審議があった翌朝。水曜日。
朝からDクラスは活気づいていた。黒板には池がでかでかと「逆転勝利」という文字を書き入れていた。これには須藤を非難していた人たちも皆が一様に喜んでいた。当然だ。須藤はどうでも良くてもポイントは大事なのだ。俺も皆と同じ気持ちを分かち合い、池が書いてくれた文字を朗らかな気持ちで見ながらホームルームを迎えた。
ホームルームではいつも通り不機嫌そうな……?いつも以上に不機嫌そうな茶柱先生から須藤の無罪とDクラスは何らお咎めがないことが発表された。同時に明日にはポイントが振り込まれるようだ。いや、なんでそんなに不機嫌なんだ。もしかして須藤を退学させたかったのだろうか?
まあ、須藤は少し騒がしい人だから静かそうな茶柱先生とは相性が悪いのかもしれない。
ホームルームが終わると、平田や櫛田、他にも須藤の友人である池や山内、綾小路らが須藤に祝いの言葉をかけていた。堀北は参加していない、流石だ。
須藤の席の近くを見ると佐倉がチラチラと須藤を伺っているのが見えた。なんだ?元祖マウント王としては筋肉がありそうな須藤にマウントを掛けて、真の王者を決めたいのだろうか?せっかく無罪になったばかりなので止めてほしいところだ。
***
放課後になると、佐倉が素早く教室を出て行った。そして綾小路がそれを追いかけて行った。堀北、櫛田!浮気ですよ!浮気!
しかし、綾小路は運が良いのか、綾小路を追いかけようとしていた堀北が茶柱先生に呼び出されて職員室に行った。もしや堀北が呼び出されるのも計画の上か?
まあ、俺も佐倉達に倣い帰るかと思ったが、軽井沢軍団に囲まれた。え、なにこれ?
「赤石君、今日、みんなでとカラオケに行くんだけど。良かったらどうかな」
軽井沢軍団の間を縫って平田が現れた。ちょっと待てよ。これ断ったら蜂の巣にされるパターンじゃん。これは脅しだよ。
「すみませんが、今日はやるべきことがあるので……」
俺は脅しには屈しない。というよりカラオケは無理。それだけは絶対に無理。
「赤石君のやるべきことって何?」
ちょ、まさかの松下の攻撃。俺はお前と挨拶以外で初めて喋る気がするぞ。
「すみません、期末試験の対策用の本を考えていて……」
やべぇ、良いなネタが思いつかなくて、完全に適当な事を言ってしまった。まあ、期末も遠くないし間違いでもないか?
「そっか、ごめん、赤石君。無理には誘えないね。今度はみんなで行けると良いね」
ふう、なんとか平田が取りなしてくれた。ありがとう、って言いたいけど、コレはお前のマッチポンプだから感謝は言わないからな。
「はい、すみません……」
適当に謝ると、軽井沢軍団と平田は去っていった。明日には収入もあるし、一発決めるか、といった感じだ。
しかし、困ったな。そのまま寮に戻っても良いが、平田か軽井沢軍団に見られると、明日には俺の骸が東京湾に沈んでいる。危険は冒したくないし、時間を潰すか……現在時刻は4時少し前だ。1時間くらい潰せば言い訳にはなるだろう。
悩みつつも図書館の別館に行く。図書館は椎名のテリトリーだ。よってより安全な別館を目指す。あそこは非常に静かで人も少ない。一時期、櫛田と堀北のせいで使用不能に陥ったが、勉強会が終わった今なら人もいないだろう。
――そんな安易な考えが、ついに、俺を地獄へと導いた。
***
――思えば、俺は随分と油断していた。5月1日、龍園との出会いからもう2か月が過ぎている。このまま、平和な日常が続くと、そう信じていた。それだけではない、綾小路と生徒会長の2人を出し抜き、どこか自惚れていたのだと思う。だから、俺がきっと、今、地獄の……
うん、長いな、もう正直に言おう。
別館に入ったら椎名がいた。なんで別館にいるんだよ……
予期せぬ再会に愕然としていると、椎名はこちらを見ると、少し笑いながら口を開いた。
「お久しぶりですね。赤石君……最近はどうでしょうか?」
どうって?油断しててお前に会っちゃったよ。どうしよう……?
