三途の河、此岸側。
奇妙な静寂の中、衣擦れの音だけが聞こえた。
やがて、ピッ、ピッと水の上を石が跳ねる。
頷きながら跳ねた数を数え、11まで数えて女は満足そうに頷いた。
「…なんでお前がいるんだい」
「おっかえりー、何故かと言えば面白そうな話を聞いたからかな」
朱の髪に青い着物。
幻想郷の三途の河担当、小野塚小町がそこにいて。
気さくに手を挙げた死神に、奪衣婆は眉を顰めた。
「アタシ一人でこの三途の河は間に合ってるよ。帰れ帰れ」
「いやぁ、困った事に船に首長竜が噛み付いてね。暫く船頭は廃業になったのでした。めでたしめでたし」
「あーあー、折角財政難を切り抜けて新調したと思えばすぐ壊れちゃあやってらんないだろうね、そっちの閻魔も」
現世も幻想郷も同じく、地獄は死者の増加に伴い、各所の拡張と改装で財政難に陥っていた。
しかし、それももう過去の話。
人口減少に伴って、緩やかに死亡者数も減っている。
お蔭で地獄の獄卒達も、今では余裕を持って仕事をこなしていた。
「凄かった時に比べると静かな三途の河だねぇ。死者が一人も見えないなんて、こっちじゃ考えられないよ」
「そりゃどっかのサボり魔が悪癖で時間をかけているから溜まっているだけだろう」
「善人ばかり渡しても面白くないと思うんだよな」
「こっちじゃあ距離を変える事が無いから、善人も悪人も船に乗せりゃ同じ事さ」
「へっ、そうかいそうかい、この楽しみはもう人間を長い間乗せてない婆には分からないだろうよ」
死神が面白くなさそうに石を川へ投げ込んだのを見て、思わず笑った。
「それがなぁ、いたんだよ。それも最近」
「はぇ?」
ぐるん、と死神が奪衣婆の方を向く。
興味津々と言った表情で、奪衣婆にずいと近寄った。
「いつ!?どんな奴だった!?」
こんな時代に、わざわざ六文銭を準備する物好き。
三途の河の船頭としては最高に興味を唆る話題だろう。
「若い女でな。そいつの夫が六文銭を供えたんだよ」
「かぁー!この時代にそんな時代遅れがいるたぁいいじゃ無いか!あたいが運びたかったなぁ!そいつ!!
「時代遅れというか古銭収集を趣味にしただけだがな」
「いやぁ…でも冥銭供えるなんて奴は今の時代にゃ中々いないだろ?」
冥銭としての六文銭は、三途の河を船で渡るためのもの。
三途の河は辿れば仏教に起因するものであり、宗教に関する事である。
そして人が死ぬ事に宗教が介入しないこの時代では、ただでさえ薄れていた冥銭という文化は尚更無くなっていき。
すっかり古びた船の縁に腰を下ろし、奪衣婆は溜め息を吐いた。
「で、お前は何故ここに来たんだったか」
「面白い話を聞いたからだよ、生者を引き摺った奪衣婆さん」
「…はぁ〜…最悪だよ最悪。早く帰れサボり魔」
面白い話を聞いたという時点で察しはついていた。
手を払って死神を祓おうとする奪衣婆。
しかし不真面目な死神はその程度で帰る訳もなく、足元の石をなんの気無しに積み始めた。
「なんで引き摺ったんだい?」
「意図したものじゃ無い。女の六文銭を受け取らなければ起こらなかった事だ」
「真面目だから受け取ったんだろ?賄賂」
「普通は逆だがな。真面目な奴は賄賂なんて受け取らん」
「確かにそうだ」
六文銭は一種の賄賂である。
亡者の衣類を枝にかけ、三途の河をどう渡るかを決める奪衣婆に金を渡す事で船に乗せて渡してくれる、そんな賄賂。
元は死を悼むという事を金銭化する事で分かりやすくしようとした地獄側の意図と、金銭を余分に受け取ろうと腐敗化した一部の僧の意図が図らずに合致した結果とされている。
