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暗闇の中、“私の声”が聞こえる。
───どうしたの。
どうしたのって、何が?
───わからないの。
わからないのって、何が?
───忘れたの。
何を言っているのかわからない。
何も分からず、ただ宙を浮かぶ眼球がゆっくりと歪んでいく。
───そうだね。
そんな言葉と同時に、眼球は潰れた。
粘性な音が聞こえ、広がった赤の色は嫌に目に残る。
───どうして。
ぼんやりと歪み始めた意識の中。
目の醒める寸前に聞こえた最後の声は、私の声ではなかった。
●
頭が重い。
胎の奥が痛く、体は軋んでいる。
凄まじい倦怠感に、立つ事も億劫だった。
昨日蓮子と共に歩いたから風邪でも引いたのだろうか。
珍しく先にベッドから抜け出したハーンが紅茶を淹れるのを遠目に、唇を開く。
「ハーン…なんか、だるいというか調子が悪い」
「ん、熱測ろうか」
ベッドに寝転がったまま、どうにも動く気力が無い。
額に何かが近づき、離れていくのを薄目で見る。
細長い棒のようなものをこちらに向けながら、ハーンがその側面を見ていた。
「熱どころかちょっと低いね。……いつもより重い?」
「そっか。ちょっと待ってね、紅茶淹れるから」
足音が遠ざかり、ゴソゴソと何かを探す音が聞こえる。
夢見が悪かったせいだろうか。
夢の内容など覚えていないものの、嫌な夢だったのは何となく覚えていた。
「んー大丈夫?」
リビングから心配そうに覗くハーンを気にする余裕も無く。
力勢いに任せてぐい、と体を起こせば、緩く着た黒いショートパンツの隙間より太腿を伝う赤の色。
「うわわ!タオル持ってくる!!」
終ぞ足を伝い床へと落ちる赤の色。
恐怖に在る妖には存在しえぬ、増えようとする生物の理。
───?
どうして、今私は己が人ではないと考えたのだろう。
人以外に生きた事など、無いというのに。
無い。
無い筈なのに。
頭が割れるように痛い。
意識は、そこで途切れた。
●
重みのある音がした。
乱雑にタオルを掴み、ベッドの方へと走る。
「こいし、大丈夫?」
流石に無断で服を脱がすのは気が引けるもので、ショートパンツの紐を緩めてタオルで足に垂れた血を拭い、シーツが汚れる事も厭わずにベッドへと横たえる。
冷えた手指に簡素な電熱カイロを握らせると、部屋の暖房の温度を上げて加湿器を起動した。
小棚より鎮痛剤を取り出し、レモンティー用に加熱中だった給湯器を保温に切り替えてゆっくりと息を吐いた。
「もう、違くないじゃないの」
はたまた、本当に違うと思っていたのか。
これが初めてなんて事は無いだろうし、流石に周期は把握している筈だが。
「…ん」
そういえば、と、この機会にふと思うは彼女の胎の事。
彼女の洗濯物をある程度知る身として、そこそこの期間一緒にいた訳だが、生理用の下着を履いていた事は無く、そういった痛みを訴える事も一度として無い。
とりあえず起きて薬さえ飲めば、ある程度は楽になるかもしれない。
手元のティーカップに視線を落とし、水面の境界を見る。
遠く遠く、どこまでも沈めそうな“深み”を奥に見ながらため息を吐いた。
視線を上げれば、ぐったりと寝転がったこいしがいて。
「───あれ?」
境界が無くなっている事に気がついたのは、その時だった。
●
リビングにあるソファに座り、良い香りを吸い込んだ。
もこもこのパーカーに身を包み、マグカップを両手で掴む。
薬のお陰か多少痛みは薄れたものの、気力は未だ戻っていない。
本日二度目の目醒めを経て色々した訳だが、久々過ぎてこの痛みを忘れてしまっていた。
「自覚してなかったならしょうがない。今日はゆっくりしよう」
レモンティーを啜ると、胃に温かさが落ちていく。
「うぉお、指先に力が入らないぞ」
「介護かな?」
そう言いつつも背中を掻いてくれるハーンにお礼を言い、一息。
どうにも違和感がすごいが、どこにそれを感じているのかもわからない。
「そういえばこいしの境界が無くなってるんだけど」
「えぇ、何急に」
「何かあった?」
「何かあったというか、現状何かあっちゃってるんだけど」
「…確かに。何か関係あるのかな」
「タイミングを考えると全く関係ないとは思えないけどね」
「それは確かに」
「じゃあ、次の活動対象は私かな?」
「それも面白そうだね。とりあえずこいしの事は蓮子にも伝えとくよ」
「はいはい」
下腹部をさすり、目を閉じる。
この痛みは、一体いつ以来に感じたものなのか。
思い返せど思い返せど、私にはどうしても思い出せなかった。