佐為の影と   作:松村順

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6:飛翔

6-1

 

プロ4年目の年が明けるとすぐに、2度目の棋聖戦挑戦手合。前年と同じ一柳対ヒカル。

1局目はヒカルが半目差で勝った。その後、1目半か半目ぎりぎりの勝負が続き、6局目を終えて互いに3勝3敗。7局目は囲碁界を越えて一般メディアの注目を集めた。一柳との戦いでヒカルが佐為でなく進藤ヒカルとして打っていることは、前年の例から広く信じられていた。ヒカルが進藤ヒカルとしてタイトルを手にするのか?

世間に疎いヒカルも、さすがに最終戦が世間の注目を集めていることは分った。ただ、不思議に自分のこととしての現実感がなかった。どこかの誰かが噂されているのをはたで聞いているような感覚。もちろん、碁は勝ちたいと思う。だけど、ただそれだけ。

7局目もこれまでの6局と同じように微妙な形勢が続いた。そして、終盤に入ってヒカルが打った一手。

ヒカルの脇で盤面を見ていた佐為が思わず、

《ヒカル、うまい》

と口にした。一柳は長考した。20分あまり長考の末、投了。

名人戦の観戦記に

「新しい時代が始まりかけているのだろうか?」

と書いた記者は、この棋聖戦の観戦記に

「新しい時代が始まった」

と書いた。

 

《佐為、このタイトル賞金はオレが使っていいんだよな》

《もちろんですよ。ヒカルの力で勝ち得たものなんですから》

《昔さあ、オマエの出会ったばかりの頃、碁のタイトルを取ると何百万とか何千万というお金が手に入ると聞いて、うきうきしたけど・・・・》

《ああ、そんなこともありましたねえ・・・・》

佐為は懐かしそうにその頃を振り返る。

《実際手に入れてみると、何に使うか思いつかないもんだな》

《まあ、そういうものですよ》

《オレって、結局のところ、碁が打てればそれで幸せなんだな。ほかに特にこれが欲しいとかあれが欲しいとか、ないもんなあ・・・・まあ、いつものラーメン屋で一番豪勢なトッピングを乗せてラーメン食べるくらいかな》

《それくらいでは、1年、毎日食べても使い切れませんよ》

佐為は、ヒカルのいかにも子供っぽいお金の使い道を聞いて、扇で口元を隠して笑った。

 

棋聖戦が白熱している頃、十段戦の挑戦手合が始まる。相手は森下。

第1局目は勢いに乗ったヒカルの勝ち。森下の目には、それが佐為の碁でなく、進藤ヒカルの碁であることは明らかだった。

〔コイツが和谷につれられてオレの研究会にやってきたのは、ほんの4年前なんだよなあ。それが今、いくら佐為という最高の師匠から鍛えられたとはいえ、実力でオレに勝ち、オレからタイトルを奪おうとしている・・・・いや、たった1敗したくらいで、何を弱気になっている。オレはコイツの倍以上の人生を生きてきたんだ。修羅場も数え切れないくらいくぐってきた・・・・〕

「進藤、棋聖戦で一柳相手に調子よく勝ってるようだな。その勢いでこのまま自分の力で十段位も取ってやろうと思っているかもしれないが、そうはさせないぞ。それとも、次は佐為のお出ましか?」

「次も、オレが打ちたい」

「よし、かかってこい」

この言葉どおり、2局目、3局目は森下が意地を見せてヒカルをねじ伏せた。4局目はヒカルが勝ったが、5局目は森下が底力を見せつけ、十段位を防衛した。悔しがるヒカルに森下は、

「どこぞの記者は『新しい時代が始まった』と書きやがったが、古い時代もまだ終わってないぜ」

と言ってのけた。ヒカルは

「いつかは終わるよ。終わらせてみせる!」

と応じた。そんなヒカルを森下は睨みつけたが、それからふと笑みを漏らした。

「ああ、その意気だ」

《森下先生、さすがです。その勝負強さは、まさに年の功。ヒカルはもちろん、緒方さんや倉田さんも及ばないでしょう。でもヒカルはいつかきっと追いつきますよ》

 

6-2

 