流石に昔すぎて奪衣婆も覚えていないが、取り敢えずそんな事を考えていた僧は揃いも揃って地獄に落ちることだけは知っていた。
「でも久方振りだっただろうに、溜め込む意味も無ければ六文銭を受け取る意味も無い。なんで受け取ったんだい?」
「そりゃあお前、人が死を悼んで供えたものを閻魔様…ある意味で地蔵菩薩様の元で働いてるアタシが粗末にしたら良く無いだろうよ」
「…やっぱ真面目だなぁ」
「結果的に受け取ったら、地蔵菩薩様…閻魔様の意図を汲まない現代の葬式が影響して一人余分に船で渡す事になっちまったがね」
苦笑。
怨霊や幽霊とは違い、れっきとした地獄で働く者として、奪衣婆は生者を彼岸に引き摺る事を望んではいなかった。
奪衣婆が懐に入れた、彼岸の物となった冥銭が現世との縁の切れぬままになっていると知ったときは、それはもう焦ったものである。
生者の金を盗む事は出来ず、かと言って自ら縁を切る事は出来ぬ。
苦肉の策として彼から六文銭を回収する意味で、夢という生死の境界が曖昧になる時に彼を呼び、三途の河にかかる橋の観光料として一文を受け取っていたのである。
渡り切ってしまえば彼岸へ至ってしまうが、途中までなら問題無い。
ある意味でイレギュラーが起こった際は、男と娘達が万が一でも渡らないよう注視していたが、その時以外は男一人をその場に釘付けにしてしまえば良かった。
例えば、知り合いを呼んで話をさせる、などである。
どうにも彼は橋の上で誰かと出逢っていたらしいが、奪衣婆はそれを見ていない物とした。
奪衣婆は自らの失態と、冥銭の事に関して予知できなかった反省と謝罪の意から一人の亡者を三途の河まで連れてきた事を知る者はいない。
偶然、橋の上に一人の亡者がいた。そこに偶然男が観光しに来て、更に偶然にも男の知り合いだった。
それにより、偶然にも男は不慮の事故で彼岸へと至る事がなかったのだ。
「ふーん、だけど今聞いた話だと男を亡者にする理由は無い気がするんだけど」
「それが困った事に、アタシに最後まで六文銭を払っちまったのさ。一文程度なら影響は薄いからそこで回収をやめておくつもりだったんだけどね。どうにも変なのが入り込んで、覚悟を決めちまったらしい」
「変なの?」
「あー…気にするな、結局は愛だよ、愛」
幽世には“黄泉竈食ひ”という物がある。
神道の文化であるが、似た逸話は各神話でも多く、異界の物を取り入れた、糧とした時点でその者は異界に属する者となる文化だ。
これでわかるように異界の物というのは基本的に異界以外に住む者には毒となる。
奪衣婆が速かに回収しようとした理由はこれであり、真面目故に判断を誤ったとも言えるし、逆に正しかったとも言えた。
男が死を迎えた理由は、奪衣婆に六文銭を渡してしまったから、という理由が大きい。元より彼岸の物ではあるが、二つ存在するために別のものであるとも言える。
三途の河で六文払えば、そしてそれを奪衣婆が受け取れば。
払った者は、“三途の河を船で渡る者”となる。
奪衣婆は殺す気が無かったが、男が死ぬ気ならばそれを止める事はできない。否、地獄の者として苦言を呈する事は出来るが、死に干渉してはならない。つまり、“止めてはいけない”。
そして過程ではなく、逆説的な結果により、男は彼岸へと至ったのだ。
何も知らずでは無く。
六文全てを払えばどうなるかを知り。
その上で最後の一文を渡さないという選択肢を捨て。
