第109話になります。
徐々に温かさを増し始めるこの季節。
「ではこれより、リサお姉さんの簡単お菓子作り教室を始めるよー☆」
「……」
どういうわけか晴天に恵まれ、清々しいほどの青空が広がる天候とは裏腹に、僕の心はどんよりとしていた。
「ちょっとちょっと、テンション低いよ」
「……オー」
「うーん、声がちっちゃいけどまあ、いっか」
なぜかテンション高めな様子の今井さんに、僕はなぜこうなったのかと過去の記憶を思い出すのであった。
それは数日前のこと。
屋上で、パスパレの皆への労いの意味を兼ねて、クッキーを差し入れるという結論となった。
もちろん、クッキーは手作りだ。
そこまで考えをまとめたのはよかったものの、問題はそこからだった。
僕に料理のスキルが全くと言っていいほどなかったことだ。
そこで、お菓子作りのエキスパートにクッキー作りを教えてもらうということになった。
その講師として、候補になったのが今井さんだったのだ。
今井さんは去年の文化祭で、クッキーを作っていた実績がある。
おそらくは(というよりは、間違いなく)お菓子作りが得意に違いない。
そのような理由から、僕は彼女に教えを乞うことにしたのだ。
「今井さん、ちょっといい?」
「美竹君? どうしたの、真剣な顔しちゃって」
勝負は放課後の時だった。
HRが終わるのと同時に彼女が教室を後にするよりも早く、声をかけたのだ。
「実は今井さんに頼みがあるんだ」
「美竹君がアタシに頼み事って珍しいね。何かな? お姉さんに言ってみなさい」
興味津々に僕の頼みごとを聞こうとする彼女に、僕は
「クッキーの作り方を教えてほしいんだ」
と、はっきりと告げた。
「……ごめん、もう一回言ってもらっていいかな?」
「だから、クッキーの作り方を教えてほしいんだけど」
その内容に、目を見開かせて暫く固まった後に、同じことを聞いてくる今井さんに、僕は先ほどと同じことを口にした。
「……だ、大丈夫!? 熱とかない!?」
「病気とかじゃないから……というより、そういう反応されると傷つくんだけど」
ものすごく本気で心配されるのは、ものすごくショックだった。
「ご、ごめんねー。まさか美竹君からそんなことをお願いされるなんて思ってもいなかったからさ」
(それは僕も同感)
我ながら、似合わないことをしようとしているというのは自覚している。
それでも、何かをせずにはいられなかった。
「アタシはOKだよ」
「っ……ありがとう!」
二つ返事でのOKをもらった僕は、ほっと胸をなでおろす。
「その代わり、一つだけ条件」
そして続いて告げられるその言葉で一気に緊張が高められた。
「……無茶ぶりはやめてね」
「Roseliaの練習を見てくれること。それが条件」
(湊さんの差し金だな)
今井さん一人で考え付くような内容ではない。
おそらくは、僕に練習を見てもらいたいといった内容を口にしたのだろう。
(まあ、見るぐらいならいいか)
「わかった。何時になるかはわからないけど、それでいい」
個人的に、Roseliaがどういった練習をしているのかに興味があったのも確かだ。
そういう理由で承諾すると、今井さんはうれしそうな表情でお礼を言ってきた。
本当は僕が言うべきなのだが。
「それじゃ、今週の日曜にアタシの家集合ね。場所や時間はあとでメールするね」
「わかった」
”じゃーね~☆”とウインクをしながら教室を後にする今井さんの後姿を見送りつつ、僕は難なくお菓子作りを教えてもらえることになった奇跡を喜んでいたのだが
(ん? 待てよ)
ふっと、頭がフル回転し始めた。
(今井さんなんて言った?)
