ゲーム筐体とお菓子の空袋が散乱する部屋の中で、女は端末に話しかけた。
限りなく鮮明に、さもそこにいるような音質の声が端末から聞こえる。
『結構忙しいよ。ちょっと前の処理がまだ終わってなくて大騒ぎ』
「私戻ろうか?」
『ゆいが戻りたくなったら戻ってきなさい』
「それずるい」
『あはは、こっちの心配はいいから自分のことを頑張りなさい。友達、できたんでしょ?』
「それはもういいからぁ」
『ま、そのうち帰ってきなさい。体には気をつけてね」
「そっちこそ。じゃ、またね」
軽快な音と共に、通話機能が終了する。
女はお菓子を手元に寄せ、大きく息を吐いた。
スニーカーが床を擦る。
左右上下ガラス張りで外が見えるのに太陽の眩しさを感じず、蛍光灯が無ければ暗闇になってしまいそうな不思議な通路を歩いていた。
「いぶこ〜」
「うわびっくりしたあ!」
大学内研究室の前で、目的の人物を発見。
後ろからちょいと服の裾を引っ張れば、背筋がピンと伸びる。
相変わらず人混みに溶け込む地味な服装なので、見つけるのに時間がかかってしまった。
「今から私とお茶しない?」
「…いいけど、どしたの急に」
「愛の告白かもしれない」
「えっ、えっえっえっ」
機能停止した伊吹結香を大学構内のカフェへと非常に、優しく、とても優しくエスコートして連れ出した。
●
いつもの部屋で、水音が止まった。
流石に一夜で食材が腐る訳もなく、食器等を蓮子と洗い終えたので一息。
リビングに座り込んだ蓮子は、“結目”の酒瓶を無造作に持ち上げて揺らす。酒も僅かに残っているだけで、チャポチャポと小さく音を立てた。
「どうする、これ」
「なんかすごい変な境界が見えるから超触りたくない」
「メリーがそう言うぐらいか…」
「目を貸してあげるから見てみなさいって」
「…うわ、うわうわ!?」
酒瓶の上から下に走る境界。
その裂け目はゆらゆらと揺れて歪んでいる。
更にその裂け目の奥にも複数の裂け目が見え、かなり気持ち悪い。
「…最初からこんなだった?」
「ぜーんぜん違う。最初は拳ぐらいよ。多分鬼がこじ開けたせいでおかしな事になっちゃったんじゃない?」
「境界って腕力で開くのか…」
「説明しにくいけど、服の綻びに指突っ込んだら大きく拡がっちゃうのと同じ事。境界を開く“力”があれば開くわよ。あの鬼がどうやって開けたかなんて知らないけどね」
消臭機能付きの空調機を止め、ゴミを纏める。
掃除と片付けは終わったので帰るために蓮子に声を掛ければ、あまり触りたく無さそうに酒瓶を持っていて。
「……別に開かない限り害は無いから落とさないでよね。いいお酒なんだから」
「違う器に入れ換えない?」
「お酒に境界がくっついてくるから意味無いわよ?」
「うーん、まあなんか起きたら酒瓶を即座に投げるね」
「白昼!酒瓶投げ女現る!」
「メリーに」
「白昼!女子大生の殺人事件!」
「犯行理由はなんか怖かったから」
「嫌な動機ね…」
扉が閉まり、施錠する音。静かになった部屋の中で、空調機の自動清掃機能の小さな音だけが鳴っていた。
●
カフェは意外にも混んでいて、辛うじて座れたものの、いつものような静謐さは無い。
目の前で困惑した表情の結香が、レモンティーに口を付けた。
「えっと、何かあった?」
「いや、前回のデートの話を急にしたくなってね」
「うん」
「愛の告白では無いんだけども」
「あ、うんうん」
「ちょっと期待してた?」
「い、え、あっ、そんな事はない!ないです!」
「…静かにしようね」
シフォンケーキにホイップクリームを乗せる。
自らの声量を自覚したのか、縮こまった結香を見ながら紅茶を啜る。
「前回、どうしてあの店を選んだんだっけ」
「え、黒煉瓦の事?なんかのサイトで見たんだよね。それで行きたかったんだけど…何かあった?」
「んん、んー…サイトかあ」
ネット情報という事は、鬼が介入したという可能性が下がった。