第3回北斗杯。この年に18歳になるヒカルとアキラにとって最後の北斗杯。永夏(ヨンハ)は年齢を超えたので出場しない。秀英(スヨン)が韓国チーム大将の重責を担い、3年目で初めて、大将戦としてヒカルと対局することになる。今度こそはと意気込んだが、やはり2目半及ばなかった。以前のように全身で悔しさを表すようなことはなくなったが、悔しいことに変わりはない。韓国棋界での成績からして自分も強くなっているはずだが、ヒカルがそれ以上に強くなっている。差を広げられないのが精一杯で、抜くことはできない。対局が終わった盤面を見ながら秀英がヒカルに語りかける。

「北斗杯に進藤ヒカルが参加するのは今年で最後だね」

「そうだよ」

「残念だ・・・・」

そんな秀英にヒカルは語りかける。

「北斗戦はこれで終わりだけど、秀英と対局する機会はこれからもあるよ」

 

北斗杯が終わるとすぐに碁聖防衛戦。ヒカルは初めてタイトルホルダーの立場で挑戦を受ける。挑戦者はアキラ。この1~2年、佐為=ヒカルの影に隠れがちとはいえ、数年前まで若手のホープと期待されていたアキラも歩みを止めているわけではない。この年は「好調」と噂されている。その噂を裏付けるように、碁聖位の挑戦者としてヒカルの前に現れた。第1局の前日、ヒカルはアキラに電話した。

「タイトルホルダーの特権で、オレ、進藤ヒカルとして打つと決めたから」

そんな特権があるのかとアキラは疑問に思ったが、ヒカルの気持ちはよく分るので、敢えて反論はしなかった。

翌日から始まった5番勝負。いずれも半目差、1目半差の接戦が続いたが、結局3勝2敗でヒカルが制した。最終戦の負けが決まった時、アキラは悔しがった。ふだんは周囲の状況への配慮を忘れないアキラが、気持ちを露わにして激しく悔しがった。

「負けてこれほど悔しい思いをするのは、生まれて初めてだよ・・・・もちろん、これまでも負けたことはある。父にも、緒方さんにも、倉田さんにも、負けたことはある。でも、その時はこれほど悔しい思いはしなかった。負けても仕方ない相手だという思いがあったんだろう。今日、キミに負けたのは、ほんとうに悔しい。心の底から悔しいよ」

アキラはかつての秀英のように涙を流しはしない。涙を必死でこらえている。それがかえって、アキラの悔しさを際立たせる。

「中学囲碁大会で、キミはボクに負けた悔しさの中で『塔矢を追い越してやる』って心に誓ったそうだね。今日、ついにキミはボクを追い越した。でも、ボクだって追い越されっぱなしじゃない。また抜き返してみせる。必ず・・・・」

ヒカルは、そんなアキラの姿、アキラの言葉に共感を覚えた。5年前の自分の姿が重なる。

「オレ、やっとオマエに恩返しできたな」

佐為はその言葉にうなずきながらも、ヒカルに語りかける。

《追い越されたといっても、2勝3敗。いずれも半目差、1目半差。実力は互角と言うべきでしょう》

《オレもそう思う。だけど、今この場でそれは言わない方がいい》

《・・・・ヒカル、あなたもそんな配慮ができるようになったんですね》

《オレだって、ちったー成長してるんだ》

ヒカルはちょっとふくれっ面して見せたが、もちろん本気で怒っているわけではない。

この時、対局に立ち会っていた関係者の一人がアキラに慰めるつもりで

「塔矢さん。ひょっとしたら進藤碁聖はsaiの助言を得ていたのかもしれません」

とささやいた。この言葉にヒカルが反応する前に、アキラが激しく反応した。ふだん、礼儀正しく取り乱すことのないアキラが、思わず相手の胸ぐらをつかんだ。

「何を言ってる!進藤はそんな卑怯者じゃない!」

言ってから、我に返り、自分の行為に気づき、手を離した。それから、ふだんの冷静さを取り戻そうとしながら、激しさの残る声で、

「ボクはこれまで、佐為とも進藤とも数え切れないくらい対局している。二人の碁の違いは誰よりもボクが一番よく知っている。今日の碁は進藤ヒカルの碁だ。間違いない。今日の碁は、まごうかたないヒカルの碁だったんだ」

〔塔矢、オマエって、ほんとうにいい奴だな・・・・〕

佐為は、言葉を発するのを忘れ、ただじっとアキラを見つめている。

 

