本の質の例えは燕石博物誌に拠るものです。
「ただいまー」
「おかえり」
「うわ全裸」
帰って早々目に飛び込んできた肌色に目を背けた。
ハーンは家の中で服をあまり着ないらしく、慣れた今では普通にその辺を歩き回っている。
正直、食事中などは味に集中できないのでやめてほしい。
「服を着て」
「ナイスバディに見惚れてもいいのよ」
「処理が甘い」
「サイテー」
クスクスと笑うハーンに促されてソファに座ると、目の前のテーブルに小さなクッキーが置かれた。
「蓮子が面白いの見つけたからこいしにって」
「蓮子が?えぇ…」
手にとって見てみると、綺麗な小麦色。
どこをどう見てもクッキーなので、取り敢えず口に含んでみた。
サクサク、ホロホロと砕ける、程良い食感。
視覚、聴覚、感覚は完璧だ。
鼻に抜ける大根の味と香りで、味覚、嗅覚が混乱するが。
「…ナニコレ」
「味と風味を完全再現した野菜クッキー」
「私の脳がクッキーを食べているのに、鼻と舌がこれは野菜だって騒いで頭がおかしくなりそう」
「それがウリみたいよ。はいこっち」
「………ニンジンだね…」
食感は完全にクッキーである。
ただ、香りと味の野菜感が強すぎて気持ち悪い。
慣れ親しんだものは、慣れたものだからこそ美味しいのである。
「いらない?」
「よくハーンは食べられるね」
「そりゃあ、合成食でしかないからね」
これは密かに驚いた事だが、この外界ではもう自然栽培された野菜や果実などは殆ど出回っていないらしい。
味と風味と食感を再現し、栄養分を調整した“合成食”が安価で販売され、人はそれを食べている事が多い。
というより、基本的には合成食しか食べないのだ。
天然物なんて、本と同じく質に価値を見出した金持ちの道楽でしか無いのである。
人は、自分達で自分達の食料を補完する事に成功していた。
「合成食の中でもまだご飯味のパンの方が食べやすかった…」
「クッキーと野菜はかなり毛色が違うからね。脳が受け入れにくいのかもしれないわ」
そう言ってクッキーを齧るハーン。
人は味を作れるようになって久しく。
いつの間にか、美味への探求を忘れてしまっていた。
見た目と食感と味と栄養を作れる事は食に対する冒涜と言われていたが、低迷する食料自給率を前に誰しもが口を閉じた。
閉じざるを、得なかったのだ。
「ハーン、相談だけど、東京行っていい?」
「あら?それはまたなんで?」
「伊吹とデートしたくて」
「ふーん、寝取られたって講義室で騒いでやろうかしら」
「伊吹は多分引くぐらい大泣きするよ」
「…そうね、確かにそういう性格だわ」
本気では無いにしろ、実際にやったら伊吹は多分引くぐらい大泣きして家に引きこもる気がする。
精神力は強いのだが、どうにも子供っぽさが残っているのだ。
「いいわよ。なんならヒロシゲのチケットも取ってあげようか?」
「お願いしてもいい?」
「いいわよそれぐらい。それよりシャワーでも浴びてきたら?」
「ありがと」
端末を弄り始めたハーンをよそに、脱衣所へ向かう。
一糸まとわぬ姿でバスルームに入れば、湯船にお湯が張ってあった。
「ハーン!このお湯って入っていいやつー!?」
「いいわよー!ぬるければお湯足してー!!」
リビングから返ってきた声を聞くや否や、手桶でかけ湯して飛び込む準備をする。
のだが、その前で失敗した。
「あづぁい!!!?」
お湯の温度は、ハーンが設定した温め直しで50度まで上がっている。
伝え忘れたとはいえ、並の人間なら火傷しているところであった。
ちょろちょろと水を入れながら、先に髪を洗う。
浴びたのは熱湯だが、気分が冷えてしまい。
日本語とは難しいものだと考えながら、こいしはガシガシと髪を洗うのだった。
しかしその動きも3秒ほどで止まった。
「…このキシキシは…まさかボディソープ…?」
深い深い溜め息が、バスルームに響く。
ボディソープお湯で洗い流すこいしの目は、虚ろだった。