あなたとの出会いが永遠でありますように
あなたの進む道を共に歩めますように
あなたの一番のパートナーになれますように
あなたの力になれますように
わたしの魂のかたちはいつも
あなたがくれた名前のままに
あなたに似合うわたしになれますように
ずっとあなたと一緒にいられますように
いつまでも一緒にいられますように
(作者不詳・私訳)
第一回 大迷宮
週末の大迷宮は冒険者たちで賑わっていた。
冒険者といっても、遺跡の探索で生活するプロ――いわゆる「職業冒険者」ではない。
普段は家を建て、パンを焼き、畑を耕して暮らす「日曜冒険者」だ。彼らは日々の仕事を終え、軽い運動でもしようと息抜きにやってきたり、休日に一汗流すためダンジョンに潜る。
服も特に重装備というわけではない。みな軽装で、せいぜい近くの山にハイキングに行けるくらいのもの――中には仕事着のまま来ている人さえいる――コック、メイド、石工、皮なめし職人、医者。なるほど、確かに仕事を終えてそのまま来るなら、着替えの手間が省けて楽だ。
それに、モンスターとの心躍る戦いに自分愛用の道具を使うこともできて、そのぶん冒険がしやすくなるのだろう。低層のレベルの低いモンスター相手では道具が傷むことなど――まして、自分の生命が危機にさらされることなど、ほとんどあり得ないのである。
もっとも、迷宮の奥深くに進むならそうはいかないが。
フリエ大迷宮第五層
拠点の出入り口で、三人の冒険者がひとかたまりになっていた。
「どうしよう、足が震えてきた」と少年が言った。「やっぱりまだ早いんじゃないかな」
「わたしも。引き返すなら今だと思うんです」少年と同い年らしい少女が言った。「この階層までは問題なく潜ることができました。それに、父と母と一緒に何度か来たこともあります」
「ぼくもそうです。第五層までは。子どもでも潜ることのできる、この階までなら。ハイハイするのがやっとっていう赤ちゃんでもない限りは、誰にだって難しいことじゃありません。でも、第六層となると――」
三人組のうち、二人はぼくより三歳年下で、たぶん
クラスはおそらくキャスタータイプ(注/魔術系下位クラスのこと)。まだ見ぬ新天地での冒険に怖じ気づいているようだった。そんな二人を一つか二つ年長らしい青年が励ましていた。
「大丈夫だって! 確かに六層からはモンスターが強くなる。迷宮だってどんどん広くなっていく。それでも俺たちはなんの心配もいらないさ」
青年は腰に差していたショートソードを、鞘に入ったまま二人に掲げた。
「なぜって俺たちには天からのギフトが備わっているからさ。人間なら誰でも持っている神様からの贈り物さ。俺たちはその力を使ってダンジョンに潜るんだよ。迷宮を進めば進むほど使える力も強くなるのさ」
「神様、ですか」少年が聞き返した。
「ああ、きみは神を信じていないかな。信じていなければほかの言葉を使って構わないさ。俺だって本気で言っているわけじゃないからな。
神を信じようがいまいが、俺がクラス・ファイターとして生まれたことは変わらない。
「自分との戦い」少女が繰り返した。
「そうさ。きみたちは十四歳になった。自分で考え、自分の行動に責任を持てる年齢になった。迷宮を冒険できるようになった。まともな人間に成長できる機会を手に入れた。
だったら挑戦しなきゃ。これは、きみたちのパパやママも超えた試練のはずだからな」
と言って勢いよく二人の背中を押した。二人が戸惑いながら振り向くと、青年は大げさに肩をすくめて見せた。
「だいたい、お前らはなんのために俺を雇ったんだ? 俺は二十層までたどり着いた冒険者だぜ。六層やら十層ぐらいのモンスターに手こずるわけないだろ? お前らが危険な目に遭ったら、ちゃんと助けてやるっての」それに、と青年は続けて言った。
「無理だと思ったら引き返せばいい。で、また挑戦すればいい。よく言うだろ? 逃げてもいい。なぜなら迷宮はどこへも逃げはしないからだ、ってな」
