佐為の影と   作:松村順

4 / 8
4:破竹

4-1

 

棋院の応接室にはすでに田島が待っている。3月の記者会見の時に比べても、ヒカルは気が重い。状況は田島も把握していた。

「噂というのは、対応がやっかいです。裁判なら、相手方に『わたしが佐為の手助けを得て公式戦を戦っているという証拠を見せてくれ』というふうに、挙証責任を押しつけることができます。ですが、裁判沙汰にしようのない噂や陰口に関しては、相手に挙証責任を負わせるのはとても難しい」

「なんで?」

「噂をするだけなら当人の自由だからです。それが事実と違っていても、当人がそれを信じ込むのは当人の自由です。その信念をくつがえすには、それが事実に反するという有無を言わせぬ証拠を示して当人を納得させないといけない。つまり、噂を積極的に否定しようとすれば、進藤くんの側が挙証責任を負うことになってしまうのだよ。あるいは、相手を名誉毀損で訴えるとしても、訴える側つまり進藤くんが挙証責任を負う。だけど、今回の進藤くんのケースで、『佐為の手助けを受けていない』という証拠を見せることはできないでしょう」

田島のまさに法律家的な議論に、ヒカルは反論のしようもないのだが、だからなおさら憤懣を抑えきれない。

「じゃあ、オレは何も打つ手がないんですか? そんな嘘っぱちの噂を広められているのに、なにもできないんですか?」

いささか激した口調で語るヒカルをなだめるように、田島は静かなそしてヒカルへの共感を含めた話し方で説得する。

「進藤くんのケースに限らず、悪意ある噂に対抗するのは、なかなか難しいんだ。わたしのような専門家も、専門家こそ『法による正義』の限界を感じるよ・・・・」

田島はここでちょっと間を置き

「わたしとしては・・・・」

と言って、もう一度、今度はちょっとためらうように間を置いた。

「先生としては?」

「わたしとしては・・・・これはキミの本意に反するかもしれないが、わたしとしては、むしろこの際、進藤くんが佐為として戦うことを宣言する方がいいと思う。それが一番簡単で確実な対処法だと思うよ」

「先生も、そういう考えですか?」

「わたし『も』というのは・・・・ほかにもそう勧める人がいるのかね?」

「うん、まあ・・・・」

「今回の問題の根本原因は、進藤くんの中に本来の進藤ヒカルと佐為という2つの存在があって、碁の実力の点では佐為の方が強い。それなのに進藤くんは弱い方の進藤ヒカルとして碁を打つと主張していることなんだ。だから、『弱い方で打つと言っているけど、強い方から助けてもらっているんだろう』とあらぬ疑いをかけられる。これが逆なら、つまり強い方の佐為として碁を打つと主張するのなら、だれもケチの付けようがない。そうだろう? 佐為として打つと言いながら進藤ヒカルとして打っても、それは進藤くん自身が損するだけのことなんだ。誰の害にもならないし、誰の損にもならない」

「でも、オレは進藤ヒカルとして打ちたいんです」

ヒカルの口調からは怒りが消え、寂しさが感じられる。

「その気持ちも分かるのだが・・・・今と逆に、非公式の対局で進藤ヒカルとして打つのでは、だめなのかい? 昇段とかタイトルとかが絡まない非公式のプライベートな対局なら、まだしも悪口は言われないし、そもそも悪口を言うような相手とは対局しなければいいわけだ。非公式の対局なんだから、するしないは進藤くんの自由だ」

「でも・・・・」

ヒカルはちょっと悲しげに下を向く。

「それに、棋界にはキミを信じてくれる人もいる。キミが『この対局は進藤ヒカルとして打つよ』と言えば、その言葉を信じてくれる人もいるだろう」

「もちろん、います。塔矢先生とか塔矢アキラとか、和谷もきっと信じてくれる。緒方さんや倉田さんだって・・・・」

「そういう人とは、公式戦でも進藤ヒカルとして打ってかまわない。まあ、キミが負けてしまうかもしれないけどね」

「そんなこと、覚悟の上です」

ヒカルは顔を上げて、きっぱり言い切る。

「その覚悟があるのなら、問題ない。さっきも言ったとおり、『佐為として打つ』と宣言した上で進藤ヒカルとして打つのは、キミが損するだけなのだから、誰もケチの付けようがない」

