不思議なことにプロローグは無いのにエピローグはあります。
一日中電車は運転しているらしく、京都まで帰って来た私達は全員でハーンの家に辿り着きダウン。
そこからの記憶は曖昧だが、夜中に手洗いの方で水をぶちまけたような音が聞こえて来たのは覚えている。
「───すみませんすみませんすみません…もう二度としません許してください許してください」
あと蓮子の謎の謝罪の声も。
そんな夜も明け、朝が来た。
酔いのせいか、目覚めは引き摺り上げられたかのような不快感。
辛うじてベッドに辿り着こうと努力はしたのか、ハーンの部屋へ繋がる扉にもたれかかって寝ていたようだ。
とりあえず体を起こせば、惨状がそこにあった。
まずソファの背凭れ“に”寝る蓮子。
服は乱れている上に、どういう事なのか袖が背で結ばれ、腕が裾から出ていた。
そしてハーン。
テーブルに乗って寝ていた。これはもう行儀が悪いとかのレベルでは無い。
しかも何を考えたのかブラジャーが頭に巻かれている。
柄に見覚えが無く、サイズがハーンのものと違うので多分蓮子のやつだ。
───今蓮子はノーブラなのだろうか。
まぁそんな事はどうでもいい。
どうでもよくない。いいか。
体の各所が軋む感覚。
雑魚寝は不慣れでは無いものの、やはり良いものでは無い。
「…んー」
体を伸ばせば、ボキボキと各所が鳴る。
誰かが動く気配を察知したのか、ハーンが薄らと目を開けた。
「……うん」
よく分からないが、納得された。
一回頷きそのまま目を閉じる。
絶賛二日酔い中らしい。
いつもなら介抱しながらこの部屋で一日潰すが、今日は出掛けることにした。
「えーっと…要らない紙…なんて無いし、端末に連絡入れておけばいいか」
端末のメッセージで外出を伝えておく。
ハーンの端末から軽快な通知音が鳴ったのを確認し、着替え始めた。
「───あれ?」
昨晩履いていたストッキングを脱ぐと、あるはずの物が無い。
探してみれば、覚えのある布地が洗濯カゴの中に見えていて。
脱いだ記憶も無く、昨晩の記憶を思い出しても分からない。
「……」
思考停止。全て無意識のせいにした。
●
準備も終わる頃には、ハーンがのそのそと動き始めていた。
瞼が重いのか、手探りで周囲の物を確認している。
丁度その動作を見た時に、ハーンが蓮子の尻を鷲掴みにした。
「……こいし?」
何を思ってそう判断したのか問い質したい。
「いや、この薄さは蓮子か」
両者に失礼だぞ。
「こいしはもっと肉厚」
「セクハラだよハーン」
「おはようグラマラス」
「誰がグラマラスだむっちり」
「傷ついた!傷つつつ…うぅ頭痛い…」
昨晩は余裕そうだったが、やはり旧型酒なだけあり、後日に尾を引く。
外の世界では旧型酒経験は総じて少ないらしく、例に漏れずハーンと蓮子の二人はいつも通りに二日酔いでダウンしていた。
「出かけてくる」
「じゃあ蓮子のパジャマにベルトコンベアがね…」
「はい?」
「だからぁ、蓮子のパジャマにはベルトコンベアのね…」
どうやら夢と現の境界を彷徨っているらしい。
よく分からない事をゴニョゴニョと呟くハーンに毛布をかければ、やがて寝息が聞こえてくる。
冷蔵庫の中のメロンパンを頬張ると、そのまま外に出た。
───が、ふと興味本位でUターン。
ぺろりと布を摘んで捲る。
何とは言わないが、蓮子はつけていなかった。
スッキリした。
やはり悩んだ事を持ち越すのは良くないのだ。
───冷静になった。
今度、蓮子に何か奢ろうと決めた。
●
看板は掛かっていない。
昼頃になってしまったが、目的地へと辿りついた。
扉を開けて入れば、思わず頬が緩んだ。
懐かしい臭いだ。
前よりも濃く、明確な臭い。
以前に懐かしいと感じた理由が漸く分かった。