男は愛を選んだのである。
それら全てを聞き、死神は大きく溜め息を吐いた。
「楽じゃ無いね、三途の河勤務も」
「お前もだろうが」
「そりゃそうだけれども」
互いに一息。
奪衣婆は懐から寛永通宝を取り出すと、指で弾いて掌の上に載せる。
「…おかしいよな、価値ってのは古いほど上がっていく」
「あん?」
「新しいものに価値は無いのかってふと考えたのさ。六文銭を受け取るのも久々でな、これまでは金について考えることも無かった」
「そりゃあ、あれよ、プレミアってやつよ」
「…希少性だな。100あったものは半分が完全に形を無くし、更にその半分が半ば形を失い、更にその半分が…と続けて、時間から生き残った物が価値を持つんだろうな。」
「急に難しい事を言うなよ。婆のボケ話に付き合う気は無いんだからね」
「そうかい。まぁ、死後じゃ“価値”は不変だから関係ないか」
男が不思議に思っていた三途の河の渡賃。
答えとしてはそこに値段は関係無く。
奪衣婆は悼まれた供物の価値を見て、河を渡る者に恩赦を与えていた。
また、場合によっては閻魔の判決にすら影響する。
値段はどうでもよく、ただ、供物に含まれる価値が大事なのだ。
六文銭を払えば船に乗れるだけであり、別に丁寧に六文銭を払わずとも恩赦を受ける事は出来る。
そこには、船に乗れるか乗れないか程度の違いしかないのだ。
と、ここで石を踏む音が聞こえた。
誰かと思って二人がそちらを向けば、一人の妖怪がこちらに歩いてくるのが見える。
「あぁ、お燐ちゃん、回収お疲れ様」
声を掛けられた妖が、顔を上げた。
赤い髪と、黒に緑の意匠が施されたドレス。
幻想郷より派遣された火車、火焔猫燐が仕事を終えて帰ってきたのだ。
「あい、戻ったよ。依頼された範囲に亡者はいなかったね」
「そうか…報酬はいつも通り秦広王様のところで貰っとくれ」
「はいよ」
火車は死神の方をチラとだけ見て、何も言わずに橋を渡り秦広王のいる方へと向かう。
居心地悪そうに身を縮ませた死神は積んでいた石を蹴っ転がし、背を伸ばした。
「あたいも映姫様の方へ戻ろうかな」
「さっきから早く帰れと言っていただろう。帰れ帰れ」
「婆の話し相手になってやったってのになんて言い草だ」
嘘泣きを始めた死神を放置し、久々に人を乗せた船の整備へと戻る。
これ以上構ってくれないことに気がついたのか、死神はトボトボと橋を渡り始めた。
「あ、そういえば」
「なんだい?」
「幻想郷から外界に出てきていた奴に会ったよ。白緑っぽい髪の奴だ」
「あー…なんで幻想郷の奴って分かるんだい?」
「お前らの幻想郷ぐらいだろ、まともな寛永通宝が流通してるの。さっき言った男の分で六文貰ったんだよ」
「…妖怪が人の死を悼むってのは珍しい話だね。外界にいる時点で変わり者ってのは分かるけど」
「それだけだ。早く帰れ」
「呼び止めておいてそれかい!全く酷い婆だよ…」
もしもここに火車がいたのなら、この話に飛びついていただろう。
しかし火車はここにはいないし、もしもの可能性はいまを過ぎてしまえば起こらない。
話は途切れ、死神の足音も遠くに消える。
もう、静かな水の音しか聞こえない。
ざぶり、ざぶりと流れるは三途の河。
此岸から、渡ってしまえばそこは彼岸。
言い換えてみれば、三途の河とは生と死の境界なのである。
もしも川に居続ければ、ある意味で不老不死なのかもしれない。
これで朽ちた硬貨編はおしまいです。
次の秘封倶楽部の活動は一体なんでしょう?