「お久しぶりです椎名さん。最近は、色々と忙しくて……ある意味充実している日々を送れています」
俺の答えを聞くと椎名はキョトンと小首を傾げ、不思議そうな顔でこっちを見た。くそ、ひさびさに見たらかなり可愛いぞ。
「?……ひよりちゃんですよ?」
いや、お前の名前は知ってるけど……?
「ええ、はい。えーっと、椎名ひよりさんですよね。覚えてますよ」
「……ひよりちゃんですよ?」
……無限ループ的なやつ?というか、最近これと同じことをしたヤツがいたような……
「はい、その……椎名さんの下の名前は知っていますよ」
俺は情けない龍園とは違う。椎名には屈しない。そう思っていると椎名がこちらにゆっくりと忍び寄ってきた。心なしか椎名の両手に力が入っているように見える。
「ひよりちゃんですよ?」
バグった機械みたいになってるぞ。……なんで、いきなり名前呼びを強制してくるんだよ。王だって一応はタイミングは見ていたぞ。第一、メールで最近連絡したときも「椎名さん」と書いても自然に対応していただろ……あと、ちょっとずつこっちに近づいて来るな。
「ええっと椎名さん。あの、女子生徒の事を名前で呼ぶのは少し恥ずかしくて……すみません」
「……そうですか」
そう言いながらも椎名はかなり距離を詰めてきた。もう1メートルを切った。椎名の手の動きをよく見る。動いた!馬鹿が!お見通しだ!
「…………」
椎名が伸ばした手が空を切った。綾小路相手に鍛えたステップを使うことになるとはな……だが、これで俺の勝ちだ。まさに連戦連勝。綾小路(不戦勝)、堀北兄(そもそも向こうは知らない)、そして椎名(1回避けただけ)。強敵たちを次々と葬ってきた。もはや敵なしだ。
「赤石君は今回の騒動についてどう思っていますか?」
唐突に話題を変えてきた。しかし、油断せずに椎名の両手をじっと観察していく。攻撃タイミングを伺っている気がする。一歩下がり椎名の質問に答えることにする。……おい、俺が一歩下がった瞬間一歩詰めるのはやめろ。質問に答えられないぞ。
「須藤君の件ですか?」
さらに2歩距離を置きながらも、回答を行った。そして、椎名も素早く2歩距離を縮めた。
「そうです……とても残念な事件でした」
残念か……やはりCクラスのクラスポイントの減少に嘆いているようだ。絶対に俺が関わった事は秘密にしておこう。バレたら拷問的な『にぎにぎ』をしてきそうだ。
「その……なんて言ったらいいか……すみません。Dクラスとしては、その、須藤君が処罰されずに良かったと思っていまして……すみません。……やはりクラスを超えて関係を持つのは難しそうですね。……もしかしたら、俺と椎名さんもこうして会うのは、これからも難しくなるかもしれませんね」
そう言いながらもさらに三歩距離を取る。そして素早く椎名が3歩の距離を縮める。駄目だ。未だに椎名の両手の射程内から抜け出せない。さっきから、ずっと1つのテーブルをぐるぐる回ってばかりいる。
「いえ、赤石君が謝ることではないと思っています。今回の一件はCクラス側に問題があったことですから」
じゃあなんで残念な事件だって言うんだよ……あれかな?悪いとは思っているけどポイントは欲しい的な感じだろうか……?
