3-1
新入段免状授与式の後も、ヒカルは毎週末、塔矢邸を訪れる多くの棋士を相手に、佐為とヒカルの二役を演じて対局をこなしていた。桑原は結局3月末になるまで塔矢邸を訪れることはなかったが、『週刊碁』に桑原本因坊のインタビュー記事が掲載された。現在と過去のタイトルホルダーでたった一人、佐為と対局していないのはどうしてかと質問されて、
「ワシは、佐為にはあまり興味がない。進藤の小僧の方に興味があるんじゃ。奴がまだ院生だった頃、棋院の廊下ですれ違った。ただ者でない雰囲気を感じたもんじゃ。それ以来、奴に注目しておる。今あわてて対局せんでも、いずれ本因坊戦に出てくるじゃろう。それをゆっくり待っておるわ」
と答えていた。
4月からいよいよ正式にプロとして公式手合が始まる。第1戦は4月4日、対局相手は生涯のライバルと認め合う塔矢アキラ。しかしその日、対局開始時間になってもアキラは姿を見せなかった。一体、何があったんだろうと気を揉むヒカルは、棋院の事務員から呼ばれた。
「進藤くん、ちょっと・・・・」
ヒカルが対局室を出たところでそっと耳打ちされた。
「塔矢くんは来れない。塔矢先生が倒れられて、救急搬送されたと知らせがあった。アキラくんもお母様と一緒に病院に向かったらしい」
「えっ!・・・・」
「棋院も、対局室以外は上を下への大騒ぎだよ」
帰宅したヒカルは塔矢邸に電話したが、誰も出ない。二人とも病院にいるらしい。
翌日、まだ春休みなので朝から電話したが、やはり誰も出ない。夕方になると、ずっと話し中だった。晩ご飯を終えて電話して、やっとつながった。
「ああ、進藤。昨日はすまなかった。公式戦初対局だったのに」
「そんなことはどうでもいい。それより、先生の具合は?」
「命に別状はない。心臓の発作だったそうだけど、今はもうICUから出て一般病室にいるよ。医者からはしばらく安静と言われているけど、傍目にはふだんと変わらない」
「ああ、それはよかった」
それだけ聞いて安心したヒカルに佐為が耳打ちする。
《ヒカル、お見舞いのことを尋ねてください。お見舞いに行ってもいいのかどうか》
「あっそうだ、お見舞いには行っていいのか?」
「今日いっぱいは一応、近親者以外は面会謝絶になっていた。明日からは大丈夫だけど・・・・」
「だけど?」
「たぶん、明日、あさっては囲碁関係者の見舞客が殺到すると思う。さっきも話したように、病状はもう心配要らないから、少し日を置いてから見舞いに来てくれる方が、父ともゆっくり話せるんじゃないかな」
「うん、分かった」
《塔矢って、こういうところ、ほんとうに気が利くというか、ものがよく見えているというか・・・・》
《ヒカルとは段違いですねえ》
《オマエも一言多い!》
結局、ヒカルと佐為が名人の見舞いに出かけたのは、救急搬送から4日後の日曜日の午後だった。
名人は個室に入院している。それは、ぜいたくと言うより、立場上見舞客が絶えないであろうことを見越して、一般病室では同室者に迷惑をかけるとの配慮もあってのことだった。病室には、アキラと明子、それにもう1人、ヒカルの知らないかなり年配の人がいる。
「ああ、進藤くん、よく来てくれた・・・・こちらは、わたしの後援会の会長を引き受けていただいている住田さん・・・・住田さん、こちらが今噂していた進藤くんですよ」
「先生、オレの噂してたんですか?」
「いや、まあ今日あたりキミが見舞いに来るかもしれないというくらいの他愛ない話だよ」
《ほんとうかな・・・・》
《ヒカル、この場で問い詰めなくてもいいですよ》
《それくらい、オレだって分かってる》
表情が固まったようなヒカルに住田が話しかける。
「進藤初段、お話はかねがねお聞きしております。住田ともうします。よろしくお願いします」
