家に戻るのは久しぶりだった。
この家を出てから二年近く経っている。その間、建物の前を通ることは数多くあっても、中に入ることは一度もなかった。
ハワード・フラムルの家は、ぼくがここを出たときとなにも変わっていなかった。
ハワードは世界的なリンカーだ。
以前、彼はこの家よりも大きな私邸で数多くのはぐれと共に暮らしていた。従魔や召使いを何十人も従える生活をしていた。
ハワードがその生活を変えたのは、彼の一番のパートナー、第一従魔のルシア・レッドフォックスが子を
はぐれが子を成すことは珍しい。まず、はぐれは同種族の伴侶を見つけなければならないのだが、これが非常に難しい。はぐれの数は人間よりも圧倒的に少なく、種族の数も何百と分かれているからだ。
加えて、はぐれは受精の確率も人と比べて格段に低い。それが他種族間になると、可能性はほぼゼロだ。
だから、はぐれのあいだではこう言われている。
自分のパートナーを見つけられるはぐれは幸せ者だ。相手が魔物使いであれば、その者はさらに幸運なはぐれだ。その上、魔物使いとのあいだに子を授かることができたなら、その者は伝説的な幸運を手に入れたはぐれなのだ、と。
実際、ルシアが手に入れたのは、とても幸せな夫婦の生活だった。普通のはぐれには望めないほどの幸福に満ちあふれた暮らしだった。
ハワードも、ルシアが妊娠していることが分かると、彼女をそれ以前よりもっと大切に扱うようになった。
従魔として仕えていた頃よりも、ルシアは彼にとって
彼は魔物使いとして迷宮を探索することを止め、ルシアと生まれてくる子どものために新しい生活を始めた。家族三人だけの、ありふれているが満ち足りた暮らしをすることになった。
ハワードは、それまで趣味で描いていた絵画を本格的に始めて画家になった。滅多に作品が売れない画家に。
ときおり家族と一緒に旅に出て、絵の着想を探したり、冒険者としての経験を生かした仕事の依頼を受けることもあった。
そうした暮らしは二年前、彼が雪崩に巻き込まれて亡くなるまで続いた。
あの日は、寒くて雪が降っていた。ぼくとレコはこの家で、冷たくなった彼の帰りを待っていた。
暖炉に火を付けることも忘れ、二人一緒にリビングの
レコはずっと泣いていた。ぼくはレコの手を握りながら、どうにかしてレコを慰めなければと考えていた。
部屋の中央にはモラリアのギルド長、エレノアがいて、
それは地震が原因の事故だった。
二人は雪山に、冬だけしか育たない薬草を採集するために出かけていった。
ぼくたちは家で留守番をし、二人の帰りを待っていた。彼らの仕事について行かないとき、ぼくたちは旅の思い出話を聞くことをいつも楽しみにしていた。
二人だけの旅は、家族四人で出かけるときよりも恋人同士の親密さに満ちていて、話を聞いているこちらも幸せな気分になるのだった。
ルシアの黒い喪服には雪が積もっていた。赤い髪も、いつも彼女が大切に首に巻いている小麦色のスカーフも雪で白く染まっていた。
ギルド所属のはぐれたちがハワードの
エレノアがルシアの前に仁王立ちになった。
ルシアは顔を伏せたままなにも言わなかった。しばらく誰も言葉を発しなかった。冷え切った静寂が辺りを支配した。
エレノアがルシアの顔を平手で叩いた。部屋に乾いた音が響いた。エレノアの肩は怒りで震えていた。
ごめんなさい、とルシアは消え入りそうな声で言った。
従魔は自分の仕える主人を守る使命を持っている。ときには自らの命を賭してさえマスターを守る。
何らかの脅威に遭遇したとき、従魔ならばマスターの身の安全を第一に考えなければならないし、自分だけが無事に助かることなどあってはならない。まして主人のパートナー、第一従魔であれば、それは絶対に許されない。
たとえ迷宮に潜っていないとき、地上で活動しているときであったとしても。
二人が主従契約を結んだ以上の関係、夫婦になっていたとしても。
ハワードの葬儀にルシアが出ることはなかった。ルシアはその日のうちに街を離れることになった。主人を失った責任をとる必要があったからだ。
