今回は、放課後の話になります。
「あっはは。それじゃ、また引き分けってことね」
「笑い事じゃないよ」
放課後、お昼の出来事の顛末を聞いた森本さんに、僕はため息を漏らしながら返す。
中井さんはお昼の時のお詫びで、松原さんにおいしいコーヒーを入れてくれる喫茶店に向かっている。
(確か羽沢……何とかって言ったっけ)
今度中井さんにでも場所を聞いておこうと決めて、頭の片隅に追いやった。
田中君は先に自宅に戻っているらしい。
「こっちは啓介が騒いじゃってさ」
「それは自業自得だと思う」
森本さんが苦笑しながら語るのは、今日の朝の出来事らしい。
なんでも、最初の科目で抜き打ちの小テストがあったらしい。
しかも一定の点数に満たない生徒は補習というペナルティ付きの。
そのテストで見事に補習対象となった啓介は、現在補習授業を受けさせられている。
「すごかったなー。確か”抜き打ちテストなどという極悪非道なやりかたに、断固抗議する”って、シュプレヒコールを上げ始めて」
コールを上げ始めて」
「で、それに便乗した生徒たちまとめて、山のような追加課題を課せられたっと」
最初からおとなしく受けていればよかったものを……。
そんなことを思っていると、いつの間にかY字路のところまで来ていた。
「っと、一樹はあそこだったよね。それじゃ、今日はここで」
「また明日」
僕たちは手を振って別々の道を歩いていく。
いつもであれば、森本さんと同じ方向に行くのだが、今日は田中君の家に用があるのだ。
(さてと、頑張りますか!)
僕は気合を入れつつ、田中君の家に向かって足を進めるのであった。
田中君の家は、居住スペースである2階建ての建物の反対に1階建ての建物がある。
今日、僕が用があるのはそっちなので、裏のほうに回る。
「もう始まってる」
その建物の中から聞こえる喧噪は、中で始まっていることを知るのに十分なものだった。
僕は足早にその建物……『田中柔道場』に駆け込むのであった。
「よし。それじゃ、一坊! 手始めに一本」
「はい、お願いします!」
中に入って柔道着に着替えた僕は、師匠でもあり、田中君の父親
稽古といっても、僕が行うのは相手が攻め込んできたときのカウンターなので、こちらから攻めることはない。
よって、本番の試合では無気力試合とされて一本負けになるのがオチだ。
とはいえ、僕は柔道選手になるつもりはない。
「ふっ!」
「てやぁ!」
おじさんが突っ込んでくるのを冷静に見極めた僕は、スムーズな動きで技をかけられないようにしつつ、おじさんに大外刈りを仕掛ける。
体が畳に打ち付けられる音が響く中、僕はおじさんを必死に畳に押さえつける。
「ぐぉぉぉ!!」
「っ!」
おじさんは必死に僕の拘束を解こうともがくが、それを僕も防いでいく。
やがて
「そこまでっ! 一本」
壁際で見ていた審判役の田中君の一言で、おじさんは力を抜いたので、僕も力を抜く。
「はぁ、はぁ……一坊、精進したな」
「はぁっ、はぁっ。ありがとう、ございます」
息を完全に切らしている僕とは違い、おじさんはそれほど息を切らしていない。
(まだまだ……だな)
改めて、自分の未熟さを思い知り、自分に奮起を促す。
「よし、ではいつものメニューをこなせ。聡志、相手を」
「はいっ」
おじさんの号令で、僕たちはいつもの『腹筋、背筋、腕立て100回の10セット』を始めるのであった。
「ありがとうございました!」
「おう。気をつけて帰りな」
おじさんに見送られながら帰路につくときには、すでにあたりは暗くなっていた。
(今日もハードだった)
月に2回おじさんの好意で、自身が経営する道場で、トレーニングを受けさせてもらっているのだから、感謝してもしきれない。
しかも、お願いもしていないのに、メニューを考えてくれたり一本勝負までしてくれる面倒見の良さは、田中君の親なんだなと思ったのは、記憶に新しい。
そもそも、僕が柔道場でトレーニングをしているのは、護身術が主な理由だが、もう一つの理由として、バンドのことがある。
意外かもしれないが、楽器の演奏というのは思いのほか体力を使う。
ギターであれば腕だったり、ドラムであれば体全体を使って演奏をする。
だからこそ、ある程度の体力が必要だというのが僕の持論だ。
中井さんたちだって、時たま走り込みをしているらしい。
結果についてはご愛敬だが。
(啓介のタフさは、もしかして運動からきてるのかな?)
