作品内に登場するお酒を、実在するお酒並びにメーカーと結び付けて感想で出すのはお控えください。よろしくお願い致します。
こいしの頭部に、境界が見える。
境界の奥は空っぽで、何も無い黒の色。
「…このお酒、何かおかしい」
「どこがおかしいんだい?」
少しばかり困った顔で、鬼は言う。
酔った頭では上手く言葉にできないが、おかしいものはおかしいのだ。
蓮子も、コップに伸ばしていた手を止める。
「あなたは、嘘をつかないんでしょう?」
「そうさ、鬼は、私は、伊吹萃香は…嘘を嫌う。ちょっとは、言うかもしれないがな」
「じゃあ質問するわ。私達の事を、騙そうとしてる?」
「いいや、騙す気はない」
即答だった。
ただ、答え方が少し気になった。
「私達が騙される可能性はあるのね」
「そうだな。私は騙す気なんてないが、勝手に騙される事もある」
「…私に隠し事をしている?」
「ああ、しているとも」
鬼の瞳は、どこまでも真っ直ぐである。
あまりにも強い視線に、思わず目を逸らした。
この境界を見る瞳が、鬼の瞳の奥に何かを見て、畏れたのだ。
「ただ、危害を加えない事に変わりはない。それだけは変わらない」
「質問は、まだしていい?」
「そのお酒を飲んだらね」
「…蓮子、こいし」
「はーいよ」
ぐい、と酒を煽る。
「いいねえ、3本目だ」
目を閉じれば、倒壊しそうな鳥居が目の前にあった。
鳥居の片側は朽ちており、奥に見える寂れた神社に人気は無い。
神社周りに鬱蒼と生い茂った木々が、酷く不気味に見えて。
「蓮子、太陽を見て何かわかる?」
「…方角がわからないから何とも言い難い。でも天頂に近いし昼頃なのは確か。星が見えないから場所までは無理」
「せめて夜だったら良かったわね…」
境内は雑草が茂っており、人が立ち入った形跡すら見当たらず。
もはやここが、現実なのか境界の中なのかすら区別がつかない。
酔いが進み、どうにも頭が回らない。
───ガランガランと、下駄の音。
「おう、質問いいぞ!」
豪快な声で登場したのは、童女の姿をした鬼。
和服を着ているものの、何故だかあまり似合わない。
真横に伸びた角は、先程見た大人の姿よりも若干短かった。
「ここはどこ」
「わからん」
これもまた、即答であった。
「多分私が関係する神社だろ。又はこの酒に関係するところかな」
「…今度のお酒は何?」
「名は八塩折之酒。八岐大蛇を倒すために作られた酒と同じ名前さ」
酒瓶が、目の前に差し出される。
手に取れば、ラベルに“八塩酒蔵”の文字が見え。
酔った勢いで、ふとした疑問がそのまま口から出る。
「ひょっとしてこのお酒、御神酒?」
鬼は、笑顔のまま固まった。
「…そうだよ。これは、神に捧げられた酒だ」
ああ、では、当たっていたのだ。
やはり酒を盗ったのは、人では無かった。
「どうやって盗んだの」
「失礼な事を言うんじゃない。これは私の…いや違うか。勝手に私に押し付けられた酒だよ」
「どういうこと?」
鬼は神社の方にドカドカと歩き出し、賽銭箱に座り込んだ
「こっちおいで、酔って立ち話も嫌だろう」
「わーい」
こいしは酔っているのか、妙にテンションが高い。
頭の境界が先程よりも大きく見えるが、視界がぼんやりしているのでよくわからなかった。
賽銭箱の前で一礼し、神社の
鬼は瓢箪を咥え、居心地が悪そうに座り直した。
「その酒を作った酒蔵はなあ、何を間違えたのか私を神として祀っちまいやがった」
「───七首大明神の話かしら」
「やめろやめろ、そんな神なんざ“どこにもいない”」
鬼はどこからか取り出した木製の杯に八塩折之酒を入れると、三人に手渡した。
「話を聞くのに酒の一つも無いんじゃつまらんだろう。飲みながら聞けばいいさ」
礼を言い、酒を受け取ろうとすれば、ひょいと杯が隠された。
「礼を言わないでくれ。酒を味わうのはいいが、礼を言われちゃ困る」
「…そういうものなの?」
「あぁ、そういうものなのさ」
今度は無言で受け取る。
満足そうに頷いた鬼は、自分の瓢箪から酒を煽り遠くを見た。
「…七首大明神は、嘘の塊だ。そんな神はいないし、首を絶たれて七つの首が生えた鬼なんかもいない」
「鬼…?神の血を引く者としか聞いてないけど、そう言われている鬼と、知り合いだったの?」
「気付いているだろう、お嬢ちゃん。その首を斬られた鬼が私なのさ」
どことなく、気付いてはいた。
先程の自らが祀られたという話から、殆ど確信に変わっていた。
鬼は、ゆっくりと首を撫でる。
「首を斬られた私は、死んだ。人に騙され、鬼として死んだんだ」
「今、目の前にいる貴方は何者かしら」
「ここに居るのは伊吹萃香さ。あの頃呼ばれていた名の鬼は死んだが、妖怪は一度死んでも“無くなる”訳じゃない」
どこか懐かしむ鬼の顔には、寂しさと、微かな怒り。
その目には、どのような情景が映っているのだろうか。
「…話を戻そうか。ある日、私は境界の中から顕界に出てきた」
「私が境界を暴いた時の事かしら」