ヒカルは、自分の祖父ほどの年の人から深々と頭を下げられて、どう対応してよいのか戸惑った。そんなヒカルにアキラが助け船を出す。
「進藤、まあ座るといいよ」
「あっ、ありがとう」
それからしばらく他愛もない雑談が続いたが、きりのいいところで名人が切り上げ、真面目な口調になった。
「よい機会だから、進藤くんにもあらかじめ伝えておきたい。すでに明子、アキラ、住田さん、そして昨日見舞いに来られた囲碁関係者の何人かには内々に伝えてあるんだが、近々、名人位以外の4冠ないし3冠を返上しようと思っている」
ヒカルはびっくりして名人を見つめる。何か言いたいが、言葉にならない。
「表向きは健康上の理由だ。実際、医者は過労が原因だと言うしね。ただ、それだけが理由ではない」
名人は、ここでちょっと間を入れる。
「5つのタイトルを保持するのは、それなりにたいへんなのだ。碁を打つことそのものは、少しも負担とは思わないが、それにまつわる雑事が面倒だ。防衛戦は基本的に地方での対局で、1局ごとに移動に丸2日がつぶれてしまう。前日のレセプションにも顔を出さないわけにはいかない。それは、今のわたしにとって、碁を極めるための足かせと思えてしかたない。それと、碁は日本だけのものではない。中国や韓国でも盛んだ。むしろ日本より盛んなくらいだ。それらの国の棋士たちとも碁を打ちたいと思っている。そのための時間がほしい。最初はすべてのタイトルを返上して、公式戦からいっさい身を退くことも考えたが、さすがに周りから引き留められた。アキラが急先鋒だったな」
名人は笑みを浮かべる。
「ボクは、ほかの人たちの気持ちを代弁しただけです。ボクだけじゃなく、みんなも父を倒しタイトルを奪うことを励みにしてるんです」
「それは確かに、お前に道理がある。若い人たちに叩かれ、乗り越えられるのが、年寄りの役目だからね」
「先生、『年寄り』なんて、そんな言い方しないでください!」
と言うヒカルに名人は、住田に目配せしながら
「進藤くん、お年寄りを前にそんな言い方は失礼だよ」
と冗談めかして言う。ヒカルは、「しまった!」という表情であわてて口を手で塞いだので、一座がどっと笑った。
名人は、笑みを浮かべながらもまじめな表情に戻って、
「それに、この1月から佐為の対局を見ていて思ったのだ『公式戦でなくてもこれほどすばらしい対局が生まれるのだ』とね」
ここで名人はまたちょっと間を入れる。
「ところで、さっき『4冠ないし3冠を返上しよう』と言ったね。実は今、十段位防衛戦の真っ最中なのだ。相手は緒方だ。最初の2局はわたしが勝ったのだが、3局目は倒れた翌日で、不戦敗になった。4局目はこんどの木曜日。この防衛戦の結果次第で、返上するタイトルが3つになるか4つになるかが決まる。弟子に負けてタイトルを奪われるより、勝ってタイトルを保持した上で返上したいと思っているよ」
明子がふっと笑いをこぼした。名人もつられて笑った。
「そこで、折り入って進藤くんに、というか佐為に頼みがある」
「えっ、何ですか?」
「第4局の前にもう1度佐為と対局したい」
《もちろん、よろこんでお相手します》
「それは、もちろんかまわないです」
「だが、もう学校が始まっているだろう」
「あっ・・・・いや、大丈夫です。まだ学期が始まったばかりで授業は午前中で終わりだから、午後すぐにここに来ます」
「ああ、そういうことなら、ありがたい。それで、いつにしようか」
「いつでも、先生の都合の良い日で」
「では、第4局の2日前の火曜日でどうだろう? つまり、あさってだが」
「分かりました。火曜日、学校が終わったらすぐにここに来ます」
「待ってるよ。それと、これは緒方には秘密だ」
名人は、ふだんに似合わないいたずらっぽい表情で語った。