ぼくは拠点のデリカテッセンでサンドイッチを三人分買った。迷宮に潜り始めて七時間近く経っていた。二人のために少し休憩を取ったほうがいい。そう思ったのだ。
迷宮にはマナの流れが安定した場所が点在している。人々はこうした地点に陣地をつくり、冒険を進める。拠点によって設備は異なるが、大きなものでは一つの街と言ってもいい規模のものまである。
第五層の拠点の広さはそれほどでもない。だが、探索に役立つ施設はだいたいそろっている。武器屋、防具屋、道具屋、換金所――モンスターから得たマナの結晶を交換する――、弁当屋、宿屋、などなど。
冒険者にとって、迷宮での障害は大きく分けて二つある。
まず、ダンジョンは荒れ狂う川、ということだ。地上にもマナは存在するが、迷宮のマナは比べものにならないほど濃密だ。
火、水、土、風、光、闇、無。世界を構成する七つのマナ。迷宮ではそれが安定しない。一つの場所にとどまることをせず、空間を流れ続ける。だから、迷宮はいつも姿を変えて冒険者を惑わす。
遺跡に潜るたびに地形は変化するから、正確なマッピングは不可能。探索者は、激流の中を手探りで進まなければならない。
加えて、マナは力の源だから、凝縮して一定の濃度になればモンスターが
彼らとの戦いで命を落とす者は後を絶たない。自分の身の丈に合わない相手と交戦した者の場合は特に多い。深層に進むほどマナは濃く、一層は広大になり、敵は強大になる。
迷宮探索の基本である。
五層の拠点は、いわゆる【初心者の館】というやつだ。
初めての冒険に出る者たちが、最初の一歩を踏み出すために立ち寄る場所。
成人した者は誰でも――一部の例外を除いて――ダンジョンの五層より先に進むことができる。
今日もいつものように何組もの初々しい少年少女が、胸を期待と不安で踊らせながら、迷宮の石床を踏みしめ旅立っていった。ある者は経験豊富な冒険者を雇い、ある者は友人や仲間同士で、ある者は一人で。
まずは、第六層に続く階段を探す。その次は七層だ。モンスターと出会えば戦い、時には退却を繰り返しながら、一層一層着実に進む。
自分の成長を実感しながら、仲間との絆を深めながら。あるいは、遺跡の財宝を探しながら。
当面の目標は、迷宮第十層への到達だ。最低限そこまで進まなければならない。
なぜか? それができなければ、みんなに
二人は拠点を出てすぐの場所でぼくを待っていた。
「おかえりなさい、カイト君」彼女はにっこりと笑みを浮かべて言った。
「ええ、ただいま戻りました」
彼女の名前はナミ・ナカリエ。年齢は二十二歳と聞いている。
女性としては背の高いほうで、ぼくと同じくらい。黒のゆったりした足首まで届く、ノースリーブのワンピース姿だった。髪も服に近い黒。真夜中の空というよりは、夜明けにいくらか寄った感じの色だった。髪の長さは肩と同じくらいで、柔らかくやや幼げな顔立ちを、伸ばしたサイドの髪が飾っていた。
買ってきたチキンとザワークラウトのサンドイッチを彼女に渡した。彼女はぼくの手を包み込むようにしながら、パンの入った紙袋を受け取った。柔らかい、ひんやりした手だった。きちんと手入れされた爪にマニキュアは塗っていない。血色のいいピンク色だった。
「悪いわね、使いっ走りみたいなことをさせて」
「仕事ですから。気にしていません」
「それでもよ。わたしは十時間ここから動けない。マナの流れの遅い場所に行けば、その分だけ帰りが遅くなる。今何時かしら。そう、あと三時間ね」
「もう少しです」とぼくは答えた。「それでナミさんが人間であると証明されます。疲れてはいませんか?」
「大丈夫。ありがとう。仕事を受けてくれたのがあなたたちで、本当によかったと思っているわ。
十時間も迷宮に潜って、知らない人と過ごすのは気詰まりだったから。じっと待ち続けるのも退屈なんじゃないか、って思っていたから。そうならなくてよかったわ。カイト君と話すのも、レコちゃんと話すのも楽しいから」