「そうだね。あの時は境界の中から開ける者を探していた。そこでお嬢ちゃんが引っかかった訳だが、顕界に出てきた時、私の体に異変が起きたんだよ」
鬼は腕を組み、大きく息を吐く。
「気色悪い神力が纏わりついたのさ」
「神力…?」
「要するにこんな時代のこんな宗教衰退一直線の世の中で、何をどう間違ったのか私を信仰する奴がいたのさ。それも、“嘘”を信仰していやがった」
少しばかりの間。
杯が揺れ、酒を持っている事をふと思い出した。
啜ってみれば、意外にも果実の香りが鼻を抜ける。
「恐らくは私に流れる伊吹の血…八岐大蛇の話を織り交ぜて嘘を吐いた奴がいて、誰もその嘘を嘘だと見抜けなかった」
「…嘘を嘘だと見抜けないなんて事、あるのかしら?」
「それがあるのさ。例えば、“真実が空白になった時”とかにね」
ため息混じりの鬼の言葉に、目を見開いた。
データ欠落のタイミングで嘘が織り交ぜられた話は時折聞く。
大概は元データのサルベージによって真偽が見破られるものだが───
「失われた真実の穴は仮想と想定で埋まっていく。その埋まった場所を違うと言えるのは、“真実を知る”者だけなのさ」
「誰かの嘘が、嘘だとわからなかった…」
「ま、嘘とは断じられないが、間違いが真実と成ってしまったのは事実。お陰で訳の分からない神力が私に回ってきちまってね」
瓢箪を煽って喉を鳴らし。
鬼はゆっくりと立ち上がった。
「だから私は、信仰を突っぱねる事にした」
階に、境界の線が伸びる。
「さあさあ4本目。次で、最後だ」
暗転。
最後に降り立ったのは、見慣れた一室だった。
マンションの、初めて鬼と出会った一室。
そこに、鬼はいた。
最初に出会った時と同じ、少年の姿。
服装は、着物ではなく現代風だ。
「最後は、ここになったか」
「ここは…現実…」
「いいや、まだ境界の中さ」
酔いがかなり回っているせいか、鬼の声が少し遠い。
「最後の酒は、もう分かっているだろう?」
「う、ん。結目ね」
「そうとも。名は結目。これが最後だ」
ガラス製のグラスに、結目が注がれる。
こいしも蓮子も、酔いのせいか口数が減っていた。
「質問は、まだいい?」
「あぁ、いいとも。答えよう」
「どうして、境界の中に私達を呼び込んだの」
「…答えは、現実じゃ“権能が使えない”からさ」
意味がわからない。
意味がわかるほど、思考が働いていない。
ただ、目の前の酒を飲んだ。
そうすればいい事だけは分かっていたから。
───目が熱い。
ぶわりと、鬼の体に幾本もの線が走った。
更に、空間にも線が飛び出していく。
「う、あぁ、ぐ…ぅううう…」
こいしの呻き声を横に、拳を強く握った。
恐ろしいほど多く、大きな境界が見える。
ともすれば飲み込まれてしまいそうな光景に、喉が鳴る。
「おっと、お嬢ちゃん目を閉じてくれるかい」
「ぅ」
「こいしちゃんも、こっちにおいで」
瞼を落とせば、鬼が頭に触れてきた。
すぐ隣に、こいしの荒い息遣いが聞こえる。
「祓おうぞ、祓おうぞ」
凛とした声が聞こえた。
鬼の声だが、さっきよりずっと澄んでいて、違う声にも聞こえる。
「我が名は“首塚大明神”。首から上の障りを祓おうぞ」
目の熱さが引いていく。
鬼の手が頭から離れた頃には、もう何も感じなかった。
恐る恐る瞼を上げれば、先程の境界など何一つとして見えない。
「これがお嬢ちゃん達を引き込んだ理由。現実で忘れられた神は、境界の中じゃないと権能を振るうことすらままならない」
「神じゃ、無かったんじゃないの?」
「七首大明神なんて神じゃあ無いだけさ。長年生きてりゃ、神だった事もある」
酔いは醒めず、眠気がこみ上げる。
まだ昼頃の筈なのに、頭が醒めない。
「あぁそうだ、こいしちゃんをよろしく頼んだよ」
「待って…」
瞼が重い。
もう、動く気すら起きなかった。
やがて、何も聞こえなくなり。
───静かになった部屋の中で、鬼は自らの首を撫でる。
「…ああ、これでいいだろう、紫」
独り言に応える者などいない。
「まったく、お前がどうにかしろよな」
ポロリと落ちた鬼の頭が、床に転がった。
首の断面から血は流れない。
無造作に自らの頭を掴んで脇に抱えると、鬼は目を瞑る。
「はあ、あ。人も神も妖も、在り方ってのは難儀なもんだ」
遥か昔を思い返す鬼の言葉は、深いため息と共に宙に溶けた。
妖も神も、非実在と括られて互いが曖昧となって久しい。
時代が進み進み、進み続けた先。
その地点だからこそ見えるものもあれば、置き去りにしすぎて見えないものも、また“在る”ものだ。
一度失ったものを元に戻そうとしても全く同じにならないように、情報もまた、一度完全に失伝してしまえば再現する事は困難である。
そうならないためにも、粘土板に、木板に、紙に、電子に、人は情報を残していく。
しかし、それでも何らかの状態によって情報が失伝してしまった時。
そして限りなく正解に近い予想と仮定で埋められ、玉石混合となった情報の空白を、それは違うと指摘できる者がいなくなった時。
───その瞬間が、情報の死ぬ時なのである。