8-1
囲碁を習い始めて2年でプロになったヒカルほどではないが、AI碁も順調に力を上げていく。4年後には、4子のハンディを付けてではあるが、ついにヒカルを破った。
「オレに4子ってことは、院生くらいかな・・・・」
ヒカルにとっては、さほどのことはないレベルだが、開発チームにとっては快挙と言えた。そんなチームのエンジニアに、ヒカルは率直に自分の感じていることを話す。
「確かに、4年前に比べて強くなったけど、癖は変わんねえな」
「癖、ですか?」
「うん、昔からこいつは、時おり突拍子もない手を打つんだ。昔は、たいていがただの失着で、ごくたまにあっと驚く妙手だった。昔と比べて失着の割合が減ったのは確かだけど、この癖は変わんねえな」
「わたしたちもその点は気づいているのですが、それはAIの欠点ではなくて個性だと思ってます。ただ、その個性がまだ確実な読みを伴っていないので『強いのか弱いのか、よく分らない』と言われるわけです」
「それと、もう1つのAIの個性は・・・・」
と別のエンジニアが説明を付け加える。
「AIは人間と違って、不安や恐怖を持たないんです。だから、自分にとって60%の確率で有利な手なら、ためらわず打ってきます」
「60%なら、人間だってためらわず打つだろう」
とヒカルが反論するが、そうではないらしい。
「まあ、これは心理学者の話の受け売りですが、人間は得よりも損に敏感らしいんです。60%の確率で得するけど40%の確率で損をする選択を前にすると、ほとんどの人間は40%の損の方に注意を引きつけられて、その選択を避けるらしいです。死んだらおしまいという生物の根本条件の中で、利益を求めるより危険を避ける心理が強く働くためらしいんですけどね。極端な例を言えば、60%の確率で1億円もらえるけど、40%の確率で命を取られるようなクジは、誰も引かないでしょう」
「まあ、それはそうだな」
「AIはそんな恐怖心を持ちあわせていないから、60%の確率で得だと計算したら、ためらわず打ち込みます。それが人間から見ると『意外』という印象になるんです。でも、囲碁は361も目がありますから、10回のうち6回うまくいく手を積み重ねれば、勝てますよ」
「それじゃあ、なんでAIはオレに4子置かないと勝てないんだ?」
「えっ、それは・・・・」
相手は痛いところを突かれたという顔をした。最初にヒカルの相手をしていたエンジニアが助太刀をする。
「それは、正直言って、基礎棋力が低いからです。読みが甘いのです。ほんとうは自分に不利な手を、自分にとって60%の確率で有利だと読み間違えてしまう。あるいは、相手の打ってくる手を読み切れない。そんなミスがまだ多いんです」
「なんだ、そんなことか」
「ですから、進藤本因坊にこれからもご協力いただきたいのです」
とヒカルはうまく丸め込まれた。
こんなヒカルとエンジニアのやりとりを聞きながら佐為は、自分自身が碁を打つ時の気持ちを振り返り、エンジニアの言い分にも一理あると思った。
〔もし、このAIとやら申すこの者が、人間と異なり、いっさいの不安も恐怖を持たずに完璧に冷静に次の手を打てるものなら、今少し棋力を上げ読みが深くなれば、とてつもない強さを現わすかもしれぬ・・・・〕
佐為の中に
〔どれほど強くなるものなのか、いったいどのような強さを手に入れるのか、見届けてみたい〕
という興味と
〔そのような強さを手にしたAIが人間を追い越し、わたしやヒカルより先に神の一手に達するようなことがあったら〕
という不安が湧き起こるが、この時は興味の方が強かった。
この頃、棋界でも時代の変化を告げるようなことが生じていた。アキラがついに父を倒して名人位を得た。アキラが最初に父の名人位に挑んで4連敗を喫してから8年目。ヒカルが本因坊を手にしてから7年目。アキラもそれまでいくつかのタイトルを手にしてはいたが、名人位は格別だった。ヒカルは生涯のライバルが念願を達成したことを祝いたかったが、翌日、塔矢行洋が引退を表明したのを知って、祝って良いものかどうなのか、迷った。そんな時、アキラから電話があった。
