりながら、天野はかろうじて二人に声を掛けた。
「では、別室で検討を始めましょうか」
二人は、ともに我に返ったように立ち上がった。
1-3
検討室にはすでにアキラと緒方がいた。
張り詰めた雰囲気の中で、検討は一見淡々と進む。終着に至るまで、名人にこれといった失着は認められない。それがさらにヒカルの強さを際立たせる。1つのミスもしなかった名人に、ヒカルは勝ったのだ。
「進藤くん・・・・」
天野は問いかけようとして、言葉を見つけることができない。名人の、アキラの、緒方の視線がヒカルに注がれる。
「これは、オレが打ったんじゃないです」
この言葉は、その場をさらに深い沈黙に導いた。誰もが、それに続くヒカルの言葉を待っている。
「オレじゃなくて、佐為が打ったんです」
「sai?」
アキラと緒方が同時に聞き返した。
「ばかな。saiがどこにいるんだ?」
緒方はほとんど怒ったような口調で問い詰める。
「オレのすぐ脇にいるよ。オレにしか見えない。オレにしか聞こえない。でも確かにいるんだよ。オレにしか聞こえない佐為の声が指図するとおりにオレは石を置いたんだ・・・・でなきゃ、オレが自分でこんな打ち方をできるはずはないじゃん。オレが自分の力で塔矢先生に勝てるわけないじゃん。緒方さんだって、オレの実力は知ってるでしょう」
そう言われると、緒方は反論しようがない。
「塔矢、約束の棋譜、ほかの人たちに見せてくれない?」
ヒカルに促されて、アキラはカバンから2枚の棋譜を取り出して、広げる。
「これは?」
「2年前、正確には2年と3ヶ月くらい前に進藤とボクが対局した棋譜です。こっちが1回目、こちらが2回目」
天野は2枚の棋譜を見比べている。
「1回目はアキラくんが3目半で勝ち。2回目は大敗というか・・・・」
「1回目は定先です。ボクの2目負けです」
「定先?」
「はい。この時、ボクは相手の実力を知らないまま定先で打ちました。そうしたら、進藤は実力を抑えてボクに指導碁を打ったんです」
「アキラくんに指導碁?」
「そうです。この時、碁を覚えて間もない進藤は、おぼつかない手つきで、人差し指と親指で石をつかむ進藤は、ボクに指導碁を打ったんです。2回目は、容赦なくボクを叩きのめしました・・・・」
アキラはここで、ヒカルに向き直った。
「この時、saiが打ってたんだね?」
「そうだよ。オレは、佐為の言うとおりに石を置いただけだ。まだ、碁盤の目さえきちんと分かっていなくて、『3の十六』とか『9の八』とか言われても、すぐに分からずに、『えーと、1、2、3・・・・』というふうに目を順番に数えないと分からない、そんなずぶの素人が、佐為の言うとおりに石を置いたんだよ。でも、塔矢には佐為は見えない。だから、オレが打っているとしか見えなかった。たった今の、塔矢先生との対局と同じだよ」
「オレにはさっぱり分からん」
緒方がこらえきれずに叫んだ。
「一体どういうことなんだ? 進藤にしか見えない、進藤にしか聞こえない、一体何だそれは?」
「幽霊だよ。佐為は幽霊なんだ」
「幽霊!」
その場にいるヒカル以外の全員が声を合わせて叫んだ。
その反応がヒカルにはおもしろかったのか、ちょっと笑った。
「まあ、叫びたくなるのも無理はないけど・・・・佐為は藤原佐為という幽霊なんだ。平安時代に碁の指南をしていたけど、陰謀にはめられて都を追い出されて、入水自殺した。それから何百年もたって、江戸時代に虎次郎という子供に乗り移った。その子供は、もともと碁を勉強してたんだけど、佐為の能力を知って、それからは佐為の言うとおりに碁を打つようになった。それが本因坊秀策」
誰もが想像だにしていなかったストーリーを語るヒカルを、皆じっと見つめている。ヒカルはむしろ淡々と話を進める。
「まだまだ、これからだよ・・・・秀策は34歳の若さで死んでしまった。佐為は秀策によって神の一手を極めるつもりだったんだけど、秀策が若死にしたんで、それが叶わなかった。それで、碁盤に取り憑いてじっと待っていた。その碁盤というのが、おれのじいちゃんの蔵にある碁盤なんだ。オレが、小学6年生の時、小遣いの足しにしようと思って、蔵で売り物になりそうなものを探していて、碁盤を見つけた。その碁盤には血の跡が付いてるんだけど、それはオレにしか見えない。ほかの誰も、『そんな血の跡なんかないよ』って言うんだ。でも、オレには見える。そしたら、佐為が現われたってわけさ。おれはびっくりして気を失って救急車で運ばれたんだけど、それからずっと、佐為はおれのそばにいるんだ。最初はオレ、囲碁なんかぜんぜん興味なかったけど、佐為が『碁を打ちたい』って泣いて頼むもんだから、仕方なく、碁会所に行った。そこで塔矢に、塔矢名人じゃなくて塔矢アキラに会ったんだ。そこで打ったのが、1枚目の棋譜」
