佐為の影と   作:松村順

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2:始動

2-1

 

新初段戦の次の土曜日、ヒカルは塔矢邸を訪れた。佐為と緒方の対局となれば、それ相当の時間を見込んでおかないといけない。平日の放課後では遅すぎるので、どうしても土曜日か日曜日になる。この日、塔矢名人は在宅して観戦する。アキラはイベントの仕事で出かけているが、翌日に佐為との対局を予約している。

塔矢門下の研究会で使っている広間にヒカルが入ると、緒方はすでに待っていた。その脇に塔矢名人、そして10人あまりの門弟たち。

「佐為と緒方くんの対局とあって、ふだんより盛況だよ」

と名人が軽い口調で語るが、緒方の緊張は解けない。ヒカルが座り、その脇に佐為が座る。

「お願いします」

対局が始まった。

序盤はお互い様子を見あう展開だが、中盤から激しい打ち合いになった。

《9の十四・・・・ヒカル、9の十四です》

《佐為、ちょっと考えさせてくれ。オレは、ここで9の十四という佐為の発想について行けないんだ。ちょっと考えさせてくれ》

《えっ?・・・・》

《あっ、佐為。オレも一緒に考えてんだよ。言われるままに石を置くなんて、つまんないだろう。オレも考えてんだ。これまで、佐為の考えは読めていた。オレも佐為と同じ場所に打ったと思う。でも、ここでの9の十四は・・・・》

《ああ、そういうことですか。いいですよ。しっかり考えてください。待ちましょう》

ヒカルは真剣に考える。そんなヒカルの表情を見ながら、緒方は思う。

〔ここで長考か・・・・それにしても、まるで進藤自身が考えてるように見えるな。自分についた幽霊が長考する時は自分も一緒に長考するような態度になるものなのか・・・・〕

10分ほどして、ヒカルは納得したようにうなずいて9の十四に打ち込んだ。

〔ああ、そんな手があったか・・・・〕

それから3度ほどヒカルが長考する場面があった。やがて終盤も煮詰まってきた。

「オレの負けは見えてるんだが、最後まで打たせてくれないか?」

「いいよ。オレも最後まで見届けたい」

〔いいでしょう。ヒカルの勉強にもなりますし〕

結局、緒方の4目半負け。検討を終えてから、ヒカルと緒方が対局したが、やはり実力の差は明らかだ。

「オレの負けは分っているけど、最後まで打たせてくれる?」

「まあ、いいだろう」

緒方は苦笑した。結果はヒカルの5目半負け。

「まあ、妥当な結果だな。それにしても、序盤でミスがないのは立派だ。去年の若獅子戦のような、悪手を好手に変える華麗な打ち回しはなかったが、全体としての腕は間違いなく上がっている」

「緒方さん、ありがとう」

 

翌日の日曜日は、アキラが佐為と対局した。結果は中押し負け。

「ああ、まだボクにとって佐為は高い壁だな。と言うか、佐為はますます強くなってるんじゃないか?」

ヒカルの脇で佐為がうれしそうに笑みを浮かべる。

「塔矢が最後に佐為と打ったのはおととしの夏のネット碁だから、1年半前。そりゃあ、1年半もあれば強くなるさ」

「いったい、どこまで強くなるんだろう・・・・」

「佐為が強くなるのはオレだってうれしいんだけど、そうなるとますますオレが佐為に勝つ日が遠くなるんだよなあ」

《ふふふ、お二人にはまだまだ負けはしませんよ》

《ちぇっ・・・・》

「進藤、どうした?」

「あっ、いや。佐為が『お二人にはまだまだ負けません』だってさ・・・・さあ、今度はオレと打ってくれ。佐為じゃなくてオレと最初から打つのはこれが初めてだよな」

アキラは一瞬とまどった。それから、ヒカルの言ったことの意味を理解した。

「そうか。これまでの対局は佐為と打ってたのか・・・・」

ヒカルとアキラの対局は、最初から乱戦になった。中盤までは、あちこちで取ったり取られたりが続いたが、終盤になってアキラが優位に立った。結局、2目半でアキラの勝ち。

「ああ、まだオマエに勝てないんだ。くやしいな」

そんなヒカルの言葉が耳に入らないかのように、アキラは真剣に盤面を見つめている。

「塔矢、どうしたんだ?」

「・・・・あっ、いや。キミはもうここまでやって来たのか、と思ってたんだ・・・・キミは確かに、僕のライバルだ。生涯のライバルかもしれない」

「ついに認めたな。ありがとう」

 