「明日の夜、うちでささやかな祝賀会をやる。ボクの名人位獲得祝いと、父の引退祝いだ。キミも来てくれるね」
「えっ? オマエのタイトル獲得祝いはいいけど、先生の引退祝い?」
「ああ、ボクより父の方が喜んでるよ。『これで重荷から解放される』って」
翌日の夕方、ヒカルが塔矢邸に出向くと、すでにかなりのお客が来ていた。アキラは「ささやかな」と言っていたけど、どうして、なかなかの盛会。祝賀会が始まる頃には、緒方をはじめとする塔矢門下はもちろん、森下、一柳、座間などの同世代、そして珍しいことに、引退してからほとんど世間に現れることのない桑原も顔を出していた。宴がたけなわとなる頃、森下がぽつりとつぶやいた。
「とうとう、古い時代が終わるのかなあ」
同じ年にプロとなり互いに張り合うこともあった森下の言葉を、行洋が受ける。
「時代はいつかは終わるものです。それに、後続に乗り越えられるのは先達の本望でしょう」
その脇から桑原が口を挟む。
「『老兵は死なず、ただ消えゆくのみ』じゃな・・・・そうは言っても、いつまでも『死なず』と言ってもおられんな」
この言葉に、場の空気が固まりかけたところ、桑原がさらにとどめを刺す。
「そんなにたじろぐこともなかろう。人生の、人間の永遠の真理を語ったまでじゃ」
冷え切ってしまった雰囲気の中で、なぜか桑原には遠慮ない口をたたけるヒカルが
「桑原先生、いくら永遠の真理でも、それを言う時と場合があるでしょう。少しは状況を考えものを言ってくださいよ」
と文句をつける。すかさず桑原が
「よりによって、お主からそれを言われたくはないぞ」
と答えた。この問答に、座のあちこちにクスクス笑いが広がり、場の雰囲気が元に戻った。
8-2
2016年1月、ヒカルが開発チームを訪れると、興奮と意気消沈が入り交じったような雰囲気だった。
「どうしたの?」
と尋ねるヒカルにエンジニアの一人が
「これですよ」
と、雑誌のページを開いて見せた。『ネイチャー』という雑誌にAI碁の戦績が発表されたのだが、それがこれまでの常識を覆すものだった。前年の10月、AI碁が欧州チャンピオンを破ったのだ。しかも、そのプログラムの開発にはグーグルという巨大企業が係わっており、ディープラーニングという新しい手法を取り入れた成果だとのこと。そんな話をされてよく分からないヒカルに
「要するに、AI碁の能力を一気に高めたんだけど、これまでのボクたちのやり方が一気に時代遅れになるような出来事なんです」
と一人のメンバーが説明した。
それから2ヶ月しかたたない3月、アルファ碁と名付けられたこのAI碁は当時世界最強の棋士の一人とされていた韓国のイ・セドル9段を破った。5番勝負で4勝1敗、人間はAI相手にやっと1勝できただけだった。
ヒカルは、イ・セドル9段を破ったアルファ碁と対局したいと願う。それは佐為の願いでもある。
〔この者は、ひょっとして神の一手に届く者かもしれない〕
そんな思いを抱いている。開発チームのエンジニアは引き留めた。
「アルファ碁は去年の10月から今年の3月までの間に段違いに強くなった。欧州チャンピオンと言っても日本なら2段くらいです。それが、半年足らずで世界最強と言われるイ9段を破るまでになったんです。アルファ碁は1ヶ月でたぶん人間の1年分どころか、2年分、3年分の進歩をしてるんです。あれから1~2ヶ月すれば、さらにとてつもなく強くなっているはずです。とても太刀打ちできないでしょう」
「あんたたち、コンピューターのことは詳しくても、碁打ちの気持ちを知らないね。碁打ちは、『相手は強い』と言われたら、なおさら打ちたくなるんだよ」
「それだけじゃないんですよ」
ともう1人のエンジニアが口を挟んだ。