《でも、そうしたら、「わたしとも進藤ヒカルとして打ってください」と頼み込んでくる輩が続出しませんか?》

と佐為がささやく。ヒカルは佐為の疑問を田島に伝えた。

「進藤くんが、誰に対して佐為として打ち、誰に対して進藤ヒカルとして打つか、それを決めるのは進藤くんの自由だ。誰も口を差し挟む権利はない。もし誰かが『キミはオレと進藤ヒカルとして打つべきだ』と主張するなら、そう主張する者がその主張の根拠を示さないといけない。その者が挙証責任を負うんだよ」

ヒカルはしばらく考え込む。

「・・・・やっぱり、そうことなら、佐為として打つ方がいいのか・・・・」

《ちょっと待ってください》

佐為が再び疑問を差し挟む。

《ヒカルが佐為として打つことは問題ないのですか? それはまさに、ヒカルが自分より強い者の手助けを得て公式戦を戦うことになりませんか?》

「先生、オレが佐為として打っても問題ないんですか?」

「それは、まったく問題ない。法律は幽霊なる者の存在を想定していないのだよ。法的には佐為はキミの一部であり、佐為の能力はキミの能力だ。キミがキミ自身の能力で戦うのに、法的にはなんの問題もない」

 

その翌週の『週刊碁』に

「わたしが新初段としてこの4月から公式戦に出場するに当たり、『進藤ヒカルとして打つ』と宣言したために、一部に混乱と不信を引き起こしていると伝えられています。そのような混乱や不信はわたしの望むところではありません。それを解消するためにわたしとして実行できる対応を検討しておりましたが、日本棋院顧問弁護士の助言も受け、以後の日本棋院の公式戦においては、原則としてわたしが佐為として打つことを表明するのが最善の解決策であるとの結論に達しました。この旨、この場を借りて表明いたします」

という進藤ヒカルの名前による声明文が掲載された。『佐為宣言』と呼ばれるようになるこの文章は、棋界に、とりわけ近いうちにヒカルの対局相手となる低段者の間に、静かな衝撃を走らせた。

「それじゃあ、向かうところ敵無しじゃないか・・・・」

 

公式戦を佐為として戦うことを選択し、「佐為疑惑」に一応のけりを付け、ヒカルはやっと囲碁カップでの約束を果たす気持ちの余裕ができた。ネット碁でのsaiの復活。ただし、公式戦を佐為として戦うことに決め、進藤ヒカルとして碁を打つ機会が減ってしまったヒカルは、ネット碁こそ自分で打ちたかった。欧米のアマチュアが相手なら、それでも「強い人に鍛えてもらいたいという欲求」に答えることはできるはず。

sai no deshi(佐為の弟子)というハンドルネームで登録し、囲碁カップ事務局でもらった各国アマチュア代表のハンドルネームを探して対局を申込んだ。チャットはできないので特に説明はしなかったが、相手は“sai”という名前に反応して対局申込みを受け、実際に対局してその強さを納得した。

この頃、棋聖戦の予選が始まり、年が明けると天元戦、碁聖戦、十段戦、王座戦の予選も始まった。

これらの公式戦をヒカルが佐為として打つようになっても、当面、大手合は低段者が相手であり、タイトル戦も一次予選、二次予選ではさほど強い相手とは当たらない。タイトルホルダーたちはヒカル=佐為が挑戦手合に上がってくるのを待ちきれず、相変わらず週末に塔矢邸を訪れて佐為と打ち、その後、ヒカルとも打つ。彼らは、公式戦で打つ機会を奪われた進藤ヒカルが、それでも着実に実力を伸ばしていることを実感させられた。

 

公式戦や塔矢邸での対局ほかに、プロとしてイベントの仕事が入ることもある。ヒカルは、子供相手のイベントにはよろこんで参加した。棋院もそれを心得ていて、ヒカルには子供相手のイベントを優先して割り振った。イベントにやって来る子供たちは、自分の相手をしてくれるのが佐為なのか進藤ヒカルなのかを気にしない。子供たちにとって「サイとヒカル」で1人のキャラクター、楽しく遊んでくれるお兄さんなのだ。そして、こんな子供たちを相手にしている時は、ヒカルも自分の碁へのこだわりが消え、「サイとヒカル」というキャラクターを受け入れることができる。