翌週の土曜日は倉田6段がやってきた。

「なあ、進藤くん、折り入ってお願いがあるんだが」

「なんですか?」

「キミ、目かくしして打ってくれないか?」

「目かくし? なんで?」

「うん。キミの背後か脇か知らないけど佐為という幽霊がいるって話、まだ納得できないんだ。それで、オレが考えたのは、キミが目かくししても佐為は碁盤が見えてるな。そして佐為がキミに、ほかの誰にも聞こえない声で打つ場所を指示するわけだ。それなら、キミは目かくししていても、『3の六』とか『8の十一』とか、石を置く場所を言えるはずじゃないか。そして、キミが目かくししてちゃんと打てるなら、オレだって佐為の幽霊の存在を信じられる」

ヒカルは、予想もしていなかったことを言われてちょっと考えたが、きっぱり

「やだ」

と拒否した。

「だって、それじゃあオレが碁盤を見て次の手を考えることができないじゃん。オレ、ただ佐為の言うとおりに石を置いてるんじゃないんだよ。自分でも次はどこに打つか考えてるんだ。どこに打つか、決めるのは佐為だけど、おれも一緒に考えてるんだよ。そうじゃないと、おもしろくないじゃない」

倉田はその返事を聞いて腕組みして思案した。

「そうか・・・・まあ、確かに、人に言われたとおり石を置くってのも、つまんないよな・・・・幽霊問題を解決する名案と思ったんだがな、しかたないか。じゃあ、お願いします」

と元気の良いあいさつで佐為との対局が始まった。倉田は、勝ち負けよりも、無敵の佐為を相手にいろんな攻め方、守り方を試すような碁を打ってきた。

〔この者、おもしろい〕

佐為も倉田に応えるように、新たな手筋を探すように打ってくる。それでも結果は佐為の勝ち。

「いやあ、おもしろかった。佐為は秀策だったって聞いたけど、古い定石だけじゃなく、新しい手もどんどん打ってくるんだな。そして、どんどん強くなってるんだ。すごい」

と明るい口調でしゃべりながら、検討を進めた。それから、ヒカルとの対局。

「倉田さん。お疲れかもしれないけど、真剣に打ってね」

「何言ってんだ。1局打ったくらいで疲れやしないよ。まだ20歳過ぎたばかりだよ。キミと10歳も離れていないんだ。徹夜したって打てるさ」

この調子で対局を始めたが、しだいに笑い顔が引き締まってきた。格下ではあっても、決して油断できない相手であることが分ってきたから。とはいえ、負けはしない。3目半で勝利を収めた。

「怖い奴は下から来るってのは、ほんとうだな。キミと塔矢アキラ、要チェックだな」

と倉田はヒカルの健闘を称えた。

 

翌日の日曜日。塔矢邸の玄関でヒカルはばったり和谷と出くわした。

「今日は、和谷が佐為と打つのか?」

「そうであってほしかったんだが・・・・森下先生に『弟子が師匠を差し置いて先に対局するとは何事だ』とどやされた。今日は師匠が佐為と打つよ。オレはお供だ」

〔おやおや、森下先生も大人げない。まあ、わたしも一度あの者とも対局したかったのではありますが〕

こんな話をしながら、二人と一人(?)は塔矢邸の広間に入り、碁盤を囲んで雑談していた。しばらくして、玄関から

「塔矢、久しぶりだな」

と元気な声が聞こえてきた。出迎えたアキラとのあいさつもそこそこに、森下は広間に入り、碁盤の前に着座した。

「おう、進藤が来てるってことは、佐為も準備万端ということだな」

〔はい、そうですよ〕

「うん、佐為も先生との対局を楽しみに待ってたよ」

「じゃあ、さっそく始めよう。お願いします」

「お願いします」

森下の碁は、佐為も研究会の場で何度も見ていた。今日も、これまでと特に変わった打ち方ではない。

〔力としては、行洋殿には及ばない。緒方さんと同じくらいか。ただ、勝負強さというか、勘所の鋭さというか、そういう熟練においては、やはり年の功はある・・・・〕

「ふー、ここまでか・・・・塔矢も緒方も倉田も負かしただけのことはある。オレが勝ち星一番乗りと思ったんだが、甘かったな。負けました」

と森下は頭を下げた。検討も終わってから、今では恒例になったヒカルとの対局。森下は力を抜くことなく、ヒカルをつぶしにかかる。ヒカルも善戦するが、力の差は否定しようがない。徐々に森下の優位が明らかになる。