「それと赤石君。図書館は本を読むところです。ぐるぐる回るのはよくないことですよ」
ぐるぐる追いかけてるヤツが言っていい言葉じゃないぞ。
「あの、椎名さん、とりあえず止まりましょう」
そう言って俺は止まると、椎名も止まった。よし、そこを動くな。
「ひよりちゃんですよ?」
おい、無限ループに入るのは止めろ。
「あの、先ほども言いましたが、女子の名前を呼ぶのはちょっと恥ずかしくて……」
「……?この前は呼んでくれたと思いましたが」
この前……?いや、俺がお前の名前を呼ぶとは思えないけど。
「この前とは……?」
俺がそう言うと、椎名は悲しそうな顔をした。……え、ちょっと待って、俺悪い事した……待って、待って。そんな悲しそうな顔されても、困る…………
「仲が良い友達というのはファーストネームで呼び合ったりするするものだと本に書いてありました。現に私のクラスでは名前で呼び合う女子が多いです。私と赤石君は『おともだち』ですよね?……『やっと名前で呼んでもらえた』と思ったのですが……違うのですか?」
いや、違うけど……って言いたい。
「ええっと、そうですね。…………確かにそういった面はあると思います。ただ、俺には気恥ずかしいです。現に、俺はそこそこ知り合いや友人がいますが、誰一人として名前で呼んだり、呼ばれたりはしていません。つまり、人それぞれだと思います」
俺が同意したのはファーストネームの下りだ。椎名との友達の所ではない。しかし、椎名は納得がいっていないのか、こちらをじっと見つめて追及してきた。
「いえ、赤石君は5月の初めに私の事を名前で呼びました。覚えていませんか?確か、あの時は少し暑い日で……あと、龍園君がいたのですが」
龍園がいた日。確かに5月1日には龍園がいた。アイツが確かふざけた事をして椎名の怒りを買い、そしてにぎにぎされて…………あ、龍園の物真似して椎名に一本取ったな。確かそう、
――邪魔して悪かったな。ひより。次の会合は何時になるかわかんねーぞ。じゃあな
って言った気がする。…………ひよりって呼んでたな。いや、でもさ。あれはさ。前後の関係から、龍園の物真似って分かるでしょ。いや、これは、うん。まあ、確かに呼んだけどさ。いや、でもさ。これは仕方ないと言うか、その。いや、椎名も笑ってたし……笑ってたっけ?そういえば、表情は見えなかったような……椎名は笑ってたんじゃなくて、喜んでたのか…………あれ、俺が……悪い……?
「ええっと、椎名さん。もしかして別れの時に『ひより』って呼び捨てにした事についてでしょうか……?」
恐る恐る聞いてみると、椎名はじっとこちらの目を見て答えた。
「はい」
あまりに端的な答えだった。その顔色もいつも以上に真剣さが見える。やばい、どうしよう。
「……あのですね。あれはですね。ちょっと、言いにくいんですがね…………あの、あれですよ……つまりですね。龍園君の……あれです。はい、あれですよ、あれ」
なんとか言い訳をしたいが、駄目だ。なんか悪いと思ってしまうと、上手く弁解できない。
「赤石君。大丈夫ですよ。言いたいことは分かりましたから」
椎名は少しだけ、笑顔を見せてくれた。いつものほんわかとした笑顔に近い。ゆ、許してくれたのだろうか?というより、この説明で分かったのだろうか?まあ、許してくれるなら…………
――それは、一瞬に気の緩みだった。罪悪感、弁解できない状況、じっとこちらを見る一対の瞳、緊張した状況下における朗らかな笑み。
椎名の左手が俺の右手を、右手が俺の左手を指を通すようにして絡まった。そして、椎名は手を強く握った。
うわあああぁぁぁぁーー、僕のハッキングの王の腕がああああああぁーー
***
にぎにぎ、にぎにぎ、にぎにぎと椎名の細く滑らかな指が、こちらの指や指間腔、そして手の甲を余すことなく蹂躙していく。
2か月間、まったく味わっていなかった恐怖と指圧によるえも言われぬ感覚、そして鈍くて浅い背徳的な感情。それらが手から腕へ、そして体の中にまで浸透していく。
「し、椎名さん……」
なんとか、口を開く。もう『にぎにぎ』を食らって何十分経っただろうか?いや、何時間かもしれない。ともかく長い間、俺は動くどころか喋ることもままならなかった。