それはそうだ。この臭いは、あまりにも嗅ぎ慣れている。
───死臭だ。
それも腐臭では無い。
濁り無き、死人の香りである。
「…渡したんだ、最後の寛永通宝」
「あれ、お客さんすみません、今日はお店休みで…」
「客として来てないから見えない」
「えっと…?」
カウンターでは無く、客席側に置かれている座椅子に座っていた店主が顔を上げ、ほんの僅かに笑った。
「なんだ、君かい」
「こんばんは、古銭好きのお兄さん」
「はは、店主と呼ばないあたり真面目だね」
客として来ていないのだから、店主と呼びたくない。
気分の問題だ。
今の私達の関係は、ただの知り合いである。
「まぁ座りなよ。立ち話も疲れるだろう?」
「じゃあ遠慮無く」
対面に置かれていた椅子には座らず、客席に座った。
狭い店内なので、話すならここでも十分である。
「こっちには座らないのかい?」
「特等席に座わらせてナンパするならやめておいたほうがいいんじゃない?少なくとも、怒った顔で出迎えられたくないでしょ」
「…知っているんだね」
「その席が貴方の大切な人のものっていうのなら分かるかな」
「いいや、そっちじゃない」
「…これだけ死の臭いがしてるもの。分かるよ」
彼は少しだけ溜め息を吐き、静かに笑った。
「カクテルを奢るから、また少しだけ話を聞いてくれるかい?」
「いいよ」
「ありがとう。ちょっと待ってて」
カウンターの方でガチャガチャと何かを探す音。
暫くして目の前に置かれたのは、カクテルグラスに入った乳白色のカクテル。
「この前と一緒のsilk stockingsだけど、いいかな?」
「なんでもいいよ。でも旧型をタダでいいの?」
「いいも何も、僕にはもう必要の無いものだから」
「そっか」
深い笑みを作った彼は、元々座っていた座椅子へと腰掛けた。
首元の古銭を弄りながら、静かに首を揺らす。
「…あいつ、泣きながら来ないでって言ってね」
「奥さん?」
「そうだよ。姿は分からなくても、声は今でも鮮明に覚えている」
「来ないで、って言われたんだ」
「そりゃあもう、今まではあんなに楽しそうだったのに、君達と一緒に行ったあの橋の上だと来るな来るなの繰り返し」
カクテルを少しだけ口に含む。
「困ったよ。拒絶された事なんてあんまり無かったからね」
「惚気?」
「ははは、惚気」
カクテルが甘ったるく感じてきた。
彼は戯けたように手を振ると、遠くを見る。
「でもまぁ、寂しい?って聞くと、寂しいって答えるんだよなぁ」
「…随分愛されていたんだねぇ」
「ビックリだよ。でも同時に、嬉しく思った」
彼は笑いながら、店内に飾ってあった指輪を手に取り、輪の内側を覗き込む。
「その嬉しさが、今生きている価値を上回った」
「…それで渡したんだね」
「夢の中とは言え、お婆さんから何度も確認されて笑っちゃったよ」
「馬鹿な人間だって言われた?」
「まぁね」
カランコロン
出入り口の扉にぶら下がったベルが鳴る。
どうにも今日は、店が開いていないのに人が来る。
「いらっしゃいませ」
店主が入ってきた人物を見て、少しだけ眉を上げ、そして満面の笑みを作った。
「…おや、そこにいるのは」
「また、会ったね」
どうしてここにいるのか、とは問わない。
入ってきたのは初老の女性。
まるで喪服のような黒い着物に身を包んでいる事と、吊り上がった目尻から、どこかハッキリとした印象を得る。
「ふむ、ここは酒を出す店と思ったけど…何か酒はあるかい?」
「ちょっと待っててくださいね。とっておきがあるんですよ」
調理場の方へ入っていった彼を目で追い、女性は私の隣に座った。
「随分若く見えるけど」
「この時代に皺くちゃでいたらアンチエイジングの宣伝を路端でしつこくされてね。あとはお墓の宣伝とか」
