───忘れてしまった記憶は、何処に溶けて消えてしまうのか。
ワンタンを食べた次の日、そのまま泊まった蓮子と共に大学敷地内のよくわからない場所を歩いていた。
「記憶喪失?急にすごい話が出てきたな…頭ぶつけた?検査行く?」
「多分そういうのじゃない。もっとフワッフワしたやつ」
「綿菓子に頭ぶつけたの?」
「そういうフワッフワじゃなくてね」
キャラメルマキアートの甘さを味わいつつ、歩を進める。
いつも三人で使っているマンションの一室の持ち主に話があるとのことで同行しているが、よく分からない場所は少し怖い。
ぬ、ぬ、なんてコンクリート製を踏む時とは全く違う、くぐもった低い足音がするもので、なんとも言えない奇怪さがあった。
「メリーからメッセで来てた“マジヤバいホントヤバい”ってそれの事だったか」
「いや、多分それはクラウドに保存してた提出書類データを別ファイルで上書き保存しちゃったやつだと思う」
「それは確かにヤバいわね」
白壁は切れ目すら見えず円形に歪み、通路の端以外には角も無い。
通路はまるで踏まれた事が無いかのように真っ白で人影以外に影も無く。故に円の中を浮遊して歩いてるかのような錯覚に陥った。
「…この通路酔いそう」
「これがちょっと前の最先端だったらしいわよ。限りなく無駄を省いたシンプルで流線型なスタイル。上品さは感じるけれど、豪華さや気品は感じる事ができないわね」
「装飾美より造形美って事でしょ。このスタイルを流行らせた人は服を着なかったのかもしれないよ?」
「そう言われてみれば、大昔の石像が時代の最先端とも言える時代だった訳だ」
クスクスと笑った蓮子が、通路の端に手を伸ばす。
「遊び心の一つでも無いと、どうにも寂しく見えちゃうわ」
「それなら蓮子は毎日楽しくパーティーしてるじゃん」
「そりゃもう全身遊び心の塊よ」
音もなく開いた扉の奥。
通路の雰囲気とは真逆とも言える、雑多とした大部屋が見えた。
床に散乱した何かの部品と、壁に浮かぶ図面のホログラム。
部屋端の本棚には、整列とはとても言えない並び方をする本が乱雑に重なっていて。
真正面のデスクには、よくわからない本が積まれていた。
「教授、入ります。あぁ、また…この時代に本をそんな扱い方する人はいませんよ」
「ん?宇佐見さんか。何かあった?」
後ろで白髪混じりの黒髪を一つに束ねた女性が、デスクチェアに座って本を読んでいた。
薄汚れた作業着の上からジャケットを羽織っている、何とも不思議な格好である。
そして何より、若いとは決して言えぬ風貌に“物珍しさ”を覚え。
本をデスクに投げ置いた女は、不思議そうな顔で首を傾げた。
「大家さんから口座を変えたのかって確認されました」
「あらら、後で確認しておくわ。ごめんなさいね、端末が壊れたばっかりに」
「久々に来ましたけど、ここも掃除した方がいいですよ」
「埃っぽい方が古臭くて好きなの。宇佐見さんもそうでしょう?」
「否定はしませんが、埃っぽいのを古臭いと表現するのは間違っています」
「でもこの匂い、いいでしょう。埃被った古びた紙の匂いなんて滅多に嗅げないのよ?」
そこらの本を手に取り、顔を近づけて深呼吸をする女性。
これだけでわかる。この人は普通じゃない。
「今日は友人と来てるので程々にしてください」
「え、あららら?宇佐見さんにハーンさん以外の友達がいたなんて」
「私のことをなんだと思っているんですか」
「秘密。さてこんにちは。古本教授こと、工学部で教授をやってる伊藤弥恵よ。多分ここに来たのは初めてよね?」
「少なくともこんな辺境の地には来た事がないと思いますよ。その辺の外国より近寄り難い場所ですし」
「まぁ…否定できないのよね。工学部の子達ですらここまで来ることは少ないし。やっぱり通路の前時代的意匠が嫌いなのかしら」
「前々時代的な古本教授が怖いからだと思いますけどね」
「あら酷い」
曖昧な笑みを作った古本教授から目を逸らし、室内を見る。
なんというか、古臭い感じがするのは事実なものの、壁の至る所に浮かぶ立体ディスプレイのせいでちぐはぐな印象だ。
以前訪れた古井戸の町のような“中間”をすっ飛ばした、古さと新しさを混在させたような内装。
古本教授の雰囲気と合わさり、なんだか違う時代に来てしまったかのようだった。
「じゃあ、これで失礼します」
「はいはい。いつも掃除してくれてありがとね」
「たまには帰ったほうがいいですよ。なんか色々届いてましたし」
「何が届いてた?」
「何かの部品ですね。大きなバネとか特殊フィラメントBだかDだか」
「…急いで取りに行くわ。今日行く」
「そうしてください」
部屋から退出すれば、蓮子が薄い笑みを浮かべている。
喜色に近い感情をそこに見て、なんとなく尋ねることにした。
「蓮子はあの教授好きなんだ」
「面白い人よ。前々時代的…古いことが好きな人。やってる事は最先端技術なのがチグハグでね」
老いを楽しむ数少ない人でもある、という蓮子の次いだ言葉に、風貌に物珍しさを覚えた訳を理解した。
美容技術が進んだ事で誰もが気軽に皺とシミを消し、老化を隠すことが一般となっている世の中で、“老い”を見たのが久々だったのだ。
未だ不死には程遠いが、人は死を遠ざけ続けていた。
病に怪我に果てに老いすら遠ざけ始めた時点で、恐怖を遠ざける“人間”らしさは増していく一方、“ヒト”らしさは減っていき。
不自然に若く見える人ばかりが増え続けた世の中は、果たして健全と言えるかどうかは難しい。
そんな事を考えていれば、蓮子がポンポンと頭を撫でてきて。
「で、記憶喪失だっけ」
「そうそう。私の髪みたいにふわふわのね」
「…PCのデータって書き換える事は出来ても完全に消すのが大変なのは知ってる?」
「ん、そうなの?」
突如として切り替わった話題に首を傾げる。
続く言葉は既に決まっていたようで、蓮子は考える事もなく口を開いた。
「データは物質のように気化したり空気に溶けたりしない。画面上消去されたデータは、特殊な方法を使わないと、限りなく限りなく小さく折り畳まれて奥底のメモリに積もっている」
そして少しばかり考えた後、蓮子は宙に指をぐるぐると泳がせた。
「記憶喪失はまだ解明されていない部分が多いけれど、こいしの記憶は脳が欠けたりしていない限りは、まだどこかに残ってると思うんだ」
「ひょっとして慰めてる?」
「いや、ただの考察」
「そこは慰めてるとか言ってよ」
苦笑を零し、ちょっとふざけて言葉を返す。
「でもメモリと違って人間は色々出すし、記憶が排泄物に溶けて出てる可能性あるかもよ」
「それはそれでやだなあ」
「蓮子の忘れちゃった約束も、ひょっとしたら汗になって布団に染み付いてるかも」
「通りで朝起き上がって布団を出たら忘れちゃってる訳だ」
「次は布団に包まって約束の場所まで行くしかないね」
電子の記録は溶けないが、人の記憶は溶けるのか。
この疑問は、未だ“解けそう”にない。
「起きたらまず布団を食べてもいいかも」
「それは名案」
小さな二人の笑い声は、やがて空気に溶けた。