寝苦しい夜だ。中々寝付けない。
大雨は止みはしたが、地面が吸い大気が孕んだ湿気がジメジメとこの地域一帯を満たしている。夜であっても夏には暑い日があり、今夜はまさに猛暑。日中に大雨で涼しかった分を取り戻すかのように熱を発し、湿気が多いことも相まって汗が額に浮かぶ。息苦しさすら覚え、これは一晩寝付けないかもしれないと覚悟させられるほど――――とかそういうことは全然なく、ただただ胸が苦しくて乙女イビルアイは敷物の上でもんどりを打っていた。
――――ああああああああああッ! どうすれば、どうすればいい!? 助けてガガーラン!
器用にも物音を立てずに転がり飛び跳ね回っているが、見るだけで騒がしい彼女の姿。
誰にも咎められないのは、他の面々は既に夢の中に落ちているからだった。
心中で助けを求めた相手も静かに寝息を立てている。普段は体力馬鹿であるはずの彼女だが、流石に大雨の中を馬に乗って長距離移動は疲れたらしい。それにしても初めて訪れる村で熟睡とは警戒が足りていないと思うが、睡眠の必要ないイビルアイと、彼女が太鼓判を押す強者のモモンが傍にいるのだ。気が抜けてしまうのも仕方がないと言えば仕方がない。
時は夜中。実際は夏の夜にしては涼しくて過ごしやすい気温だろう。
心地よさそうなところを起こすのも忍びないが、まだ起きていて欲しかったのも事実だった。
しかし、と横道に逸れたことを彼女は考える。
これだけ数がいながら、自分含めまともな(と呼べるかは疑問が残るが)恋愛経験があるのがガガーランのみというのはどういうことだろうか?
「冒険に憧れる箱入り娘に、レズ、ショタ好き……ついでに私か……」
改めて口に出してみて、どうしようもないメンバーだと思った。
他に頼れそうな奴はいないかと考えたが、自身と同じく齢二〇〇を越える老婆くらいしか思い浮かばなかった。
事情があるにしても狭い交友関係にため息を吐きつつ、周囲に目をやる。この空き家にベッドは備えられていなかった。冒険者は野営することも多く、床にそのまま寝ることも可能であったが村長の好意で厚手の敷物を貸してもらった。元々持ってきていたものも合わせて、女性陣六人は敷物の上で身を寄せ合って寝ている。
ラキュースは姿勢正しく毛布にくるまり、ガガーランは腕を枕にしている。ティナとティアは抱き合うようにして面積の節約に努めていた。イビルアイは小さい分端の方で体を横たえて、その隣には無邪気な寝顔を晒すアルシェが寝ている。
この娘、存外に甘えたがりなのかもしれない。
先ほどまで眠りながらイビルアイの衣装の裾を掴んで離さず、困っていた。
アルシェに喝を入れてやった後、彼女自身の話を聞いた。色々あったようだ。
この世界は理不尽である。若くして多くを失い、大切なモノをその背一つに背負うことになるなど、そう珍しい話ではない。だとしても彼女は少し背負い込み過ぎていた。
家が没落し、親が借金をつくり、返済のために夢を諦め汚れ仕事に就いた。
幼い妹たちがいたこともあって、アルシェは無理にでも大人にならざるを得なかったのだろう。
抑圧されていた――とはまた違うのだろうが、抱えていた問題が一挙にモモンによって救われ一時手を離れたことで、精神的な振り戻しがおとずれたのかもしれない。
――――それにしたって、甘える対象が私というのはどうなんだ?
仲間や近しい者からはともかく、初対面やあまり関係のない者から見た自分の評価は良くないのは理解していた。拳骨のような言葉選びと、偉そうで生意気な態度。小柄な体と
アルシェに対しても変わらない態度で接したつもりだ。いや、モモンが関わってることもあっていつもより険があったかもしれない。
少しばかり、アドバイスもしてやったが……ほとんど彼女の気に入らない部分を指摘しただけ。
だというのに、以降妙に慕ってくる。くっついて来る。ちょっと鬱陶しくすらあった。
……悪い気はしないが。
――――あんなのでいいのか? そんなので心を開くのか? チョロ過ぎないか?