《でも、プロの手合の場になると、やっぱりオレの碁を打てないのが悔しいんだよな》

《ヒカルの気持ちは分かります。初めからヒカルとわたしの違いを気にせずに素直にヒカルになついている子供たちと、違いを分かった上で碁に対するヒカルの真摯な気持ちを疑う者たちでは、雲泥の差がありますから。疑われれば悔しいのは当たり前ですよ。わたしだって、ヒカルが何の落ち度もないのに疑われているのを見て、悔しくなります・・・・ヒカル、ひょっとして、わたしのことを公にしたのを後悔していますか?》

ヒカルは佐為の心配を和らげようと笑顔で答える。

《心配すんな。後悔なんか、してねえよ。オマエのことをみんなに話したおかげで、おれはオマエのほんとうの力を知れたんだ。オマエが全力で打つ碁をそばで見ることができるんだ。そして、そんな対局のさなかに、オマエと一緒に考えることができるし、オマエの対局の後にはタイトルホルダーたちと対局できるんだ。塔矢とかほかの何人かとは進藤ヒカルとして打てるし、ネット碁ではsai no deshiとしてオレの碁を打てる。後悔なんかしてねえ》

 

4-2

 

棋界の出来事とは無縁に、葉瀬中ではごくありふれた中学生の時間が過ぎていく。ヒカルはタイトル戦の手合も重なって学校を休むことが多くなった。前年の今頃は「ああ、学校なんてさっさと卒業して、碁だけやってればいい身分になりてー」などと思っていたけど、卒業が1~2ヶ月後に迫るとさすがに多少の寂しさは感じる。これまで空気のようにあって当たり前だったものがなくなってしまう・・・・。ヒカルの実感としては、うれしさ半分、寂しさ半分、あるいはうれしさ3分の2、寂しさ3分の1くらいか。

そんなある日、あかりがヒカルに話しかけた。

「ヒカルは高校に行かないの?」

「うん。オレ、勉強嫌いだから。碁の世界で生きていくのに学歴は関係ないし。あかりは、受験たいへんだな」

「ふふふ・・・・実は、推薦入学の内定がもらえそうなの」

「えっ、あかりって、そんなに頭良かったっけ」

「失礼ね! まあ、去年の夏休みのボランティアが評価されたんだけどね」

「夏休みのボランティア?」

「国際アマチュア囲碁カップよ」

「あっ、あれか・・・・あかり、うまいことしたなあ」

「うん、自分でもラッキーと思う・・・・まだ正式決定じゃないけど、たぶん大丈夫らしいわ。志望校は英語に力を入れてる高校だから、そういう活動は評価されるみたい・・・・でも、わたしもまじめに英語勉強する気なのよ。あの時、片言でも英語で外国の人とコミュニケーションできて、うれしかったもん。もっとしっかり勉強して、もっとちゃんとしたコミュニケーションができるようになるんだ・・・・あっ、でもね、囲碁もやめないよ。高校でも囲碁部に入るんだ。囲碁部がなければ作るんだ。筒井さんがやったみたいに・・・・」

《あかりちゃん、夢があっていいですね》

「オマエも打ち込むものが見つかってよかったな」

「うん。応援してね。わたしだって、ヒカルを応援してんだから」

「分かった、分かった」

《いつか、あかりちゃんの囲碁部に指導碁に行ってあげましょう・・・・》

「あかり、佐為が、いつかオマエが行く高校の囲碁部に指導碁に行ってあげるってさ」

「わあ、ありがとう。約束よ!」

《佐為、約束だぞ》

《もちろん、約束はちゃんと守ります。武士に二言はありません》

《・・・・ん? 佐為、オマエ、武士だっけ?》

《あっ、いえ・・・・ヒカル、変なところで突っ込まないでください》

 