2度目の本因坊挑戦手合。前回と同じく桑原対ヒカル。

碁盤を前に座る桑原は、脇に控えている記者に話しかける。

「去年と同じ顔ぶれでは、記事のネタに困るのう」

「いえ、決してそのようなことは・・・・」

「これでワシが小僧に負ければ、おもしろい記事も書けるだろうが、そうは問屋が卸さんぞ」

「じゃあ、オレは記者さんのために頑張らないと」

と横から口を挟んだヒカルを桑原は睨みつける。ヒカルも負けじと睨み返す。しばらくして、お互いフッと笑顔になった。「老獪」と評される桑原だが、なぜかこの「小僧」には憎めない親しみを感じる。

「始めようか」

「はい。お願いします」

本因坊は秀策ゆかりのタイトルだけに、ヒカルは他のタイトルより思い入れが深く、それなりに準備を怠らず、作戦も練っておいたのだが、結果は2勝4敗でヒカルはタイトルを奪えなかった。ただ、最終戦の後、桑原はつぶやいた。

「お主、この1年で強くなった」

「来年は、いただきます」

桑原は「フン」と鼻先で笑ったが、内心おだやかでなかった。

〔去年の1敗はワシのミスを突かれた1敗じゃった。今年の2敗、ワシはこれといったミスをしておらん。なのに小僧はワシから2つの勝ち星を奪いおった。ワシの4勝もかなりきわどかった。来年はよほど気を引き締めてかからんと・・・・〕

同じ手応えは佐為も感じていた。

 

6-3

 

国際アマチュア囲碁カップ。恒例となったsaiの指導碁。いや、この頃になると、「saiの弟子の指導碁」と呼ばれ、さらに「ヒカルの指導碁」“Hikaru’s Lesson”とも呼ばれるようになってきた。そしてまた、すっかりなじみになったあかりの通訳ボランティア。この年、あかりは事務局から佐為=ヒカルの指導碁以外の仕事も引き受けてくれないかと打診された。

「もちろん、進藤先生の指導碁の通訳の仕事を優先してくれてかまいません。空き時間に余裕があるなら、手伝ってもらえればいいんです」

あかりが手伝うのは今年で4回目。英語もそれなりに上達し、碁のことも分かり、囲碁カップの事情も知っている、事務局としては頼りがいのある戦力に思える。

「はい、いいですよ」

とあかりは引き受けた。それを聞いて

「オマエ、気前がいいというか、お人好しというか・・・・」

と感心するヒカルに、あかりはイタズラっぽくちょっと舌を出して説明した。

「実は、不純な動機もあるの。この種のボランティアは大学入試の推薦でプラスになるの」

「大学入試?!」

ヒカルは思わず声が大きくなった。

「もう、そんなになるんだ・・・・そうか、高校3年だもんな。早いなあ」

「わたしも、早いなあと思う。中学の3年に比べると高校の3年はあっという間だった気がする」

《年を取るにつれて、月日の経つのが早く感じられるんです》

《こら、佐為! 女の子の前で年の話はするんじゃない》

佐為はイタズラっぽく笑った。

「ヒカル、どうしたの?」

「あっ、いや、何でもない」

あかりは、きっと佐為と何か話をしているのだと思ったが、追及はしない。

「・・・・それにしても、ヒカル、進藤『先生』って呼ばれるようになったのね」

「それ、言うな! オレもまだ呼ばれ慣れないんだ・・・・」

 

アキラがヒカルを抜き返す機会は意外に早く訪れた。囲碁カップが終わって間もない名人位挑戦者決定リーグの最終戦。倉田に1敗しただけのヒカルと全勝のアキラが対局することになった。ヒカルが勝てばプレーオフ。アキラが勝てばそのまま挑戦者に決定。

名人位へのアキラの執着はよく知られている。親しい人たちの間では「父を倒すのはボクだ」と公言するほど、アキラはほかのどの公式戦よりも名人位戦に力と情熱を傾けていた。そのためには、まず挑戦者にならないといけない。前年は佐為=ヒカルに挑戦権を奪われた。この年はリーグ戦で緒方も倉田も破って全勝を保ち、最終戦に臨む。