「進藤、強くなったな。まだまだ負ける気はしないが、一瞬たりとも気を抜けない」

結局、ヒカルの中押し負け。この対局の検討が終わって、和谷がヒカルに話しかけた。

「次はオレでいいかな。来週の土曜日だな。オレも佐為と打ちたいよ」

《いいですよ。一昨年の夏、ネットで対戦して以来ですね》

「うん、いいよ。でも、和谷が相手なら1時間か2時間くらいで終わるから、土曜日まで待たなくても、火曜日の夕方の研究会でもいいぜ」

「1時間か2時間だと! バカにすんな! オレだって強くなってるんだ。佐為相手に粘ってみせるさ。今度の土曜日だぞ。いいな」

「ああ、分かった、分かった、そんなに怒鳴んなくても聞こえてるよ」

こんな二人の子供っぽいやりとりを、佐為は扇で口元を隠して笑いながら見ている。

 

次の土曜日、和谷は佐為に一刀両断された。

「ひーっ、佐為はあれからますます強くなってるんだ。たまんねーな・・・・」

《佐為、もうちょっと手加減してやればよかったのに。和谷を相手に全力出すことはないだろう》

《「1時間か2時間くらいで終わる」っていうヒカルの言葉がウソにならないよう頑張ったんですよ》

佐為はおかしさをこらえて涼しい顔で返事する。

《そんなところで気を遣わなくても・・・・》

「進藤、さあ今度はオマエが相手だ。リベンジしてやる」

《和谷さん、そういうのを「江戸の仇を長崎で」と言うんですよ》

「和谷、佐為が、そういうのを「江戸の仇を長崎で」と言うんだって言ってるよ」

「長崎だろうが鹿児島だろうが構わねえよ。さあ、握れ」

その対局も、残念ながら和谷の負けに終わった。

「クソッ、まだ時間はあるんだろう。もう1局!」

結局、この日、和谷とヒカルは4回対局して、和谷の1勝3敗で終わった。

 

それから、毎週土曜日と日曜日、現在と過去のタイトルホルダーや、次期のタイトルホルダーと期待される実力を備えた棋士たちが次々に塔矢邸を訪れて佐為と対局したが、いずれも佐為に敗れ去った。不敗神話は続く。そして、佐為の後にヒカルと対局することも慣例というか暗黙のルールになった。

《佐為、すごいメンバーだな。こんだけの人たちと、オレ、まだ正式にプロになっていないのに、対局してるんだ。これも佐為のおかげだな。礼を言うぜ》

《ヒカル、礼なんか言わなくていいんですよ。わたしも、選りすぐりの棋士たちと碁を打つことができて、うれしいんです》

《そして、相手も喜んでる。こんなふうになるんなら、もっと早くオマエのことをみんなに話しておけばよかったな》

《まあ、案ずるよりも産むが易し、ということですね》

《タイトルホルダーでまだ来ていないのは・・・・桑原本因坊だけだな》

 

2-2

 

『週刊碁』の連載記事は1月中旬から始まった。新初段進藤ヒカルに影のように寄り添う佐為という謎の最強棋士の物語は、まずその雑誌の読者の間で話題になったが、それが狭い囲碁愛好者の世界を越えて広がるのに時間はかからなかった。2月になると一般の新聞や雑誌、テレビ局からも日本棋院に取材の申し込みが入った。初めのうちは、本人が未成年で、あまつさえまだ中学2年生であることから、棋院の判断ですべて断ることにしていたが、そうとばかりも言っておられず、3月の新入段免状授与式の終了後に合同記者会見が設定されることになった。

このことはヒカルにも伝えられたが、ふだんから新聞も読まずニュースも聞かない世間に疎いヒカルには、実感が湧かないままだった。学校で同級生から話題を振られることもたまにあるが、当のヒカルが気のない返事をするものだから、それ以上話題は広がらない。そんな奇妙な雰囲気の中、あかりがヒカルに声を掛けた。