3月、中学の卒業式。ヒカルは卒業式が名人戦の予選と重なるので欠席した。そして、過ぎ去る中学時代への思いをふっ切るように、先を見つめる。ほんの2ヶ月後のビッグイベント。さるIT企業がスポンサーとなってこの年から開催されることになった「北斗杯」。日中韓3カ国の18歳以下の棋士が参加資格を有する国別対抗戦。各国3人チームを編成する。日本チームは、ヒカルとアキラはそれまでの実績を考慮して確定。残る1人を18歳以下のプロ棋士による予選で決めることになっていた。韓国チームに永夏(ヨンハ)は間違いなく入る。秀英(スヨン)も来るのか? そして中国チームはどんな者たちがやって来るのか? ヒカルは楽しみだった。できることなら、韓国や中国の若手棋士と進藤ヒカルとして打ってみたいと思った。叶わぬ願いであるとは思いながら。

4月には、日本チームの3人目のメンバーが和谷に決まった。大将がヒカル=佐為、副将がアキラ、三将が和谷。ヒカルが佐為として打つのであれば順当な割り振りだが、アキラの碁会所では不満の声がくすぶっていた。碁会所の客たちにとっては、佐為でなく進藤ヒカルとアキラの対局の方が印象的だったし、その対局では二人は五分五分、お客のひいき目ではアキラの方が上と思われていたから。もちろん、日本チームとしては優勝を目指してヒカルが佐為として打つことを求めたし、対戦チームからもsaiとの対局を望む声も伝えられた。

 

いよいよ5月、北斗杯の前日。会場となったホテルでレセプションが行なわれている。立食パーティーの途中、各チームの選手がステージにならび、各チームの団長のあいさつがあった。選手たちはひな壇に並ぶだけなのだが、永夏が司会者に発言の機会を求めた。

永夏の発言は通訳を介して日本語で会場に流れた。

「碁に多少ともなじんだ人であればご存知のとおり、日本チームの大将、進藤ヒカルは不敗の棋士saiです。わたしは昨年の夏、非公式な手合ですが、saiと対局し、完敗しました。それ以来、雪辱の機会を待っていましたが、1年もしないで北斗杯という機会を与えていただきました。大会スポンサー様に心からお礼申し上げます」

《オレに「佐為で打て」と言ってるんだな》

《そうですね。わたしにとしても、相手にとって不足はありません。行洋殿ほどではありませんが、緒方さんや森下先生に匹敵する力量の持ち主でした》

永夏との対局に闘志を燃やす佐為をヒカルは複雑な気持ちで眺める。

秀英も、自分がヒカル=saiと打つことを決めてかかるような永夏の発言を複雑な思いで聞いている。

〔実力からして永夏が大将なのに不満はないけど、この場で進藤ヒカルと打ちたかった・・・・〕

レセプションのあいまに、秀英はヒカルに声を掛けた。

「進藤ヒカル、久しぶりだね」

「ああ、秀英・・・・ん? オマエ、日本語話してる・・・・」

「キミと戦うために、日本語を勉強した」

「そうなのか・・・・」

ヒカルは秀英の熱意がうれしかった。およそ2年ぶりの再開だが、ゆっくり話している暇はない。二人はとりあえず、北斗戦の翌日にあの碁会所で対局することを約束した。

 

北斗杯は2日がかりで行なわれる。対戦順はくじ引きで、1日目の午前が日中戦、1日目の午後が韓中戦、2日目の午前が日韓戦となった。

日中戦は、ヒカルとアキラが勝ち、和谷は負けたが、2:1で日本チームの勝ち。

韓中戦は、韓国が副将戦を落としたが2:1で勝利。

そして2日目の日韓戦。永夏は最初から激しく攻め立てる。途中、予想外の手もあり、佐為も考え込んだが、じょうずにかわした。中盤からは佐為の優位が目立ち始め、永夏が投了した。アキラは終始一貫して優位に戦いを進め、中押し勝ち。一方、和谷は秀英との力の差を見せつけられた。碁会所でヒカルとの対局を見たのは2年近く前。その時も強いと思ったが、さらに格段と強くなっている。あえなく中押し負け。

チームとしては日本が2勝し、優勝を手にした。

 

