妙な事にプロローグは無いのにエピローグはあります。
───重い。
太腿に、何かが乗っている。
意識が眠りから引き上げられると共に、歪むような痛さが頭を走った。
「…う、んぐぐ…」
旧型を飲んだ者にしか体験できない“二日酔い”である。
これを体験できるのは滅多にない事だ。
「メリー、水いる?」
「ちょうだい…」
「ぅ…?」
蓮子の声が何処かから聞こえて、掠れた声で答える。
酒に焼けた声に反応してか、下腹部の方がモゾモゾと動いていて。
薄っすらと目を開け、ようやくここが自分のベッドの上だと気がついた。
「あ゛ー…」
「はい水」
「あ゛」
乾いた喉を水で潤せば、意識も醒めるというもので。
「───うん、おはよう蓮子」
「はいはい、おねぼうさん」
時計を見れば22時。
おはようなんて時間でも無かった。
二日酔いだが日を跨いでいないのでこういう時はなんと言えばいいのだろうかと、意味も無く考える。
「えーっと…境界暴いて、お酒飲んだんだよね」
「飲んだというか飲まされたというか」
腰のこいしを見れば、彼女の境界が目に入り、ビクッと体が跳ねた。
「ぬぐぇ!」
「あっごめんごめん!」
跳ねた足に頭が揺らされ、歯の当たる音。
むくりと起き上がったこいしは、顎を押さえながらビックリした表情でこちらを見る。
「…殴られた?」
「殴ってないからね、違うからね」
「うぅ、ん。頭いたたた…」
モゾモゾと丸まったこいしを足の上から退かし、リビングのソファまでふらふらと歩く。
座り込んで、しばらくぼーっと宙を見て。
「トースト焼いたけど、どう?」
「ぅん、無理…スープとかじゃないと喉を通らなさそう…」
「じゃあポタージュでも作るよ。粉末どこにしまってる?」
「キッチンの調味料とか色々入ってるボックスの中。わかる?」
「時々使ってるし、わかるよ」
キッチンの方に向かった蓮子の背を見て、目を瞑る。
見える景色がなんだか妙で、頭が疲れてしまった。
「はい、まだ熱いよ」
「うん…」
湯気の立つ器をテーブルに置き、蓮子が隣に座る。
風呂上りなのか、僅かに髪を湿っていた。
「いつから起きてた…?」
「ん?3時間前とかだよ。私そんな酔ってなかったし」
「そっか…鬼の境界から出れたのなら、まあいいかあ」
ジャムの蓋を開ける音。
甘ったるい匂いを、すぐ横から感じる。
「───暇だったから、少し鬼について調べてた」
「何かわかった?」
「鬼の情報サイトから、有名な鬼のリンクが幾つか無くなってた。多分その中のどれかがあの鬼だと思ってね」
「伊吹萃香、鬼、とかで検索した?」
「したした。名前じゃあ流石に出てこなかったけど、伊吹童子って鬼がヒットしてね」
蓮子は端末を弄り、その画面をこちらに見せてきた。
伊吹童子。八岐大蛇が若い男に変化した姿。又は酒呑童子の父とも、幼名とも言われている。
「なんとも曖昧ねえ」
「で、あの鬼は八岐大蛇の血を引くって言ってたでしょ?だから伊吹童子じゃなくて、どっちかと言えば酒呑童子の方かなって考えたのよ」
「成程ね。で、酒呑童子は?」
「“サルベージ待ち”。欠落域にガッツリ入ってたみたいで、情報が殆ど無い。ここまでを鑑みれば鬼の言葉と辻褄が合う」
トーストを齧り、蓮子はグルグルと指を回す。
「ちなみに、もう一方はヒットした」
「もう一方?」
「首塚大明神。鬼が口にしたその名前で検索かけたら、ある心霊スポットがヒットしてね。ずっと昔に山の中で朽ちた神社跡なんだけど、どうもそこで祀られてた神様らしいのよ」
「えぇ、神社なのに心霊スポット扱いだったの…?」
「酒呑童子の首が祀られてたんだって。それ以上の詳細はどのサイトにも載ってないから追えなかったけど…七首大明神の話と、対になってるわね」