彼女は街から追放され、贖罪の旅に出ることになった。その罪はいつ消え、また、誰から許されたらいいのだろうか。
その後のルシアの行方は誰も知らない。
レコは自分のベッドで静かに眠っている。
大迷宮でレコが倒れたとき、ぼくはすぐ
アリアドネという呼び名は、かつての文明で伝えられていた神話に由来する。
英雄テーセウスは怪物ミノタウロス討伐の任を帯び、雄牛の迷宮へ
帰還の水晶球は、使用すると一瞬で地上に帰ることができるマジックアイテムだ。レコは意識を失っていて、ぼくの呼びかけに全く反応しなかった。レコの体はひどい高熱を発していた。
あと少し遅れていたらどうなっていてもおかしくなかった、と医者は言った。
レコの熱は下がって顔色はだいぶよくなっていた。呼吸に合わせて木綿の掛け布団が薄く上下していた。
水玉模様のパジャマ姿。いつも髪を結んでいるリボンはサイドテーブルに置いてある。
ぼくはベッド横に運んだ椅子に座っていた。
この部屋はいつも綺麗に整頓されている。落ち着いた色の壁紙とカーテン。本棚には本がジャンルごとに並べられてぎっしり詰まっている。可愛らしい小物はあまりない。
壁には額縁に入った絵が一枚掛かっている。複雑な模様が多くの色を使って描かれた抽象画で、全体としては力強い印象を受けるが、同時に
サイドテーブルのリボンを広げた。
四角い黄色のハンカチだ。レコはいつもこれに髪ゴムを付け、リボンとして使っている。
淡い黄色で派手なものではない。ひらひらしたレース飾りもなく実用的なデザインだ。ハンカチの隅に一つだけ、デフォルメされたキツネの
レコにハンカチを贈るようになったのは何年前のことだろうか。
ぼくは村の家へ十一年前に引き取られたのだが、年に何度かハワードの住むこの街を訪れることがあった。
彼らはぼくを特別な才能を持った人間と考えた。自分自身が強い力を発揮するわけではないが、はぐれたちの力を引き出して活躍する、魔物使いの才能があると思って身寄りのない子どもを引き取った。
彼らにとってぼくはリンカーだったし、そうでなければならなかった。
なんの力も持たない人間なんていない。この子の才能は眠っているだけなのだ。素晴らしいリンカーに師事すれば、その力はきっと目覚めることだろう。
ぼくたちは数日で村に戻ることもあったし、一人だけフリエの街に残され、数ヶ月ハワードの家で過ごすこともあった。
あのときレコは五歳だったから、ぼくは九歳ということになる。
その当時、熱狂的な支持を集めていた演劇で、主人公の騎士がヒロインのお姫様にハンカチを渡すシーンがあったのだ。
戦場へ参じる彼は、想いを彼女に告げると共に帰還の約束をする。その場面が話題を呼び、フリエの街ではハンカチを贈ることが流行していた。
もっとも、都会の流行は移ろいやすく、五年も経たないうちに下火になってしまったけれど。
ぼくは
しかし、それはどうしてもできなかった。ぼくはリンカーではなかったから。彼らがリンカーとしての才能に期待している以上、魔物使いになれなければぼくに価値などなかったから。
誰もがうらやむほどの冒険者になるリンカーが、自分の、あるいは自分たちの娘の相手として釣り合うと考えているのは明らかだったから。
だから渡さずに捨ててしまおうと思っていた。
少ない小遣いで買ったハンカチだったが、村に帰るまでにどこかに捨てていこう。
どうせ家に戻っても、また駄目だったと、リンカーにはなれなかったと言うだけなのだ。
幸い、捨てる場所を悩む時間はたくさんあった。村への道すがら、一人で荷馬車に揺られているあいだずっとあるのだった。
そうしなかったのは、レコにハンカチを渡したからだ。
街に来たときはいつもこの家に世話になり、レコとは兄妹のように過ごしていた。それはぼくが拾われた六歳の頃から続いていた。
ぼくは、ハワードの家を訪れることを楽しみにしていた。夫婦二人に会えるのも、レコに会えるのも、毎日指折り数えて待つくらい楽しみなことだった。