ほんの少しだが、少女の行く末が心配になった。
いつか悪い男に誑かされるのではないか、と。
ただ、まあ。
「しばらくは、問題ないか……」
部屋の隅に視線を向けた。そこには壁にもたれかかるように座る漆黒の戦士がいる。
周囲に気を張りながらも寝る、という戦士職の者が時折やる器用な寝方だろう。剣を傍らに立てかけ、腕を組んでいるその姿は、たとえ寝ていても傍にいる者を三重の城壁で守っているかのような安心感を与えてくれる。
そんな彼を見つめていると……イビルアイは胸を押さえた。
痛い、苦しい、切ない。
二五〇年以上前に鼓動を止めたはずの心臓が締め付けられるような感覚。
これが吟遊詩人たちの語る恋煩いの症状。
長い時を生きていながら、この感覚を初めて知ったのはつい最近だ。
ヤルダバオトという強大な悪に晒されて、もうダメかと思った時に颯爽と現れた騎士。
圧倒的な力を持つ化物を相手に、二本の剣で互角以上の戦いぶりを見せた英雄。
夢物語にしても出来過ぎであったが、あの瞬間に彼女は汚れを知らぬ姫の如き乙女となった。
かつては“国堕とし”と呼ばれ恐れられた
昔の仲間たちが知れば、なんと言って笑うだろうか?
「ああ、想像したら気が滅入ってきた……外の空気でも吸おう」
いつまでも頭の中をピンク色に染め上げておくのも良くない。どうせこのまま悶々していても、無意味に時間が過ぎるだけだ。そういう考えもあって、徐に起き上がったイビルアイは誰も起こさないように注意しながら外へ出た。
雨は止んでいるが分厚い雲はかかったまま。
辺境の村にこの時間灯っている明かりなどなく、月も出ていないため真っ暗だ。
それでもイビルアイの目には十分な景色が見える。ちっぽけで、不思議な村である。
「
「そうだな。しかし、彼らは中々気の良い連中だぞ」
不意に背後から声がして跳び上がる。体だけでなく心もだ。
惚れた男の声であるのだから仕方ない。
「も、モモン様!?」
「驚かせたか。悪かったな、私も少し夜風を浴びたくなった」
闇夜に紛れるような鎧姿で、彼は空を見上げていた。
「起こして、しまいましたか?」
「いや。元々体を休めていただけで眠っていなかった」
「でしたら、お休みになってください。明日にはカッツェ平野で調査をする予定。貴方が万全を期すほど、我々の安全と依頼の成功率は高まります」
「心配はいらない。少々特殊でね、あまり睡眠が必要ないんだ」
そんなはずはない、とイビルアイは思う。“吸血鬼”である彼女は体力だけは疲れ知らずの体であるが、人間という種族はハッキリ言って劣等種だ。疲労を感じ、食事を必要とし、休息や睡眠は欠かせない。種族の枠を超越した強さを持つモモンであっても、人間である以上は最低限その縛りが課せられている。
眠れる間に眠っておくに越したことはない。
適当な嘘までついた理由は、夜襲を警戒して?