ヒカルはこのリーグを進藤ヒカルとして戦ってきた。一柳から棋聖位を奪って以後、可能な限り進藤ヒカルとして打つことにしているし、他の棋士も、自力でタイトルを取ったヒカルに「佐為として打て」とは言いづらい。そのため倉田に1敗したが、それは仕方のないこととヒカルは受け入れている。

このヒカル・アキラ対局ではアキラがヒカルを制し、「抜き返す」という言葉を実践した。

アキラは、プレーオフなしで挑戦者となり、父に挑む。囲碁史上初の名人位親子対決に棋界は湧いたが、結果は行洋がアキラを寄せ付けず、4連勝で挑戦者を叩き落として名人位を防衛した。

「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」

と形容された。

《去年はオレに1敗したのに、今年は4連勝か・・・・塔矢先生、また強くなってる》

《行洋殿も歩みを止めませんね》

《いったいどこまで強くなる気なんだ・・・・ああ、ますます先生を倒すのが遅くなるじゃないか》

《ヒカル、気を落とさないで。その日はきっと来ますから》

 

王座防衛戦は倉田が挑戦者となり、リターンマッチとなった。

「倉田さん。オレ、タイトルホルダーの特権として、ヒカルとして打つことに決めてるからね。名人位リーグ戦で負けたからって、この決心は変わらないから」

「なんだ、オレにタイトル返してくれるってわけ? せっかくの好意、無駄にしちゃあ申し訳ないな」

この言葉どおり、倉田は3勝2敗で王座を取り戻した。5局いずれも接戦だったが、とりわけ最終戦はヒカルにとって悔いの残るものだった。中盤から終盤に移る頃の一手。失着のように見えるが、じょうずに打ち回して優位に立てる手だと信じて打ったが、倉田に見破られ、失着が失着で終わってしまった。そのまま形勢を立て直せず、ヒカルが投了。

《ヒカル、あの時の・・・・》

《分ってるよ。自分でもよく分ってるんだ。オレ、ちょっと調子に乗りすぎてた》

 

王座防衛戦とほぼ平行して行なわれる天元防衛戦も、座間の挑戦に接戦の末2勝3敗で敗れ、タイトルを奪われた。

《・・・・ああ、せっかく一柳先生から自力で棋聖位を奪ったのに、オマエが取った王座と天元を取られてしまったなあ》

《ヒカル、気を落とさなくてもいいんです。一柳殿との対局も、塔矢アキラとの対局も、桑原殿や倉田さんや座間先生との対局も、いずれもきわどい接戦。その時のちょっとした状況判断や時の流れで勝ち負けが別れました。ヒカルが力を落としているわけではないのです。気を落とさないで・・・・それよりも、年が明ければ棋聖の防衛戦です。ヒカルが自分の力で取ったタイトル、守り抜きましょう》

《そうだな》

《じゃあ、わたしと打ちましょう》

 

この年の終わり頃、棋界では進藤ヒカルの活躍を振り返り、1年前の塔矢名人の文章が思い起こされていた。年初に棋聖タイトルを手にして以降、ヒカルは自分の碁を打つ機会を増やしていた。それまで佐為の影に隠れながらも着実に成長していたヒカルの実力が、公式戦で多くの人たちの目に留まり、棋譜も公開されるようになった。伸び盛りの若い才能を称える声がある一方で、ヒカルの未熟さを指摘し洗練された佐為の手筋をもっと見たいという意見もある。

《世間って、勝手なもんだな・・・・まっ、言いたい者には、言いたいように、言わせておけばいいんだね》

《ヒカル、そうですよ。ヒカルは、周りの雑音なんか気にしないで、自分の道を歩めばいいんです》

《うん・・・・》

ヒカルは、自分を励ましてくれる佐為の心遣いをうれしいく感じながら、ふと思う。

《佐為、オマエもまたタイトル戦のピリピリした雰囲気の中で打ちたいと思うか?》

佐為は、本心ではそう思う。だが、今はヒカルがタイトル戦の中で成長していくのを見守る方を選ぼうと思う。

《今は、ヒカルがタイトル戦で打つといいです。ヒカルの成長が楽しみです。これまで何度か、わたしが打っている対局で、わたしが思いつかない手を思いつくことがありましたね。いずれ、わたしに勝ちはしないまでも、互角に並ぶ時は近いでしょう。ヒカルにはヒカルの碁があり、わたしにはわたしの碁がある。二人がお互いの足りないところを補い合い、力を合わせれば、一人だけでは手の届かない神の一手に到達できるかもしれない。そんなことを夢見てるんですよ。この何年かのヒカルの成長を思えば、この夢、決して夢だけで終わりはしません》