今井さんは、僕の聞き間違いでなければ”アタシの家”と言っていた。
つまりは、今井さんの家に行くということでもある。
「…………」
(いやいやいや。これはただのお菓子作り教室。しかも友人の家に行くだけ……気にしない、気にしない)
必死に自分に言い聞かせるも、一度気づいてしまったものはどうしようもない。
僕は、赤くなっているであろう顔を見られたくなかったので、早々にその場を後にした。
「……よしっ」
日曜日、僕は今井さんの家の前で静かに気合を入れる。
女子の家に行くなど、紗夜さんの家以来だ。
しかも、羽丘で知り合ったという条件では初めて訪ねることにもなる。
(別に何でもない。ただ、料理を教わるだけ。それだけなんだ)
必死に自分に言い聞かせる姿は、他人から見ればさぞかし滑稽に見えるのかもしれない。
僕は心なしか震える手でインターホンを鳴らす。
「はーい」
「美竹です」
「今開けるから、ちょっと待ってて」
インターホン越しに出た今井さんに名前を告げて、少し待つとドアが開いた。
「お待たせ―」
「今日はよろしくお願いいたします。これ、お口に合うかわからないけど、ご両親に」
「そんなに畏まらなくても大丈夫だよ。そんなに怖い場所でもないしさ」
僕が緊張のあまりに敬語になっているのを今井さんは苦笑しながら言うと、手ぶらではあれだと思う買ってきたお菓子の詰め合わせを受け取る。
「今日はお母さんたちは出かけてていないから、気を使わなくても平気だよ」
「あ、そうなんだ」
今井さんの両親が出かけていて不在なのを知った僕は、ここでようやく緊張が解けた。
先ほどまでの緊張がまるで嘘のように、いつも通りの感じで相槌を打つが
(あれ、両親がいないということは……)
今井さんと二人きりということでは?
そのような結論を導き出すよりも早く、僕は考えるのをやめる。
これ以上緊張の種を増やしたくない。
なんだかとても顔が熱く感じるが、そんなことはどうでもいい。
「そ、それじゃあ早く上がって」
「う、うん。お邪魔します」
今井さんも僕と同じことを考えたのか、頬を赤らめて焦った様子で僕を中に招き入れるのであった。
そして今に至る。
「それじゃ、まずは―――」
エプロンを着用して、僕は今井さんのお手本通りに、お菓子作りを進めていく。
今井さんの教え方は、初心者の僕でもわかりやすいものだった。
「あとは、オーブンに入れて待つだけ」
「なるほど……意外と簡単なんだ」
「うん、簡単だけどそれだけに奥が深いんだよ。デコレーションをしてみたりとか」
(聞いただけでも難しそうだ)
デコレーションとか、僕には夢のまた夢だなと思うが、そもそもこれからずっとお菓子を作る予定はないので、ひとまず頭の片隅に置いておくことにした。
「ところでさ、一つ聞いていいかな?」
「何?」
真剣なまなざしの今井さんに、僕はそう返す。
「どうしていきなりお菓子を作ろうって思ったの?」
「……」
今井さんの表情から、正直に答えない尾いけないような気がした。
「……後輩で、ものすごく頑張っている人がいるんだ。だから、その人のためにも、自分にできる方法で応援したいと思ったんだ」
「そっか……優しいんだね、美竹君」
(別に優しくないよ)
まるで母親のように優しく微笑む今井さんに、僕は心の中でそう呟いた。
彼女たちにした僕の行いを知れば、今井さんだって感じ方が違うはずだ。
それでも、そのことを口にすることはできなかった。
「あ、焼けたみたい」
オーブンから焼けたことを知らせるアラーム音が鳴ったのが一番の理由だった。
「じゃーん。どうどう?」
「……ちょっと形が歪だね」
今井さんのと見比べてみると、自分が作った物がすぐにわかるほどだ。
形は丸形で、今井さんのはしっかりと丸い形になっているが、僕のは少しばかり不格好な丸型になっていた。
「あはは……まあ、何回かやってれば上手くなるって。美竹君、ファイト☆」
「そうする」
とりあえずは、作り方は大体わかった。
後は人に出せるレベルまで練習をするのみだ。
「そうだ、せっかくだし作ったクッキー食べてかない?」
「今井さんが良ければ」
今日は特に用事もない(代わりに羽沢珈琲店での憩いのひと時が消えたけど)ので、急いで帰る必要はない。