ならば交代で見張りをすればいいだけだ。提案しなかったということは、イビルアイたちに負担を強いることを嫌ったのか、彼女たちでは相手にもならない存在を警戒しているのか。
――――もしくは、人間じゃない……とかな。
まさかな、と脳裏に過った可能性を払拭する。
イビルアイは迷ったが、恐る恐る問うた。
「やはり、私たちでは心許ないかだろうか?」
「そんなまさか。頼りにしている。現にキミたちは私の悩みを一つ解決してくれた」
この男に悩みがあるなど、と失礼ながらも彼女は驚いた。
だが少し考えると、彼の相棒が少し前まで浮かべていた表情を思い出した。
「キミだろう、アルシェを導いてくれたのは。随分懐いているようだった。感謝する」
「……わかっていたのなら、モモン様から声をかければ――――」
「私ではダメだ」
「そんな、貴方のように素晴らしい御方なら人を導くことなど造作もないでしょう」
モモンは静かに首を横に振った。両頬付き兜に隠され、その表情はわからない。
だがどうしてか、彼が少し物悲しそうな表情を浮かべたのがわかった。
「イビルアイ、私はただの英雄なんだ」
「それは……」
知っている。誰よりも。
彼女はその目で、彼の偉業を見届けたのだから。
「誰かが困っていたら助けるのは当たり前――――そんな綺麗事が私の根本だ」
「そう自分を卑下するようなことを言わないでください。素晴らしい志だと思います」
「ああ、素晴らしい
英雄とは暴力装置だ、そんなことを彼は口にする。
「もちろん例外はあるだろう。しかし往々にして人々が想う英雄とは、その圧倒的武力を持って事を成す存在だ。怪物を倒し、戦争に勝利をもたらし、未知を切り開く――常人には成し得ない偉業が
彼が見上げる空は分厚い雲に覆われている。その光景が、そのまま今のモモンの心境なのではないか。そう思わせるような声色だ。
「私も同じだ。圧倒的な暴力で敵を蹴散らし、困っている誰かを救う。そこまではいい……いや、そこまでしかないから問題か」
「自身の意志で弱者を救う。それ以上に素晴らしいことなんてない。それで良いではないですか」
「単なる英雄としてならな。だが、私の胸にある言葉はそれだけでは満ち足りないんだ」
そっと視線が落とされ、小柄なイビルアイが彼の視界に収まる。
些細なことだが、たったそれだけのことで彼女の心はざわついた。
「道端で困っている老人がいれば手を貸そう。親とはぐれ泣いている子供がいれば手を引いて共に探そう。暴力に苦しんでいる人がいれば、その相手を殴り返してやろう。モンスターに大切なモノを奪われた者がいれば、せめて仇くらいは討ってやりたい。それくらいは私にもできる」
だが、真に困っている人はそれだけなのか?
答えは否だ。
自問自答を口にし、彼は続ける。
「私には人々を導くことはできない。心にある迷いや悩みを解決してやる方法がないんだ」
「そんなことはない! 王都の一件でも、貴方がいたおかげで心を救われた者がいた。勇気を貰い、己を奮い立たせて戦いに挑んだ者もいた。私だって……他にも貴方の英雄譚を聞き、人々を守るために英雄を目指す者も絶対にいるはずだ。それは、人々を導いたということではないのか?」
イビルアイは胸に手を当て、押さえる。
胸を締め付けられるような苦しさがあった。それも強く、万力で締め上げられているような。
これがただの恋慕からくるものでないことは、なんとなくわかった。
だが、目の前の男に対する感情であることは間違いない。
何故だか、涙を流したくなった。
とっくに枯れ果てていたと思っていたものが、内より溢れ出そうになる。
仮面で隠され全てを見たわけではないだろうが、そんな彼女の様子にモモンは小さく笑った。
本当に小さく、自嘲的な色を含んだ笑い声。
「クク……いや、すまない。なんでもないんだ。大した奴がいたものだ、と思ってな」
「何を、言って……?」
「キミの気遣いは嬉しい。だだ私がまた同じようなことを成しても、それは導いたとは言えない。ただ結果的に良い影響を与えたというだけだ」