レコはいつもぼくの後ろについて歩いてきたので、そういうときは相手になって一緒によく遊んだものだった。
ぼくが村に帰る日、レコはぼくと離れたくないと駄々をこねた。
それはぼくも同じだった。できることならこの街に残りたいと思っていた。
だが、ぼくの家はここではなかった。帰りを待っている人がいるかどうかは別にして。
だから、ぼくはレコと約束をすることにした。
ハンカチを渡して、舞台の一場面のような再会の約束をした。捨ててしまうよりいいと思ったからだ。もし、少しでも喜んでくれるならその方がいいだろうと。
レコはぼくが考えていたよりも、ずっと喜んでくれた。花の咲いたような満面の笑みを浮かべてハンカチを抱きしめていた。
次に会ったとき、レコは同じハンカチを身に着けていて、とても大切にしているらしいことが分かった。
ぼくはそれがすごく嬉しかった。
ハンカチを畳んで元の場所に戻していると声がした。
「お兄ちゃん」
レコはぼくと二人きりのときしか、ぼくを「お兄ちゃん」とは呼ばない。ぼんやりと目を開けてこちらを見ていた。
「おはよう、レコ」
「お兄ちゃん、わたし――」
はっとした様子で飛び起きようとするのを抱きとめて制した。そして、横になっていていいよと言った。
「わたし、どれくらい寝てたの?」
「三日は経ってない。倒れたとき、高濃度のマナに
それで丸一日解毒治療を受けてから家に戻った。意識はずっと回復しなくて、昨日の夜一度だけ目が覚めた。
それからまた眠って――だいたい六十時間くらいかな」
「そんなに――ごめんなさい」
「いいよ。意識が戻ってよかった。今の調子はどう?」
「少し熱っぽい。あと、体がだるくて重い感じがする」
「そうだね、ちょっと熱があるかな。かなり重い症状が出ていたから無理もないけど。医者が言うには、あと一日くらい風邪に似た状態が続くそうだ。
しばらく安静にしていたほうがいいかな。なにか飲む?」
「ん」レコは頷いた。「あ、お兄ちゃん」
「どうかした?」
「どこもケガしてない? わたし迷宮で倒れちゃったから心配で。
あのとき出てきたモンスターは一体だけだった? わたしが倒れたあと、もし――」
「大丈夫だよ。出現した敵はサラマンダーだけだった。ケガはしていない」
「そっか、よかった。――わたし、なにか変なこと言った?」
「いいや。昨日の夜、起きたときも同じことを言っていたなと思って。憶えてない?」レコは首を振った。
「ずっと昏睡状態が続いていてね、なにを呼びかけても全く反応しなかったんだ。
それで手を握りながら看病してたんだけど、昨日やっと意識が戻って、そのときも言ったんだよ。お兄ちゃん、ケガは? って」
「そうなんだ」
「その後もうなされていて。心配したよ。すごく悪い夢を見ているみたいだった」
「ずっとついていてくれたの?」
「ずっとじゃないよ。キキさんと交代で看ていたから。それと、レコが解毒治療を受けている最初のあいだもね。迷宮に戻って数時間と、地上に戻ってあれこれの雑事を片付けているあいだは。
――受けた依頼は無事終わったよ。報酬ももらった」
「そっか」
レコはぼくを見つめた。ぼくもレコを見つめた。しばらく二人ともなにも言わなかった。レコは言った。
「悪い夢を見ていた気がする」
「どんな?」
「お兄ちゃんがいなくなっちゃう夢。お兄ちゃんがどこかへ行って、わたしは追いかけようとするんだけど、全然追いつくことができないの。
お兄ちゃんの背中に待って、って叫んでも、どんどん遠く小さくなっていっちゃって。そんな夢」
「ここにいるよ」レコの頭をなでた。
「うん、そうだよね」気持ちよさそうなとろんとした目をして言った。「お兄ちゃん」
「どこにも行かない」
台所で紅茶のお湯を沸かしているあいだ、自分の部屋に入った。ぼくがこの家にいるとき使っていた部屋だ。
室内にはなにもなかった。抜け殻のような部屋だった。自分の荷物は全て今の事務所に運んでいた。たいした量の荷物ではなかったが。
部屋は綺麗に保たれていた。ベッドもしっかり整えられていた。