「貴女にお墓の広告とは、笑えるね」
「全くもって」
三途の河で待ち構える者にお墓の宣伝とは、何という冗談だろう。
聞くだけで笑いがこみ上げる。
「初めまして、奪衣婆。名前は知らないからお婆さんって呼んでいい?」
「初めましてではないだろう、お嬢ちゃん。お姉さんとお呼び」
「お姉様」
「…それはまた違くないかい?」
困ったように笑う奪衣婆。
カクテルを一口含むと、まずは第一の質問。
「なんで妖が現世にいられるの?」
「…厳密に言えばアタシが妖どうか微妙なところだけど。答えるならば、現代の死生観が影響している、とでも言っておこうかね」
幻想は排除された。
謎は全てが理論に結びつけられ、イメージや空想は形となる。
理解できないものを突き詰めて解き明かすのが人の
しかし多くの幻想が解明された事により、“ある条件の下”で人々は幻想を想像した。
これこそが反動。
人の心は相反する衝動を持っていた。
「流石に遥か太古とまではいかないけれど、ある一定の時期を境に死後の世界を信じる人間も増えたのさ」
「…そんな話、聞いたことも無かった」
「人が想像できる範疇で、未だに数字の干渉出来ない世界。人の魂、輪廻転生を解き明かすことが出来ないからこそ、人は死者の世界を想像していく」
「だから、現世に干渉できるんだ」
「あー…それはまた、違う…とも言えないけど…違う…違くないか」
古銭好きの彼の話を仄めかすと、奪衣婆が目に見えて顔色を悪くした。
どうにも、単純な話でも無いらしい。
などと話していれば、店主が戻ってきた。
手には一升瓶。
流れる様に奪衣婆の隣に座ると、笑顔で瓶を掲げた。
「お待たせしました、大吟醸です!」
「…なぜそれを?」
「自分への御供物みたいなものですよ」
「六文銭の時点で思っていたけれど、貴方面白いわねぇ」
供物とは、死者を悼む事とは別に、地獄での罰を和らげる意味合いもある。
奪衣婆に酒を振る舞う事は、確かに御供物としての役割を半分ほど果たしていると言えた。
かと言って、死者本人が直接渡すのは微妙だが。
器の深いカクテルグラスに大吟醸を注げば、どこかお洒落に見える。
「うーんこういう時は乾杯じゃなくて献杯、ですかね」
葬式では無いのだが、彼の言いたい事は分かる。
だから私は、グラスを手に取って彼へ傾ける。
奪衣婆も同様に、グラスを手に取り淡く笑みを作った。
「貴方の素晴らしい今までの人生と伴侶に、献杯」
「貴方の魂のこれからに、献杯」
彼の、深い愛へと敬意を示す。
「では、私と私の伴侶に。そしてこれまでとこれからに。献杯」
チン、と小さな音が鳴った。
大吟醸の透き通った冷たさに酒の辛味が喉を洗う。
こうして、三人の小さな小さな送別会が始まった。
●
「そもそも、僕は過去ばかり見てきたからいつ死んでも後悔はしなかったんだよねぇ」
店主ではなくただの酒飲みと化した彼は、どこか楽しそうにそう言った。
確かに、趣味は古銭蒐集、店では旧型酒を主に出すなど、彼の意識は過去に向いている。
「だからアイツのことも忘れられなかったのかなぁ…」
突如ふにゃりと体の芯を失ったように背を丸めた彼は、グスグスと泣き始めた。
奪衣婆がよしよしと頭を撫で始めたので、面白い物を見たと目を細める。
「なんだい、その顔」
「お婆ちゃんじゃんもう」
「せめて母とお呼び」
「お兄さんとの年齢差幾つよ」
「四桁は確定だね」
「お婆ちゃんでも優しいぐらいでしょ」
「地球なんて母と呼ばれているけど約50億歳ぐらいじゃないか」
「比較対象が大きすぎる」
そのまま奪衣婆に撫でられたままカウンターに突っ伏して寝始めた彼を横目に、漸く本題に入る。