アキラは、ヒカルの語ることがどれほど奇想天外であっても、それを聞きながら、長年自分の心にわだかまっていた謎が解けていくのを感じた。その隣で、名人は腕組みしながらつぶやいた。
「対局の時に感じていた威圧感、まるで歴戦の古豪と向き合うような威圧感は、進藤くんの後ろか脇に控えていた佐為が発するものだったのか」
ヒカルと佐為は名人に視線を向けた。
「先生、分かってくれるんだ」
〔行洋殿、やはりあなたは、分かってくださいましたね〕
父のつぶやきに続いて、アキラが話を継いだ。
「その日からボクは、毎日碁会所で、お客さんとは打たず、ひたすらこの棋譜を並べていました。そして、どうしてももう1度、進藤と打ちたいと願っていました。それは、今の進藤の説明によれば、佐為と打ちたいということだったのだけど」
「それで、たまたま外で塔矢とばったり顔を合わせて、無理やり碁会所に連れて行かれたよな」
アキラは苦笑いした。塔矢名人は、初めて聞く我が子の無我夢中の行為に笑みを浮かべた。
「あの時、佐為は、本気を出してオマエを叩きのめすのはかわいそうだから、2目差くらいで勝つようにもっていくつもりだったんだ。だけど、オマエがあんまり真剣で、棋力全開で立ち向かってきたから、そんな余裕がなくて、一刀両断するしかなかったって言ってた。それが2枚目の棋譜」
「うん、あの時、ボクはほんとうに悔しくて、キミに、つまり佐為に、噛みついていった。そのあげくが、『一刀両断』か。まったく、そのとおりだった」
「でも、オレはそんなオマエを感心して見てたんだぜ。あの時のオマエの真剣な表情は今も忘れない。オレはそんなオマエを見て、自分でも碁を打てるようになりたいって思い始めたんだ。いうなれば、オマエはオレの恩人なんだよ」
「ボクがキミの恩人・・・・」
アキラは「意外」という面持ちでヒカルを見る。真剣なアキラの視線にヒカルは明るい声で応じる。
「そうさ。それに、オレはオマエにもう1つの恩があるんだ」
そう言ってヒカルは、自分で持ってきた1枚の棋譜を広げる。
「塔矢、覚えているだろう?」
「あっ、これは・・・・」
「中学囲碁大会だよ。オマエが海王中の三将として出場した」
「でも、これは・・・・」
「佐為の棋譜、というのは正しくない。途中まで佐為の棋譜、それからオレの棋譜になるんだ」
アキラはその時のことを思い出していた。
「ああ、そうか、そういうことか!」
「そういうことだよ」
「おいおい、二人だけで納得しないでくれ。ちゃんと状況を説明してくれよ」
緒方が口を挟む。
「緒方さん、そんなにカリカリしないで。ちゃんと説明するから」
ヒカルのからかうような口調に緒方はむっとしたが、特に反論はしない。
「中学囲碁大会の1回戦は、オレが打った。その頃にはオレも、1回戦で勝てるくらいの実力は身につけていたんだ。2回戦の相手が海王中で、それもオレは自分で打つ気でいた。だけど、オマエの顔を見て、やめた。オマエはオレと打ちたいんじゃない、佐為と打ちたいんだって分かったから。だから、序盤は佐為に打たせた。だけど、オマエと佐為が打ち合ってるのを見ていて、オレ、どうしても自分で打ちたくなった・・・・あっ、ちょっと碁盤、いいですか」
ヒカルはアキラと佐為が打ち合った序盤の石の流れを碁盤に再現した。
「ここで、佐為が長考したんだ。オレはじれったかった。だって、この場面、オレならためらわず11の八に打ちたかったもん。佐為が考えている間、オレはオレで考えた《まず、オレが11の八。次に、塔矢はここに打ってくるだろう。そしたらオレはここに・・・・》っていうふうに。長考を終えた佐為は『13の四』って言ったけど、オレは無視して11の八に打ち込んだ。『佐為、ワリィ、オレが打つ』ってつぶやいて。それから先はオレの手だ。結果は、知ってのとおりさ。オレがあまりへたな碁を打つんで、オマエは『ふざけんな!』って怒鳴ったよな」
アキラは目を伏せた。
「何も分かっていなかったからとはいえ・・・・」