「切られた首と体。首は神になったけれど、体は鬼曰く偽りの神だった、と。…私には、神が神に成る条件がわからないわ」
「さあね、信仰の仕方が気に入らなかったら神になんかならない、ってなるんじゃないかしら」
───神は信仰されねば神成らず。
しかして逆に、信仰されれば神成りて。
人は漠然とした未知や力に対し、祈り、祀り、願った。
神の根源とは“そこ”である。
「鬼は、信仰を突っぱねるって言ってたわね」
「御神酒を私達に飲ませる事が目的みたいな事も言ってたっけ」
「…途中の、お礼を言うなってところが重要だと思うのよね」
「ひょっとして、御神酒を下げ渡すんじゃなくて突き返すのが目的だったんじゃない?」
「えーっと…あぁ、奉納品の拒否って事ね。あり得る話だわ」
そして鬼は、信仰を拒否した。
それはつまり、神に成る事を拒んだのである。
「それよりまず、神って事は神宮とかがいるいないを判断できそうなものだけど」
「結構前から神宮も大変みたいだし、むしろこの時代に神を祀る方が奇特だと思う」
「嘘を嘘だと指摘できるのは真実を知る者だけ。私達の時代には、真実を知る者がもう居なかったのね…」
ポタージュを啜れば、味が舌に残る。
「嘘が嫌いって言ってたし、存在しない偽りを祀られるのを嫌ったからこそ私達に酒を押し付けた訳ね」
「強情というか、頑固というか。嘘をついたからこそ競争に勝って人類に成った私達には耳の痛い話だわ」
人は嘘を吐くものだ。
一説によれば、ホモサピエンスが最も繁栄した理由の一つに嘘が挙げられる程、人と嘘は結びついている。
「私としては、お酒が美味しかったから満足なんだけどね」
「蓮子のそういう即物的なところ好きよ」
「まあ、タダ酒ほど美味しいものはないからね」
くすくす笑い、部屋の片隅に残った結目の酒瓶を見た。
その酒瓶の境界は、もう私の目には見えなかった。
●
境界暴きの翌日に訪れた大学のカフェテラス。
ハーンと蓮子が近くの席でコーヒーと紅茶を片手に何か話しているのを遠くに聞きながら、ガトーショコラにフォークを刺す。
「結局、お神酒はどうなったの?」
対面に座る伊吹結香にそう訊けば、困ったような笑み。
「うーん、分からずじまい。売り捌かれたりしてない感じだし、ご先祖様の言う通り、悪い事は全部鬼のせいにしたよ」
───蓮子の咽せる音が聞こえた。
「鬼…?」
「あ、えっとね。私のずーっとご先祖様がね、悪い事は全部鬼のせいって言葉を残しているの。鬼に攫われて子を成したみたいな逸話が残ってるんだけど、本当なのかねえ」
神として祀るより先に、ご先祖様という遥か遠い関係で鬼と繋がっていた訳だ。
それにしても祀っている神がある意味で鬼なのだが、ご先祖様は家主の枕元で恐ろしい顔をしていないだろうか。
いや、しているだろう。
霊障が発生するぐらい家主をサンドバッグのようにタコ殴りしている事だろう。
「じゃあ伊吹は鬼の子孫なのかな?」
「まさかまさか。鬼なんて実際にいないでしょ?でも突然頭から角が生えてきたらどうしようかな」
「寝返りができなくなると思う」
「あっはっは、そーんな真横に伸びる訳ないでしょ」
乾いた笑いを零した。
つい最近、絶対に寝返りできなさそうな存在を見たばかりだったから。
談笑しながら、ケーキを摘む。
なんだか、いつもよりもケーキが減るのが早い気がした。
───そんな私達を他所に、近場の席で声を潜める女子二人。
「…そういえばあの鬼、町娘に恨まれてるみたいな事言ってなかったっけ」
「もしかして、本当に…?」
神秘とは、意外と身近に或るものだ。