「今日、学校が終わってからヒカルのうちに行ってもいい? このところ土曜、日曜はいつもいないから・・・・」

「何の用なんだ?」

「久しぶりにヒカルに碁を打ってもらいたいの」

「えーっ、かったるいなあ・・・・」

《ヒカル、そんなつれないこと言わないで。あかりちゃんも碁が好きなんです。打ってあげなさい。わたしが打ってもいいですよ》

《じゃあ、オマエ打ってやれよ》

というわけで、その日の夕方、あかりがヒカルの家を訪れた。

9子を置いての指導碁。佐為はあかりの力量にあわせて無理をせず的確に打ってくるので、あかりも気分良くついてくる。つい時が過ぎるのを忘れていた。

「あっ、いけない、もうこんな時間。じゃあ、今日はこれで終わるね」

「うん。じゃあな」

あかりは帰りかけて、小声でヒカルに尋ねる。

「ねえ、今打ってくれたのはヒカルなの、佐為なの?」

「今日は佐為が打った」

「ふーん、わたしとはいつも佐為が打ってるの?」

「そんなこともないけどな。オレが打つこともあるよ」

「そうなんだ・・・・わたしには、ヒカルも佐為も区別がつかないけど」

《そんなことありません。わたしの方がヒカルよりずっとていねいに指導碁を打ってあげてるんですよ・・・・ヒカル、ちゃんとあかりちゃんに伝えてください》

《うるっせーな、もう!》

「佐為が、自分の方がオレよりずっとていねいに指導碁打ってるってさ」

「そうなんだ・・・・わたしも佐為と直接話ができるといいのにね」

「おれも、その方が面倒がなくていいんだけど・・・・それにしても、あかり、オマエ不思議じゃないのか? オレのそばに幽霊がいるって?」

「まあ、不思議と言えば不思議だけど、でも、逆にそれで納得できたこともあるの。ちょっと変だったもん。小学校6年生の秋くらいから、ヒカルが急に碁に熱中しだして、時々独り言をぶつぶつ言ってたし。あの時からそばに佐為がいたんだと分ると、納得できる」

《あかりちゃん、ありがとうございます。そんなふうに自然に素直にわたしの存在を受け入れてもらうと、うれしいです。ほんとうに、あかりちゃんとも直接話ができるといいのですけどねえ》

「佐為が、自分の存在を受け入れてくれてありがとうって。佐為もオマエと直接話ができるといいのにって言ってるよ。やっぱり、かわいい女の子は好きなんだな」

「あっ、ヒカル、わたしのこと『かわいい女の子』って言ったね」

「いや、それは、ちょっと口が滑っただけだ」

「もう、何よ、せっかく喜んだのに!」

あかりは、ふくれっ面して帰って行った。

《ほんとうに、ヒカルは一言多いんだから・・・・》

 

2-3

 

こんな、あかりとのエピソードもまじえ、週末に佐為とヒカルがトッププロたちと対局を重ねていくうちに3月になり、新入段免状授与式が近づいた。その2日前、佐為は久しぶりに塔矢名人と対局した。この日は、名人の1目半負け。

「それなりに佐為の手筋を研究したつもりだったが、差が開いてしまったな。まあ、これを励みに研鑽を重ねよう」

「先生、いったいどこまで強くなる気なんですか?」

ヒカルは真顔で尋ねた。

「まだまだ強くなるよ。まだ神の一手にはほど遠いのだから・・・・まあ、緒方くんなどは『先生がこれ以上強くなられたら、わたしたち若手がタイトルを奪えなくなるので困ります』などと言っているがね」

そう言いながら脇で観戦する緒方に視線を向けた。

「あっ、いえ、先生が強くなられるのは弟子としてうれしいと思ってはおりますが・・・・」

「緒方さん、無理して・・・・」

「なにぃ!」

ヒカルと緒方の掛け合いに名人は笑った。

「緒方くん、子供相手に本気になるんじゃないよ。進藤くんも、年上をそんなにからかうものじゃない」

楽しげな口調で二人をたしなめた。それからまじめな表情に戻って、

「それはそれとして、佐為に伝えてほしいことがあるのだが」

「佐為はここにいるから、オレが伝えなくても聞こえますよ。佐為は、自分では周りのことをぜんぶ見えるし、聞こえるんです」

「そういうことか。今、佐為はどこにいるのかな。キミの後ろか、それとも横か」

「オレの右にいます」

「では」

と、名人はヒカルの右の空間に向かってまじめな声で語りかける。

「佐為、わたしはキミに心から感謝する。キミとの対局を経験して、そしてキミとほかの棋士との対局を間近に観戦することで、わたしの碁は若返ったのだよ。これまでも決して精進を怠らなかったと自負してはいたが、キミはさらに強い力でわたしを後押ししてくれる。キミの存在がわたしを引き上げてくれる。今日も負けてしまったが、いつかキミを打ち倒す、その思いがわたしに今まで以上の探求を促すのだ。わたしだけでなく、キミと対局したすべての棋士が同じ思いだろう。彼らの分も含めて、感謝の気持ちを伝えるよ」