《オマエにそう言われると、素直にうれしいぜ》

《今でも、たまに、タイトル戦などでのヒカルの打ち手を見て、わたしにないものを見つけてハッとすることがあるんですよ。ごくたまにですけど》

《それ、褒めてるのか、けなしてるのか?》

《褒めてるんですよ》

《そうか、じゃあ素直に喜ぼう》

こんな他愛もなく明るい会話の後、佐為はふと、あることに気づく。

〔わたしが、ヒカルとわたしが、神の一手を極める時、それは、わたしがこの地上に別れを告げる時ではないのか? ヒカルから離れるべき時ではないのか? 神からいただいた千年のワガママの時が尽きる時ではないのか?〕

《佐為、急に何を考え込んでんだ?》

《・・・・いえ、何でもありません・・・・さあ、もう1局、打ちましょうか》

《ああ、そうしよう》

 

佐為の大きな夢のかたわらで、あかりの小さな夢も育っている。この年の暮れ、ヒカルはあかりのうちの祝賀会に招かれた。あかりの大学推薦入学が決まったお祝い。大学の名前を聞いてもヒカルには分らないけど、外国語教育ではそれなりに名の知られた大学らしい。

「きっかけは、3年前の国際アマチュア囲碁カップなのよ。あそこで、おっかなびっくりで英語で話をして、『わたしの英語が通じた!』って感激したのが始まりなの・・・・わたしの夢。小さな夢だけどね」

《あかりちゃん、小さくてもいいんです。夢を追える、追いかける夢がある、それだけでも人は幸せなんです》

「あかり、佐為が『小さくても追いかける夢があるんなら、人は幸せだ』って言ってる」

「ありがとう」

あかりは明るい笑顔をヒカルに、そしてそのそばにいるはずの佐為に向ける。

 

6-4

 

プロ5年目は棋聖の防衛戦で明ける。挑戦者は緒方。ヒカルにとって棋聖は自分の力で勝ち取った最初のタイトル。ぜひとも守りたい。

「今度こそ、緒方さん相手に進藤ヒカルで戦うからね。ヒカルの力で守り抜くからね」

そう言われると、さすがの緒方も「佐為で打て」とは言えない。そしてヒカルは、いずれも接戦ではあったが、自分の言葉どおり4勝3敗でタイトルを守った。戦いを終えて、緒方はヒカルに語りかけた。

「進藤、オマエはもう『進藤ヒカルとして打つ』と言わなくてもいい。佐為なみに強くなりやがった。進藤ヒカルとして打つのを当たり前にしてしまった」

「緒方さん、そう言ってくれてありがとう。でも、オレまだ佐為に1勝もしてないんだ」

〔そうですね。わたしはまだヒカルに負けませんよ・・・・いつか、ヒカルに負けた時、わたしはどんな気持ちになるのでしょう。悔しがるのか、それともヒカルの成長を喜ぶのか?・・・・〕

 

ヒカルもアキラも出場しない北斗杯。日本チームは精彩を欠き、秀英を大将とする韓国チームが優勝。二人とも手合に重なって会場に行くことはできなかったが、結果を見て落胆は隠せない。

「ボクたちに続く世代が育っていないね。進藤は子供に人気があるから、才能ある子供を見つけて英才教育しないか?」

「オレは、どっちかというと、初めから勝ち負けにこだわることはしたくない。まず、碁の楽しさを教えたいんだ。そんな子供たちの中から、『強くなりたい』、『プロになりたい』と思う子供が出てくれば、それなりの指導をするけど、はじめから全員にそれをさせようとは思わない。だって、碁を習い始める子供がみんなプロを目指す必要もないだろう」