「アルファ碁はパソコンで動かせるようなちゃちなプログラムじゃないんです。それを動かすのに、パソコンを100台以上もつないだような巨大なコンピューターが必要なんです。1回の対局に必要な電気代がわたしたちの月給と同じくらいなんです。ほかにもいろんなコストがかかります」
「どれくらいかかるの?」
ヒカルは素朴に質問する。
「いや、それはわたしでは分かりませんが、100万円は下らないでしょう。何百万かも・・・・」
ヒカルは考えた。
〔それくらいなら1回のタイトル賞金よりは少ないな。使わないでそのまま口座に残ってるのが、それくらいはある〕
「それくらいなら、出すよ」
「進藤先生、本気ですか?」
「本気だよ。お金って、こういう時のために使うもんだろう」
《ヒカル、大丈夫なんですか?》
《大丈夫だよ。タイトル賞金がそれくらいは残ってるはずだよ》
開発チームのメンバーはみなあきれたような顔でヒカルを見つめる。ヒカルは、《何をあきれてるんだ》というような顔で見返す。
対局に当たってグーグルから、費用負担など経済的な条件のほかに、「進藤ヒカルは棋譜を含め対局に関する情報をグーグルの許可なく第三者に開示しない。棋譜の著作権はグーグルのみが保有し、宣伝広告などに自由に使える」という条件が提示された。ヒカルと佐為の関係については、佐為の能力はヒカルに附属するものと見なすという条項がある。あかりの会社の法務に確認したら、対局中にヒカルと佐為が協力するのを認めていると解釈されるとのこと。その法務担当者は、
「むしろ協力するのを期待していると思いますよ。その方が、勝利の宣伝効果が高いから」
と付け加えた。
《アルファ碁が勝つと信じてるんだな。オレと佐為、二人力を合わせてもアルファ碁に勝てないと確信してるんだ》
《なんとも、すさまじい自信ですね》
対局は5月3日。開発チームの大型コンピューターをアルファ碁の巨大コンピューターにつないで使わせてもらえることになった。このためにインターネット専用回線を特別に契約したとのこと。コンピューター関係のトラブルに備えてエンジニアが1人付き添い、グーグル側とのコミュニケーションが必要となる場合に備えて通訳としてあかりも立ち会う。
序盤は意外なほど平穏に進んだが、中盤でアルファ碁が放った一手にヒカルも佐為も息をのむ。二人とも思いつかなかった。打たれた瞬間、〔まさか、そこに〕と思った。よく考えてその手の意味が分ると、アルファ碁の読みの深さと人間には思いも及ばない大胆さに衝撃を受けた。一見、アルファ碁側の守りに隙ができると思われたが、これもよく検討してみると、隙を突き崩すことはできない。これで形勢が一気に傾くわけではない。しかし、手数を重ねるごとに形勢は少しずつ悪くなる。やがて右上辺で激しい打ち合いになったが、その最中にアルファ碁はその局面とはまったく関係のない中央部からやや左上にずれたところに打ち込んだ。ヒカルと佐為は意表を突かれた。その手を無視して右上辺に打ち込み続ければかなりの地を取れるが、その手数の間にアルファ碁が新たな局面でどの程度の地歩を築けるか、計算してみると右上辺を捨ててもアルファ碁に有利。かと言って、右上辺の攻防を捨てて新たな局面に応じても、自分たちに良い結果は得られないと見通せた。ヒカルと佐為が右上辺の攻防に注意を集中している時、相手は盤面全体を読んで、自分にもっとも有利な手を探し出したらしい。
《・・・・佐為、オレ、勝てる気がしない》
《わたしもです》
《勝てる気がしないけど、オレ、打ち切ってみたい。これからアルファ碁がどんな手を打ってきて、結果としてどんな棋譜ができあがるのか、見てみたい・・・・久しぶりだぜ、この感じ。負けが分っていても、自分を上回る相手の力を確かめてみたい、そして自分がどこまで戦えるか確かめたいという感じ。昔、碁を習いたての頃、オマエと対局して感じていた・・・・》
佐為も自分の幼い頃、碁を習い始めた頃のことを思い起こしていた。もう千年も前のこと。負けると分っていても師匠を相手に打ち続けた・・・・
