人の脳をすべて解き明かす事は、ある意味で不可能かもしれない。
そんな男の声が、講義室に響く。
「他人の脳を調べて、客観的な正解を導き出すことはできる。
だが、それを嘘ではないと証明するのはとても難しい。
かといって、自分の脳を自分で弄って主観的な正解を導く狂人は今のところ“少ない”。
そしてそんな優秀過ぎる研究者ほど、長生きをしていない。
脳の働きで今の所判明している“殆ど”は客観的正解でしか無いのさ」
黒いパーカーを着た教授は呟きながら巨大な電子ボードを操作し、自らの頭をポンポンと叩く。
若いとも老けているとも言える典型的日本人の容姿をした教授は、その顔に表情を浮かべないまま口だけを開いた。
「僕が触るものは精神学なので、物質的な脳の働きについては無知に等しいとも言える。
僕の発言は間違っているかもしれないし、正しいかもしれない。
大切なのは、ふと疑問に思った事を外に出す事だ。
疑問に思った事は調べる。
正しい知識があればそれを識り。
答えが無ければそれを論文に纏めればいい」
さて話が逸れた、と教授は電子ボードに文字を打ち込んだ。
「申し訳ないね、復旧までの雑談に付き合ってもらって。んじゃ引き続き無意識と有意識の講義を始める」
パンパンと手を叩き、教授は薄い笑みを浮かべた。
教授は、教え子達に持論を叩きつける。
教え子は、教授に疑問を叩きつける。
疑問に答えを返す教授が、この日最も面白いと感じた疑問は「有意識しか無い人間と無意識しか無い人間はどんな存在か」である。
それに対する教授の答えは───
一人対多数の応答式講義は、さながらかなり昔の法廷のように見えた。
○
音声データ並びに映像データの保存を確認し、端末を置いた。
講義はデータ管理が基本である。
「……」
自らの投げた問いに対する教授の回答に、こいしは難しい顔をして端末に目を落としていた。
有意識しかなければ、必ず生活に支障が出ます。
呼吸をする。立っている場合はバランスを考えねばならず、目が乾燥したら瞬きをする為に瞼を下ろさねばならない。
あぁ、歩くなんてとんでもない。
手を動かし足を動かし、左右へのバランスを考えて足首を動かし、重心を変え、それを先程行った事と合わせて行う。
同時にいくつもの事を進行していくんだ。
ほぼ失敗するだろうね。
そして、無意識だけ。
こちらは逆だ。自我が介入しないんだよ。
テーブルに置かれているケーキを美味しそうだと思い、フォークを手に取り、それを刺して口に入れる。
これは意識的動作だ。
このケーキを食べる動作が全て無意識になると、突然犬食いをし始めるかもしれないし、手掴みで食べるかもしれないし、フォークだけを口に入れるかもしれない。
それも無意識に行なっているから、当人はそれを知らない。
そもそも、知る自我が無い。
もう殆ど無機物とも言える存在だね。
教授はにこやかにそう答えていた。
「…ハーン、晩御飯何にする?」
「へ?うーん…手軽にサンドイッチとか?」
「そのアイデアいただき」
いつも通りの笑顔で席を立つこいし。
その背は、どこか沈んで見えた。
○
大学構内のコンビニには、ある程度の惣菜も売っている。
というよりその辺のスーパーマーケットに負けず劣らずの品揃えだ。
「生ハムとかって無いの?」
「あー…火を通すなら別だけど、そういうのはちゃんとしたところ行かないと美味しく無いよ。合成肉専門店とか行くのがいいと思う」
「ふーん、チーズは?」
「いつも家にあるチーズが美味しいやつ。まだあったしそれ使えば?」
「それいいね。挟む野菜は…」
「野菜味のクッキーが残ってたけど」
「絶対食べない」
わいわいと買い物かごに商品を入れていく。
大学の学生は老若男女おり、雰囲気は本当に街中のスーパーのようであった。
「お酒は…」
「お酒って新型でしょ?いいよジュースで」
「おっけ。ってあれ、あの後ろ姿は…」
こいしが目を眇める。
歩き出したこいしについて行けば、陳列棚と歩く人々に紛れ、見覚えのある背が見えた。
粉物類を物色する、覇気のない猫背。
「伊吹」
声をかければ、ビクンと背が伸びた。
ゆっくりと振り返る顔は、完全に怯えている。
やがて私達の顔を認識したのか、大きく溜息を吐いた。
「驚かせないでよ…」
「勝手に驚いたんでしょう…」
ホットケーキミックスを片手に、灰色のパーカーと黒いジーンズ。
その姿はハッキリ言って、地味。
どこからどう見ても伊吹結香である。
足元の買い物かごには、スナック菓子の山。
「「うわぁ」」
「なんだその反応はぁ!」
いくら不健康な部分を削ぎ落としたとしても、自ら努力しない努力をしてまで生活習慣病に突き進む患者は時々いる。
例え医療が発達したとしても、習慣を正す治療は苦しいものだと調べればすぐに分かるものだが、それでも人は甘えていく生き物なのだ。