何度叩き潰しても、数分でケロッとしているのを見てると、そんなことを思ってしまう。
「ま、それが啓介か」
そう意味不明な結論をつけて、僕は自宅に戻るのであった。
「ただいまー」
「おかえり。疲れたでしょ。すぐにご飯にするからちょっと、待っててね」
家に入るなり、ぱたぱたとスリッパを鳴らしながらリビングから出てきた母さんに、”分かった”と答えて、僕は手を洗いに洗面所に向かう。
そして、手を洗い終えたところで来訪者を告げるチャイムが鳴り響いた。
(この時間に来るとなると、お隣さんかな)
父さんは自分の家のカギを持っているので、チャイムを鳴らすことはない。
夕飯の時間帯を考えても、相手の特定は容易かった。
「一樹、悪いけど出てくれる?」
「わかったっ」
ご飯の準備で手が離せないのだろう母さんの代わりに、僕は玄関口へと向かう。
(やっぱり)
念のためのぞき穴から来訪者を確認すると、そこには僕の予想した通りの人物の姿があった。
僕は鍵を開けてドアを開ける。
そこに立っていたのは、緑色の髪を腰元まで伸ばした女性だった。
「あら、一樹さん」
「こんばんは、紗夜さん」
僕だとわかると、人当たりのいい笑みを浮かべるのは、
彼女は、僕の隣の家に住んでいて、昔からおかずのおすそ分けなどを持ってきてくれてる家の娘だ。
紗夜さんは敬語で話すが、それは彼女の性格故。
ちなみに、最初のころは”氷川さん”と呼んでいたのだが。
『それだと妹と母と紛らわしくなるので、その……紗夜と呼んでください』
と、顔を赤くしてお願いされてからは下の名前で呼んでいる。
「母からおかずを作りすぎたのでと、こちらを」
「うん。いつもありがとね」
本当にいつもいつも助けてもらってばっかりだ。
もちろん、こちらも何か料理を作ってそれをもって行ってるので、ちゃんとお返しはできているが、いつか僕も何か作って持っていきたいなと思っていたりする。
「そ、それで。良ければ、返したときに感想を……」
「え?」
恥ずかしいのか髪を手でくるくるといじる彼女の姿に、僕が首をかしげていると
「な、なんでもありませんっ。それでは」
「あっ……」
頬を赤くして呼び止める間もなく去って行ってしまった。
結局のところ、言葉の真意を聞くことはできなかったが、とりあえず今度会ったら感想を言おうと思い、僕は受け取ったお皿を手に家の中に入るのであった。
ちなみに、今日いただいたのはポテトサラダで、とてもおいしかった。
ただ、ジャガイモの大きさがバラバラになっているのが少し気にはなった。
(いつもだったら、ちゃんとそろっているんだけど)
まあ、たまにはそんな日もあるかと、自分に言い聞かせるのであった。
★ ★ ★ ★
「ふぅ……」
自宅に逃げ込んだ私は、緊張で上がった息を必死に落ち着かせる。
(渡せた。何とか)
今日、私は母に無理を言って料理を作らせてもらったのだ。
料理の練習はあまりできなかったが、それでも母に料理を教えてもらいながらなんとかできたのが、あのポテトサラダだった。
(美味しくできてるといいんですが)
大丈夫。
味見もちゃんとしたし、形は歪だけどおいしかった。
私は一樹さんのことが好きだ。
理由は私にもよくわからない。
でも、もしかしたら一目惚れだったのかもしれない。
それでも、理由として挙げるのであれば小学生の時の
(でも、もしかしたら)
思えば、この気持ちになったのと、私がコンプレックスのようなものを抱き始めていたのは、同じ時期だったかもしれない。
最初は軽くお礼を言ったり言われたりするくらいだったのに、気が付けば軽くではあるけど世間話をするほどにまでなっていた。
「どうしたの? おねーちゃん」
「っ。日菜」
気が付くと目の前には双子の妹の
「別に何でもないわ」
「……そう? お母さんがご飯にしようって」
「先に行ってて。私もすぐに行くから」
私は日菜を先に行かせて、軽く深呼吸をする。
日菜と一樹さんとはまだ面識はないはず。
(もし日菜が一樹さんに会ったら、また一樹さんは日菜にとられる)
ただの私の考えすぎなことは分かっている。
でも、一樹さんはとても魅力的な人だ。
日菜が気にならないはずがない。
(もし日菜が一樹さんのことを好きになったら、一樹さんは……いえ。止めましょう)
そこまで考えていたことを軽く振って止めた。
(今年こそ、私の思いを伝えて見せる)
それで駄目だったとしても、構わない。
自分の気持ちに踏ん切りがつけられる。
私は、心の中でそう決心をしながら手を洗いに洗面所に向かう。
でも、私がこの思いを一樹さんに伝えられることはなかった。
何気に氷川姉妹っていいなと思う今日この頃です。
そろそろ本章も折り返し地点ですので、お楽しみに。
19/10/5 追記
今後の展開を踏まえて、一部加筆修正を行いました。