7-1
2008年。進藤本因坊の誕生から3年近い月日が流れた。
プロ8年目のヒカルは棋聖と本因坊の2冠のタイトルホルダー。棋聖は一柳から奪って以来ずっと守り続けている。本因坊も3年前、3回目の挑戦で桑原から奪って以来守り続けている。この間、ほかのタイトルを手にすることもあったが、守り続けることはできないでいる。複数のタイトルを保持するのは難しい。かつて塔矢行洋が語ったように、碁を打つことそのものは苦ではないが、タイトル戦にまつわる雑事が負担になる。ほかのタイトルは、チャンスがあれば挑戦するというスタンスでいる。
それに、ヒカルにとってほかのタイトルと同じくらい大事なことがある。子供たちの相手。じいちゃんの家の週末囲碁教室はもちろん今も続けている。おばあちゃんが意外に世話好きで、蒸かしたイモや、きな粉をまぶしただんごなど、いかにもおばあちゃんらしいおやつを差し入れてくれる。それが、コンビニのお菓子になじんだ子供たちにはかえって珍しいらしく、好評なようだ。
郊外にあるじいちゃんの家にバスで行くのだが、ちょっとした遠足気分でやってくる子供たちもいる。それも悪くはないとヒカルは思う。そこはまた、ヒカルにとっては、神経をすり減らすタイトル戦の疲れを癒やす隠れ家のようでもある。
そんな子供たちの中からも、これまでに2人「プロになりたい」という子が現れた。そういう子は、ほかの子とは別に指導してあげるべきなのだが、ヒカルもなかなかそこまでの時間が取れない。それで、アキラの碁会所を紹介した。そこで大人たちに揉まれ、たまにはアキラの指導碁も受けているらしい。それを聞いた時ヒカルは、〔アキラの奴、まさか自分がオヤジから受けたような厳しい指導をしてるんじゃないだろうな? そんな指導についていける子供はめったにいないのに〕と心配した。それを伝え聞いたアキラは笑って答えた。
「心配しなくていい。子供の性格や適性をちゃんとわきまえて指導してるよ。こう見えてもボクは、子供のころから大人相手に指導碁を打っているんだよ」
「・・・・そういやあ、そうだな。オレが初めてお前の碁会所に行った時、お前はもうお客に指導碁を打ってたんだよな」
とヒカルは納得した。
子供相手のイベントにも都合が付く限り参加している。「人寄せパンダ」扱いされた頃と違い、タイトルホルダーになったヒカルをその種のイベントにかり出すのを恐縮する関係者もいるが、ヒカルが自ら望んで参加している。「囲碁の将来は子供たちにかかっている」という大きな議論はそれとして、なによりヒカルは子供が好きだった。そんな子供たちに、自分が心から好きな碁の楽しさを教えるのは、うれしい。そして、子供たちにある種の恩義を感じている。プロ1年目、2年目の頃、いわれない噂に気が滅入っていた頃、イベントで子供たちから「サイ」、「ヒカル」と声援を受けるのは救いだった。あかりが作ったプレートは、傷まないようラミネートカバーして今も大事に使っている。
意外なことに、佐為も子供が好きなようだ。
《まあ、あいつは自分が子供みたいだからな》
《ヒカル、聞こえましたよ。何を言ってるんですか。ヒカルこそ、子供そのものじゃないですか》
この頃、ヒカルはついに佐為から念願の1勝をもぎとった。ヒカルは、文字通り「飛んだり跳ねたりして」喜んだ。
《やったー、とうとう佐為に勝ったぞ! ついに佐為を越えたぞ!》
《1回勝っただけで乗り越えたなどと大きな口を叩くんじゃありません。さあ、もう1局!》
2局目は、佐為が勝ちを収めた。その後もヒカルは負け続けたが、なんとか5回に1回くらいは勝てるくらいになった。初めてヒカルに負けた時の悔しさは別として、佐為もヒカルの成長はうれしい。
《ついにヒカルもわたしに追いつきそうですね。ヒカルの碁とわたしの碁が足りないところを補いあえば、より良い碁が生まれそうです。神の一手に近づけるかも》
《うん、まあ、神の一手はともかくとして、オレが佐為と互角になれれば、佐為として打つかヒカルとして打つかなんて、どうでもよくなるかもなあ》
