お楽しみください。
56
ハーンの朝は遅い。
彼女の腕の中からもぞもぞと抜け出し、リビングのソファに腰掛ける。
「んー…」
ベッドの方から、私を探すハーンの寝ぼけ声が聞こえてくるが無視。
戻れば当分離してくれない。
タイマー設定されたポットと、マグカップ、そして珈琲のドリップバッグを二人分準備し、一応寝室の方へ声をかける。
「ハーン、朝だよー」
「……ぅ…」
これで起きてくればいいのだが、滅多に無いので期待はしない。
マグカップにドリップバッグをセットしてお湯を注ぐ。
目覚めた時に湯が沸いていることは本当にありがたいものだ。
お土産に持ち帰りたいぐらいである。
リビングに、珈琲の香りが漂う。
これでもう少し埃っぽい匂いがすれば、好きな匂いに近づくのだが。
……久し振りに帰りたい気がしてきた。
だが、当分は無理だろう。
幻想郷に関する境界があれば、ハーンに開いて貰って帰る事はできる。
だが、博麗大結界をこじ開けて妖怪の賢者とか妙なのが出てきても困るのだ。
それに、幻想郷に繋がる境界が存在するのかどうかすら分からない。
なんだかんだ現世を楽しんできたが、もうそろそろ帰らなければ。
帰る。
…帰る?
どこに…?
私はどこから、来たのだったか。
幻想郷。そうだ、幻想郷の…旧、地獄から。
帰る…帰る…地霊殿に、帰らないと。
「…」
どうにも頭が重い。
寝起きだからだろうか。
少し、記憶が混濁している。
珈琲の匂いがする。
珈琲。そうだ、この匂い。
お姉ちゃんの匂いだ。
「───こいし」
「何、お姉ちゃん」
ふと聞こえた声に振り返れば、ハーンがいた。
頬に熱が昇る。
「お姉ちゃんダヨ」
「寄せる気がまったく無いことはよく分かった」
「いや、揶揄ってるだけ」
「知ってる」
もう片方のマグカップを差し出すと、僅かに口端を緩め。
不思議そうにマグカップの中を覗き込むハーンの目の前で、珈琲を啜る。
「…私のぶんは?」
「自分で淹れて」
「あの可愛いこいしはどこに行ってしまったのかしら…」
「今も可愛いでしょ?」
「否定できないのが尚悔しい」
自分で珈琲を作り始めたハーンをよそに、端末で最近の情報をチェックする。
瓦版や天狗のものと違い、この時代の情報は客観性が強い。
───21世期初頭より、人は情報に直接触れる機会が多くなっていた。
インターネットの普及によって人の手が入らない、生の情報を直接閲覧できる機会が増えたのである。
時代の流れに沿って、人々も情報の入手手段を変えていく。
より早く、より生に近い、欲しいものだけを手に入れられる手段が欲しい。
その結果として残ったものは、現実で起こったことを簡素なタイトルと共にただ並べたものだった。
客観性、もとい一切人の手が介入しない情報だけが無機質に並ぶ、言ってみれば本棚のようなものである。
目に入った【東京 喫茶店 店主 死亡】というタイトルをタップすれば、文字が画面に広がった。
人の心を感じない無機質な文章。
事実だけを淡々と書き連ねた文章は、どこか冷たく感じてしまう。
“先日、東京 台東区 喫茶店【黒煉瓦】の店主「糸部 秋」が店内のカウンターに突っ伏して倒れていたと通報あり。死後3日ほど経過しており、死因は急性アルコール中毒である。他殺の可能性は薄く、自殺または事故死の可能性が高い”
ふぅ、と口から息が漏れた。
不可解な点は見つからず、何事も無く処理されたようだ。
「…ハーン、店主から貰ったお酒は大切に呑もうね」
「そうね。昨日チラッと呑んでみたけど美味しかったわ」
「───呑んだの?」
「べ、別にちょっとだけよちょっとだけ!!そんな一杯美味しかったからもう一杯なんてそんなことは無いのよ!?本当よ本当!!」
途端に慌て始めたハーンに半目を向け、それでもまぁいいかと思う。
あの店主の事だから、美味しければ何でもいいとまで言いそうだ。
「でもやっぱり日本酒が美味しかったわね。えーっと…“結目”?」
「そんなお酒があったんだ」
「日本の酒蔵で造られているお酒ね。随分高価だと思うんだけど、良かったのかしら」
「店主が渡してきたからいいんじゃない?」
「ところでその“結目”に境界がチラつくのよ」
「はい?」
ハーンがゴソゴソとキッチンの方から酒瓶を持ってきた。
貼られた青のラベルには、黒い文字で堂々と結目とだけ書かれている。
「蓮子と一緒に境界、暴いてみない?」
「面白そうでいいね」
「さーて、何が見えるのかな」
珈琲を啜る。
苦味の奥に、深い深い香りが鼻を擽った。