「それはなによりです」と言った。それから、レコの方を向いた。
レコレート・レッドフォックス・フラムル。ぼくの
「ぼくがいないあいだに変わったことは?」
「特になし。一度だけモンスターが出たくらい。モンスターって言ってもバルーンだったけど。それはほかの冒険者が倒してた」
バルーンというのは低層によく出るモンスターのことだ。その名の通り空中を漂うだけで、こちらに攻撃してくるような実害はない。軽く殴ったり石をぶつけると、破裂して消え去ってしまう。五層までで
「では、時間までどうしましょうか。まずはサンドイッチを食べるとして。レコは?」
「今は食べない。あまりお腹もすいてないし。帰ってから食べることにする」
「このままここにいない?」ナミは言った。「なにか話でもしていましょう。サンドイッチを食べながら壁に寄りかかって」
「初心者の館の目の前で」と、ぼく。「これから冒険に行く子たちを眺めながら」
なんとも有意義な時間の使い方だと思う。一切の冒険をせず、ただ待ち続ける。
「それがどうかしたの?」
「いえ、特には。しまったな、椅子でも持ってくるんでしたね」
「椅子。ダンジョンの真ん中に?」
「できるだけ座り心地のいい椅子が欲しいですね。くつろげて、昼寝ができそうなくらいの」
あるいはピクニックシートとか。なんでもいいけど。
さっき見かけた冒険者たちについて考える。世界に生まれ落ちた全ての人間は、生まれつき一つだけ
ファイター、ディフェンダー、キャスター、スカウト(注/キャスターと同じく下位クラス。敏捷性に優れる)。あとはごく稀に
迷宮の冒険では、自分たちの
ファイターの青年はウォーリアーになるかもしれない。あるいはグラップラー? それともほかのクラス? 二人の少年と少女がキャスターならば、少年がソーサラーに、少女がヒーラーに? もしくは逆に少女がソーサラー、少年がヒーラーに?
そのためには、数多くの試練を乗り越える必要があるだろう。どこかで才能の限界を見極めなければならないかもしれない。結果、迷宮の深層に行くことは諦めて、そこそこの階層で我慢することになるかもしれない。探索自体をやめてしまうかもしれない。だが、人間ならば誰でも、自分の全存在を賭けた挑戦をする権利を持っている。
ぼくはなぜ、この仕事を引き受けたのだろうと思う。
あの男からの依頼は「彼女を見張ること」。迷宮の
レコと話すナミをそれとなく観察した。
ナミ・ナカリエ。
黒の大きな目。違う色も混じっているのだろうか。光線の加減で別の色にも見える不思議な目だ。髪の毛が少し波打っているのは、癖っ毛というより縛り癖だろう。普段とは髪型が違うのかもしれない。幼い顔立ちとは不釣り合いなほど大きな胸を持っているのが、盛り上がったワンピースから分かる。
ギルド発行の証明書によれば、彼女のクラスはキャスターで、最高戦績は第十層。動きやすさを重視した服装ではないから、キャスターというクラスはもっともだと思うが、どうだろう。
しかし、そもそもナミは動き回る必要はないわけだ。ぼくの仕事として、迷宮での彼女の護衛も当然含まれるからだ。だから、どんな服装で来ても問題はないし、書類を疑うのであれば、ファイターやスカウトである可能性も否定しきれない。彼女について知っていることはほとんどない。
彼女と目が合った。どきりとするような満面の笑みだ。
「わたしの顔になにかついてるかな?」
「口にサンドイッチのソースが」
「あら、ほんと」
彼女は舌を出して、ぺろりと口の端をなめた。とりあえず、彼女について分かったことが一つ。彼女はマスタードソースが嫌いではない。
なぜ依頼を受けたか。報酬がよかったのは確かだ。きれいな女性と一日ダンジョンに潜るだけの仕事としては破格の報酬だった。
ぼくのところに来た理由として、あの男は、ほかのリンカーに断られたからだ、と言っていた。
それはそうだろう。
それと、もう一つ大きな理由があった。レコが依頼を受けたい、と言ったからだった。