翌日の朝、ヒカルは秀英のおじが経営する碁会所を訪れた。すでに秀英が待っている。ほかに何人か、2年前の対局を知っている客も待っていた。

「進藤ヒカル、この日を待っていたよ」

「オレもだよ」

ヒカルが座ると、すぐに対局が始まった。二人とも、北斗戦と変わらぬ真剣さで打ち合う。途中、お客の一人が韓国語で何か言った。秀英はそちらの方を振り向き、激しい口調で言い返し、すぐに盤面に向き直った。ヒカルは何を言い合ったのか気になったが、そのまま碁に集中することにした。秀英も、何事もなかったように、碁に集中している。結果はヒカルの1目半勝ち。

秀英は、涙こそ流さないが、2年前と同じように悔しがった。

「次は、もっと強くなる・・・・」

というつぶやきがヒカルの耳にも入った。ヒカルは悔しがる秀英に共感を覚える。

〔うん、オマエはもっと強くなるよ〕

対局が終わっても碁盤を囲んで座ったままの二人に秀英のおじが声を掛けた。

「もう、お昼もずいぶん過ぎてしまった。お腹が空いただろう。ヒカルくん、この近くにおいしい焼肉料理屋がある。ごちそうするよ。2年前のお礼だ」

「2年前のお礼?」

「そう。あの時のキミとの対局で秀英は立ち直った。そのお礼をしないままになっている。今日、遅ればせだが、お礼をさせてくれ」

ヒカルは一瞬、佐為を見る。佐為はにこやかにうなずく。

《行きましょう。おじさんのお気持ち、ありがたく受けましょう》

焼肉料理を前にすると、秀英は年相応の子供に戻り、楽しそうに食べている。ヒカルももちろん好きなものを注文して食べている。この楽しい雰囲気をこわすのは気が引けるが、ヒカルはどうしても気になるので秀英に尋ねた。

「なあ、対局中に韓国語で何か言われて、秀英が言い返してただろう。あれ、何だったんだ?」

秀英の表情が一転して厳しくなった。

〔ああ、やっぱり聞かない方がよかったかな・・・・〕

「お客の一人が『どうせsaiに手伝ってもらってるんだろう』って言ったから、『ヒカルはそんな卑怯者じゃない』って言い返したんだ」

「ありがとう、秀英。オレを信じてくれて」

「ボクは、進藤ヒカルを信じているよ。当たり前じゃないか」

ヒカルはうれしさを表情に表す。

〔やっぱり、聞いてよかった〕

 

4-3

 

北斗杯から2週間ほどで若獅子戦。ヒカルは出場すべきかどうか悩んだ。この時点でヒカルの段位はまだ3段。出場資格は満たしている。これまで若獅子戦の出場資格を満たしていながら出場を見送った棋士はいない。だがヒカルは佐為として打つ自分が若獅子戦に出場することにためらいを感じる。それは、院生たちの夢を打ち砕くことにならないか? ほんの2年前、希望に燃えて若獅子戦に参加した自分の姿を思い浮かべるとなおさら、そんな院生を佐為の力で粉砕するのがためらわれる。迷った末、若獅子戦では進藤ヒカルとして打つことに決めた。

若獅子戦の1回戦、ヒカルは院生を相手に進藤ヒカルとして打っている。それでも院生にとっては高い壁には違いないが、思い切りぶつかることはできるはずだとヒカルは思っていた。しかし、碁盤の向かいに座る院生は、相手をsaiと信じて、初めから勝負を諦めているのが見て取れる。そのやる気のない姿勢にヒカルは思わず

「まじめに打て。なぜ本気でかかってこないんだ」

としかりつけた。すると、相手は早々に投了した。その後も似たような対局が続いた。5段となったアキラが出場しない若獅子戦、ヒカルは佐為を封印して進藤ヒカルとして打ちながら、易々と優勝した。だけど、悲しみと苦い思いは消えない。

〔たった2年前、若獅子戦に出場することを目標に1組16位以内に入ることを目指していたオレ。遠い昔のようだな。もうこの世界にオレの居場所はないんだ・・・・早く予選を突破しよう。リーグ戦や本戦には、緒方さんも倉田さんもいる。一柳先生や森下先生もいる。そこがこれからのオレの居場所なんだ〕