キキさんが掃除をしているのだろうか。
キキーモラのキキさん。メイドのキキさん。彼女はぼくがこの家を出る際、スカウトして無理に連れてきたはぐれモンスターだ。
レコ一人で家に残すわけにはいかなかったからだ。この家にはレコと、住み込みで働く彼女が二人だけで暮らしている。
彼女の本名はぼくもレコも知らない。
彼女にも遠い昔仕えていた主人からもらった名前があるはずだが、ぼくたちはそれを聞こうとは思っていない。
キキーモラというのは普通、仕える家は生涯一軒だけと決める種族だ。
彼女は自分の名前を捨ててしまったのだろう。主人が亡くなり、家も没落してばらばらになってしまったときに。
彼女の
紅茶にミルクを入れ、砂糖を多めに加えた。ぼくの分は砂糖を入れず、スプーンで軽くかき混ぜた。
レコは近頃、だんだん女の子らしい体つきになってきたと思う。
母親から生まれる、地上育ちのはぐれの成長速度は普通の人間と変わらない。ただ、それも十四歳辺りまでのことだ。
その後は人間よりもとてもゆっくり育ったり、種族によっては完全に止まってしまったりする。
レコの場合はどうなのだろう。
レコの目のまわりはハワードに似ているが、それ以外は母親似でルシアとそっくりな顔つきをしている。横に並べば年の近い姉妹に見えるはずだ。
レコは普通の人間と変わらず成長していくのか、それとも普通のレッドフォックスのような時の流れを過ごすのか、それはまだ分からないことだった。
トレイにカップを二つのせて部屋に戻った。
レコはハンカチを広げて愛おしげに眺めていた。ぼくを見るとハンカチを畳んで枕元に置いた。
サイドテーブルにトレイを置き、カップを手渡した。「熱いから気をつけて」
「うん、ありがと」レコはカップを受け取り、時間をかけて一口飲んだ。ぼくも椅子に座って同じように飲んだ。
自分の分を飲み終えて、しばらくレコを観察した。レコがミルクティーを飲み干し、一息つくまで待った。
「それで、聞かせてくれるかな。どうしてタメルランの依頼を引き受けると言ったのか」
「もちろん、お金のため。彼の依頼はお金になると思ったから」
「確かに報酬はよかった」
「だから。別にもらって困るものではないし。来月の事務所の家賃とかもあるからね」
「今月の家賃じゃない分、半年前の財政状況よりずっと良いとは言えるかな」
「そうだね」
「依頼を受けるという言葉をタメルランが聞きつけ、ぼくらは仕事をすることになった。彼は中々耳ざとかった。ただのささやき声でさえ聞き逃さなかった。
でも、ぼくは彼の頼みは断るつもりだった。それは分かっていたはず。どうしても仕事をしなければならないほど、事務所にお金がないわけではなかった。なぜ?」
「わたし、
「なにが欲しい?」
「迷宮拠点を一つか二つ。拠点の経営とかやってみたいな、と思って。
どんな施設を入れようかとか、利用料いくらにしようか、とかそういうの。管理権を買うにはお金がたくさんいるから」
「ふうん」
「それと、彼はほかの人から依頼を断られて困ってるみたいだったから。わたしたちが引き受けなければ、また違う人を探さないといけないんだろうなと思ったから」
「彼は思わず力になりたくなるタイプの人だったよね」
「そうかなあ」
「理由はその二つ?」
「もう一つ。わたしが迷宮にどれくらい潜っていられるのか知りたかったから。
人間の血が半分流れている分、活動可能な時間も長いのかもしれない。お兄ちゃんと迷宮で冒険できる時間が知りたいと思ったから。
わたしが倒れたのは七時間と少し経ったときだったっけ。
じゃあ、普通のはぐれより少しだけ迷宮に長くいられるみたいだね。はぐれが五時間以上潜り続けることのできた例は報告されていないから」
「なるほどね。それじゃあ、たくさん稼いでいかないとね。迷宮拠点をいくつか買うために。いくらかかるか知らないけど」
「わたしも知らない」
「一緒にがんばっていこうか。そのいくらかかるか分からないもののために」
「うん。がんばろ、お兄ちゃん」