「ひよりちゃんですよ?」
そう椎名は笑って言うと、これまでよりも強く指間腔を刺激してきた。うぐぐぅ……まずい、これ以上されると……意識が…………
「……ちょっと、……これ……を……止めて……」
「ひよりちゃんですよ?」
あ、あ、あ、ご、ごめ、ごめん龍園。お、お前の、ど、努力を、、俺が、……あやまちで……むだに、……お、俺は、ここまでの、よう、だ…………
「ひより、さん、」
俺が何とか最後の力を使って声を振り絞った。
「はい、これからも、よろしくお願いしますね。赤石君」
そう言うと、椎名は花が咲くように笑って、手を離した。
――ああ、生きてる。
最後にそう思った。
***
恐ろしい拷問を受けた後少し時間を置くことで、俺はなんとか再起動し、椎名に別れを告げた。椎名は一通り拷問をして満足したのか俺を笑顔で解放した。くそ!覚えておけよ!この恨みは絶対に忘れないからな!別れ際に心の中で捨て台詞を吐いておいた。
時計を確認する。おそらく3時間くらい拷問を受けた事を考えると――時刻は4時25分であった。平田達と別れて30分程度しか経過していなかった。別館への移動と椎名と会って話して10分以上は経過している。そして再起動には10分くらいかかった。拷問時間は……10分程度だと……
「そんな、有り得ない」
思わずそう呟いてしまった。校内であることを思い出し、手を口に当てる。なんて恐ろしい、いや、おぞましい。椎名はこの学校最大の危険人物だ。あれに捕まったら生徒会長でも間違いなく致命傷を浴びるだろう。
しかし、そう思うとやはり龍園はかなりいいやつだ。なんたって、クラス闘争に椎名を投入していないからだ。アレが投入されたら、全てのクラスが文字通り吹き飛ぶ……いや、反作用でCクラスも吹き飛びそうだ。もはや使用禁止兵器だ。うん。ある意味龍園は学校全体に気を配っているのかもしれないな……
椎名との恐怖の再会と、龍園の意外な良心について考えていると、誰かが俺に声をかけてきた。
「何が有り得ない、なのかしら?」
振り返ると堀北がいた。……いや、何でいるんだよ。堀北は確か帰宅部だったはずだが……?
「いえ、大したことではないですよ。堀北さん。……今日は珍しいですね。部活ですか?」
思うと初めてまともに喋っている気がする。何時もは周りに誰かがいることが多かった。
「私は部活には所属していないわ。それよりも少し聞きたいことがあるのだけれど、いいかしら」
今疲れてるんで……
「すみません、今は少し、疲れているので……また今度にして頂ければ」
「大丈夫よ。時間は取らせないわ」
大丈夫じゃないです。というより、元気があるなら、今すぐ別館に行って。そして椎名の拷問を受けてこい。それで元気を失くせ。
「はぁ、まあ、分かりました」
「貴方の事を綾小路君が随分と高く評価しているみたいだけれど、それは何故か分かるかしら?」
いや、別に高く評価していないと思うけど、多分お前とのデートや櫛田とのデートを自慢したいだけだと思うよ。
「いえ、そんなことはないと思いますが……綾小路君とはあまり話をしませんし、彼が何か言っていましたか?」
一応聞くが……正直話題のチョイスをミスった気がする。こんなことを聞いたら彼氏大好きの堀北は惚気話を始めてしまうだろう。はあ、面倒なことをしてしまった……
「貴方の話をよくするけど……どうやら、綾小路君の一方通行の友情だったようね。哀れだわ」
ん?あれ?何で俺の話をよくしてるんだ?……何かが変だな。もう少し聞いてみるか……いや、墓穴を掘りそうだ。そんな事よりカメラを精査して堀北と綾小路の会話を確認した方がいいな……適当に打ち切るか。
「いえ、俺も綾小路君のことは嫌ってはいませんよ。ただ余り話をしていないので、友人かと聞かれるとすぐには頷けなかっただけです」
俺の回答を聞くと、堀北は少し何かを考えた後、溜息を吐いた。
「どうも、よく分からないわね。一応聞いておくけど、貴方もテストでは加減をしているのかしら?」
貴方「も」か。やはり綾小路は点数を調整していたか……そして堀北が知っているという事は思った以上に綾小路は堀北を信頼しているのだろうか?