「まあ、そうだけど」

「オレは、佐為に碁を教えてもらってすぐ、オマエのこともあって、強くなりたい、プロになりたいって思ったけど、碁を覚える子供のうち、実際にプロになれるのは何百人に1人、何千人に1人だろう。じゃあ、その他大勢の子供たちは碁を覚える意味がなかったのか? そんなことないだろう。強くならなくても、プロになれなくても、碁を楽しいと思ってくれれば、それはそれでいいんじゃないか・・・・イベントで楽しそうに碁で遊んでる子供たちを見ると、そう思うんだ」

《あかりちゃんの囲碁部を見てても、そう思うでしょう?》

《うん、あそこもいい雰囲気だな》

「まあ、そんな子供たちの中から自然にプロを目指す子が現れれば、それでいい。碁を始める子供たちには、まず碁を打って幸せだなあと感じてほしいんだ」

「碁を打つのが幸せ?」

「オマエ、感じたことないのか?」

「幸せと感じたことは・・・・もちろん、不幸だと思ったことはないけど。生まれた時から身の周りにあったものだから、あって当たり前のことで、それを幸せと感じることはなかった」

 

北斗杯が終わると、碁聖戦の防衛戦と本因坊戦の挑戦がほぼ同時に始まる。碁聖戦の挑戦者は棋聖戦と同じく緒方。碁聖位は2年前、佐為が緒方から奪ったタイトル。緒方にとって2年越しのリターンマッチになるが、今回は佐為でなくヒカルが打つ。棋聖戦の後にあんなことを言った手前、緒方も佐為が打てとは言えないが、ヒカルが本因坊戦に力を集中していることを知っている緒方にとって、碁聖位を奪い返すだけでなく、先日の棋聖戦の雪辱をするチャンスでもある。そして狙いどおり、挑戦者は3勝2敗でヒカルからタイトルを奪い返した。

「なんだ、『佐為なみに強くなった』という前言を取り消さないといけないじゃないか。オレに2勝3敗で負けてタイトルを献上するようでは、確かにまだまだ佐為には勝てないな」

ヒカルにとって悔しいけれど、それは事実だ。

「うん。負けたから、何言われてもしょうがないや。でも、いつか佐為に勝てるようになる。その時は、緒方さんなんか一ひねりしてやる」

「なにぃ、生意気言いやがって、そんなことは実際に佐為に勝ってから言え」

こんな二人のやりとりを見て佐為は

〔おやおや、ここに行洋殿がおられたら、何とおっしゃるか・・・・緒方さんには『子供相手に本気になるな』、ヒカルには『年上をからかうものじゃない』でしょうか・・・・〕

と思い、おかしさがこみ上げてきた。

 

6-5

 

本因坊戦。ヒカルは桑原に3度目の挑戦をする。今年こそぜひ桑原を倒して本因坊のタイトルを手に入れたいとの思いで、桑原の棋譜を研究するなど、昨年以上に念入りに準備して臨んだ。

戦いは3勝3敗になり、第7局にもつれ込んだ。勝敗の経過だけでなく碁の内容からも、ヒカルは手応えを感じていた。佐為も同感だった。桑原も同じ事を感じていたのかもしれない。6局目の後

「小僧め、去年よりさらに強くなりおった」

とつぶやいた。

棋聖戦より以上の注目を集めた本因坊戦第7局。戦いはヒカルの優位に進んだが、中盤から終盤にさしかかる頃、桑原が長考の末に打った一手は異彩を放っていた。一瞬、戸惑ったが、ヒカルはその意図を時間をかけて読み切った。対応を間違うとこれまでの優位がくつがえる。

〔最善の応手はここ〕

と信じて打ち込んだ石。桑原はその石を見据えてしばらく考え、打ち返したが、それはヒカルの想定内だった。それから20手あまりの応酬が続いた後、ヒカルが慎重に考えて打ち込んだ石。桑原は腕を組んで考え始めた。ヒカルはこの手に自信があった。ひょっとしたら、相手の投了も見込める。桑原は腕を組んで考え込みながら、ふとつぶやいた。

「ワシの耳が赤くなるほどではないが・・・・」

ヒカルも佐為も、このつぶやきを聞き逃さなかった。

それからさらに5分ほど考えた後、桑原は投了した。進藤ヒカル本因坊の誕生。しかしヒカルは、うれしさを感じる前に疲れをどっと感じて、緊張がほぐれ、力が抜けたようになった。