火曜日の対局は最後まで勝敗がもつれ込んだが、最終的に佐為の半目勝ちとなった。
「いやあ、佐為の壁は分厚く高いな」
《しかし、行洋殿も一段と強くなっておられます。新初段戦の時に比べれば、戦い方に幅が広がった》
《オレ、そんなこと先生に向かって言えないよ》
《伝えてくださいよ。ヒカルが言うんじゃなくて、わたしのせりふとして》
「先生、オレが言うんじゃなくて、佐為が言ってるんですけど、先生は新初段戦の時に比べて一段と強くなっているって」
「ありがとう・・・・それにしても、佐為に稽古を付けてもらって負けるわけにはいかないな」
2日後、名人は挑戦者緒方を下して十段位を守った。その翌日、5冠の棋士塔矢行洋が名人位以外の4つのタイトルを返上するというニュースが棋界のみならず日本中を駆け巡った。
3-2
塔矢名人の4タイトル返上騒動の余韻がまだ残っている頃、ヒカルはゴールデンウィークのイベントへの参加を依頼された。この時期、各地でいろんなイベントが開催されるが、ヒカルに頼まれたのは、囲碁のことを何も知らないかごく初心者である10歳以下の子供向けイベントへの参加。
「子供の相手ですか? オレ、苦手だなあ」
「当日は、桜野さんという子供の扱いに慣れた女流棋士が一緒にいてくれます。実質的な仕事は桜野先生にお任せして、進藤くんはその場にいて雰囲気を盛り上げてくれればいい。何と言っても、キミは有名人だから」
「それって、要するに『人寄せパンダ』ってこと?」
「まあ、そう言われると反論しにくいのだが・・・・囲碁人気が低迷する中、キミの知名度を活用させて欲しいんだよ」
そう頼まれると、断り切れなかった。
翌日、ヒカルは学校であかりにこのことをぼやいた。
「あら、子供の相手って、楽しそうじゃない」
「そんなこと言うなら、あかりが代わってくれよ」
「そんなわけにもいかないでしょう」
確かに、あかりに代わってもらうわけにはいかはない。
いよいよイベントの前夜、ヒカルが翌日のことを考えていささか憂うつな気分でいると、あかりが尋ねてきた。犀と太陽の絵を描いたパネルを持っている。
「この大きさならバッグに入るでしょう」
「何だよ、犀と太陽なんて」
「サイとヒカルよ」
「やめてくれよ。冗談にもほどがあるってもんだ」
「冗談じゃないわよ。10歳以下の子供なんでしょう。これを見せると、きっと喜ぶよ」
《ヒカル、おもしろそうじゃないですか。持っていきましょうよ》
《佐為、オマエまで・・・・恥かくのはオレなんだぜ》
《どうせ「人寄せパンダ」なんでしょう》
《このヤロー!》
イベント当日の朝、ヒカルは佐為に言われて仕方なくパネルをバッグに入れた。
会場で桜野2段に紹介され、子供向け囲碁教室が開かれる部屋に入った。もう子供たちとその父母とおぼしき大人たちが100人くらい席について待っている。ふだんのこの種のイベントの倍くらいの人数だとのこと。主催者が桜野2段と進藤初段を紹介すると、会場のあちこちから「シンドーヒカル」、「シンドーヒカル」、「サイ」、「サイ」という声があがった。有名だからというだけでなく、中学3年生のヒカルにお兄さんのような親しみを感じてもいるようだ。熱心に自分と佐為の名前を呼ぶ子供たちを見て、ヒカルは覚悟を決め、バッグからパネルを取り出した。
「みんな、これ何だか分かる?」
「犀の絵」、「犀だ」、「太陽もあるよ」・・・・子供たちは口々に答える。
「これは、サイとヒカルの絵だよ」
それを聞いて子供たちは「サイとヒカル!」と口々に叫んだ。
「みんな、元気だねえ。じゃあ、これからちょっとだけ、元気に桜野先生の話を聞こうね」
ヒカルのこのパフォーマンスを見て、桜野はとっさに機転を利かせ、パネルをヒカルの手から取り、講師用テーブルの上に置いた。
「じゃあ、これからサイとヒカルの囲碁教室を始めます」