名人は、頭を下げる。

《行洋殿。頭を上げてください。あなたに頭を下げられるなど、身に余る光栄です。わたしもまた、あなたのような人に出会えて、感激しているのです。あなたとの対局はわたしの喜びなのです。わたしこそ、あなたに感謝したい・・・・》

佐為は涙ぐんだ。

「先生、佐為、泣いてるよ。うれし泣きなんだ。佐為こそ、先生に出会えてうれしいって。先生と対局するのがなによりうれしいって」

「そうか。そう言ってくれるのか・・・・」

名人はヒカルが伝える佐為の言葉を静かに受け止めた。目を閉じて自分の考えに沈んでいるような名人にヒカルが恐る恐るという様子で声を掛けた。

「・・・・先生、あのー、オレとの対局・・・・」

名人は目を開き、いつもの碁打ちの表情に戻った。

「もちろんだ。さあ、次は進藤くんとだな・・・・これが初めてかな。しょっちゅう会っているから、もう何度も対局しているような気になっていたが」

「初めてです。新初段戦は佐為が打ったから」

「そうだったな」

ヒカルは名人に正面からぶつかり、名人はそれを真っ向から受け止める。序盤はほとんど互角だった。中盤もやや進んだところで、ヒカルが長考した。そして打った石を見て、名人は腕組みした。

〔そこか・・・・予想していなかった。一見、失着のように見えるが、先を深く読んだ上での一手だろう・・・・いや、相手は佐為ではなくて進藤くんなのだ、あまり深く考えすぎなくていいのかもしれないが・・・・〕

名人は、自分の想定に従って対応し、戦いが進むにつれて徐々に名人が優位に立った。局面がここに至って、さきほどのヒカルの石の意味が見えてきた。

〔なるほど、この場面を想定していたのか。おもしろい。ただ、それくらいでは、わたしの優位は揺るがない〕

結局、ヒカルの中押し負け。

「やっぱり、先生にはかなわないなあ」

「進藤が先生に勝ってしまったら、オレたちの立場がないって」

横から緒方が口を挟む。名人は笑った。

「まあ、まだまだキミに負けはしないが・・・・強くなった。緒方くんとの対局と比べても、2ヶ月足らずのうちに強くなっている・・・・そうだ、まだ時間は大丈夫かな?」

「はい、オレは大丈夫です」

「それなら・・・・」

と言って名人は碁盤に石を並べ始めた。

「覚えているかい?」

「これは・・・・」

ヒカルは驚いて盤面を見ている。

「そう。キミが中学1年の時、アキラと対局した時の棋譜だ・・・・さて、ここでキミは佐為の意見を無視して11の八に打ち込んだ。ここから続けて、打ち切ってみないか? 今のキミの力なら、あのときのような『へたな碁』にはならないはずだ」

《打ちましょう!ヒカル、ぜひ打ちましょう!きっと、おもしろいことになりますよ》

《なにもオマエがはしゃぐこたあ、ないだろう》

「進藤くん、どうしたのだね?」

「あっ、佐為がはしゃいでるんです。『ぜひ打ちましょうよ』って、喜んでます」

名人はにこやかに笑った。

「佐為も喜んでくれるなら、なおさらだ・・・・いいかな。わたしが打つ番だね」

名人の表情が真剣になる。

「はい」

ヒカルは表情を引き締めて答える。名人が打ち込む。それにヒカルが応戦する・・・・。

「ああ、やっぱり勝てねえ」

ヒカルが投了した。

「わたしが相手だからね。進藤くんもよく打ったよ。キミの奥に秘めた何かを支える力を身につけつつあるようだ。アキラが相手ならどうなったか分からない」

「ほんとうですか? 緒方さんの翌日、アキラと打って2目半で負けたんだ。アキラはそれでもオレをライバルと認めてくれたけど・・・・先生から見ても、互角になったんだ。毎日アキラを見ている先生が言うんだから、間違いないです」