「さて、と。何故、番人とも呼ぶべき者がわざわざ生ている人を幽世に引き寄せたわけ?ひょっとして怨霊とかそっちのケ?」
「誰が怨霊だ縁起でも無い。まぁ…事故だよ事故。彼が“こんな時代に”正しく副葬品なんて入れるから起こった事さ」
奪衣婆は懐から巾着袋を取り出し、中から幾つかの寛永通宝を取り出した。
表面が錆びている。半ば砕けている。そんなボロボロの硬貨が並ぶ中、一際の損傷が無い綺麗な寛永通宝が見える。
「…不運と言うべき、なんだろうね。副葬品として私の手に渡った六文銭は、現世と幽世の縁が切れていなかった」
「なんで?死者に供えたものは基本的に現世と幽世の存在として分かたれるでしょ?」
「それは随分昔の話だよお嬢ちゃん。今じゃ死んだら墓に入る事も少ない。辛うじて魂の回収は出来ているけど、正しく昇天していない者が多すぎる」
「どういう事?」
「宗教観が薄れた事もそうだけど、葬儀が余りにも粗雑すぎるんだよ。最早儀式と呼ぶのも烏滸がましいぐらいだ」
死ねば、骨は壺に入り墓に入る。
それはこの時代では既に、“昔の文化”になるつつある事柄だ。
現代の多くの人は死後に骨粉を海や好きな土地に撒いたり、圧縮して小物や宝石にしたりと自由度が高い。
更に言えば見えない物を祀るという文化がかなり希薄なので、肉親の骨が無い墓などにお参りする事も無くなり、墓の所有者が曖昧など問題になったりもしている。
と、それはさておき。
「ひょっとして
「古い言葉を知っているな…ま、そういう事。通夜をしていないんだ」
「…待って、それだと地獄に行かないと思うんだけど」
「通夜がないからある意味では神式でも仏式でも無いけれど、日本の地獄は亡者を回収するだろう?黄泉は違うけどな」
「あー…あぁ、そっかぁ」
悪事を犯した亡者を地獄へと運ぶ、火車という存在がいる。
幻想郷では魂自体が明確に存在を持ち、閻魔や死神や冥界の姫、博麗の巫女などが回収して輪廻転生の道に戻す事も有れば、妖怪に食われる場合もあり、そのまま浮かび続ける場合もある。
幻想郷と外の世界では、色々な事が違うのだ。
わかっていても、時々忘れてしまう。
……?
ふと、何か違和感があった。
火車について何か知っている様な気がした。
ただ、その違和感の正体は結局分からなかった。
酒を一口。
どうも、頭が重い。
飲みすぎたのだろうか。
「さて、そんなこんなである日、一人の女が三途の河に来た。目を疑ったよ。手に、しっかりと六文銭を握り締めていてな」
「そんなに珍しいの?」
「そりゃあ、ちゃんとした寛永通宝を持ってきた奴なんぞ久々過ぎてな。驚き過ぎて四度見ぐらいした」
「女の人怯えたでしょ」
「あぁ、涙目だった」
「可哀想に…」
奪衣婆はクスクスと笑う。
和服とよく合う美熟女とも言うべき顔と相まって、とても上品に見えた。
「一応地獄で働いているからな。この時代の葬儀などを知っていただけに、まさか本物の六文銭を準備するとは思わなかったんだ」
「で、受け取ったと」
「まぁ、こればっかりはアタシが受け取らざるを得なかった。何故なら、本物の六文銭だったからな」
「逆に偽物ってなによ」
「紙に書かれていたり木製だったりと、冥銭の代役としたものは時折あったぞ。冥銭としての役割は完全では無いが、六文銭と同程度の当人が悼まれ弔われた事として判断される。まぁ、だからこそ久々に本物を受け取ったわけだが…」
手元の真新しい寛永通宝を店内の照明に翳す。
一際輝いている硬貨は、キラリと光を反射した。
「まさか、現世との縁が切れていないとはなぁ…」
「葬儀は悼む事と現世との縁切りの意味もあるからねぇ、副葬品もちゃんとした葬儀を経ていないと曖昧な状態だよね」