「ワーッ」という歓声の後、子供たちは静かになった。
桜野は、子供が注意を保てる限界をわきまえて、手短に話を終えた。次は、囲碁の基本的なルールに親しませるために、二人が大型の9路のマグネット碁盤を使って囲碁を簡略化した石取りゲームをして見せる。基本的に、桜野が攻めの形を作り、ヒカルに受け方を答えさせ、それを桜野が解説するという進行なのだが、途中で佐為がささやく
《ヒカルが答えるだけでは、子供たちがおもしろくないでしょう。子供たちに意見を求めては、どうですか?》
《あっ、それ、おもしれー》
ヒカルは桜野から受け手を求められて、わざと考え込むふりをする。そして、
「オレ、分んねえや。誰か助けてくれ。うまい受け方を思いついた人、手を上げて!」
と会場の子供たちに語りかけると、一斉に手が上がった。
「じゃあ、キミ」
とヒカルが一人の子供を指名すると、その子は元気な声で答える。
「なるほど、そういう手があったか・・・・ほかの手を考えついた人はいない?」
すると、またあちこちから手が挙がる。この展開に桜野はびっくりした。
〔進藤初段、子供の相手がうまいじゃないの・・・・それにしても、わたしも以前、同じようなことをやってみたことがあるけど、その時はどこからも手が挙がらなくて白けてしまったのに・・・・やっぱり、人気者なんだわ・・・・〕
やがて石取りゲームのプレゼンテーションも終わり、会場に机と碁盤を用意して子供たちどうしで石取りゲームをする。二人はその間を歩くのだが、ヒカルの周りに子供たちが集まる。
「進藤初段、人気者ですねえ」
と桜野は冷やし半分、本気半分で話しかける。ヒカルは照れ笑いする。
《ヒカル、ごらんなさい、この子たちのキラキラ輝く眼差し。この素直な気持ちに答えてあげましょう。わたしも手伝いますよ》
《答えるって、どうすればいいんだ?》
《ヒカルが子供相手に石取りゲームをするんです。ヒカルなら、5面打ちくらいできるでしょう》
《よし!》
ヒカルは担当者に声を掛けた。
「すみません、予備の碁盤と長机、ありませんか?」
「はい、今すぐ用意します」
ヒカルは石取りゲーム用の9路の碁盤を長机に5つ並べる。
「さあ、2人1組、10人ずつまとめて相手するぞ。我と思わん者はかかってこい」
という声に子供たちが殺到する。
「ああ、それじゃあ、ジャンケン、ジャンケンして決めろ」
あちこちでジャンケンが始まり、勝ち抜いた10人がヒカルに向き合って座った。その子たちが終わったら、次の10人に交替する。佐為が適切にアドバイスし、ヒカルの天性の明るさも手伝って、子供たちは思っていたより以上に楽しんでくれた。子供たちは無邪気に「サイ」、「ヒカル」と声を掛ける。子供たちにとってサイとヒカルは一心同体のヒーローのようだった。
「進藤初段、子供の相手がうまいんですね」
と桜野が、今度は100パーセント本気で語りかける。
「いやー、そんな・・・・」
と照れながら、ヒカルもまんざらではない様子。
こうやって、イベントは無事終了した。
《みんな、喜んでくれたな。意外に楽しいもんだな、子供の相手も》
《子供たちの笑顔は千金、万金に値します。これからも、機会があれば子供たちの相手をしたいですね》
佐為もうれしそうに答える。
3-3
ゴールデンウィークが明けて、5月の大手合。ヒカルにとっては初戦になる。相手は3段だが、負ける気はしなかった。実際、序盤からヒカルに優位に進み、午後の早い時点で相手が投了した。
「検討しますか?」
「いいよ」
相手は、さっさと立ち去った。
〔フン、どうせsaiの力を借りてるんだろう。でなきゃ、新初段のくせに、あんなに強いわけがない。自分の力で打つなんて、よくも白々しいことを言うぜ・・・・〕
こんな陰口を叩かれているとは、ヒカルには思いも及ばないことだった。