ぼくたちはしばらく顔を見合わせ、それから同時に笑った。
「最初の二つは完全に嘘だね」
「もちろん。――やっぱり、耳動いてる?」
「少しだけ」
レコはあまり感情を表に出す方ではない。打ち解けた相手には豊かな表情を見せはする。
しかし、普段は誰に対しても礼儀正しく振る舞い、思っていることをそれほど口にするわけではない。つらいことがあっても内に秘めてしまうタイプだ。
だが、キツネの耳と尻尾はそうではないようだ。
レコ本人よりも耳と尻尾は素直に動く。とても嬉しいことがあったとき、尻尾は嵐の日の風見鶏並みに振られるし、警戒しているときはピンと伸びる。
嘘をついたり隠し事をしようとするときも同じで、緊張が耳に現れやすい。
実際、大迷宮でもそうだった。
「少しまじめに話そうか。いいかな?」
「いいよ、カイト」
レコはぼくの呼び方を「お兄ちゃん」から名前に変えた。それは一緒に働く仕事仲間としてのスイッチだ。ぼくも意識を切り替える。
「それで、本当の理由は?」
「ナミさんなんだけど」
「うん」
「彼女を見たとき、すごく変な感じがしたの。どうしてそう感じたのか、うまく説明できない。
彼の依頼はナミさんの正体を見極めることだったから、わたしは彼女の気配を探ろうと思った。
はぐれは、相手がはぐれなのか人間なのか、一目で判断できる。見た目の違いがなくても、帽子とか厚手の服ではぐれの特徴を隠していても、それは分かる。
身体にまとっているマナの気配が、普通の人と少しだけ違うから。
だから、ナミさんがはぐれかどうか調べようと思って――」
「彼女を見た。彼女ははぐれモンスターだった?」
「違うと思う。はぐれモンスターって気配はしなかった。
それは彼女が人間ってことなんだけど、なんていうか――。はっきりしない、ぼやけた感じの気配だった。
だから、依頼を受けると言ったとき、もしかしたらと思っていたことはあった。わたしと同じはぐれなんじゃないかって。
でもそれはありそうにないことだから。わたしみたいなはぐれには一度も会ったことがないから、その可能性は低いと思った。
だったら、ナミさんは気配をごまかす技術に長けたはぐれモンスターということになる。そういう人が、今回の依頼主みたいな人に正体を知られるのはいいことだとは思えない。
もし彼女がはぐれなら、ほかの人には任せないほうがいいと思った。特に、彼と考え方が近い人には」
「それは同感だね」
「わたしが依頼を受けようと言ったのはそれが理由かな。でも、言ったのは間違いだったと思ってる」
「間違い?」
「カイトが断ろうとしていたのは分かっていたから。わたしが勝手に喋るべきじゃなかったと思う。
それと、あの人に聞かれたのも。馬車の外に出ようとしていて、こちらに注意を払っていないと思ったから」
「いや、いいよ。きみはぼくのパートナーだ」
レコはぼくの大切な妹で、同時に仕事の相棒でもある。それはぼくが事務所を開いたときからずっと続いている。「だから、きみが依頼を受けたいと言うなら構わない」
レコの目を見て言った。レコもぼくを見つめ返した。それから、ぼくは笑って見せた。
「そもそも、来月になったら家賃を払う必要があるわけだし。それと、毎日食べていける分も。
それと比べれば、依頼主の好き嫌いなんてたいしたことじゃない。気にしなくていいよ。分かった?」
「ん」レコは答えた。
「それより、もう一つ聞きたいことがある」
「聞きたいこと?」
「迷宮で異変を感じたのはいつのことだった? マナの変化を感じたから、きみはぼくたちの周囲を見回ろうとしたと思っているんだけど」
「わたし、カイトにどうやって嘘つけばいいのかな?」おかしそうに言った。
「あのときも耳が動いてたんだね。そうだね、カイトが拠点に買い物へ行ったぐらいのときかな。マナの流れが変わった感じがしたのは。
危険なことが起こる前兆ってわけでもなさそうだったけど、少し辺りを調べてこようと思ったの」
「ぼくはあのとき、もしかしたらきみは、自分の限界ぎりぎりまで迷宮に留まるつもりなんじゃないかと思った。自分がどのくらい迷宮にいられるか知るために」