「加減……?もしかして、中間試験の英語の件ですか?」
「気づいていたのね」
「あ、いえ、すみません。実はあの時は意味がよくわからなくて、綾小路君に試験の直前に言われて、少し落としたんですが、言われた時は意味が良く分からなくて、もっと自分に理解力があれば、須藤君が不安な思いをすることも無かったと思っていて、反省しています」
反省してまーす。
「そう……なるほど、あの時、綾小路君が貴方の席に行ったのはそう言う事……一応言っておくけれど嘘は許さないわよ。後で発覚した場合は苦痛を伴う報復処置を行うわ。当然分かってるわよね?」
おいおいおい、俺は椎名の拷問を経験したばっかりだぞ。あまり強い言葉を使うなよ。そういう常に自分が上とか、連戦連勝とか、敵なしとか言ってる人間に限って、一瞬の隙を突かれて捕まって、そしてひどい目にあうのだ。せいぜい気をつけるんだな。
「ほ、報復ですか……その、嘘はついているつもりは無いのですが……証明するのは難しくて。すみません。何か堀北さんの気に障るような事をしてしまったでしょうか?」
「別に気に障ったわけではないわ。……どうやら、貴方は普通、いえ、特筆することの無い生徒のようね。単純で良い事だと思うわ。さよなら」
最後のそう言うと、堀北は素早く去っていった。なんというか、彼女は自分が納得すると、すぐに物事を終わらせるタイプのようだ。椎名もちょっとそういう所があるな。やはり人に苦痛を強いるタイプは何かと似ているのだろうか……
しかし、どうしたものか。あと30分程度は時間を潰す必要がある。幸い、いや、もはや幸いなどという言葉は使うことはできないが、とにかく、まあ、椎名は別館にしばらく残るようなので、本館の方が安全だろう。
最初から本館に行っていれば……後悔しながらも本館に向かい、内部構造を改めて確認する。カメラで見るよりも直接確認することで、より静かで安全な場所を見つけられる気がするからだ。
そうやって、本館の安全地帯の発掘を行った後、時刻は5時になった。外を見ると雨が降っていた。雨という天気はどちらかというと好きだが、傘を所持していない時に降られると少し困る。確か天気予報は曇りであったが……いっそのこと天気予報システムでも作るか?無人島用に作ったヤツを改良すればいけそうだな。
くだらない事を考えつつ、一度Dクラスのロッカーへと向かう。あそこには傘を置いておいたハズだ。図書館からDクラスまで雨で濡れないルートを考える。少し遠回りだが、並木通りの近くを通るルートがベストだろう。
ルートを決め歩いていくと、不穏な空気を感じた。雨のジメジメとした環境の中に、殺伐とした空気が混じったような感じだ。あたりを見回すと、並木通りの近くで2つの小集団が対峙していた。どちらも4人ずつだ。それぞれが向き合っている。不良の喧嘩かな……?
集団は目視できるが、雨で視界が霞むため8人の人相は分からなかったが、なんだか危なそうな空気は伝わってくる。非常に困る。俺が雨に濡れずに傘を取りに行くためにはこの集団から数メートルほど離れたところにある渡り廊下を使わなくてはいけない。どうしようか……?あ!閃いた。
手元にある端末を使い短距離端末操作システムを起動させる。そして隠れながら集団に近づく。20メートル以内に入ったところでシステムを使い、8人の会話を盗み聞く。これでこの不良軍団の動向を把握し、気づかれないように渡り廊下を通過する作戦だ。
画面を見ると8人の端末情報と名前が表示される。えーとまず、近い順に石崎、伊吹、龍園……あれ?えっと、うん。あと1人は山田だ。で遠い方にいる集団は鬼頭、坂柳、神室、橋本だ。おいおいおい、ただの不良軍団かと思ったら、Cクラスの中核と坂柳派のメインメンバーじゃないか……何やってんだよ。実は仲が良くて、遊びの約束でもするのか……?