そして若獅子戦。本命はアキラだが、ヒカルの活躍もめざましかった。1回戦、2回戦、3回戦を難なく勝ち上がり、準決勝で二人が対局した。
「公式戦でキミと対局するのはこれが初めてだね。4月の大手合はボクが休んでしまったから」
「ああ。楽しみにしてたぜ」
「ボクもだよ」
その対局は、塔矢名人と佐為の対局をスケールダウンしたような接戦になった。進行は早く、打ち掛けの時点で中盤から終盤にさしかかっていたが、勝敗の帰趨はまったく読めない。
「キミはまさに佐為の弟子だね。キミの打つ碁のあちこちに佐為の手筋が見え隠れするよ。でも、もちろん、キミの碁はまぎれもなくキミの碁だ」
「塔矢、ありがとう。一番うれしい言葉だぜ」
午後からの盤面も一進一退が続き、半目が微妙に二人の間で揺れた。しかし、最後に勝ちを手にしたのはアキラだった。半目差の勝ち。
「くそおー、今日は勝てると思ったのに!」
「ボクだって、前に進んでいるんだよ。キミも前に進んでいるけど。そう簡単に追い越されやしない」
「それは分ってるさ。分ってるけど、悔しいものは悔しいんだ」
そんなふうに素直に悔しさを表すヒカルに、アキラは同年配の人間として親しみを感じる。
「・・・・進藤、ちょっと話したいことがあるんだ。付き合ってくれないか」
アキラはヒカルに席を立って外に出るよう促した。
手合室を出て階段を降りながら、ヒカルは話しかけた。
「ちょっと話って、なんだ?」
「キミの耳にも届いているかもしれないが、キミの悪口、陰口をたたく人たちがいる。『自分の力で打つと言ってるけど、どうせ佐為に手伝ってもらってるんだ』というような陰口だよ。根も葉もない話だってことは、ボクには分かる。ボクだけじゃない。父も、緒方さんも、倉田さんも、森下先生も、座間先生も、一柳先生も、およそ佐為と対局し、キミと対局した人なら誰でも、佐為の碁とキミの碁が別物だということは分かる。キミがキミの力で打っていることはよく分かる。だから、そんなくだらない陰口なんかに心を乱されないでいてくれ」
「なんだ、そんな話か。もちろんさ。そんなくだらない噂なんか気にしねえよ・・・・オレのこと心配してくれてんのか。ありがとう」
「キミはボクのライバルだから。こんなつまらないことで、つまずいてほしくないんだ」
6月の大手合。対局相手が現れず、ヒカルは不戦勝した。7月の大手合でも、8月の大手合でも同様だった。さすがに3ヶ月連続だと偶然でかたづけるわけにもいかず、棋院としても内々に事情を調査した。対局相手の口からは「幽霊に手助けされて打つ相手との対局など、やってられない」という不満が語られた。困ったことに、この不満はかなり多くの棋士たち、とりわけ低段者の間に広まっているようだった。天野らは、恐れていた事態が現実のものになったと、頭を抱えた。
一方、当事者でありながらそのような問題が生じていることなどつゆほども知らないヒカルにとって、この夏は楽しく充実したものだった。
3-4
まず、夏休みに入って早々、子供たちを対象にした囲碁イベントに呼ばれた。ゴールデンウィークのイベントが好評で、ヒカルは子供キラーとの評価を得ていたから。ヒカルにとっても、無邪気な子供たちを相手にするのは楽しかった。ヒカルのトレードマークになった犀と太陽のパネルを掲げて登場すると、会場から「サイ」、「ヒカル」という歓声があがった。
それから1週間ほどして、国際アマチュア囲碁カップ。
2年前の囲碁カップでは謎のネット棋士saiが噂になっていた。その正体が進藤ヒカルという少年の分身であることは、ネット碁の世界ですでに知れ渡っていた。今年の囲碁カップには「ぜひsaiと対局したい」という要望が各国から寄せられていた。本来、アマチュアの大会にプロは参加しないのだが、公式の対局ではなく指導碁であるということで、囲碁カップ期間中、午前と午後に1局ずつ、4日で8局の対局が予定された。対局相手は、申し込みが多数になったので抽選となった。囲碁カップ運営事務局から、7月初め頃に打診された時