「……どう違うのでしょう?」
難しいな、と彼は呟きしばらく沈黙した。
流れる様子もない雲をじっと見つめ、やがて何かを思いついたのだろう。
指を二本立て、見せるように言った。
「強いて例えるなら、子供に読み聞かせる絵本とモノを教える教師の違いだろうか」
「……?」
「微妙な違いだ。絵本はその在り方で子供心に影響を与え、教師は自らの意思で良き方向へ子供を導く。そんな感じだよ。私は前者はできるが、後者ができない」
「そのくらいのこと、貴方なら――――」
「できないんだよ。私はそういう存在だ。現に身近にいた少女の悩みに気付いていながら、私はなんの言葉もかけてやることもできなかった……」
彼は掌を握り込み、開いて、また握る。そんなことを繰り返す。
まるで、自分に掴めるものとそうでないものを確かめるように。
「だから私はキミたちを羨ましく思う。英雄でありながら、人としてありのままに生き、誰かを救い導けるキミたちが。眩しく見えて仕方ない」
「私たちなんて、モモン様に比べれば大したことはない」
「私はそうは思わない。所詮私は、人々が想う
寂しげな彼の言葉は、イビルアイの耳に届き、あとはこの世界の彼方へ掻き消えた。
もしかすると、それは誰にも聞かれることなく最期を迎えていた本音なのかもしれない。
「…………つまらない愚痴に付き合わせてしまったな」
「いえ、少し、嬉しいです」
「そう言ってもらえると助かるよ。だが、さっきまでの話は二人だけの秘密にしてもらいたい」
「構いませんが、どうして私にそのような話をしてくれたのですか?」
「そうだな……それは多分――――」
あまりに自然な動きだった。
ゆっくりと、しかし淀みなく。警戒心など欠片も抱かせない軌道を描いて、モモンの手がイビルアイから仮面を剥がした。
「同じく顔を隠し、何やら秘密を抱える者同士、だからかな」
素顔が外気に晒されても、彼女はしばらく呆然とした。
その生気がない白い肌が、赤い瞳が、人でないことを示す牙が、彼の目に映る。
「気付いて……」
「少し前にな。中々可愛らしい顔だ、成長しないのが惜しい」
そう言って、彼女の顔に仮面を被せる。
ズレがないように優しく彼女の顔を両手で包む彼は、まるで悪戯が成功した小僧のようであった。
顔が見えないなど関係ない。少し弾んだ声が、無邪気な子供を連想させた。
以前会った時、感じていた彼の印象とはかけ離れた一面だ。
王都で再会した際から、僅かに心に引っかかっていたものがあった。
元々そこまで長い付き合いでなかったため、気のせいだと思っていた。
だが今、同行するモモンという男に感じていた違和がハッキリと浮き彫りになった。
不快なモノではない。
ただ、そのままにしておくのは躊躇われた。
無意識に、イビルアイは問うていた。
「――――貴方は、だれ?」
「……私は、漆黒の英雄モモンだ。それは間違いない」
ハッと我に返る。
一体何を聞いているのかと、恥ずかしくなった。
誤魔化すように、他の話題へと切り替える。
「え、えーと……そ、そうだ! モモン様、どうしてナーベとコンビを解散したんですか?」
「漆黒として、私と旅をしていられなくなった。まあ色々事情があるんだ」
「あれほどの魔法詠唱者、引き止めなかったのですか?」
「その資格は私にはない。彼女は、彼女の意志でモモンから離れていった。」
「……アイツがその道を選んだのなら、多分それでよかったのでしょう」
ああ、と彼は短く答えた。
そこにどんな感情が込められているのか、イビルアイには読み取れない。
ふと気付くと、彼はまた空を見上げている。
「何か気になることでも?」
「いや、どうにか星空が見えないものかと思ってな」
「生憎の空模様ですしね……好きなんですか、星が?」
「星、といより夜空が好きだ。宝石箱みたいで綺麗だろう」
昔、むかし、遥か昔。
イビルアイがまだ人間の少女であった頃、同じことを思っていたような気がする。
乙女フィルターを通すことで逆に気付くという逆転現象