対局からの帰り道、佐為はヒカルに尋ねる。

《桑原殿の言葉の意味、分かりましたか?》

《もちろん、それはオレにも分かるぜ。秀策の棋譜は徹底的に研究したからな。耳赤の一手のことだろう?》

《そうです。桑原殿はヒカルが秀策の域に近づいたと褒めてくださったのです》

《うん》

こんな話をしているうちに、本因坊の座を得たという実感がヒカルに湧いてきた。

その1週間後、桑原は現役引退を表明した。

 

ヒカルが子供に囲碁の楽しさを教えるための教室を作ることを思いついたのは、本因坊のタイトルを手にして間もない頃。土曜日と日曜日、週2日くらい、子供たちに囲碁に親しんでもらう。囲碁教室という堅苦しいものではなく、囲碁を楽しむ場所、囲碁で遊ぶ場所、そんなふうにしたいと思う。子供たちのためだけでなくヒカル自身のためにも、そういう場所があるといいと思う。いくら碁を打つのが楽しいと言っても、タイトル戦は疲れる。体も疲れるが、精神がなおさら疲れる。週末、子供たちと無心に碁を楽しむのは、ヒカルにとって仕事と言うよりむしろ息抜きになりそうに思える。

〔どこがいいかなあ? うちは、そのための部屋がないよなあ・・・・そうだ、じいちゃんちはどうだろう。あそこなら、子供が少々騒いでも大丈夫そうだし〕

さっそく聞いてみたら、

「囲碁を教えるのに使うのなら、構わないぞ」

という返事だったので、ふだん使っていない居間を使わせてもらうことになった。土曜日の夜はここに布団を敷いて泊まってもいい。

 

自分の息抜きのためとはいえ週2日子供の相手をするとなると、スケジュール調整にそれなりに気を配る必要がある。

今年初防衛した棋聖と今年獲得した本因坊はこれからも何としてでも守りたい。棋聖は自分の力で手に入れた最初のタイトルだし、本因坊は言うまでもなく秀策ゆかりのタイトルだから。

十段、王座、天元、碁聖の4タイトルは挑戦者決定リーグや本戦から落ちないようにして、勝ち抜いて挑戦者になれれば挑戦するくらいの構えでいることにした。

名人位は狙ってみたい。塔矢名人を倒すのはヒカルにとって見果てぬ夢なのだから。だが、ここにはアキラという強敵が立ちはだかっている。挑戦者になるだけでもたいへんだ。そしてその先には、非公式の対局でもめったに勝てない難攻不落のタイトルホルダーが待っている。

実際にその立場になってみると、2つのタイトルを守り、ほかのタイトル戦にも常に挑戦者決定リーグや本戦で戦い続けるというのは、かなりたいへんなことだった。それだけで、毎週1つは手合をこなすことになる。ほかに、今もまだ佐為との対局を望んで塔矢邸を訪れる棋士の相手もする。そして、タイトル戦にまつわる雑事、イベント出演、他の棋士の対局の解説など。

《塔矢先生は5冠だったんだよな。すげーな。過労で倒れるのも無理ないぜ》

《確かに、虎次郎の時代に比べると、身も心も安まる暇がないですね。ヒカル、くれぐれも体には気をつけて、万が一にも、虎次郎のように若死にしないでくださいね》

《まあ、それはないよ》

ともあれ、こんなふうに、棋界を支えるタイトルホルダーの一人として、ヒカルの生活パターンができあがっていった。

 




今話のタイトル戦を年表にまとめました

4年目 1月 棋聖戦(対一柳)
2月 棋聖戦(対一柳) 十段戦(対森下)
2004年 3月 十段戦(対森下)
  4月
  5月 北斗杯
  6月 碁聖戦(対塔矢アキラ) 本因坊戦(対桑原)
  7月 碁聖戦(対塔矢アキラ) 本因坊戦(対桑原)
  8月
  9月 名人戦リーグ最終戦
  10月
  11月 王座戦(対倉田) 天元戦(対座間)
  12月 王座戦(対倉田) 天元戦(対座間)

5年目 1月 棋聖戦(対緒方)
2月 棋聖戦(対緒方)
2005年 3月
  4月
  5月
  6月 碁聖戦(対緒方) 本因坊戦(対桑原)
  7月 碁聖戦(対緒方) 本因坊戦(対桑原)
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