《では、形勢をくつがえすことはできなくても、それでも、この場で一番良い手を考えましょう。この棋譜は、いずれ世界中の人の目に留まることになるのです》
ヒカルと佐為は打ち続けた。以後、アルファ碁は意表を突く手を打つことはなかったが、打てば打つほど、ヒカルと佐為の劣勢が少しずつ明らかになっていく。真綿で首を絞められるとは、このような状況なのか? やがて気がつくと、形勢はほとんど絶望的だった。ヒカルと佐為の完敗、アルファ碁の圧勝。
《ここまでだな。いくらなんでも、これ以上打ち続けるのは、無駄な抵抗だ》
《そうですね・・・・今日、この者が繰り出した手がほんとうに神の一手かどうか、それは神ならぬ身に判断しかねますが、わたしたちが遠く及ばない域に達していることは確かです。神の一手に届くのは、わたしたちではなく、この者でしょう》
ヒカルは投了をクリックした。全力を尽くしたという完全燃焼感と、どうしても乗り越えられない壁を目の前にして呆然と立ちすくむような無力感。佐為はさらにそれに加えて、脱力感、虚脱感、さらには虚無感さえ覚えた。いつか自分が達すると念じていた神の一手、その一手に届く者が自分ではない、人間でさえない異形の者であることを目の当たりにした何とも言えない空しさ。
《まさか、わたしが千年も追い求めていた神の一手が、このようにして達成されるとは・・・・それを求め続けたわたしの努力は、はかない幻だったのか・・・・。わたしは何のために千年のワガママを聞いてもらったのか・・・・何のために、かつて虎次郎の身を借り、今ヒカルの意識に住み着いたのか?・・・・それはすべて無駄なことだったのか?・・・・》
佐為のつぶやきにヒカルは何も答えることができず、ただ頭を垂れるだけ。そんなヒカルを見て心配そうにあかりが尋ねる。
「ヒカル、どうしたの?」
「佐為が落ち込んでんだ。自分が千年も追い求めていた神の一手が、AIで達成されることに落ち込んでるんだ。自分のしてきたことは幻だったのか、すべて無駄なことだったのかって」
あかりは考え込む。佐為の気持ちは分かる。ヒカルも同じような気持ちなんだろう。でも、そうじゃないと思う。千年もかけて夢を追い続けたこと、そのものに意味がある。そう話してくれたのは佐為じゃない・・・・。
「そんなことないよ。夢を追うこと、そのものに意味があるんだよ・・・・佐為がわたしに話してくれたじゃない。大学の推薦入学が決まった時に、人は夢を追うだけでも幸せなんだって・・・・」
1つの文章があかりの心に浮かんだ。大学で習い、印象深くあかりの心に刻み込まれている文章。
「“We are such stuff as dreams are made on”
『わたしたちは夢と同じ素材でできている』」
「何だよ、急に英語なんか」
「今、ふと思い出したの。大学の英語の授業で習ったの。シェークスピアの『テンペスト』の中のせりふの一節。印象深くて覚えてる。
“We are such stuff as dreams are made on”
『わたしたちは夢と同じ素材でできている』
わたしたちは夢でしかないの。でも、だからこそ、夢がわたしたちなのよ。夢見ることが人生なのよ。結果がどうであれ、夢を追い続けることができたのなら、それでいいじゃない。それで幸せじゃないの。千年も自分の夢を追い続けたって、すばらしいことだと思うわ」
《あかりちゃん、ありがとうございます。そう言われると、わたしも少しは浮かばれます》
「ヒカルも何か励ましてあげなさいよ。一番大切な人なんでしょう!」
「そんなこと言ったって、何をどう話していいのか・・・・」
「佐為と出会えてうれしかったんでしょう、楽しかったんでしょう、幸せだったんでしょう!」
「そうだよ。もちろんそうだよ・・・・そうだよ・・・・佐為が神の一手を夢見て碁盤に取り憑いてくれたから、オレは佐為に出会えたんだよ。オマエが夢を見続けてくれたから、オレはオマエに出会えたんだよ。それを、幻とか、無駄だったとか、言うんじゃないよ」