若獅子戦最終日の翌日、アキラと会ったヒカルは若獅子戦での院生のふがいなさをぼやいた。

「塔矢は震えながらも佐為に立ち向かったじゃないか?」

「佐為はあの頃よりもっと強くなっている。今の院生には魔神のように思えるだろう」

「おれは、佐為じゃなくて進藤ヒカルとして打ったんだ」

「でも、外からはそれが見えないんだ。誰もが、キミを見ると佐為だと思ってしまう」

ヒカルはふっとため息をついた。アキラは、慰めようもないから、そのまま話を続ける。

「それに、進藤と対局した院生が院生の代表とは限らないだろう。当たった相手が悪かったのかもしれない」

「そうであってほしいよ・・・・まあ、来年は5段か6段になっていて、若獅子戦に出たくても出れなくなるんだけどな。さっさと昇段してしまえば、大手合でも高段者と打ち合えるし、タイトル戦も予選を突破すれば高段者とのリーグ戦だし、挑戦者になればタイトルホルダーと5番勝負、7番勝負ができるんだ」

ヒカルは気持ちを切り替えるように、明るい口調で語る。

「進藤、ひょっとして、リーグ戦や挑戦手合なら、進藤ヒカルとして打ってみようと思っているのか?」

「えっ?・・・・」

ヒカルは、そんなこと思っていなかった。だが、アキラからそう言われると、《それも「あり」だな》と思えてくる。アキラや倉田さんや緒方さんといった人たちが相手なら、自分が進藤ヒカルとして打つと言っても、変に疑われたり、嫌みを言われることもないだろう・・・・。

そんなヒカルの気持ちを見透かすように、アキラが

「ボクは、本音を言えば、進藤だけじゃなく佐為とも戦いたいよ、うちでの対局だけじゃなく、公式手合で」

と語る。

「オマエもそうか」

「進藤の気持ちは分かるけど、強い者と打ちたいというのは、碁打ちの本能だよ」

「まあ、そうだよな。オレだって、そうだもんな」

気落ちしたヒカルに佐為が声を掛ける。

《ヒカル、それなら、ヒカルが強くなればいいんです。ヒカルがわたしくらい強くなれば、進藤ヒカルとして打っても「碁打ちの本能」を満たしてあげられます》

《いつのことだよ、オマエくらい強くなるって》

《まあ、今日、明日というわけにはいきませんが、そんな遠い先のことだとは思っていませんよ、わたしは》

《そうかなあ・・・・》

《そうですよ。ヒカルは日に日に強くなっている。自分では分からないかもしれませんが、わたしはよく分かります》

《だけど、公式戦を佐為として打つようになって、オレ自身の対局はずいぶん減ったぜ》

《ヒカルは、わたしの対局でも学んでいるではありませんか。いつも自分で考えている。わたしの指示が理解できないなら、時間を取って考えている。それはすばらしい勉強になっているんです。そして、自分で気づいていないかもしれませんが、わたしの考えについて行けなくて長考することがずいぶん少なくなりました》

《そうか?》

《そうですよ》

「・・・・進藤、なにボーッとしてるんだ?」

「あっ、今ちょっと、佐為と話してた」

アキラは一瞬、話が読めなかった。そして、事情を理解して、笑い出した。

「そうだったね。ここには、ボクとキミのほかに、もう1人いるんだった」

 

4-4

 

あかりは高校に通い始めている。小さいながらも囲碁部があるので、すぐに入部した。部員はあかりを入れて5人。なんと、あかりは部長の次に強いようだった。葉瀬中囲碁部より弱小な部活。でも、それもまた楽しい。

〔指導碁に来てくれるって約束、覚えているかなあ・・・・ヒカルは忘れても佐為は覚えていてくれそう・・・・〕

ただ、中学生の時と違い、同じ学校に通っているわけではないから、休み時間や放課後に気軽に話しかける機会もなくなった。プロの仕事も忙しそうだし・・・・。

それにもう1つ。あかりは高校合格を機に携帯電話を買ってもらったけど、ヒカルはまだ携帯電話を持っていない。「どうして?」と聞いたら、「だって、要らねえもん」とあっさり答えられた。だから、ヒカルに連絡するには家の固定電話にかけるしかない。それもまた面倒。以前は当たり前だったのに、携帯電話を使い慣れたら家の固定電話というのは面倒くさくてしかたない。でも、そんなことも言ってられないので、5月末頃あかりはヒカルのうちに電話した。ヒカルは快く日程を調整してくれ、6月中頃にあかりの高校に行くことが決まった。

