お楽しみください。
76
フライパンに油を敷き、ベーコンを焼く。
香ばしい匂いに、口角を上げた。
「こいし、トースト持ってきてくれない?」
「はーいさ」
キッチン周りにて、女二人のささやかな日常。
トーストの上にベーコンを乗せ、簡素な朝食をテーブルまで運ぶ。
いつの間にかソファーに座って虚空を眺めているこいしの頬を突けば、ゆっくりとこちらを見た。
無機物のような、さも能面がこちらを見ているかのような感覚。
「……」
「こいし」
「んあ、何?」
名を呼べば、ガラス玉のような、透明で美しい瞳に意志が宿る。
そんな光景が、日常に溶け込みつつあった。
●
鬼の境界より帰還して暫く。
いつの間にかマエリベリー・ハーンは、境界を暴くことはできても足を踏み入れる事が出来なくなっていた。
境界の中に入り込むほどの力が無くなっていて、それが鬼の酒による影響なのか、はたまた別の原因なのか。
宇佐見、こいし、ハーンの三人は、その現象について首を傾げた。
───ただ、宇佐見だけは。
意図せず、安堵の息を吐いていた。
惜しむ声の裏で漏れたその息を、自覚できなかったが。
そしてもう一つ、以前と比べて変わった事があった。
それに気がついているのは、ハーンだけである。
●
ぐるり、と部屋の中を見渡した。
以前より、確実に見える境界が減っている。
鏡などの在るべき境界は見えるので、瞳がおかしくなったわけでは無い。
ただ、力が“減った”ように感じていた。
境界の中に入れない事は元より、以前に比べて境界を暴く力を多く使うし、何より以前ほど暴けない。
この能力が衰えたのか、はたまた何かの前兆なのかもわからず。
ただ、少しばかり昔に戻ったような気分だった。
「ハーン、今日は出掛けないの?」
「なんの予定もないのよねえ」
ソファーにだらりと寝転がり、こいしの太腿に頭を預ける。
上を向けば、こいしの整った顔が見えた。
“在る”。
彼女の体中をチラつく、既に開いている境界。
瞳を走り、肌を走り、首筋を走るそれは、時折止まっては“此方を覗く”。
彼女に会ったばかりの頃の境界と同じ気配がするものの、あの時のように中にこいしが見えるというものでもない。
ただ一つの瞳が、境界の奥に見えるだけである。
「……」
そして、瞳が此方を覗く時。
こいしから、生気を感じなくなる。
合成プラスチックを前に生命体だと感じないように。
鉄板を生き物だと主張できないように。
生気を感じない美しい顔は、精巧に形作られた非生物らしさをより強調する。
この事は、まだ蓮子に話せていない。
こいしも自分の様子に気付いていないようで、私しか知らない。
例え外に出ても、境界の瞳が覗くのは私だけである。
「……」
ぶに、とこいしの頬を両手で挟んだ。
境界がするりと動き出し、こいしが潰れた唇でむにむに喋る。
「あとぅい」
「こいしのほっぺは冷たくて気持ちいいわね」
「ねーえー…」
もっちもっちと揉んでいればなすがままに受け入れて。
満足したので離せば、思い出したように端末に何かを打ち込み始めた。
「…蓮子は今何してるかな」
「大学にいるか、サボって部屋で本でも読んでるんじゃない?」
「あーありそう」
本人が聞いても否定しないだろう。
しかし暇である。
なんの予定もない日というものは結構あるものだが、する事が無い日というのは意外にも無いものだ。
「あ、掃除でもしようか」
「いつもなんか丸いのがうぃんうぃん動いてるじゃん」
「床は綺麗だから他のとこを掃除しましょうよ。もしかしたらお宝が出てくるかもしれないし」
「十種神宝とか?」
「なんだっけそれ」
「つよいやつ」
「突然語彙が無くなった…」
それでも手伝ってはくれるようで、何をすればいいのかと周囲を見回していて。
「どこから掃除する?重箱の角まで掃除するけど」
「そんなほじくり返すように掃除しなくていいから。ぱぱっとやっちゃいましょう」
そう言って立ち上がり、キッチンで手を洗い始めたこいしを眺める。
何かをしていれば、境界の奥から此方を眺められる事もない。
ただ、少し不気味なその境界に、理由はわからないが心惹かれていた。
既に暴かれていて、そのまま閉じる事なき境界。
それが何を意味するのかはわからないが、こいしの様子を見るに何らかの影響は出ている。
───好奇心が擽られた。
蓮子に相談したい。彼女にもこれを見せたい。
この感覚を、共有したい。
「ハーン、掃除する道具とかあるの?」
「…え?えぇ、ちょっと待ってね」
かけられた声に、肩が跳ねた。
不審そうな目でこちらを見るこいしに謝りながら、道具を出す。
気になりすぎて、日常にすら支障が出てしまいそうだった。