ヒカルは、初めはあかりに答えていたのに、いつの間にか佐為に語りかけていた。
《ヒカル、ありがとう。あかりちゃん、ありがとう・・・・そうですね。わたしが夢を見続けたから、ヒカルにも出会えたし、あかりちゃんにも出会えたんですね。それは、はかない幻でも、無駄なことでもなかったですよね。ごめんなさい。そんな言い方をしてしまって。あなたたちに出会えただけでも、わたしの夢は意味があるのですよね・・・・ありがとう。おかげで、わたしは心穏やかに成仏できそうですよ》
「成仏?」
ヒカルは佐為を見つめるけど、自分自身、アルファ碁の強さを身をもって実感した衝撃で、「成仏」という言葉について考えるゆとりがない。
8-3
帰宅してヒカルは、圧倒的な敗北の衝撃も徐々に鎮まり、今日の対局を碁盤に並べ、佐為と語り合っている。佐為もまた、衝撃から立ち直ったように見える。
《おもしれえ棋譜だな》
《はい、見慣れぬ石の流れです。美しいと言うのとは違う・・・・とても興味深いというか、謎めいているというか・・・・》
《そうだな・・・・しかし、強かったな。ほんとうに、碁を覚えたての頃、オマエと対局した時の感覚を思い出したぜ》
《わたしも、幼い頃、師匠に叩きのめされていた頃の感覚がよみがえりました》
《オマエにも、そんな時代があったんだな》
《それはそうです。生まれた時から碁の強い人などいません》
《アルファ碁って、開発されてから今の強さになるまで、何年だったんだろう》
《さあ、そいうことはさっぱり・・・・》
《まあ、オマエが分かるはずはないな・・・・エンジニアが『1ヶ月で人の2年分も3年分も進歩する』って言ってたけど、そしたら1年後にはどんなになってんだろう・・・・》
《この世の誰も勝てなくなってますね》
《それから先はどうするんだろう。この世の誰よりずば抜けて強くなって、それからさらに強くなろうとするんだろうか? なんのために? 競い合う者がいるんなら、もっと強くなろうと思うだろうけど、競い合う者がいないのに、なんのためにさらに強くなろうとするんだろう?》
《さあ、それは分りません》
《まあ、機械には心がないから「なんのために」なんて疑問も持たないんだろうなあ》
《あの者には心がないのですか?》
《そりゃあ、ないだろう。機械なんだから》
《それなら、会心の一手を打った時の喜びとか、相手に最善の一手を打たれた時の悔しさとか、自分と同じくらいの力量の持ち主と打ち合う時の楽しさとか、そんなことも感じないのですか?》
《たぶん、感じないだろう》
《それでは、いったいなんのために碁を打つんでしょう?》
《そんなこと、分んねえよ》
《そうですね。ヒカルに問うても仕方ないことですね・・・・ヒカルはいつだったか、子供たちに碁を打つ楽しさを教えたい、碁を打つのは幸せだと教えたいというようなことを語っていましたね・・・・そうそう、アキラに語っていたんです。4回目の北斗杯の後に》
《ああ、思い出した》
《たとえ、AIとやらが人間よりはるかに強くなったとしても、碁を打つのが楽しい限り、碁を打つのが幸せである限り、人が碁を打つのをやめることはないですね》
《そうだな》
《ヒカル、おじいさまの家の囲碁教室、これからもずっと続けてくださいね》
《もちろん、そのつもりだぜ》
そこでいったん話が途切れ、しばしの沈黙が流れる。佐為は思う。
〔ああ、できることなら、こんなふうにただ語り合っていたい。でも、それではいけない。わたしはもうじき消えてしまう。ヒカルにきちんと別れを告げないといけない。これまで止まっていた砂時計の砂が勢いよく落ち始めたのが分る。わたしに残された時間は少ない。ヒカルにきちんと別れを告げないと・・・・〕
それでも、佐為は決心がつかない。
《・・・・こどもの日のイベントは、あすではなくて、あさってですよね》