「いいんだよ。オマエの立場になれば、怒鳴りたくもなるって、オレも分かるんだ・・・・まあ、悔しかったけど。だけど、それでなおさら、『きっと塔矢アキラに追いつくんだ』って思って、それまで以上に碁の勉強にのめりこんだ。これが、オレがオマエに負っている2つめの恩・・・・まあ、恩の話はそれとして、この棋譜、『11の八』の前と後でぜんぜん別の碁だろう? 前半は佐為の碁、後半はオレの碁。オマエは、1局で2つの碁を見てたんだ。佐為とオレが別人だって、分かるだろう? この場に佐為とオレ、2人がいたって分かるだろう?」
ヒカルはここで話を区切った。アキラは納得したようにうなずく。
しばし沈黙が流れた後、塔矢名人が言葉をかける。
「進藤くんは『へたな碁』と言うが・・・・確かに、へたと言えばへたではあるが、それでも、進藤くんが秘めていた何かが現われている碁だよ」
ヒカルと佐為は名人に視線を注ぐ。
〔行洋殿、ありがとうございます。あなたは、ちゃんと見抜いてくれましたね。この時のヒカルが秘めていた素質、才能、発想。その発想に続く腕が、この時のヒカルにはなかったのですが〕
「その何か、素質というか才能というか、その何かを碁盤の上に実現する力がこの時の進藤くんにはなかった。しかし、今、進藤くんはその力を身につけて、ここにプロ棋士として座っているわけだ」
〔行洋殿、ありがとうございます〕
「先生、ありがとう」
ヒカルは素朴に感謝の気持ちを表現する。それから、もとの口調に戻った。
「もうちょっと、話が残ってる。この頃、オレは中学の囲碁部で打ち合っていたけど、佐為は打つ機会がなかったんだ。その頃、家には碁盤がなかったし、囲碁部でオレじゃなくて佐為が打ったら、傍目にはオレが急に強くなったと見られてしまって、『天才少年』なんてことになる。それじゃあ、困るんだ。オレは、佐為のことは隠しておきたかったし、オレはオレとして碁の力を認めてもらいたかったから。『なんとか佐為にも碁を打たせてやりたい』と思っている頃、ちょうど夏休みになった頃なんだけど、碁のイベントでネット碁を知ったんだ。それを見て、『これなら佐為に好きなだけ碁を打たせてやれる』って思いついたんだ。もちろん、実際にマウスをクリックするのはオレだけど、それは相手には見えない。パソコン画面の碁盤で、佐為が言う場所にオレが石を置く、それは佐為の対局なんだ」
「それが、ネット碁のsaiなのか」
アキラと緒方がほとんど同時に言葉を発した。
「そういうこと。佐為が喜んだのなんのって・・・・ただ、ちょっと有名になりすぎた。そして、夏休みの終わり頃、ネットで塔矢と打って、ひょっとしてバレないかって心配した」
「ボクも、あの時のsaiに、出会った頃のキミを感じたよ」
「そうだろうな・・・・それで、夏休みが終わって、ネット碁はそれっきりになった。その代わり、オレの部屋でオレが佐為と打つようになった。あっ、ちょうどその頃、じいちゃんに碁盤を買ってもらったんだ・・・・ともかく、それで毎日オレは佐為に鍛えられたってわけだ。その年の暮れに院生試験を受けて、翌年初めから院生になって、プロ試験を受けて、合格。めでたし、めでたし、なんだけど、佐為がオレ以外の相手と打てないんだ。オレも、『悪いなあ』とは思ってたんだけど、オレと間違えられずに佐為に打たせる方法をどうしても思いつかなくって・・・・そうこうしてるうちに、新初段戦で塔矢先生が相手だと分かった。そうしたら佐為が『わたしに打たせてください』って自分勝手なこと言い出したんだ」
《ヒカル、その言い方はひどい!》
「オレはもちろん、『とんでもねー』ってはねつけたんだけど、それから、よーく考えたんだ。オレだって、ふつうに考えてあと50年か60年くらい生きる。その間ずっと佐為を隠し続けないといけないのか、それも面倒だなあって。これまでも、佐為のこと気づかれないためにウソつくこともあって、佐為から『ヒカルはウソがうまくなりましたねえ』なんて言われたこともあった。そんなことも考えて、ウソをつくのに苦労するよりは、本当のことを話すのに苦労する方が、ましじゃないかって思うようになったんだ」
「なるほど、それで今日、新初段戦の場でsaiのことを話そうと決心したわけだ」
天野が相づちを打つ。
「しかし、ほかの日ではなく今日、この日に話をすると決めたのは、どうして?」