「カイト」
レコがぼくを呼んだ。
「異常がないかどうか、近くの見回りをしてくる」
「分かった。気をつけて」
「大丈夫。気をつける」
「それと、レコ?」
レコの体を、ささやき声で会話できる距離に引き寄せた。
穏やかだが意志の強さを宿した赤い目、赤色の切りそろえた前髪、頭から生える人間にはない
レコのあごを指でつかんで上に向かせ、目をのぞき込んだ。顔色は異常なし。目に充血や濁りはなし。
「迷宮に来てから七時間以上。これほど長く居続けるのは初めてだ。普通の
「大丈夫。分かってる。無理はしない」レコのキツネの耳がぴくりと動いた。「じゃあ、行ってくる」
太陽の光が届かないダンジョンだが、暗闇に閉ざされてはいない。空気に光のマナが含まれているからだ。
迷宮ではマナの流れが全てを支配する。光のマナがあれば明るく、反対に闇のマナが濃くなると迷宮は暗くなる。
迷宮の通路を歩くレコの後ろ姿を見送った。
「かわいい子ね」
「そうですね」
「素直で、頑張り屋で、頭もよくて」
「それに、彼女は天才です。冒険者として最高の才能を持っていると思います」
「あらあら。自慢の妹さんってわけかしら?」
「はい。彼女はぼくの自慢の妹です」
「あらあら」
ナミは微笑ましいものを見るようにぼくを眺めた。レコは、彼女が誰かに似ていると言った。誰に似ているのだろう?
「生まれは聖都でしたね」
「ケントロン。神聖で偉大な王のまします馬鹿みたいに大きな街ね。いや、正確に言えば少し違うんだよね。わたしが生まれたのは、聖都近くの小さな村だから」
「そうなんですか」
「人に聞かれたときはいつも言うのよ。わたしの生地はケントロンです、って。変なものよね。だけど、誰も知らないでしょ? 都の添え物みたいな村のことなんて。それでも、小さい頃から聖都にはよく行ったわ。懐かしいわね」と言って、彼女は一瞬、遠くを見るような顔をした。
「ナミさんはずっと生まれた村に?」
「いいえ。何度か引っ越しをしてね。でも、あまり遠くには行かなかったわね。そういえば、カイト君も昔、聖都にいたことがあるって言ったかしら」
「一年だけですが」
「それじゃあ、どこかですれ違ったことくらいあるかもしれないわね」
「そうかもしれませんね。ヴァレリーさんと出会ったのは――」
「ケントロン。ふふ。なんだか質問攻めね。これも依頼のうちなのかな? いいわよ。なんでも答えてあげる。彼のお父様が疑うのも当然だと思うもの。わたしには身寄りがない。身元を保証してくれる人もいない」と彼女は言った。「もしかしたら人間ではないかもしれない。そう考えるのが自然よね」
「息子の結婚相手がはぐれかどうか、タメルランさんには重要なことのようでした」
「そうね。だからこんなにも長い時間、あなたたちを拘束することになってしまった。ごめんなさいね。いえ、彼にとって大切なことはたぶん違うのよ。
彼が重要と思っているのは、自分がはぐれの親族になってしまうこと。それ以外はどうでもいいのよ。ヴァルが家を出て、冒険者になってからずいぶん経つもの。六、七年くらいかしら。その間、父親とは一度も会っていないかもしれないわね」
「親子仲はあまりいいほうではないようですね」
「さあ、どうかしら」彼女は迷宮の壁に視線を這わせながら言った。「ヴァルから父親についての話はほとんど聞いていないから。でも、そうね、少なくともヴァルがお父様の肩たたきをしている姿は想像できないわ。彼とはまだ会っていないのよね?」
「はい。ヴァレリーさんとは会っていません」
「彼は裏表のない、まっすぐな冒険者よ。そういう人がお父様と話せば、なにかしらの衝突は避けられないと思うわ」
「ナミさんはどうですか?」
「わたし?」
「あなたはタメルランさんについてどう思っていますか? 彼が結婚を許せば、ナミさんは彼の義理の娘になります。そのことについてどう思いますか?」