「さすがにそこまでするつもりはなかったよ。わたしの活動可能な時間は知りたいと思っていたけど。
ナミさんの見張りを契約通りに十時間。体の調子が悪くなったら無理しないで地上に帰るつもりだったし。
できることなら二人の護衛を時間いっぱいまで続けようとは考えていたけど」
「そう?」
「本当だってば。倒れるまでがんばるつもりはなかった。
でも、カイトたちから離れて迷宮の通路を歩いているとき、いきなり雰囲気が変わった。
火のマナが空間に満ちて渦巻いていた。すぐに元の場所に戻ろうと思った。
だけど、マナの流れが速くなったことで通路の構造が変わっていて――」
「こっちの方でも変化があったみたいだ。サラマンダーが出現したとき、通路に他の冒険者の姿はなかった。
だけど、本来ならそれはおかしい。ぼくたちがいたのは拠点の出入り口近くだったから、辺りに誰もいないということは普通ないはずだ。たぶん、怪しい気配を感じてみんな避難していたんだろう」
「わたしはカイトを危険にさらした。離れるべきじゃなかったと思う。ごめんなさい」
「迷宮探索にはアクシデントがつきものだよ。五層に強いモンスターが出てくることも、稀ではあるけどないわけじゃない。一年に数回あるかないかぐらいだと思う。
それは誰にも予測できないことだし、レコに責任があるわけじゃないよ」
「そうかもしれないけど」
レコは目を伏せて、じっと床を見つめた。自分の行動の是非について考え込んでいるようだった。
ぼくが口を開こうとしたときレコは言った。
「ナミさんははぐれモンスターじゃなかったんだよね?」
「そうみたいだ。十時間ずっと迷宮に居続けたけど、何の異常も見られなかった。
体温、脈拍ともに正常。彼女がはぐれならそんなことはあり得ない」
「わたしは七時間で倒れた。倒れるまで急速に悪化したのは、あのときサラマンダーにとどめを刺して、吹き出したマナをまともに浴びたから。
だけどそれがなくても、あまり長く迷宮にいられなかったと思う。あのサラマンダーくらいのモンスターが出るマナの中にいたら、どんなはぐれにも影響はあるはず。
だから――。うん、彼女は普通の人間だってこと」
「でも、きみが感じた違和感の問題があるよね。彼女のはっきりしない気配」
「うん。だけど、今思うとそれは気のせいだったんじゃないかとも思う。
単に彼女の調子が悪くてそういう気配になっていたのかもしれないし、ぼやけた感じがしたのもわたしの勘違いだったのかもしれない」
「それでもきみは気になっている」
「ん」
ぼくは言った。「よし、じゃあ少し調べてみるよ。もしかしたらなにか秘密があるのかもしれない」
「わたしも――」
「いや、休んでいていいよ。ぼくだけでどうにかできると思う。たぶんそれほど時間もかからない。
もちろん、手に負えそうになかったらアズたちの力も借りるけど」
「気をつけてね、お兄ちゃん」
ぼくはレコの手を握り、ベッドに寝かしつけた。
レコは素直に従った。まだ体の調子が戻りきっていないのだろう。ぼくは微笑みかけ、ドアの方に向かった。
そこで思い出した。
「そうだ、忘れてた。彼女のことなんだけど」
「ナミさん?」
「彼女が誰かに似てるって言ってなかったっけ。誰に似てる?」
「あ、それは――」
レコははっとした顔になった。そしてしばらくためらい、とても言い出しにくそうな顔をした。
ぼくは目で促した。すると言った。
「お姉ちゃんに」
「――マリカに?」
レコの言った「お姉ちゃん」は、ぼくの
「そう」
「似てる、かな」
「顔が似てるってわけじゃないけど――なんていうか、雰囲気が」
「そうかな」
ぼくは考えてみた。
マリカ・ミリス。ぼくが拾われた家の一人娘。ぼくがリンカーだったら喜んで迎え入れられたであろう家の子ども。そして、彼女はぼくの――。
ハワードの家を出て調査に向かった。
マリカの名前は予想していなかった答えだった。一瞬返事に詰まってしまった。顔に出ていなければいいのだが。