「だって、一番印象的じゃないですか。プロになったばかりの新初段が名人に勝つなんて不思議なことが起きたら、みんな『何事だろう』と思って、オレに幽霊がついてるなんて話も少しは信じてもらえそうじゃん」
こう言ってのけるヒカルの口調の軽さに、緒方は固まり、アキラは苦笑し、塔矢名人は愉快そうにほほえんだ。
「ともかく、佐為のお話はこれでおしまい」
ヒカルの話に続けて口を開く者はおらず、しばし沈黙が流れた。それから天野がヒカルに尋ねた。
「進藤くん、今してくれた話は、ここだけの秘密なのかね、それとも、たとえば『週刊碁』などの記事にして公表してもいいのかね?」
「もちろん、公表してかまわないよ。佐為のことを知ってもらうために話したんだから」
「ほんとうに、いいのだね?」
「ほんとうに、いいよ」
ヒカルの屈託ない返事に、天野の方が覚悟を決めるようにうなずく。それを見て、アキラが口を開く。
「天野さん、今の話を記事にするなら、一言一句省略せず、ぜんぶ記事にしてください。はしょらないでください」
「えっ?!」
「今の進藤の話、ちょっとやそっとでは信じてもらえない摩訶不思議な話です。それを少しでも信じてもらうには、細かな部分もはしょらずにきちんと伝える必要があると思うんです。粗筋を伝えるだけでは、ほんとうにただのホラ話になってしまう」
「しかし、今の話をぜんぶ記事にするなんて・・・・紙面がたりないよ」
「連載にすればいいでしょう」
と塔矢名人から援護射撃。
「連載、ですか?」
「そうです。紙面が足りないなら、連載記事にすればいい。5回か10回か、もっと長くなるか、それは分かりませんが、『謎の棋士saiの正体』なんてタイトルで連載したら、きっと評判になりますよ。『週刊碁』の売上も倍増どころか、3倍、4倍になるかも」
と言いながら名人は笑ったが、
「いや、決して冗談で言ってるのではないですよ」
と釘を刺した。名人にここまで言われて、天野も覚悟を決めた。
「あらためて聞くけど、進藤くん、ほんとうにいいのだね?」
「いいですよ」
「よろしい。この話はこれで決着」
と名人は言い切る。そしてヒカルに向かって問う。
「ところで、進藤くん、4月から公式戦が始まるが、佐為として打つのかね?」
「いや、オレはオレとして打ちます。オレの碁を打ちたいんです」
「もちろん、碁打ちとして、誰しもそう思うだろう」
「ただ、せっかく佐為のことを打ち明けたんだから、佐為にも打たせてあげたいです。それに、佐為と打ちたがってる人もたくさんいると思うんです・・・・緒方さんも、佐為と打ちたいでしょう?」
「・・・・そりゃあ、もちろん」
突然話を振られて、緒方はあわてて返事をする。
「もちろん、緒方くんは打ちたいだろう。ほかにも、一柳先生、座間先生、森下先生、倉田くんなども打ちたがるはずだ。およそ棋士として、佐為ほどの相手との対局を望まない者はいないだろう・・・・ただし、公式戦は進藤くんが進藤ヒカルとして打つのなら、佐為が打つのは非公式戦ということになるな・・・・どこで打とうか?」
「あっ、それはまだ考えてなかった。オレんちってわけにもいかないしなあ・・・・」
「お父さん、ボクたちの碁会所はどうでしょう?」
「ああ、それもいい・・・・いや、碁会所でなく、わたしの家にしよう」
「先生のおうちで、打たせてもらえるんですか?」
ヒカルがびっくりして聞き返す。
「ああ、その方がいいだろう。碁会所のお客に見せるのも、もちろん有益ではあるが、日本を代表する錚々たる棋士たちと佐為の対局は、プロの棋士たち、若いプロの棋士たちにこそ見せたい。そのためには、わたしの家の方がいいと思う。もちろん、そうすればわたしも暇さえあれば観戦できるのだし」
「トップバッターはぜひわたしに」
と緒方が急き込むように話に割って入る。ヒカルはびっくりして緒方の顔を見、それから横を見る。佐為は笑みを浮かべてうなずいている。
「緒方さん、OKだって」
緒方は、してやったり、という得意げな表情を浮かべたが、
「緒方さん、その代わり、お願いがあるんだ」
というヒカルの言葉を聞いて、顔を引き締めた。
「何だ?」
「佐為と打った後、オレと打って」
緒方は一瞬、苦い顔をしかけたが、
「まあ、それくらいのことは当然だな」
という名人の鶴の一声で決着した。
っぽい様のご指摘(定先とコミ5目半の互先の違いに関するご指摘)を受け,1-3のアキラと天野の会話を一部訂正しました。