「そうなんだよなぁ、お蔭でアタシの手に渡った、“死後の世界の物”を持った彼をこちら側に引き摺り込んでしまった」
「…ひょっとして事故だった?」
「初めにも言ったけど。まぁ…せめてちゃんとした葬儀がされていればこんな事にはならなかったんだが」
日本酒をグイと煽る奪衣婆。
するとその隣で寝ていた彼がむくりと起き上がった。
「うわっとと…おはようございます」
「おはよう。まだ寝てていいんだぞ?」
「いやぁ、主役なので」
にへら、と笑った彼は酒を一口。
奪衣婆の手にある古い方の寛永通宝を見て、更にその笑顔を深めた。
「うわー!下野国足尾銭だ!すごいすごい!本物の下野国足尾銭だ!!」
「貴方みたいに死者を悼んだ人達の物だから、欲しいなんて言わないでね?」
「当然ですよ!しかしよく考えると僕の寛永通宝がそこに並ぶと思うと…あはは、興奮してきました」
「ほ、本当に変わっているわね貴方…」
若干引いた声で巾着に硬貨を仕舞う奪衣婆。
最後までその手元を見ていた彼は、やがて大きく溜息を吐いた。
「…死因はなんですか?」
「おや、早いね」
彼は。彼の“体”は。
まだ、カウンターに伏したままだった。
こうなる事を知っていたのか、彼自身は清々しい顔をしている。
「急性アルコール中毒、だな。不審な点も見つからず、事故扱いになるだろう。昨晩の夢で言った筈だが、身支度は整えてあるだろうね」
「それは大丈夫です」
「そうか、じゃあ…そろそろ行くかね。酒の代金はいるかい?お嬢ちゃんの分も含めて払うが」
「いいえ、いりません。御供物になりませんから。あ、お嬢ちゃん」
「はい?」
彼が、カウンターの横に置かれていたバッグを指差した。
「そこにお土産がある。君が、君達があの橋に連れて行ってくれなければ、彼女の声を聞く事が出来なかった。聞く事が出来たからこそ、最後の冥銭を渡す“選択”ができた。そのお礼だよ」
「…そっか、ありがたく受け取ります」
「うん、君の友達と美味しく呑んでおくれ。そこの大吟醸はお姉さんに」
「一貫して御供物としての体を保つかい」
「閻魔様と美味しく呑んでくださいな」
「じゃあ貰っとくよ」
瓶に栓をして袂に入れると、奪衣婆は立ち上がる。
彼も追随して立ち上がり、ゆっくりと店内を見渡した。
やがて満足したのか、一つ頷いて大きく深呼吸。
「さ、お嬢ちゃん。僕の最後のお客として見送らせておくれ」
「…お酒、美味しかったよ店主」
バッグを背負えば、瓶の重み。
きちんと固定されているのか、接触する音はない。
「ありがとうありがとう。またいつか、あの世で僕の酒でも呑んでくれ。それじゃあ…」
彼に、店主にとびっきりの笑顔で送られて。
「ご来店、ありがとうございました」
返事をする前に、彼の姿は無くなっていた。
風に揺られ、扉に下がった看板が揺れる。
残った奪衣婆に無理矢理懐から取り出したものを押し付けると、卯東京駅へ向かう事にした。
「これは…なんだい?」
「彼のカクテルは美味しかった。私は彼の死を悼む」
「…確かに六文、受け取ったよ」
振り返る事はない。
もう、振り返る事は無いのだ。
───人は、死を出来る限り遠ざけた。
遠ざけたからこそ、死の先を考える事も徐々に減っていった。
宗教の収縮もまた、それらを加速させたのだ。
死後に罰せられたいと願う人間は元より、
死後に幸せになりたいと考える人間も少なくなっている。
ただし、死を悲しみ、死者を悼むこと。
それだけは、時代が変わり、形が変わっても変わる事が無かったのだ。
“ある条件の下”で、人々は幻想を想像する。
自分が死後どうなるかは考えない。
ただし、身近な人の死後は考える。
幻想の排除された時代で、人が幻想に近寄る時。
それは喪って初めて認識し、踏み入れる事が多いものだった。