否、それ自体が嘘であるという可能性を否定できた訳ではない。
「なんかあったの?」
「店主から貰ったお酒がすごく美味しくてね。どこであんないいお店知ったのかなって」
「あれ、お酒なんて貰ってたっけ?」
「もう一回行ったのよ。お酒目当てでハーン達と一緒に」
「なるほどね。なんてお酒?」
「結目ってお酒」
「へぇ!美味しかったんだ!そっかそっか…」
嬉しそうに目を細めた結香の表情が不思議で、首を傾げた。
「お酒に名前似てるから嬉しかった?」
「ん、そのお酒、私の名前が元になったやつなの」
「…え?」
「私の実家、酒蔵なんだ」
「旧型作ってる、あの酒蔵?」
「そうだよ」
暫しの沈黙。
「マジで?」
「マジマジ」
●
大学の講義が終わり、コンビニで飲み物を買おうとすれば、おにぎり売り場でこいしが難しい顔をしているのが見えて。
「へーいお嬢ちゃん。美人だねえ」
「ごめんね後に…なんだハーンか」
「ハーンだよ。何かあった?」
「…悩み事だよ。部屋の片付けは?」
「ちゃんとやったわ。講義があるのは家出るときに言ったでしょ?」
「あー、聞いた気がする」
「もう」
珍しく目覚めが悪かったのか、ぼーっとしていたこいしを置いて片付けのために蓮子と朝から片付けに向かったのだ。
伊吹結香に話を聞いてくると言っていたが、鬼との関わりがあったのか、はたまた無かったのか。全く無いならばこいしが悩む事も無いはずで、つまり───
「伊吹、どうだった?」
「ちょっと待っておにぎりの具で悩んでるから」
「あっはい」
随分と随分な悩み事であった。
●
帰路にて、こいしがおにぎりを食む。
「伊吹、鬼の関係者じゃ無いと思う」
「あ、違ったんだ」
「少なくとも私があそこに行ったのは偶然で、意識的なものじゃ無さそうだった」
こいしがそう感じたのなら疑う事はない。
ならば、あの鬼があの酒から出てきたのは全て偶然だったのか。
「伊吹ねえ、酒蔵の娘だって」
「ふーん…なんて?」
ぼーっとしていて聞き逃した。
「伊吹、酒蔵の娘」
「酒蔵って…あの酒蔵?」
「その酒蔵」
「へぇ」
「すごい顔してるけど大丈夫?」
「すごい顔とか言わないで」
驚きすぎればそんな顔にもなる。
「なんかポロッと話してくれた」
「軽く話すにはかなりすごい内容ねえ」
普段付き合いの中で尋ねる事も無ければ伊吹が言う事もなかったので、今まで知らなかった。
彼女にとってはそれほど重要な事でも無かったのか、はたまたそこまで親しい仲と思われていなかったのか。
多分前者とは思うものの、少しもやもやする。
「結目の話をしたら、それ私の名前から取ったやつなんだーって流れでね。隠してたわけじゃないけど自分から話す機会なんて無いからって言ってた」
「あぁ、確かに実家の話なんてする機会滅多に無いものね」
「で、その結目は今どこに?」
「一旦家に持ち帰ったわ。大学に旧型持っていく女だと思われたくないもの」
「風呂上り全裸で彷徨いて酒飲んで挙げ句の果てに私にセクハラ働く女なのは事実でしょ」
「周知の事実では無いから良し」
「良しじゃない」
こいしが無造作に袋からおにぎりを取り出し、溜め息を吐きながら包装を剥いて齧り付いた。
もっちゃもっちゃと咀嚼し、やがて動きを止める。
ゆっくりとした動きで包装の印字を見て、それからこちらを見た。
目を落としてこいしが手に持った包装を見れば、《期間限定 サイダー味 くっきり炭酸感》の文字。
「……」
定期的に思うが、なぜ合成味おにぎりを買うのだろうか。
そんな不思議ちゃんな部分もまた、可愛いのだが。
「はーん、たしゅけて」
「無理」
涙目もまた可愛い。
───衣擦れの音が、女には妙に大きく聞こえた。
「え、貴方、何それ…?」
「あー、ちょっとね」
「ちょっとじゃないわよ。祟り神にでもなるつもり?」
「そりゃあ私に聞かないでくれ───」