ヒカルは伸びをした。
《・・・・10年かな。佐為と出会って10年くらいだな。オレ10年でとうとう佐為に追いついた》
《そう10年くらいですね》
明るい口調で答えた佐為は、ふと、あることに思い当たり、沈んだ表情になった。
《ヒカルは今年で何歳?》
《今まだ21。誕生日が来れば22歳だ》
《そうですね・・・・》
佐為は考え込んだ。
《佐為、どうしたんだ?》
《虎次郎のことを思い出したんです。わたしは、まだ幼かった虎次郎に取り憑き、虎次郎にわたしの碁を打たせてきました。でも、ヒカルの成長を見てきた今にして思えば、虎次郎にわたしの碁を打たせるのではなく、虎次郎自身の碁を打たせるよう虎次郎を導いていれば、ヒカルの年頃には虎次郎も自分の力で本因坊家の世嗣に迎えられたかもしれません。そして、わたしと肩を並べる力量を身につけ、わたしと互いに足りないところを補いあって神の一手を探求できたかもしれません。ヒカルの成長ぶりを見ていて、こんなことに気がついたんです。虎次郎には申し訳ないことをした。そして、惜しいことをした・・・・》
思いがけないことを言われて、ヒカルは戸惑った。言われてみればそうかもしれないけれど・・・・
《でも、佐為と虎次郎で神の一手を極めてしまっていたら、佐為はあの碁盤に取り憑くことはなかったし、オレは佐為に出会えなかったんだ。こんなことを言うのは虎次郎に申し訳ないけど、佐為と虎次郎が神の一手を極めないままだったから、オレは佐為に出会えたんだ》
ヒカルにそう言われて、佐為は考え込む。確かに、ヒカルに出会えたことはうれしい。だけどそれが、虎次郎の碁を犠牲にしたものであるのなら・・・・。
《ヒカル、本因坊家のお墓が巣鴨にあるのを知ってますか?》
《本因坊家のお墓? 知らねえ》
《巣鴨の本妙寺というお寺にあるんです。今度、行きましょう。虎次郎の墓参りをしたいです》
1週間ほどして、ヒカルと佐為は本妙寺にある本因坊家のお墓に詣でた。墓を前で頭を垂れ、佐為は虎次郎に語りかけるように祈っている。かすかに涙がにじんでいる。ヒカルはそんな佐為に言葉を掛ける。
《虎次郎に話しかけてたんだろう? 何て言ってたんだ?》
《ほんとうは、今すぐ虎次郎のもとに行って詫びをのべるべきなのですが、今少し時をくださいと頼んだんですよ。ヒカルと一緒に神の一手を探求するための時を》
ヒカルはそれを聞いて目を伏せた。
《オマエ、神の一手を極めたら、去って行くのか? 虎次郎のところに行くのか?》
佐為はヒカルを見ながらうなずく。
《そのために、神様はわたしの千年のワガママを聞いてくださったのですから》
ヒカルはまなざしを上げて佐為を見つめる。佐為も見つめ返す。
《ヒカル、だからといって、神の一手への歩みを止めないでください》
7-2
この年の夏、ヒカルにとって8回目の国際アマチュア囲碁カップ。
ヒカルは恒例となった指導碁を打つ。saiの指導碁として始まり、sai no deshiの指導碁と呼ばれ、やがてヒカルの指導碁“Hikaru’s Lesson”という名前で定着していた。佐為は、ヒカルが自分の添え物のように見られる状態から進藤ヒカルとして認識されるようになったプロセスを象徴しているようで、うれしかった。
そして、あかりにとっても8回目。英語が堪能で碁についてもそれなりの知識を持ち、国際アマチュア囲碁カップについての経験も豊富で人当たりもいいあかりは、スタッフの一員として溶け込んでいたが・・・・一連の日程が終わった4日目の夕方、運営委員があかりを呼び止めた。
「藤崎さん、今年大学4年生ですよね。就職なさると、来年からはもうお願いできなくなりますね」
「うーん、4日くらいなら、夏休みをとってお手伝いしてもいいんですけど」
「いやあ、せっかくの夏休みを・・・・」
「わたしも楽しいんです。この仕事」
「そう言っていただけると、たいへんありがたいのですが、決してご無理はなさらないように。これまで、ほんとうにありがとうございました。」