名人は、ヒカルの無邪気な喜びように笑みを見せながら、沈思する。

〔進藤くんは、公式戦では佐為の力を借りず、自分の力だけで打つという。それは信じていい。碁打ちであれば、当然のことだ。自分の力で打ち抜くこと、それは勝敗よりも大切なこと。人の力を借りて勝つよりも、自分の力で打ち抜いて負ける方がましだ。碁打ちであれば、そう思う。進藤くんは、すぐそばに佐為がいても、決して佐為に頼るようなことはしない。それは間違いない。だが、それを疑う人もいるだろう。昇段やタイトルがかかった公式戦であればこそ、疑う人がいるだろう。そのどす黒い疑いが進藤くんを押しつぶさなければいいが・・・・いや、余計なことを考えてもしかたない。佐為の存在を明かすこと、進藤くんはそれを選んだのだ。そのおかげで、わたしを始め多くの棋士が佐為と対局できるようになったのだ。進藤くんの選択を信じよう・・・・〕

 

2-4

 

新入段免状授与式の前日、ヒカルは棋院に呼ばれた。

呼び出されるような悪いことをした覚えはないのになあという浮かない顔でやってきたヒカルを、受付で天野が呼び止め、事務室の奥の応接室に通し、初老の紳士に紹介した。

「こちらは、日本棋院の顧問弁護士を引き受けていただいている田島先生」

「弁護士?」

ヒカルは佐為と顔を見あわせた。

「オレ、何も悪いことしてないけど・・・・」

「いや、そういうことではないのだよ。心配しなくていい。明日、免状授与式の後で記者会見が予定されているね。その時、記者からいろいろ意地悪な質問をされてキミが困らないよう、手助けしてくれることになっている。そして、今日はあらかじめいくつかアドバイスしておきたいとのことなんだ」

「はあ・・・・」

ヒカルはまた佐為と顔を見あわせた。

《なんだか、知らないうちに大ごとになってますね》

《そうだな・・・・》

「まあ、そう緊張しないで、ここに座ってくれたまえ」

田島はヒカルに声をかけた。ヒカルは田島と向かい合う席に腰掛けた。

「進藤くんのような有望な新人をメディアの荒波にもみくちゃにされたくないというのが、天野さんのご希望だ。それで、わたしの力の及ぶ限り手助けしたいと思っている。

お互い、忙しいだろうから、さっそく本題に入るよ。たぶん、記者たちは佐為という幽霊がほんとうに存在するのかという点を集中的に質問するだろう。それで、くれぐれも気をつけてほしいのは、記者の挑発や誘導に乗って『佐為の存在を証明してみせます』みたいなことを言わないことだ」

「どうして?」

「そんなこと、証明しようがないからだよ。幽霊の存在を証明することなど、不可能だろう」

「じゃあ、オレはなんと答えればいいの?」

「証明しなくていいんだ。ただ『だって、事実だから』とか『存在するものは存在するんだから仕方ないでしょう』みたいな答えでかわすんだよ」

「そんなんで、相手は納得しないでしょう」

田島はほほえんだ。

「そこがミソなんだ。無理に相手を納得させなくてもいいんだよ」

「えっ?」

「もちろん、相手は納得しないからいろいろ食い下がるだろう。その時は『ボクがウソをついていると言うのなら、その証拠を見せてください』とか『ボクの言うことが事実でないというのなら、事実でないことを証明してください』というふうに、相手に質問を投げ返すんだ。そうすれば、相手は何も言えなくなる。そりゃあ、そうだろう。なにせ幽霊が問題なんだ。その存在を証明することはできないけど、それが存在しないことを証明することもできないんだ」

「・・・・」

「ピンと来ないようだね」

「うん、よく分んない」

「挙証責任という法律用語がある」

「キョショウセキニン?」

「うん。読んで字のごとく、証拠を挙げる責任、証拠を示す責任、証明する責任という意味だ。たとえば、さっき話したような場面で、進藤くんと記者と、どっちが挙証責任があるのか?」

「・・・・」

「それは、自分の正しさを主張する側なんだよ。進藤くんが『佐為はいるんです』と主張するなら、進藤くんが『佐為はいる』ことの証拠を示す責任がある。記者が『佐為なんかいるはずない』と主張するのなら、記者がその証拠を示す責任がある。そして、ちょっと考えれば分るけど、挙証責任を負う側が不利だね」