「そういえばそうね。考えたことはなかったけど。ちょっと待って」彼女は首をかしげてみせた。「お父様に対してわたしがいい印象を持っていないのは確かね。彼って極端だもの。
そういう人って珍しくはないけど。はぐれは普通の人間じゃない。われわれと違う邪悪な存在である。あの異様な光を放つ目を見よ、肌の色を見よ。あのとがった耳の形はなんなんだね? おやおや、なんと尻尾まで生えているではないか」
「あなたはどう思いますか?」
「彼らはモンスターじゃないわ。わたしたちの隣人よ」彼女は迷いなく答えた。「同じ言葉を話し、同じものを食べ、恋だってするただの人間よ。リンカーと契約さえすれば、人の姿を保ったまま迷宮を冒険することもできる。わたしたちとなにが違うっていうのかしら?」
「そうですね」
「だけど、わたしたちが結婚しても、お父様と一緒に住むってことはないからね。関係ないと言えばそうかな。彼は、どこの馬の骨かも分からない人が、自分の生活圏にいるのを好まない人よ。たとえ、わたしがはぐれでなくてもね」
「それでも挨拶には行った」
「まあ、けじめを付けるってやつかしら。ほんとは行かなくてもよかった気がするけど。お父様は家出した根無し草のならずもの冒険者に、あまり関心を持っているようには見えなかったから。ヴァルは次男だしね。だけど、彼は知り合いになっておくだけで利点のある人物だったから」
「というと?」
「彼はかなりの富豪だもの。そういう人って便利なのよ。特に、なじみのない街で暮らし始めようとする、わたしみたいな人間には。
あなたはどこの誰? ああ、あの方のことはよく存じ上げておりますよ。
ナミと申します、以後よろしくお願いしますわ。
これだけで、わたしはどこの誰かも分からない人間じゃなくなる。本人と仲良くなるのが一番だけど、できなくても別にいいの。富める者の取り巻きになってもいいし、取り巻きにさらに群がる虫になってもいいってわけ」彼女はため息をついた。「なんだかつまらないことを話しているわね、わたし」
「そうでもありませんよ」
「いいえ、つまらないわ」サンドイッチの包み紙を丸めながら言った。「もっと楽しい話をしましょう」
「楽しい話?」
「たとえばカイト君、あなたのこととか」
「ぼくですか?」
「わたし、あなたに興味があるわ。あなたはリンカー。すべてのはぐれと、ほとんどの冒険者にとって憧れのクラスよ。きっと色々な冒険譚があるんじゃないかな」
「さあ」
特殊クラス・リンカー。自らは闘う力を持たない唯一のクラスだ。はぐれと契約し、彼らを使役するスキルを持つ。並の人間が持って生まれる、四つの下位クラスに属さない例外中の例外。生まれつき備わった天賦の才。もっとも運命に愛された者たち。
「ぼくはただの人間ですよ」
「リンカーはみんなそうなんじゃない? 彼ら自身は、たいした力を持たない普通の人間だわ。大きな岩を持ち上げられるわけではない。早く走れるわけでもない。代わりにはぐれの力を借りて、誰よりも深い階層まで潜っていく。それがリンカーというクラスよね?」
「まあ、そうです」
ぼくは下を向いた。サンドイッチが手つかずのままだった。口を開け、流し込むように食べた。飲み物もなにか買ってくるべきだったかもしれない。彼女は怪訝そうな顔でぼくを見た。
カイト・ミリスというのが、ぼくの名前だ。
人はみな、なにかのクラスとして生まれる。自分が何者かを規定する名前。迷宮を探索する力を示す名前。そこに
つまり、人間は三つの名前を持っているのだ。両親というものが存在しない通常の
「ところでカイト君」ナミが言った。「さっきから変な感じがしない?」
「変な感じですか?」
「うまく言えないんだけど、なんか嫌な気配っていうか。肌がぞわぞわするというか、見えないなにかに圧迫されているような。そんな感じしない?」
ぼくは辺りを見回した。初心者の館にほど近い迷宮の通路。遮蔽物はなく、見通しはいい。近くに冒険者の姿は見えない。