とあいさつして立ち去った。それを脇で聞いていたヒカルが話しかける。
「そうか、あかりも来年就職なんだ。就職先、決まった?」
「うん。ゲーム会社」
「ゲーム会社? なんだよ、英語とぜんぜん関係ないじゃん」
「ところが、そうでもないの。この会社は売上の半分以上が海外なの。外国の取引先とのやりとりに英語は必須なのよ。ゲームのキャプションを英語に訳す仕事もあるし。それにね、なんと囲碁ゲームを手がけている」
「それなら、あかりにぴったし」
「フフーン、実はもっとすごいこともある」
「何だ?」
「囲碁ゲームだけじゃなくて、AI碁のプログラム開発も手がけているの」
「エーアイゴ? なんだそりゃあ?」
「AIというのは“Artificial Intelligence”人工知能のこと。まあ、コンピューターの進化型というか、未来型のコンピューターというか、決められたプログラムに従って作業するだけじゃなく、自分で考えることのできるコンピューター。それに囲碁を打たせようっていうプロジェクトよ」
「そんなの、できるのか?」
「今でも、一応はあるのよ。まだ弱いけどね」
「初段くらいか?」
「残念ながら、もっとずっと弱い。まあ、わたしには勝つけど」
「あかりに勝っても、しょうがねーだろう」
《ヒカル、そんな言い方するものじゃありません》
案の定、あかりはふくれっ面するけど、話はやめない。
「そんなこと、分ってるわ! でも、これからどんどん強くなるよ。チェスでは、もうずいぶん前にコンピューターが人間のチャンピオンを破ってて、今では人間がどんなにがんばってもコンピューターに勝てなくなってるんだから」
「ほんとうか?」
「ほんとうよ。碁はチェスに比べて何百倍も何千倍も難しいから、まだまだ人間に勝てないけど、プログラム開発してる人たちは、『10年後には』って息巻いてる」
《・・・・》
ヒカルと佐為は顔を見あわせた。
「で、そういうコンピューター関係のことはアメリカが一番進んでいるから、こっちの方面でも英語は欠かせないの」
と、あかりは自分の就職先の自慢話とそこでいかに英語が必要とされているかという話を勢いよくまくし立てた。
7-3
翌2009年4月、就職したあかりはAI碁研究開発チームに配属された。まだディープラーニング以前の時代、AI碁と言いながら、プロの棋士がAIを教え込まないといけない段階にあった。実力ある棋士をチームに取り込みたい、これはAI碁の開発にしのぎを削っている会社、研究チームの共通の関心事だった。あかりは就職に際してヒカルとの友だちづきあいを話してはいなかったが、中学から大学まで囲碁部に所属していたことと、国際アマチュア囲碁カップにボランティアとして参加していたことは話していたので、その関係でプロ棋士あるいはトップレベルのアマチュアに知り合いがいないかと尋ねられた。
〔そりゃあ、ものすごく強い棋士を2人も知ってるけど・・・・〕
あかりは佐為とヒカルを紹介するのをためらった。声を掛ければ、多少は無理してでも参加してくれるかもしれない。だからこそ、そんな無理をさせたくなかった。
7月下旬、あかりは勤務扱いで囲碁カップのボランティアへの参加を認められた。もちろん、会社としてはそこで有力な棋士とのコネができるのを期待してのことだが、あかりは、就職してから何かと忙しく、ほとんど会う機会のなくなったヒカルと佐為に会えるのが楽しみだった。
「やあ、あかり、今年も来れたんだ。助かるよ」
ヒカルは気楽に声を掛ける。
「うん、会社が認めてくれたんだ」
勤務扱いということは伏せておいた。
「いつか話してた例のあれ、何てったっけ・・・・」
「あれ、じゃ分かんないわ」
「うん、あの、コンピューターに碁を打たせるって、あの話」
「ああ、AI碁ね。わたし、その開発チームにいるの」
「そうなんだ」
「ヒカル、興味ある?」
「うん、何だか、おもしろそうじゃん」
「佐為は?」
《わたしは・・・・一体どんなものだか見当もつかないので、興味があるとも、ないとも・・・・》