「外人と打つの? オレ英語ぜんぜんだぜ」
とヒカルはゴネたが、
「何もしゃべらなくていい。碁を打てばいいんだよ」
と言いくるめられて、引き受けた。引き受けはしたものの、やはり不安は残っている。
《誰か、英語のできるやつ、手助けしてくれないかな?・・・・塔矢は名門の海王中だからきっと英語もできるだろうけど、塔矢も忙しいだろうからなあ・・・・》
《あかりちゃんはどうでしょう? ヒカルよりは成績がいいんでしょう?》
《その言い方、気にさわるなあ。まあ、オレよりはましだろうけど・・・・》
1学期の期末試験が終わって、ヒカルはあかりに話しかけた。
「あかり、英語はできるの?」
「うん。こう見えても英語はけっこう得意なんだよ」
「それなら、手伝ってほしいことがあるんだ」
「もう、英語の宿題は自分でやんなさいよ!」
「そんなんじゃないよ」
とふくれっ面して、ヒカルは事情を説明した。
「・・・・というわけで、話さなくてもいい、碁を打つだけでいいって言われてんだけど、やっぱり不安なんだ。誰か、英語のできる人にそばにいてもらいたいんだ」
「えーっ、外人と話すの?」
「いや、話さなくてもいいんだって。そばにいてくれればいい」
「そうは言っても、話しかけられることだってあるでしょう」
という話の流れで、ヒカルは諦めかけていたが、2日後、あかりからうれしい返事が来た。
「おとといの話ね、やってみる」
「ほんとうか!ありがとう。恩に着るぜ」
「もう、ほんとうに調子いいんだから」
《あかりちゃん、ありがとうございます。わたしからもお礼を言いますよ》
「佐為も礼を言ってるよ」
「あら、それはうれしいな・・・・あの後、英語の先生に相談したの。そしたら、『めったにない機会だからチャレンジしたら』って言われて。ついでに、魔法の言葉も教えてもらった」
「魔法の言葉?」
「うん。“Please more slowly and clearly”っていうの」
「どういう意味だ?」
「『もっとゆっくり、分かりやすく、お願いします』っていう意味。話しかけられて、相手の言うことを聞き取れなかった時に、こう言えば、相手はもっとゆっくり、分かりやすく話してくれるって」
囲碁カップで、ヒカルはまずオランダ代表と佐為との対局を依頼された。レベルとしては院生の中位くらいで、佐為は本気の勝負ではなく指導碁を打った。それでも最終的にはもちろん佐為の勝ち。対局が終わって、オランダ代表が盤上の1つの石を指さしながら何か話しかけた。
「あかり、何て言ってんだ?」
あかりは突然話しかけられて聞き取れなかった。
「ちょっと待ってて」
〔あわてちゃだめ、落ち着いて、落ち着いて!・・・・そうだ、魔法の言葉・・・・〕
“Please more slowly and clearly”
というあかりの言葉に、オランダ代表は笑顔でゆっくり自分の言葉を繰り返す。
〔キャナイ トラーィアゲン?・・・・“Can I try again?”って言ってるのかしら・・・・“try again”『再び試す』・・・・あっ、そうか!〕
「やり直していいかって聞いてるの。彼が指さしてる所から」
「いいよ。まだ時間はあるから」
“Yes・・・・Yes, you can”
オランダ代表は喜んだ。あかりも喜んだ。
〔わー、通じた。わたしの英語が通じた!〕
と喜びながらも、オランダ代表の言ったことは聞き取れた。
“Oh,thank you. Thank you. You are very kind !”