《そうだよ。今日はまだ5月3日だから》
《じゃあ、今夜は語り明かしませんか? 打ち明かすんでもいいですけど》
《打ち合いながら、語り明かそうか》
《ああ、それが一番楽しそう》
二人は碁盤をはさんで座り、碁を打ち始める。もう十何年もやってきたように、ヒカルは自分で石を打ち、佐為は扇で石を打つ目を示す。
《佐為、今夜はどうしたんだ? 寝ないでずっとこうやっているつもりか?》
《ヒカルが大丈夫なら、そうしていたいです》
こう語って、佐為は思い切って言葉を継いだ。
《残り少ない時間を、こうやって過ごしたいです》
《残り少ない?・・・・ひょっとして、今日の対局の後に「成仏」なんて言ってたけど・・・・》
ヒカルは視線を碁盤から上げ、佐為を見る。
《そうです。わたしの中で何か大きな力が動き始めたのを感じています。止まっていた時計が動き始めたような。どうやら、神様からいただいた千年の猶予期間が尽きるようです》
〔ああ、ついに、言ってしまった〕
《なにぃ!》
顔を引きつらせたヒカルを、佐為はできる限りのほほえみで見つめる。
《わたしは永遠にここに留まれる身ではないのです。わたしは、神の一手の行く末を見届けました。千年のワガママの目的が遂げられたのです。そして、この地上を離れてあの世で為すべきこともあります》
《為すべきことって?》
《虎次郎に詫びることです》
ヒカルは何も言葉が出ず、ただ佐為を見つめる。
《悲しまないで、と言ってもヒカルは悲しむでしょう。でも、やはり悲しまないでほしい。わたしは運命を静かに受け入れることにしたんです。それに、すばらしい運命でしたよ。あかりちゃんが語ってくれたように、千年も自分の夢を追い続けることができたんですから。そして、ヒカルと出会えたんだから。あかりちゃんとも。これまで十何年、とても楽しかったですよ。幸せでした。そして今日、うちひしがれたわたしを救ってくれました。あの言葉。おかげでわたしは心穏やかに消えていけるんです。ほんとうにありがとう》
ヒカルは、ただ佐為を見つめる。
《ヒカル、あなたが打つ番ですよ。これがきっと最後の夜です。「碁を打てれば幸せ」というヒカル、碁を打ち明かしましょう。涙がにじんで、打ち間違えないようにね》
《涙なんか、流してねえよ》
ヒカルは碁盤に石を置く。それを受けて、佐為が打つべき場所を扇で示す。またヒカルが打つ。静かに更けていく夜、石の音がパチリ、パチリと響く。佐為がしばし手を止めて碁盤を眺める。
《こうして見ると、ほんとうにヒカルの碁の中にわたしがいるんですねえ・・・・ヒカルの手筋にわたしの手筋が流れている・・・・》
そして、佐為が打つ手を扇で示す。時おり言葉を交わすけど、言葉を交わさなくても、碁を打ち合うだけで、心が通じ合う。
〔そうです。ヒカルと過ごせる残り少ない時間。こうやって碁を打つより以上の過ごし方はないはず。ヒカルもきっと分ってくれる・・・・〕
やがて初夏の短い夜が明け、部屋の中も明るくなり始める。
《ああ、夜が明けましたよ・・・・ヒカル、あすのイベントにもあのパネルは持っていくんですよね》
《もちろんさ》
《今、出してくれませんか。一緒に見たいです》
ヒカルは引き出しからプレートを取り出す。佐為はそれを見ながら優しくほほえむ。
《子供たちにとってはこれからもずっと、ヒカルは『サイとヒカル』のヒーローであり続けるでしょう》
《もちろんだよ》
二人はプレートの犀と太陽の絵を眺める。そうしているうちに、佐為の姿が徐々に薄くなる。
《佐為!》
《ヒカル、どうか悲しまないで。わたしは心穏やかに消えていくのです》
ヒカルが言葉もなく見つめる中で、佐為の姿が消えていき、しばらくその優しいほほえみの雰囲気がただよっていた。そして、それもしだいに薄くなっていく。
翌日、ヒカルはイベント会場にいつものようにサイとヒカルのプレートを掲げて入る。待ち受けた子供たちが
「サイとヒカル!」
と歓声を上げた。