翌日、あかりはさっそく囲碁部のメンバーに進藤ヒカルが指導碁に来てくれることを話した。

「進藤ヒカルって、あのsaiと一心同体の進藤ヒカル?」

「そうよ」

「どうしてそんな超有名人を呼べたの? 特別なコネがあるの?」

「コネというか、幼なじみだから」

「えーっ!」

部員よりも顧問の教師が一番大きな声で驚いた。

「藤崎さん、なんで今まで隠していたの?」

「別に隠していたわけじゃないけど、わざわざ話すきっかけもなかったから・・・・あっ、でも囲碁部以外には話さないでください。大げさなことになるのはいやだから」

「うん、分った」

と気安く請け負ってくれた約束は、意外にきちんと守られた。義理堅いというだけでなく、アイドル(?)を独占したいという欲求もあったのかもしれない。それでも当日、高校の校門から囲碁部の部室まであかりに案内されて行くまでの間、何人かの生徒に気づかれてしまうのは仕方のないことだった。

部室では顧問の教師も含め5人が緊張した面持ちで待っていた。堅苦しいあいさつが苦手なヒカルはすぐに指導碁を打つことにする。さすがに6人同時にというのは無理なので、3人ずつ。最初は「謎の不敗棋士saiの影を背負う少年棋士」に緊張していた部員たちも、しだいにうちとけてくる。この日は、佐為に任せっきりにせず、ヒカルも指導碁を打った。それまで何回もイベントで子供相手に指導碁を打っていたので、かなり慣れていた。

2時間くらい過ぎ、きりの良いところでこの日の指導碁は終わりにしてヒカルが部室を出ると、外から中の様子をうかがっていた5~6人の生徒と顔を合わせた。

翌日、「謎の不敗棋士saiの影を背負う少年棋士」の囲碁部訪問のニュースは学校じゅうに知れ渡り、入部希望者が続々と押し寄せた。そんな状況を知らないヒカルは、のんきにあかりに電話した。

「昨日はほかの部員がいたんで話せなかったんだけど、あかり、今年も国際アマチュア囲碁カップでボランティアしてくれる?」

「いいよ。わたしもこの1年で英語もうまくなっているから。それよりもね、こっちはたいへんだったのよ・・・・」

 

7月下旬の国際アマチュア囲碁カップ。ヒカルは前年と違ってタイトル戦予選すべてに参加しており、どうしても日程が重なって参加できない日が1日あるので、3日だけ参加する。あかりもそのつもりだが、担当者から

「藤崎さんだけでも毎日来てくれないかな?」

と頼まれてしまった。

「えーっ、それは・・・・」

と困った様子のあかりを見て、担当者もなんとなく察したようだ。

「あっ、いや、無理にとは言わないよ」

saiを演じるヒカルが相手した6人のうちの最初の人が“deshi”とは日本語の単語なのかと尋ねた。あかりは、「デシ」という音からとっさに言葉を思いつかない。そんなあかりにその人は“sai no deshi”とメモを書いて示す。

〔サイノデシ・・・・あっ、「佐為の弟子」、デシは弟子なんだ。弟子って英語でなんていうのかな・・・・pupilでいいのかな・・・・〕

あかりが思い切って

“It means pupil”

と答えたら、相手は納得したように

“Oh, I see. I see.”

と言い、向かいに座っているヒカルに

“Are you sai no deshi ?”

と問う。この質問はヒカルも分ったようで、

「イエス」

と胸を張って答えた。

ネット碁のsai no deshiがヒカルであることはその日のうちに大会参加者の間に広まった。

 

こうしているうちにも、ヒカルは順調にタイトル戦予選を勝ち上がり、10月にはいよいよ本因坊の挑戦者決定リーグ戦が始まる。それに続いて、棋聖の挑戦者決定トーナメント、名人位の挑戦者決定リーグ戦、天元と碁聖の挑戦者決定本戦も始まる。本因坊リーグ戦の最初の対局相手は緒方だった。対局開始前、緒方は碁盤をはさんで向き合うヒカルに話しかけた。