三十メートルくらい先に曲がり角がある。物音も特にない。いつも通りの大迷宮だった。ナミが言うような異常は感じない。
彼女にはどこか話をそらしたがっている節があった。それがなぜなのか分からなかった。
だが、言われてみれば確かに、迷宮の空気が暑くなっているような感じはする。もしかしたら火のマナが強くなっているのかもしれない。レコはまだ戻っていなかった。
濃いマナの元では突発的な事故が起こりやすい。モンスターが出現するのはだいたい、こういう条件下だ。
予定よりも早いが、レコが来たら地上に帰したほうがいいかもしれない。
といってもモンスターが問題なのではない。五層の敵はバルーンみたいなものばかりで、軽く対処できるレベルだ。それよりも問題なのは――。
だが、今のところ敵の姿はない。ぼくは彼女に質問を続けることにした。
「あなたとヴァレリーさんの関係ですが――」
「カ、カイト君」
彼女が指さす方向に振り向いた。三十メートル先の曲がり角。
そこにサラマンダーがいた。
大きさは仔牛くらい。頭に二本の角、体が赤い鱗に包まれた、四つ足のトカゲのようなモンスター。全身に炎をまとっている。
五層に出るモンスターじゃない。ナイフを構えて彼女の前に出た。
「下がっていてください」
サラマンダーがぼくを見た。ギザギザした牙を見せ、獰猛なうなり声を発した。目が悪意に満ちた光を放っている。
尻尾を震わせ、今にも飛びかかってきそうだ。握ったナイフがいかにも頼りなく感じられた。
まずいかもしれない。モンスターの強さには個体差があり、見た目ではレベルが分からない。
この敵はどうだろう。
イレギュラーなエンカウントとはいえ、この階は第五層だ。だから強さもそれほどではないかもしれない。しかし、絶対にそうだとは言い切れない。
運が悪ければ、圧倒的な力量差のあるモンスターと遭遇することもあり得る。
サラマンダーがこちらに踏み出してきた。
やるしかない。
襲ってくる敵を迎え撃つ体制をとった。
サラマンダーの鱗は高い防御力を持つ。ぼくの力で傷をつけるのは難しいと思う。
狙うなら腹。後ろ足で立ち上がって守りの薄い腹部を見せた所を刺すか、胴をひっくり返して寝技に持ち込む。
どちらにせよ格闘戦になる。
相手の牙やとがった爪に対して、こちらの防御力はゼロだが。ついでに言えば、敵が全身にまとう炎もきっと熱いことだろうが。
サラマンダーがさらに進んできた。
しかし予想に反して、三メートルほど離れたところで相手は止まった。
大きく口を開け、空気を吸い込んだ。
避けられるか? 無理だ。距離が近すぎる。それに、後ろにはナミがいる。避けることは許されない。
ぼくは炎の直撃を受けることを覚悟した。
だが、そうはならなかった。
ぼくの横を素早い影が通り過ぎた。
影はモンスターのところまで飛び込み、ナイフで敵の脳天を突き刺した。
一瞬だった。
相手はなにが起こったのかも分からなかったのではないか。
サラマンダーはうめき声を出した。が、動くことはできず、ぐらりと崩れ落ちた。
モンスターを倒した少女は、苦しそうに肩で息をしていた。
きっと全力で走ってきたのだと思う。サラマンダーは音を立てて破裂し、体を構成していたマナは迷宮の流れの中に戻っていった。
黄色いリボンで結わえた、少女の赤い髪が風で揺れた。
モンスターのいた場所には、結晶化したこぶし大のサラマンダーソウルだけが残っていた。
「カイト」レコが言った。「ケガは?」
「いや。助かった」
「よかった」荒い息のまま言った。「カイトになにかあったら、わたし、どうしようかと」
「ぼくのことはどうでもいいよ。それよりも――」
レコがこちらを向いた。顔色が悪すぎる。呼吸が異常に乱れている。目の焦点が合っていない。体がふらついた。
「レコ!」
ぼくの間違いだった。レコを連れてくるべきじゃなかった。そうでなくても、もっと早く地上に帰すべきだった。レコの体はそのまま横に傾き、そして倒れた。