「あかり、『サンキュー』の後、何て言ってんだ?」
「『あなたはとても親切です』って言ってるの」
ヒカルは佐為と顔を見合わせ、にっこりほほえんだ。佐為もうれしそうな表情をしている。
やり直しても結局は佐為の勝ちになるのだが、オランダ代表は満足した様子だった。
その後、7人のアマチュア代表との碁も、無事に終わった。たまに質問されると、あかりが魔法の言葉の助けを借りてなんとか切り抜けた。もちろん、囲碁のことは言葉が通じなくても石を打てば分かるという事情もあってのことだが。
《あかりちゃん、すごいですねえ》
「佐為が褒めてるよ」
「まあ、ごく初歩的な英語なんだけどね」
「でも、この場でちゃんと使えるのは、すげーと思うよ」
「わー、ヒカルが褒めてくれた。ひょっとして初めてじゃない、わたしを褒めてくれるの」
「いや、まあ・・・・そんなに大げさに喜ぶなよ・・・・」
こんな二人のやりとりを、佐為はうれしそうに見守っている。
4日間の日程もつつがなく終了し、閉会式も終わった後、囲碁カップの運営委員がヒカルに声を掛けた。
「進藤くん、今回はほんとうにありがとう。みんな『ていねいに指導してもらえた』と喜んでいたよ」
「いやあ、打ったのはオレじゃなくて佐為だから・・・・」
「実はそのsaiに絡んでのことなんだけど、各国の代表が口を揃えて『saiはネットに復活しないのか? ぜひ、復活してほしい』と言うんだ。ネット碁なら、世界中の人たちがsaiと打てる。特に、それぞれの国でトップレベルにいる人は、身の周りに自分より強い相手がいないから、saiと打つのは実力を磨くよいチャンスなんだ。トップレベルと言っても、ヨーロッパやアメリカはまだまだレベルが低いけど、だからこそ、強い人に鍛えてもらいたいという欲求は強い。わたしたちとしても、世界への碁の普及につながることだから、そうしてくれればいいと思うんだが、進藤くんもいろいろ忙しいだろう。無理にとは言わない。できる範囲でいいから、ネット碁もやってくれないか? そして、できるだけ欧米のトップアマたちと対局してほしい」
《ヒカル、すばらしいお話じゃありませんか。わたしたちが世界の人たちのお役に立てるなんて》
《そうだけど、オレも忙しいんだよ》
《もちろん、分かっていますよ。だから、「できる範囲」でいいんです。できる範囲で協力しましょうよ》
《ああ、分かった、分かった》
「うん、佐為もできる範囲で協力しますって言ってます」
「ありがとう」
その頃から、子供たちから棋院にヒカル宛のファンレターが届くようになった。「サイとヒカル」のパネルを模写した絵が同封されていたり、その絵を描いた絵日記のカラーコピーが同封されているものもある。
「進藤初段、ほんとうに子供に人気がありますね」
「オレも意外なんだ・・・・それより、この絵やコピー、ちょっと借りていいですか?」
「借りるも何も、進藤初段へのファンレターですから、まとめて進藤初段に差し上げますよ」
「そうなんですか。それはよかった」
ヒカルはそれらの絵をあかりに見せた。あかりもとても喜んだ。
そして夏の終わり頃、親善と交流のため韓国の棋士たちが来日した。長老格として塔矢名人とも親しい徐彰元(ソ・チャンウォン)、中堅クラスの代表として安大善(アン・テソン)、若手の代表として高永夏(コ・ヨンハ)。それぞれ3人とも、公式日程の合間を縫ってsaiと対局したが、いずれもsaiの勝利に終わった。とりわけ韓国で最強と目される徐彰元もsaiに敗れ去ったことは、安大善と高永夏を驚かせた。
永夏は、saiとの対局を終えて、秀英(スヨン)からことづかった疑問をヒカルに伝えた。
「saiの噂を聞いて秀英が気にしてるんだ。あの時は、ヒカルが打ったのか、saiが打ったのか」
「もちろん、オレが打ったよ。あの頃、佐為の存在を隠していたから、人と打つ時はいつもオレが打っていた」