ちなみに位置取りは俺が龍園集団の後方斜め後ろから様子を伺っている感じだ。
『坂柳か』
龍園が言葉を発した。少し緊張しているような感じだ。もしかしたら、昨日の審議での負けが響いているのかもしれない。許せ龍園。それと俺はお前のことを、すぐ椎名に屈した情けないヤツだと思っていたが、あれは違った。間違っていたのは俺だった。きっとあの5月1日よりもはるか前に龍園は椎名にひどい拷問を受けたのだ。そして、まだ「椎名」と呼んでいた俺を見て、だからあんなに気にかけてくれたんだろう……この2か月間、あんなに椎名を引き留めてくれたんだろう。すまない。お前の努力を無駄にして。本当にすまない。
駄目だ。今龍園の前に立てない。こうして彼の声を聞くだけで悲しさと虚しさが心に浮かぶ。だからこのまま隠れておこう。決して、これは龍園にもし暴力事件の事でバレたら、吊るされるとか、椎名に売り飛ばされるとか考えているのではない。決してない。本当だ。嘘じゃない。俺は龍園を信じている。本当に本当だ。
けど暴力事件に関わった事は墓まで持っていこう。
『あなたは確かCクラスの……』
坂柳の方は余裕があるような感じだ。
『入学早々女王様気取りか、いい気なもんだな』
女王様気取りは間違いなくうちのクラスの軽井沢だぞ。
『ふふっ、……そんなつもりはありませんよ』
坂柳の話し方は優しいような丁寧なような、不思議な感じだ。しかし、どこか不気味さを感じる。何というか、残虐性を感じると言うのだろうか……?いや、偏見なのは分かっているのだが……なんだろうか?たぶん先入観だ。彼女の儚く可愛らしい見た目と葛城派を崩していく冷酷さのギャップから、どうも、おっかない人という印象があるのだ。
『Dクラスは俺が潰す。次にB。最後にAクラス、……お前を潰す』
そうだ!軽井沢軍団を潰せ!元々、アイツらがカラオケとかふざけた事を抜かしたせいで、俺は椎名にやられてしまったのだ!軽井沢軍団を許すな!
『あなたにできるでしょうか』
邪神椎名を2か月も封じ込めた英雄龍園に不可能はない。たぶん。
『王は1人で十分だ』
そうだぞ。
『そうですね』
坂柳も一之瀬様を讃えてくれるようだ。よし。えらい!
坂柳が最後の言葉を放つと、2人の会話は終わった。よーし、お前ら、さっさと解散しろ。通行の邪魔だぞー!
俺が念じると、それぞれの集団が前に進む。龍園たちは坂柳たちがいた方へ、そして坂柳たちは……俺の方へ…………
おいおいおいおいおい、ちょっと待てよ。なんで真っ直ぐ行かないんだよ。何でこっちに曲がってきそうな雰囲気出してるんだよ。
――いや、堂々としよう。堂々とすれ違う事にしよう。幸いこっちの顔は……橋本と1回会っているが、覚えていない事を期待しよう。大丈夫だAクラスを封鎖したときは前園がずっと睨みつけていた。記憶に残っているのは彼女の方だろう。
堂々とした態度で、前へ進む。そして、傘を差した集団が目に入る。坂柳の日本人離れした銀髪が雨の中で妖しく輝いていた。
……なんか変な感じだ。いや、まあ椎名も銀髪だから……もしかしたら俺はヤツのせいで銀髪に拒絶反応を示しているのかもしれない。椎名め、なんと恐ろしい。
屋根があるが壁が無い渡り廊下を彼らは傘を差したまま横切っていく。幸いこっちには曲がってこなかったようだ。こういうの何て言うんだっけ?丁字有利?ちなみに有利なのは坂柳側だ。
坂柳たちが俺の前方3メートルを通る。一瞬、坂柳がこちらを流し見た。そして杖を使うのを止め、立ち止まった。と、止まらないで……
「どうしました?」
凄腕営業マンである橋本が素早く質問する。俺も気になる。あと、いきなり止まるのは止めてください。俺の心臓に悪い。
「いえ、少し杖が……」
坂柳の少女特有の透き通った高い声が頭を貫いた、そんな気がした。……なんか変な感じだ。いや、まあ坂柳を初めて肉眼で見た時から変な感じだが……何といえばいいのだろう。頭がくらくらする感じだろうか?
