梟にも似た鳴き声が遠くに聞こえる。
「…少し休憩しよう」
「蓮子からの提案とはね。賛成」
こいしを座らせ、岩に隠れるように二人で座る。
背に感じていたこいしの温もりが消え、自らの体が冷えている事に気がついた。
「蓮子、寒い?」
「……少しだけ冷えてきたわ」
「今ぐらい強がらなくていいの。はい、上着」
「ごめん、借りる」
空の色は紅。
サラサラと葉の擦れる音が、不気味さを帯び始めている。
互いに上着を着ると、身を寄せた。
「さて、どうしましょ?」
「境界の向こうに遊びに来た時とは、少し状況が違うわ。竹林から出る方法は不明」
「うーん…夜になれば月と星を見られるけど、長居をしたくないのが本音」
「じゃあこれだけ決めましょう。―――ここを動くか動かないか」
その言葉に、蓮子は考え込むように目を伏せる。
「………竹に跡をつけて歩くのは可能?」
「無理。傷をつけても暫くすると消えているわ」
「それはヘンゼルとグレーテルも真っ青だ。お菓子の家は何処かしら」
ため息を吐く蓮子の肩を撫でつつ、警戒のために視界不良の左目を閉じて周囲を探ってみた。
境界の解れは一切無い。
これが髪を見た事による幻視だとするならば、その質感はあまりにリアルすぎる。
ヴァーチャルとリアルがほぼ同じになって久しいが、この状態を幻視と言うには流石に無理があった。
と、背後で衣擦れの音。
「…あれ、なにしてんの?」
「え」
慣れた声が聞こえて振り向けば、こいしがそこに立っていて。
「こいし?大丈夫なの?」
「あはは、なにがー?」
この状況に似つかわしくない程の眩しい笑顔を浮かべたこいしに、先程の様子は何だったのかと問い質そうとして口を噤む。
その瞳は、透明なガラス玉のよう。
透けて見えるほどに純粋で何もない。
表情は仮面のよう。
表情筋が動いただけであり、そこに意志を感じない。
背後に境界は見えないが、確信できる。
「…これが無意識、ね」
「ふーん、私が何か喋ったのかな?」
「メリー、どういう事?」
「貴方が以前見た、“境界の中の”こいしよ」
「……状況判断は任せるわ」
それだけを言い、周囲を警戒するように目を動かす蓮子。
そんな様子を面白そうに眺めたこいしは、歪むように笑みを広げた。
「あ、隠れてないで出ておいでよ、兎さん」
「…兎?」
「私には見えているよ。そのスカートも、ニーソも、ローファーも、焦ったように自分の体を見直すその様子も、全て見えている。ほら、出てこないの?臆病な兎さん?」
明らかに様子のおかしい、虚空に語り掛けるこいしの背後に二人で隠れるように身を縮ませると、何処からともなく声が聞こえてきた。
「…成程ね。久しぶり過ぎて誰か分からなかった」
「私に波長は無い。全てが通り抜けるだけで乱されないから、波長を弄るのは無意味だよ」
「知っているわ。そんな奴は二人も見たこと無いしね」
そう言ってこいしの前に姿を現したのは、女子高校生だった。
否、服が女子高生っぽいというだけで、容姿は並みの女子高校生からはかけ離れている。
微かに紫を帯びた白い髪は肩で切り揃えられ、バニーガールのような兎の耳が頭から生えていた。
目には包帯を巻き、美しい顔立ちの筈なのに不気味さが際立っている。
話し掛けてはいけないタイプの匂いがする人だった。
「深追いする人間の対策に髪にくねくねの特性授けて徘徊させてたら、また変なのが引っ掛かったなぁ」
「やっぱり怪異の狂気だった。気持ち悪さに覚えがあったからそうだと思ってた」
「…ところで後ろの人は?」
「秘密。貴方には教えない」
「あっそー。ま、どうでもいいんだけどね」
そう言ってクルリと回れ右したかと思えば、その兎人間は思い出したというようなそぶりを見せる。
何かを投げてきたので、私がどうにかキャッチすると、薄笑い付きで話し掛けてきた。
「それあげるから早く帰りなよ?もう暫くすると戻れなくなる」
「これ…」
「特製の目薬。目から受け取った狂気は目から引っ張り出すのが手っ取り早いから」
試しに左目に点せば、若干霞んでいた視界が異常なほど鮮明に―――
「…二度と来ないでよね。昔ほど平和じゃないんだから―――」
「え?」
一瞬にして竹林は幻のように消え、いつの間にか夜の樹海に戻っていた。
隣には蓮子もいて、“境界の閉じた”こいしが少しボーっとした状態で立ち竦んでいる。
「ここ、は。…メリー、帰ってきたって事でいいのかしら」
「そう…だと思うわ」
暫く、紺色の空に浮かぶ月を見る蓮子。
「…場所は間違いなく富士の樹海。時刻は日が暮れたばかりかな」
「じゃあ本当に帰ってきたのね」
「こいしは…」
「多分だけど、目薬を点せば元に戻ると思う」
どういう原理なのかは分からないが、事実私はそれで戻った。
こいしを抱き寄せ、その大きな瞳に一滴づつ。
「…ぅ」
「さ、帰るわよ。じゃあメリーがこいし背負って、考察はまた後日」
「ちょ、ちょっと待ってよ!私疲れてるんだけど!?」
「暫くしたら歩けるようになるでしょ!ほら!早く!!」
夜の樹海に声が響く。
富士山の麓で起きた、謎の竹林に迷い込む事件。
考察は後でいいので、ともかく今は、
「待って!寒くてお手洗い行きたいの…!!我慢してたから背負うの無理ィ!!」
「はぁ!?その辺で済ませなさいよ!!」
「この歳で非文化的行為は嫌!!」
「贅沢を言うんじゃない!」
早く、文化的な建物に入りたかった。
…ワイワイと騒ぐ女二人の声が聞こえる場所から、遠く遠く、富士の樹海の奥深く。
まるで蛇のように這う、編み込まれた白い髪を拾う姿があった。
「……元巫女から報告があって見てみれば、まったくまた変な事を」
「うぅ…すみません」
「まだまだ未熟ねぇ。バッサリ切ったと思ったらこんなことに使って」
優しげに兎の耳を頭から生やした女性の頭を撫でるのは、赤と青の二色ドレスを着た女性。
「隠すなら、まるで無いようにするのが一番よ」
「証拠を残す私が馬鹿でした…」
「ハイハイ。じゃあ罰は自分で考えなさい」
「そんなぁ~罰くださいよぉ」
「罰を貰って罪悪感を薄れさせないように。私は甘くないの」
「うぅ…」
その会話を聞いた者は、その二人以外には存在せず。
軽快な会話を交わしながら二人は樹海の闇に紛れ、そして姿を消した。
―――満月が照らす樹海は、大昔からの姿を保ち続けている。
日本を見続けたその木々たちは、不気味な風を受けて揺れていた。
まるで、懐かしいものを見つけたと、囁くように。