「これまで塔矢先生のところで、佐為と、そして進藤ヒカルと、何度も打ってきた。佐為だけでなく、それ以上に、進藤ヒカルが強くなっているのはよく分っている・・・・進藤、オマエはひょっとしたら、この場でオレを相手に進藤ヒカルとして打ちたいのかもしれない。その気持ちは、同じ碁打ちとして、分からなくはない。だが、オレは佐為と打ちたい。確かにオマエは強くなった。だがそれでもまだ、佐為の方が強い。そしてオレは、強い奴と打ちたい。公式戦であればなおさらだ。だいたい、予選で低段者を佐為の力でなで切りにしてきておいて、オレを相手に進藤ヒカルとして戦うなんて、筋が通らないだろう」

ここまで言われると、ヒカルは「分りました」と答えるほかはない。

結果は、緒方の佐為に対する連敗記録が更新されることになる。

〔弱い連中、オレが進藤ヒカルとして打っても負かせる連中は、オレが佐為に手伝ってもらっていると疑うし、緒方さんみたいな強い人は、自分より強い佐為と打ちたがる。オレはいつ打てるんだ?〕

考えても仕方のないこと、悩んでも詮ないこと、ヒカルは頭を振って自分に言い聞かせる。

《ああ、こんなこと考えてもしょうがねえ・・・・そうだ、久しぶりに佐為と打とうか。このところいろいろと忙しくて、オレ、佐為と打っていないな》

《ヒカル・・・・》

佐為はヒカルと打つのはうれしいが、ヒカルの気持ちを考えると素直にうれしいと言えない。そんな佐為の思いを敢えて無視するように、ヒカルは気軽な口調で語りかける。

《何だか、昔と逆だな。昔はオレがいろんな人と打ってて、佐為がオレとしか打てなかった》

ヒカルの敢えて気軽な口調に、佐為も自分の気持ちを切り替え、明るい口調で答える。

《ヒカル・・・・そうですね、昔のようにヒカルを鍛えましょう。昔と違って、わたしが全力を出しても簡単に一刀両断できなくなりましたが、であればなおさら、わたしは全力を出してヒカルと相対します。一日も早くヒカルがわたしほどに強くなるように。「強い奴と打ちたい」と希望する相手に「だったら、佐為じゃなくて進藤ヒカルが相手になる」と言ってやれるように》

こうして、また以前のようにヒカルは佐為と打つようになった。そんなある日、佐為と打ちながらヒカルがふとつぶやく。

《オレって、強くなったんだな・・・・》

《もちろんですよ。ヒカルは強くなりました》

《うん・・・・佐為、新初段戦、覚えてるか?》

《もちろん、覚えてますよ》

佐為は、急にヒカルが何を言い出すのだろうといぶかる。

《あの時、オマエと先生が打ち合うのを見て、分ったんだ。オマエはオレに全力を出していなかったって。オレはオマエの全力を引き出せていなかったって。でも、今、オマエは間違いなく全力で打ってる。オレはまだオマエに勝てないけど、少なくともオマエに全力を出させるくらいには強くなった》

佐為は晴れやかな表情になった。

 




タイトル戦について簡単に説明しておきます。現在、日本の囲碁には
本因坊、名人、棋聖、十段、王座、碁聖、天元
という7つのタイトルがあります。
棋士たちは何段階かの予選を勝ち抜いてタイトル挑戦権を得てタイトルホルダーに挑戦します。その仕組みはタイトルごとにさまざまです。
分りやすいのは本因坊と名人で、どちらも4段階の予選を経て最終的に8人(本因坊)ないし9人(名人)でリーグ戦を行ない、その最優秀者が挑戦者となります。どちらも、リーグの上位者数名は、翌年の予選を免除されてリーグに参加できます。
ほかのタイトルでは、最終戦(本戦)はリーグ戦ではなく敗者復活戦などを組み入れた変則的なトーナメント方式で挑戦者を決めます。
挑戦者がタイトルホルダーに挑む挑戦手合は、本因坊、名人、棋聖では7番勝負。つまり先に4勝した方が勝ち。十段、王座、碁聖、天元では5番勝負、先に3勝した方が勝ちです。
一次予選の開始時期、挑戦手合の実施時期はそれぞれのタイトルごとに違っていて、1年を通してどれかのタイトル挑戦手合が行なわれており、それに平行して予選が行なわれています。
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