《打ってみればいい。実際に、コンピューター相手に》
《そんなこと、できるんですか?》
《そりゃあ、できるだろう》
《それじゃあ、ぜひ打ちたい!》
佐為はそれまでの煮えきれない態度を一変させて喜んだ。
《まったく、オマエは、碁が打てるとなると、すぐそれだ》
あかりは、たぶんヒカルは佐為と話しているのだろうと思って、ヒカルの返事を待っている。
「とりあえず、コンピューター相手に碁を打ちたいって言ってるよ、佐為は。オレもだけど」
「じゃあ、チームのボスに聞いてみる」
と答えて、あかりはあわてて付け加えた。
「あっ、そうだ。ヒカルと幼馴染だってこと、会社の人たちには伏せておいて。ここで知り合ったということにしておいて」
「まあ、いいけど。なんで?」
「わたし、今年の4月に就職してAI碁開発チームに配属された時、『プロの棋士とかに知り合いはいないか』って聞かれたの。だけど、ヒカルも忙しそうだし、うちの仕事に引き入れるのも悪いなあと思って、ヒカルのことは話していないの。だから、幼馴染では困るの」
「分かった。大人の事情ってやつだな」
ヒカルは気安く答えるが、あかりは〔大丈夫かなあ〕とちょっと心配ではある。
チームのボスは跳び上がらんばかりに喜んだ。あかりは念には念を入れて「チームを手伝うとは言ってない。興味があるからコンピューターと対局したいだけなのだ」と話すが、ボスはヒカルがチームに参加すると期待している。決めてかかっているのかも。何と言っても現役の棋聖で本因坊、しかも佐為と一心同体であるのなら2人分の知恵を借りれることになる。
ヒカルと開発チームのスケジュールをすりあわせて、対局は8月も半ば過ぎになった。
実際に対局すると、あかりが言ってたように初段にも届かないレベルで、ヒカルとは勝負にならなかった。ただ、時おり突拍子もない手を打つ。その多くはただの失着なのだが、たまにあっと驚くような妙手がある。
《コイツ、強いんだか弱いんだか分んねえな。というか、弱いに違いないけど、たまにびっくりするようなみごとな手を打つ》
佐為は笑いをこらえる。
《まるで、碁を習いたての頃のヒカルみたいじゃないですか。加賀さんに『石の筋はオモシロイんだが、あまりにも未熟というか稚拙というか』って言われましたし、わたしも『ドキッとする瞬間があると思うと、ガクッとくる一手を放つし』と思ってました》
ヒカルは苦笑いしながらも、懐かしそうにその頃を思い出す。
《そんなこともあったよなあ・・・・》
《もし、この機械がヒカルに似ているなら、きっとあっという間に強くなりますよ》
《えっ?・・・・うーん、そう言われると・・・・オマエ、興味あるのか?》
《はい。なんというか、ヒカルに出会った時のような「きざし」を感じるのです》
《きざし?》
《はい、前兆というか予兆というか、前触れというか・・・・》
《ふーん・・・・》
《ヒカルは、興味ないんですか?》
《オレも、興味はあるけど、時間が・・・・》
結局、ボスと話し合い、ヒカルが前月中旬までに翌月の対局スケジュールをチームの担当者に渡し、空いてる時間を指定してヒカルに来てもらう。チームの誰かがその時間ヒカルに対応するよう手配しておく。ということで何とかヒカルが開発チームに協力するお膳立てが整ったが、ここでヒカルは致命的なミスをした。いつのも習慣であかりに「あかり」と呼びかけてしまった。
ボスに
「藤崎さん、1か月もしないで、進藤本因坊と名前で呼び合うような間柄になったのか?」
と問い詰められて、あかりは結局、ヒカルとは幼馴染であることを白状した。ヒカルの協力を得られることになっていたから、結果オーライであまり厳しく叱責はされなかったが、ヒカルのうっかりには腹が立つ。
あとでヒカルがあかりからこってり油を絞られたのは仕方ないことだった。さらに、帰り道、佐為からも小言を言われそうになった。
《ヒカル、不注意も度が過ぎますよ》
《もう言うな。その話はもうおしまい、おしまい!》