「そうですね」

「だとしたら、自分から積極的に自分の正しさを主張しない方がいい。相手に主張させて、証拠を示すよう迫って、証拠を示せない状況に追い込む方が有利だ」

〔すげー、タヌキ・・・・〕

と思ったが、さすがにヒカルもこれを口にはしない。

「専門家でない人は意外に思うだろうけど、法律の世界は守る方が有利なんだよ。相手側に攻めさせて、攻め手がなくなって自滅するのを待っている方が有利なんだ。ただ、人間というのはどうも勝ちに行きたがる生き物らしい。自分から自分の主張の正しさを証明したがる生き物のようだ。この本能を封じ込めて、あくまで相手に挙証責任を負わせ続けるのが難しいんだね」

ここまでの話を聞いて、佐為の表情が明るくなった。

《ヒカルにはできますよ》

《えっ?》

《碁も同じじゃないですか。むやみに攻めればいいってものではありません。守るべき時は守り、引くべき時は引き、耐えるべき時は耐える。ヒカルは今でも、碁ではこれができます。そのコツをヒカルは身につけているはずです》

《でも、それは碁の話だろう》

《記者会見にも応用できますよ》

佐為は楽天的に語る。

「まあ、いろいろ難しいことを話したかもしれないが、要は何を聞かれても、相手をやり込めようとか、相手を納得させてやろうと思わないことだよ」

「それが難しいんだなあ」

田島は、そんな子供っぽい反応をするヒカルがほほえましかった。

「まあ、明日はわたしもキミの隣に控えている。危なそうになったらブレーキをかけてあげるよ」

「お願いします」

田島との話はこれで終わった。

帰り道、うなだれて歩くヒカルの脇で佐為が語りかける。

《うちに着いたら、「耐えるが勝ち」みたいな棋譜を集めて復習しておきましょう》

《そんなんで役に立つのか?》

《役に立ちますよ。ヒカル、元気を出して!》

 

翌日の新入段免状授与式。ふだんはごく内輪の行事だが、この年は取材陣が溢れかえった。お目当てはもちろん、無敵の棋士sai=佐為を影のように背負う進藤ヒカル新初段。通常の式次第が終わり、ふつうならそのまま閉会するところだが、今年はそれから記者会見が始まった。まず、日本棋院を代表して天野があいさつする。

「例年にないことでありますが、今年は進藤ヒカル新初段への取材の申し込みを多数受けております。個別に取材に応じるとそれだけで膨大な時間を取られることになりますので、この場に記者会見を設定いたしました。記者の方々は事情をご理解の上、なるべく重複を避けて質問してください。それと、本人はまだ未成年。14歳の中学2年生であります。この点も十分にご配慮ください。棋院としましても、本人の補佐のため顧問弁護士である田島先生をアドバイザーとして同席させます。では、順番に質問をお願いします」

実際に記者会見が始まると、棋院が心配していたような意地悪な質問は出されず、ヒカルも落ち着いて応答した。

「saiは幽霊だとのことですが、具体的にどのようなものでしょうか?」

「幽霊は幽霊としか言いようがありません」

「それでは説明になっていないと思いますが」

「説明のしようがないんです。実際にオレのような体験をしたことのない人には、分ってもらえないと思ってます」

ヒカルがこのように突き放すと、それ以上の追及は難しい。

4月から始まる公式戦では佐為ではなく進藤ヒカルとして戦うというヒカルの言明に対して、

「でも、佐為は進藤初段以外の誰にも見えないし聞こえないのだから、こっそり佐為の助言をもらっても、分かりませんよね?」

という当然の疑問が提出された。

「それは、オレを信じてもらうしかありません」

とだけヒカルは答える。それを天野が補足した。

「進藤くんが佐為のことを打ち明けてから、今日に至るまで、塔矢名人をはじめとして、一柳棋聖や座間元王座など、錚々たる人たちが佐為と進藤くんの両者と対局しています。その方々は口を揃えて、佐為の手筋と進藤くんの手筋は明らかに別物であり、実際に打ち合ってみれば、どちらが打っているか分かるとおっしゃっています」

これで疑念が払拭された雰囲気ではなかったが、この点をそれ以上追及する記者はおらず、記者会見は一見平穏に終了した。

 

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