「それじゃ、ちょっと準備するから待っててね~」
そう言って準備を始めた今井さんの手際はすごいの一言に尽きる。
何せあっという間に飲み物やらクッキーがリビングのテーブルに用意されてるのだ。
「それじゃ」
「「いただきます」」
そして置くと今井さんは向き合う形で席に着いてクッキーを食べ始める。
「今井さんの作ったクッキー、おいしい」
「あはは、ありがとー。美竹君のクッキーも中々良いよ」
流石は今井さんといったところだろうか。
今井さんのクッキーは食感も味も良く、お菓子屋で買ったと言われて出されても気づかないレベルだ。
「そうかな?」
対する自分のクッキーは、食感も悪ければ味が薄く感じられる。
「まあ、アタシはずっとお菓子とか作ってるからね」
苦笑交じりにフォローの言葉をかけられながら、クッキーを食べていく。
「そういえばさ」
そんな中、今井さんはどこか真剣な表情を浮かべながら声をかけてきたので、僕もつられて姿勢を正す。
「ヒナや紗夜のことは名前で呼んでるでしょ?」
「そうだね。まあ姉妹だし」
他にも、本人から名前で呼んでいいと言われているというのもあるが、そのことは言わないでおいた。
「…………」
暫くの間視線をいろいろな場所に移したり、せわしない様子だったがやがて意を決した様子でこちらを見てくる。
「そ、それじゃあさ……アタシのこともその……リサって呼んでほしいなーなんて」
「へ?」
「い、いや! 友達は名前で呼ばれているのにアタシだけそうじゃないのってなんだか寂しいっていう意味というか、えっと……ダメ、かな?」
今井さんの上目遣いに自分の胸の鼓動が、速くなっていくのを感じた。
(それ、反則)
彼女のそれに何にも感じない人はいないのではないかと強く思う。
「いや、今井さんが良ければだけど……えっと、リサさん?」
「~~~~っ」
試しにと名前で呼んでみたところ、顔を真っ赤にして声にならない声を上げ始めた。
(というより、僕も顔赤くなってるな、これ)
そんなことを考えると、自分たちの姿がだんだんおかしく思い始め
「「っぷ。あははは!」」
二人そろって笑い始めるのであった。
「はぁ……やっと落ち着いたよ」
「こっちも」
しばらくして、ようやく笑うのを止められた僕たちは、先ほどまでの緊張感はまるで嘘のように消え去ていた。
「女子を名前で呼ぶのって、本当に恥ずかしい」
「それは女の子も同じだよ」
それこそ、幼馴染レベルであれば、平気なのかもしれないが。
それからしばらくして、あまり長居するのも失礼だと思い、僕は帰ることにした。
「それじゃ、僕はこれで失礼するね。今日はありがとう、リサさん」
玄関先でもう一度リサさんに教えてくれたお礼を言う。
もう既に名前で呼ぶのは、まだ若干恥ずかしくはあるが慣れてきていた。
この調子なら明日には普通に話すこともできるはずだ。
「こちらこそ。ファイトだよ……
「え!?」
外に出た時にリサさんにかけられた言葉に、慌てて振り返るも、ドアは既に閉まっていた。
(今、名前で呼んだよな?)
僕の幻聴や聞き間違いでなければ、間違いなく僕のことを名前で呼んでいた。
(何でだろう、リサさんだとものすごくむず痒いんだけど)
紗夜さんや日菜さんに名前で呼ばれたときには感じないむず痒い感覚に戸惑いつつも、再び赤くなった顔を何とか元に戻そうとしながら、僕は帰路につくのであった。
ちなみに、これは余談だが。
「~~~~~~っ」
今井家の玄関先で、リサさんが顔を真っ赤にして恥ずかしさのあまりに、身悶えていたとかいなかったとか。
そして……
「あれ、Rainに日菜さんからのメッセージが……ってなんじゃこりゃ」
自宅に戻って寝る前にスマホを確認したところ、チャットアプリに日菜さんからメッセージが届いていた。
とはいえ、その内容は
『(#^ω^) (#^ω^) (#^ω^)』
という、まったくもって意味不明で不気味なものだった。
ついに、UAが6万を超えました!
投稿を始めて約半年、短いようで長かったですが、ここまでこれたことがうれしく思います。
これからもよろしくお願いします。
そして、次回は明日の0時に投稿する予定ですので、こちらも楽しみにしていただけると幸いです。