街を歩き、周囲を見渡す金色の獣瞳。
八雲藍は疲れた顔で付喪神を回収し終わった事を確認すると、周囲の仙界を解いた。
酷く冷えた風が吹き、妖怪の根幹を冷たい手で触られたような感覚がする。
「あぁ、寒い寒い」
決して寒くはない気温の中で、凍えるような冷えが喉を締め付けた。
外の世界は、藍にとってあまりにも厳しい世界である。
冷え切った根幹は鑢で削られるように、チリチリと摩耗していった。
居てはならない世界に身を晒す事は、あまりにも辛い。
妖気を全て奥底に封じ込め、自らを人の身へと貶す。
じんわりと暖かくなった掌を太陽に向け、藍は歩き出した。
「───眩しいな」
尾を下げぬ足取りは、素晴らしく軽やかである。
そこに、重みがないように。
ハーンの朝は遅い。
起こしても起こしてもベッドへ戻る彼女をどうやって覚醒させるかが最近の悩みである。
「おはよー。こちらはアツアツのタオル」
「熱いわねえ!?」
朝食に使った湯の余りをタオルにかけ、ハーンの胸に放った。
火傷はしないだろうが、裸で冷えた体にはさぞ熱く感じた事だろう。
一発で目が覚めたのか、渋々ソファまで来たハーン。
「胸が溶けるかと思った」
「脂だしね」
「言い方ぁ!」
女の肉は男と比べて柔らかで美味いが、胸は脂分が多過ぎて胸焼けするものだ。
そういう点で蓮子は全身美味しい。
言ったら怒られそうだが。
「朝ごはんはキノコとマカロニのスープ。あとパン」
「うーん、優雅な朝食ね」
優雅に振る舞う前に、せめて下着は履けと言ってやりたい。
手掴みで食パンを食べている姿は、正しく原始人のそれである。
マグカップに入ったインスタントのスープを啜り、溜息を吐いた。
「講義は?」
「昼過ぎ。だから別に寝ていてもいいでしょう?」
「寝る子は育つと言うけれど、寝る大人は腹しか育たないよ」
今のところ括れているが、いつか美味しい腹になるだろう。
食べる気もないので、固かろうが柔かろうがどうでもいいが。
「ん、そういえば伊吹とのデートはいつなの?」
「……そういえばまだ決めてないな」
「早めに決めたほうがいいわよ。当日でもチケットは取れるだろうけど、位置の悪い席とかしか残らなかったりするし」
「今聞いておくよ」
伊吹とのチャットを開く。
『東京行けるよ。行くのいつにする?』
一度食パンを食べるために端末を置き、もそもそと口に押し込む。
暫くの時間を置き、テーブルの上で振動音を鳴らした端末を取ると、予想とは違ったメッセージが入っていた。
『長野の件、仙人がいたみたい』
ママだった。
なんとも言えない顔になると、返信のために文字を打ち込み始める。
『仙人が外の世界で何を?』
『外の世界への進出を画策していたみたい』
『馬鹿じゃないの?』
わざわざ幻想郷を出てまで身を晒すなど、よほどの馬鹿か、自殺願望か。
安寧の地より冷徹な地を求めるなど、何を考えているのだろう。
幻想郷に、行き過ぎた自由は無い。
だが、それを求めて外の世界に出れば、存在の自由すら無い。
ちょっと考えれば分かりそうな話だが、仙人の考えなど知る由もなく。
『とりあえず話はわかったよ。それと近日中にハーンと別行動して東京に行く』
『あの子から聞いたわ。楽しんでらっしゃい』
『ふと思ったんだけど、なんで私に優しくするの?』
暫しの間を持ち、端末が震えた。
『私が母だから』
なんとなく、その言葉に嘘は無い気がした。
お金に関する感謝の言葉を送り、端末を置く。
「…ハーン、食べながら寝ないで」
「うーん…はっ!これは玄米!」
「それはパンだよ」
「パンダ!?」
寝惚けて手に持ったパンを落としたハーンを見て、なんとなくだが子育てに苦労したんだろうなぁ、と思った。
───私も母だから。
その言葉を己の中で反芻する。
メリーを産み、育ててきた私は、確かに母なのだ。
母の像など無い。
そもそも私に母などいないからだ。
手探りの“母”だったが、私は間違いなくあの子の親なのである。
「…懐かしいわねぇ」
朝の弱いあの子の髪を梳かしてあげた記憶が蘇る。
私と同じ、サラサラの金の髪。
懐かしい気持ちのまま、キッチンへ向かう。
あの子が小さい頃、とても好きだったパンケーキをふと作ろうと。
娘の笑顔を思い出し、自然と優しい笑みが溢れていた。