「分った。秀英に伝えるよ。安心するだろう・・・・秀英もプロになって活躍している。決して弱くはない。日本に来る機会はある。その時はまた進藤ヒカルとして対局するのか?」
「オレはそのつもりだよ」
「きっと秀英もそれを望むだろう・・・・オレも秀英に勝った進藤ヒカルの実力を知りたいんだが、オレとも打ってくれるか? 進藤ヒカルとして」
「もちろん。望むところだぜ」
二人は公式戦でもめったに見られないほど緊迫した対局を繰り広げたが、結果は4目半で永夏の勝ち。
「オマエ、強いなあ・・・・」
ヒカルの心からの褒め言葉に永夏はほほえんだが、すぐに表情を引き締めた。
「わたしには負けたけど、進藤ヒカルは十分に強い。秀英を負かしたのも納得だ。だけど、saiの方がもっと強い。なぜ、saiとして戦わないのか? プロであれば一番強い自分を見せるべきだろう。最高のパフォーマンスを見せるべきなのだ。自分の碁を打ちたいという願望は・・・・」
永夏はここでちょっと間を置いて、言葉を続けた。
「それはアマチュアの言うことだ」
ヒカルは唇を噛みしめたが、敢えて反論は口にしなかった。
「もし、わたしがいつかキミと公式戦で対局する機会があれば、saiとして打ってほしい。たとえ、わたしがまた負けるかもしれないとしても」
〔オレはオマエと進藤ヒカルとして打ちたいよ〕
という思いを、ヒカルは口にしなかった。
ヒカルと永夏の対局が終わると、3人はそのまま帰国のため空港に向かった。
《永夏の言うことも分るんだけどなあ・・・・》
《永夏には、ヒカルとわたしがまったく別の人間だということが納得できないというか理解できないのでしょう。ヒカルの中にsaiと本来のヒカルがいるというふうに感じてるんでしょうね。だから、なぜsaiを表に出さないんだ、saiだってヒカルの一部だろう、という疑問をもってしまうのでしょう》
《まあ、オレと佐為が別々の人間だってことを、そのまますんなり受け入れる方が無理かもな。永夏の反応の方があたりまえなのかもな・・・・》
3-5
このように楽しく充実した夏も終わった9月初旬、ヒカルは棋院に呼び出された。
「進藤くん、キミの大手合、6月、7月、8月、3回続けて不戦勝だね。偶然だと思うかい?」
「偶然じゃないだろうね」
ヒカルは苦い顔をして答える。
「そう、偶然じゃないんだ。理由は・・・・」
「オレも、だいたい予想できますけど」
「たぶん、キミの予想は当たっている」
その答えを聞いて、ヒカルは一瞬黙り込んだが、どうしても怒りを抑えきれなかった。
「じゃあ、どうしろって言うんですか?! オレはまじめに進藤ヒカルとして打ってるんです。佐為の手助けなんか、してもらってません。対局相手が勝手に疑ってるだけじゃないですか!」
「もちろん、そうなのだが。わたしたちもキミを信じているのだが・・・・」
棋院の担当者も苦しそうな表情だった。
この時の話は、これだけで終わった。やりきれない気持ちで棋院から帰るヒカル。
《「好事、魔多し」といいますね》
《どういう意味だ?》
《よいことの裏でトラブルも増えるというような意味ですよ》
《まったくなあ。せっかく楽しかった夏なのに・・・・》
9月の大手合も、やはりヒカルの不戦勝となった。この頃、名人戦と本因坊戦の予選が始まる。さすがにタイトル戦の予選を欠席する対局相手はいない。ヒカルは1回戦を楽勝で勝ち上がるが、それはそれで、
「手抜きして対局されるなんて、むかつくぜ」
とか
「自分が打っていると言いながら、こっそりsaiに教えてもらってるんだろ」
という噂、陰口が広まることになる。
噂や陰口など無視していればいいと思いながら、気分が滅入る。「こんなことでつまずくんじゃない」とアキラの言葉を思い出して気持ちを引き立てようとするが、やはり苦い思いが心に残ってしまう。自分で考えても埒があかないし、佐為もこの手の問題については頼りにならない。結局、顧問弁護士に相談することにした。