俺が考えている間、坂柳は何度か手元にある杖を弄っていた。杖が壊れたのだろうか……?
「…………問題ありませんね、行きましょう」
何度か杖で地面を叩いた坂柳は、橋本達を引き連れて再び歩み始めた。どうやら杖は大丈夫なようだ。彼女は先天的に病気があるようで杖をよく使っている。大変そうだ。
坂柳たちを見届けた後、目的地であるDクラスに向かい、ロッカーから置き傘を持ち、そして寮へと戻った。
――肉眼では初めて坂柳を見たが……何と言えばいいのだろうか、その、あれだ。この学校で一之瀬様や椎名以上に、いや、こういう外見だけで人を評価するのは良くないことなので止めておこう。
***
その後、綾小路と堀北の会話を精査したが、あまり俺の話をしているようには感じなかった。敢えて言うと、堀北勉強会の時に俺の名前を出していたりはしたが……
まあ綾小路は他人に興味があまりないようだし、そう言った意味で相対的に名前が挙がっているという意味かもしれない。綾小路が挙げる名前は俺、平田、櫛田ぐらいだ。なるほどそう思うとあの2人と同じくらい優秀なのではと堀北は怪しんだのかもしれないな……悪いな堀北。俺は残念ながら平田の廉価版っぽいから、あんまり役に立てないぞ。
それにしても綾小路は何で俺の名前を挙げているんだ……もしや俺と友達になりたいのだろうか。いや、まあ、それは流石に自意識過剰か。たぶん自慢する相手が欲しいのだろう。つまり綾小路がギャルゲーの主人公で、俺がギャルゲーの主人公の友達枠か……うん?やっぱり友達になりたいのかな?
うーん、綾小路は人に面倒事を押し付けるのが上手そうだし、できれば避けたいかな……いや、まあ、多分向こうもそんなに俺の事は気にしてないと思うけどね。
※直接描写されていない原作との変更点:2巻部分では龍園と綾小路は出会いませんでした。そのため、綾小路は現段階で、龍園の顔と名前が一致していません。
堀北と龍園は出会っています。堀北が茶柱先生に綾小路について聞かされた後、赤石と堀北が出会うシーンの少し前に実は龍園が声をかけました。(内容は原作と一緒です)
ちなみに佐倉関係は綾小路が決めて無事終了です。赤石は1ミリも関わりませんでした。原作よりも綾小路に時間的な猶予があったため、佐倉の不審な動きをみた綾小路が佐倉を尾行し、路地裏で店員と会う時には既に待機済みでした。よって佐倉は原作よりも安全な状態で助けられました。
吊り橋効果がない分、佐倉⇒綾小路の感情が少しだけマイルドになるかもしれません。
赤石が心の中で龍園に謝罪を伝えるシーンはたぶん私が今まで書いたシーンの中でも一番泣けるシーンだと思います。これ以上悲しいシーンはきっと書けません。
ひよりちゃん視点は何時やるか検討が付かない&ひよりちゃんは3巻部分には登場しない可能性がそこそこあるので、一応補足を。
・ひよりちゃんが須藤事件を残念に思っていたのはクラスポイントではなく、単純に暴力と陰謀が学校内で発生したことです。ひよりちゃんは優しいのでショックを受けています。
・今回『にぎにぎ』をしたのは、赤石の態度を見て状況的に龍園の物真似をしたのだと察し、そして赤石が焦っていたので、罪悪感につぶれてしまった赤石を慮って、赤石が一番反応する(≒一番好きな?)にぎにぎをやってみたのです。ついでに『にぎにぎ』してるときはいつもより赤石が正直な感じがするので名前についても聞きました。別に拷問して無理強いしたわけではありません。ちなみに今回の所要時間は10分前後です。
2巻のエピソードはもう終わってしまいましたが、あと1話だけ続きます。でも、どちらかと言うと2巻というより、3巻部分以降への繋ぎの面もあるので、もしかしたら、ここで一回区切っていただいてもいいかもしれません……(3巻はまだプロットしかできていないので……)